神の神殿としての成長

立川チャペル便り「ぶどうぱん」2012年夏号より

今から百年余り前にフランスの画家ポール・ゴーギャンは、われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』という長いタイトルの大きな絵を描きます。私たちの人生には様々な予測不能なことが起きますが、これを理解しているとき、目の前の様々な問題を、もっと余裕をもって見ることができるようになるのではないでしょうか。その意味で、聖書の始まりと終わりという大枠をとらえることは、何よりも大切なことです。

人間の歴史はエデンの園から始まります。そこは神の神殿でもありました。そして、人は「神のかたち (image of God)」として創造されました。この世の神殿には神々のイメージが飾られますが、エデンにおいて神のイメージを現すのは、何と、人間自身だったのです。

エデンの園における礼拝の中心は、「善悪の知識の木」だったかもしれません。それは、神こそが善悪の基準であることを示すシンボルでした。人は、そこで神のあわれみに満ちたことばと、超えてはならない限界を示すみことばを聞きました。しかし、人は、その限界を超え、自分自身を善悪の基準とし、自分を神としてしまい、エデンの園から追い出されました。つまり、人類の歴史の悲惨は、最初の人間が、神の宮から追い出されたことから始まったのです。

その後、神はご自身の側からアブラハムを選び、神の民を創造し、彼らの真ん中に住むと約束されました。神はアブラハムの子孫をエジプトで増え広がらせた後、そこから約束の地へと導かれました。その際、神はご自身が彼らの真ん中に住むしるしとして、「幕屋」を建てさせました。神は、人間と同じレベルにまで降りて来られ、地上の幕屋から人間に語りかけてくださいました。それはカナンの地をエデンの園のような祝福の世界にするためでした。

ところが、イスラエルの民は何度も神に逆らいました。それでも神は彼らをあわれみ、神の前に謙遜なダビデを王として立て、目に見える神の国を築き、その中心に、ダビデの子のソロモンを通して壮麗な神殿を立てさせました。宮が完成した時の様子が、「雲が主(ヤハウェ)の宮に満ち……祭司たちは……そこに立って仕えることができなかった。主(ヤハウェ)の栄光が主(ヤハウェ)の宮に満ちたからである」と描かれていました (Ⅰ列王8:10、11)。それは神が彼らの真ん中に住んでくださったというしるしでした。ところがイスラエルの民はその後も、神に逆らい続けました。それで、神はついに、ご自身の神殿から立ち去ってしまわれました。その結果、エルサレム神殿はバビロン軍によって廃墟とされました。その後、神の臨在のしるしであった「契約の箱」の行方すら分からなくなりました。その後、ペルシャの王クロスの勅令によって、エルサレム神殿は再建されますが、この第二神殿はその後、一度も、神の栄光に包まれるということはありませんでした。

そのため、当時のユダヤ人たちは、ソロモンの神殿のときのように、この宮に神の栄光が戻ってくることを待ち望んでいました。そのような中で、イエスは「ダビデの子」としてそこに入って来られました。そして、それこそ、神の栄光が神殿に戻ってきたしるしだったのです。

そして今、私たちの救いが完成するのは、「新しいエルサレムが……天から下って来る」ときですが、そこで実現する情景が、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである」(黙示21:3、4) と描かれます。私たちは最初の神殿である「エデンの園」と、来るべき神殿である「新しいエルサレム」の間に、「神のかたち」として置かれ、様々な悲しみや苦しみの中にありながら、神の宮としての信仰共同体を今、形成しているのです。

私たちは今、サタンの支配から解放されて「新しいエルサレム」に向かって旅をしています。そのときの希望をイザヤは、「山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える」(55:12、13) と描きます。「いばら」は人を傷つける役に立たない木の代名詞ですが、「もみの木」とは「糸杉」とも訳され、神殿建設にも用いられた高価な木材です。「おどろ」もとげのある雑草ですが、「ミルトス」とはその果実には鎮痛作用があり、祝いの木とも言われます。これは、「のろい」の時代が過ぎ去り、「祝福」の時代が来ることを象徴的に描いた表現です。そしてそのような自然界の変化こそ、「主(ヤハウェ)の記念となり、絶えることのない永遠のしるし」となります。

これこそ、「新しい天と新しい地」の象徴的な表現です。残念ながら、多くの人は、これらのみことばの深みを十分に味わうことができていないように思います。私たちの「救い」は全被造物の救いにつながり、アダムの罪によってのろわれた地が、神の祝福に満たされた世界へと変えられるのです。私たちの希望は、私と身近な人が天国に入れられるという個人的な救いばかりではなく、全世界が神の平和に満たされるという希望です (ローマ8:19、21)。

神はこの世界をご自身の神殿として、ご自身の栄光を現す場として創造されました。そして人間こそ、そこにおけるかけがえのない「神のかたち(イメージ)」です。目に見える建物以前に、教会の交わり自体が今、神の神殿とされています。また、これこそキリストのからだです。そして、この神殿は、栄光に満ちた完成へと向かっています。そして、イエスこそ真の神のイメージであり、私たちの王です。イエスはそのことをエルサレム入城の際に明確に示されました。ただ、それはこの世の戦いの指導者ではなく、イザヤが預言した「主(ヤハウェ)のしもべ」としての姿でした。

この世界には、被造物の「うめき」が満ちています。世界は変えられる必要があります。しかし、偉大な理想を掲げたはずの人が、争いと混乱を広げてきたという現実が人類の歴史に見られます。力は力の反動を生むからです。「神の国」は、神の御子がしもべの姿となることによって始まったことを忘れてはなりません。あなたの隣人にどう接するかが何よりも問われているのです。