2012年7月1日
しばしば教会では、「どんな罪人であっても信仰によって救われる」と強調するあまり、神は、「おのおの、人の行いに応じて報い」を与えられるという当然のことが忘れられることがあります。そして、神が怒りを発せられる最も悪い行いとは、神の善意を疑い、自分を善悪の基準にして神をさばくことです。
つまり、不信仰こそ、最も悪い行いなのです。信仰と善行は決して相反することではなく、表裏一体のことです。事実、私たちは、自分の善意が誤解され、こちらの純粋な思いの背後に悪意あるかのように思われるときに、本当に悔しい思いを味わいます。
神がご自身のひとり子を犠牲にするほどにこの世を愛してくださったそのみわざを軽蔑する者は、さばきを免れません。
「神は愛です」が、その裏には「ねたみ」があります。神の愛は、私たちに迫ってくる神の情熱でもあるからです。神の愛を信じることと、「神を恐れる」ことも表裏一体のことです。
神はあなたの内側に隠されている様々なみにくい思いのすべてを見ておられます。神を恐れるとは、それを意識しながら生きることです。
人を恐れるとき、私たちは自分の心の内側を隠しますが、神を恐れる者は、自分の心を開いて十字架にすがるのです。神を恐れることと、神の赦しを信じることも矛盾しません。神を恐れることは、何よりも、神の赦しと公平なさばきを信じることです。
1.「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない」
23章17、18節には、「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主 (ヤハウェ) をいつも恐れていよ。確かに終わりがある。あなたの望みは断ち切られることはない」と記されていますが、これは極めて現実的な教えです。
「ねたみ」とは、嫉妬心とか羨ましがる思い、浮気に対する怒りなど、人間の心の奥底にある強烈な感情です。ここではとくに、神に逆らう者たちが幸せに生きている姿を見て「ねたみ」を覚えることを戒めたものです。
詩篇73篇では、「悪者の栄えるのを見た」著者が、「誇り高ぶる者をねたんで」、主に訴える様子が描かれます (3節)。聖書には繰り返し、神に逆らう者は平安を味わうことができず、滅びに向かっていると語りますが、残念ながら目に見える現実としては、「悪者は……いつまでも安らかで、富を増している」(同12節) と思えることが多いからです。
しばしば箴言3章、5、6節のことば、「心を尽くして主 (ヤハウェ) に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所、どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」は、信仰生活の黄金律であると言われます。
そこで、「主はあなたの道をまっすぐにされる」ということばは、「成功させる」という約束と理解することができます。しかし、現実には、主にまっすぐに従っているつもりでありながら、いろんなことがうまく行かないばかりか、とんでもないわざわいに会うことさえあります。そのときに、いろんなことが順調に行っている人に対して「ねたみ」を感じるのは、当然の人間の心理です。そのような感情を決して否定してはなりません。
「ねたみ」は、「神のかたち」に創造された者が、当然のように感じる激しい感情です。「十のことば」の核心として、主はご自身のことを、「わたしは (ヤハウェ) 、あなたの神、ねたむ神」(私訳)と紹介しておられるからです。つまり、「ねたみ」は、神の愛と表裏一体にあるご自身の所有に対する強い感情なのです。
そのことを前提に、主は、「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と、「のろい」と同時に「祝福」を語っておられます。「主を恐れる」とは、この神の「のろい」と「祝福」を真剣に受け止め、いつでもどこでも、主との交わりを第一に求めることなのです。
なお、この17、18節は英語の New King James 訳では、「Do not let your heart envy sinners, But be zealous for the fear of the LORD all the day; For surely there is a hereafter, And your hope will not be cut off.」と訳されています。つまり、罪人の成功に「ねたみ」を感じる代わりに、「主を恐れる」ことにおいて「ねたむ」ほどの情熱を持つことの勧めであるというのです。
原文は、「罪人をねたむな」の「ねたむ」という「熱心さ」が、いつでもどこでも「主を恐れる」ことにおいて発揮されるようにと勧められているのです。
それは、「終わり」があるというよりは、「この後」のことが期待できるからという意味です。今はたまたま、罪人が成功しているように見えるかも知れないけれども、「この後」には、神がきちんと、神に対するあなたの熱心な思いに、答えてくださると約束されているのです。
ヴィクトール・フランクルというユダヤ人の精神医学者は、ナチス・ドイツの強制収容所の体験を、「夜と霧」という有名な著書に記録しています。彼は、収容所の中で、真冬の朝、まだ暗いうちに整列させられて作業場に行進していました。
彼は朝焼けの中に、愛する妻の面影を思い浮かべることができました。彼は心の中で妻の語りかけを聞き、また、その微笑みを見ました。そのとき彼女は実際には既に殺されていたのですが、彼女の眼差しは、そのときに昇りつつあった太陽よりも自分を照らしました。
彼は、そのとき「愛は死のように強い」(雅歌8:6) という真理を悟ったと記しています。その箇所には続けて、「ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です」と記されています。
愛は、具体的な関係に生まれる感情です。そして、愛の強さは、それと表裏一体の関係にある「ねたみ」の感情として現されます。あなたの人生の伴侶の浮気にねたみを感じないとしたら、それはふたりの愛が冷めていることのしるしでしかありません。
なお、この愛の気持ちは、妻や夫の代わりに、父や母であっても同じですが、愛する人の顔を思い浮かべることで、どのような悲惨の中でも喜んでいられるというのは、人間の特権です。
そして、私たちの信仰とは、何よりもイエスに対する恋愛感情として表現することができます。
つまり、「罪人をねたんではならない。ただ主 (ヤハウェ) をいつも恐れていよ」という勧めで、あなたに問われていることは、あなたは罪人の成功や幸福に「ねたみ」を感じるというその熱い感情を、あなたの創造主である神に向けているかということなのです。
そして、自分の人生をより長い視点から見たときに、「心を尽くして主 (ヤハウェ) により頼め……あなたの行く所、どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」という約束の真実さが分かることでしょう。
私たちはいつでもどこでも、主の眼差しを意識し、主に向かって祈るというただ中で、幸いを体験することができるばかりか、主があなたのためにすばらしい将来を開いてくださることを信じることができます。
恋人や伴侶の浮気をねたみ、また他人の成功にねたみを感じるのは、神のかたちに創造された人間として当然の感情です。問われているのは、その感情を否定する代わりに、その熱い思いを主に向けることです。
2.「大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな」
19-21節では、「わが子よ。よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。大酒飲みや、肉をむさぼり食う者と交わるな。大酒飲みとむさぼり食う者とは貧しくなり、惰眠をむさぼる者は、ぼろをまとうようになるからだ」と記されています。
これは、勤勉の大切さと共に、誰との交わりを優先するかについて良い示唆を与えてくれます。大酒飲みや大食漢は、互いに影響しあって人を堕落に導きます。
その点、信仰者はしらふで真面目な話をすることができます。私たちは、神を恐れる者との交わりを何よりも大切にする必要があります。
そして、29節では大酒飲みの危険が、「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか」と、六回の「だれか」という問いかけがなされながら、そのような愚かな歩みをする者は、「ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ」(30節) と答えられます。飲酒は何よりも私たちの自制心を麻痺させてしまうからです。
そして、酒を飲む代わりに、酒に飲まれてしまう様子が、31–35節で、「ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。 あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真ん中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。『私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ』」と記されています。
これはアルコール依存症の罠を生き生きと描いたものと言えましょう。 聖書は、飲酒自体を禁止しているわけではありません。しかし、ちょっと一杯のつもりで飲んだ酒が、理性を麻痺させ、心と感情がお酒に動かされてしまうということが何と多いことでしょう。
ところで、自分の殻をやぶることができるという意味では、聖霊に満たされることと、酩酊することに、まったく逆の方向ながら共通点があり、そのことをパウロは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」(エペソ5:18、19) と記します。
そこでは、「酒に飲まれてしまう」ことと、「御霊に支配されること」が対照的に描かれています。酩酊はしばしば、この世の空しさを忘れさせ、人を陽気にする力がありますが、御霊に満たされることは、それにもまして、私たちにこの世の悲惨や空しさを超えた希望を見させ、目の前の状況に左右されない喜びを与えてくれます。
お酒の誘惑に勝つための秘訣は、お酒を止めようと自分に言い聞かせることではなく、それにはるかにまさる「御霊に満たされること」の幸いを味わうことにあります。私たちはよりすばらしいものを知ることによって、より劣ったものの誘惑から自由になることができるのです。本物の喜びを求めさせていただきましょう。
そして、24章1、2節では再び「ねたみ」ということばが用いられながら、「悪い者たちをねたんではならない。彼らとともにいることを望んではならない。彼らの心は暴虐を図り、彼らのくちびるは害毒を語るからだ」と記されています。
私たちが「ねたみ」を感じる対象は、身近にいる人です。見知らぬ大富豪には「ねたみ」などは感じないことでしょう。人は、だれも一人で生きることはできません。問われているのは、あなたは誰との交わりを第一にして生きているかということです。主との交わりは、同時に、主にある兄弟姉妹との交わりをも含めるものです。
3.「この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか」
24章5、6節には「知恵」が真の力の源であることが、「知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る」と描かれます。
何事でも力任せでは結果を出すことができません。その上で7節には「愚か者には知恵はさんごのようだ」と不思議なことが記されます。これは、「愚か者」にとって「知恵」は「さんご」のように高価で、手の届かないものであるという意味です。
この世では、「頭の良さ」が評価されがちですが、何よりも大切なのは、「人のいのちがどなたによって創造され、私たちは何者で、人生のゴールがどこにあるかを」知ることではないでしょうか。
つまり、知恵ある者と愚か者との根本的な違いは、心の目を向ける方向の違いなのです。私たちは自分の遺伝子を変えることはできませんが、心の目の方向は変えることができます。そして、あなたの心の中に知恵を求めたいという心があるならば、あなたは聖書の基準からしたら「知恵ある者」であり、決して「愚か者」ではありません。
そして、ここではその愚かさの具体例が、「彼は門のところで、口を開くことができない」と描かれます。門の前の広場は、しばしば、裁判の席に用いられましたが、「愚か者」はそのような大切な場で、口を開くことができないというのです。
イエスは、「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」と言われました (10:19、20)。
私たちの内側に聖霊が住んでおられます。そのことの恵みは、何よりも、人間的な知恵や力の限界に直面するような危機的な状況の中でこそ体験させていただけるのです。ですから、私たちはわざわいを恐れる必要はありません。
そのこととの関連で、10節では、「もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い」と記されます。私たちの命が危険にさらされた時、そこで自分のいのちを守ることに必死になる代わりに、自分の身を犠牲にしてでも、使命を全うしたいという熱い思いが湧いてくるとしたら、そこにこそ聖霊のみわざが現れています。
そして、神を恐れる生き方の具体例が、11、12節では、「捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。もしあなたが、『私たちはそのことを知らなかった』と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか」と記されています。
神は、私たちが自分の隣人に対してどれだけの関心を持っているかを見ておられます。隣人に対して無関心な者は、神のさばきを免れません。
ここでは特に、「あなたのたましいを見守る方」ということばに注目すべきでしょう。私たちは、様々な悲惨な話から目をそらすことによって自分の責任を回避しようとしますが、しばしば、「知らなかった」ということばは、「知ろうとしなかった」と言い代えた方が的確かもしれません。
しかし、私たちのたましいを見守ってくださる方に心の目が向けられるなら、私たちは勇気を受けて、この世の様々な悲惨に対して目を開いて行くことができるようになります。
そして、「この方は……行いに応じて報いないだろうか」という表現を前提にパウロは、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります……神にはえこひいきなどないからです」(ローマ2:6-11) と記します。
私たちは自分の善意や善行が誤解されるばかりか、そこに下心があるかのように非難されるとき、眠られなくなるほどの悔しさを覚えます。パウロもコリントの教会に向けて、自分の嘆きを、「私があなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなるのでしょうか」(Ⅱ12:15) と訴えているところがあります。
人は誰しも、自分の行いが正当に評価されることを望みます。反対に、偽善を取り繕うことが上手な人が、不当に高い評価を受けているのを見る時に「ねたみ」を感じます。人はみな、心の底で、神が自分の行いに公平に報いてくださることを求めています。神がひとりひとりの行いに従って正当に報いてくださるということこそ、福音の核心とは言えないでしょうか。
17、18節の、「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主 (ヤハウェ) がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから」という表現は、一種のジョークと考えて良いでしょう。
私たちの心の中には、自分の敵の不幸を喜びたい気持ちがあります。しかし、あなたが自分の敵を辱めるなら、敵はそれでさばきを受けたことになってしまいます。神はそれ以上のさばきを必要がないと思われるかもしれません。そうなれば、あなたの敵はやがて力を回復し、さらに大きな問題を引き起こすことになりかねません。
これは、さばきを主にゆだねることの方が、真の平和を実現することにつながるという意味です。
それとほぼ同じような意味で、再び「ねたみ」ということばを用いられながら、「悪を行う者に対して腹を立てるな。悪者に対してねたみを起こすな。悪い者には良い終わりがなく、悪者のともしびは消えるから」(24:19、20) と記されます。これも、神の最終的なさばきに任せて、隣人との和解を進めさせることばです。
また、28、29節では別の角度から、「あなたは、理由もないのに、あなたの隣人をそこなう証言をしてはならない。あなたのくちびるで惑わしてはならない。『彼が私にしたように、私も彼にしよう。私は彼の行いに応じて、仕返しをしよう』と言ってはならない」と記されます。
使徒パウロはこれと同じ思いで、「誰に対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:17-19) と記します。
私たちが仕返しをしたい気持ちから自由になれないのは、神のさばきを信じていないことの結果に過ぎません。「敵を許さなければ……」などと、自分を駆り立てるのではなく、神が悪者をさばいてくださるということを信じましょう。それが信じられるようになるとき、結果的に、「敵が飢えたなら……食べさせ……渇いたなら、飲ませ……善をもって悪に打ち勝つ」(ローマ12:20、21) という、敵を愛する行動を心から進んで行うことができるようになります。
そればかりか、主のさばきを知れば知るほど、自分に関してはイエスの十字架にすがるしかないということが分かってきます。つまり、「主を恐れ」さえするならば、敵を愛することもできますし、主の十字架の恵みも分かるようになるのです。
神の愛は、親が子供を愛することに似ています。子育てにおいて、親はどれだけの犠牲を払っているでしょう。多くの親は、子供が与えられた能力を延ばしながら、人生を楽しむこと自体を望んでいます。まだ成人もしていない子供が、家計を支えなければと思って、勉強するよりも働く方が親孝行になると勝手に思い込んでいるときに、多くの親は悲しむのではないでしょうか。
しばしば、「私は神のために、社会のために、身を粉にして労苦している」と言いながら、周りの人をさばきまくって、自分の正義を振りかざして行動するような人を神は喜ぶでしょうか。
神のすべての恵みのみわざを思い起こし、自分の信仰以前に、神が不信仰な者に信仰を与えてくださったという原点に立ち返りましょう。
神の愛があなたに迫ってきたという体験を、誰もが持っているものです。自分の不信仰を悩む以前に、神の愛を思い起こし、神のみことばを味わってみましょう。信仰は、神から生まれます。
ただし、神の愛が迫ってきたということは同時に、神は私たちの霊的な浮気に怒りを発せられるということでもあります。神の愛を知ることは、神の「ねたみ」を知ることでもあります。
神を愛することと神を恐れることは表裏一体です。人は、恐れ敬うべき人の話には真剣に耳を傾けます。「神を恐れる」とは、神のみことばを真剣に聞こうとすることです。
あなたが神のために何をするか以前に、神があなたに何をしてくださったかを思い起こすことが大切なのです。