マルコ10章46〜52節「あなたの信仰があなたを救ったのです」

2012年6月10日

マルコの福音書には多くの奇跡的な癒しが記されています。それらはすべて「神の国が目の前に来た」ことのしるしでした。その背後には「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35:4-6)という預言の成就というテーマがあります。

しかも、イエスはその人の信仰の程度に応じてその人を癒したのではありません。イエスは信仰のない多くの人々を癒されました。その代表例が悪霊につかれた人です。イエスはご自身の一方的なあわれみによって彼らから悪霊を追い出してくださったのです。ですから、「救い」にとって何よりも大切なのは、神のあわれみであり、私たちの信仰ではありません。

ところが、このマルコの福音書において、イエスは例外的に、ふたりの人に対して、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と、信仰が救いの原因となったかのような言い方をしています。信仰者であればだれでも、そのような称賛のことばをイエスから受けてみたいと思うことでしょう。

でも、このふたり、十二年間長血をわずらっていた女と、盲人の乞食は、当時の誰の目から見ても、「神の国」の外れ者ではないでしょうか。

たぶん、現代の多くの教会においても、なかなか馴染むことができない種類の人でしょう。彼らは、その衣服も、匂いも、言葉遣いも、礼儀作法も、多くの意味で人々に不快感を与えるかもしれません。決して、誰も彼らを模範的な信仰者などとは見ません。往々にして人々が交わりに受け入れたいと願うのは、多額の財産を捨てることができなくてイエスの前を立ち去った金持ちの青年のような人です。

盲人バルテマイのいやしの記事は、マルコが記録したイエスによる最後の癒しの記事であり、またイエスがエルサレムの入城において、群衆の歓呼をもって迎えられるという「しゅろの日曜日」の直前の記事です。

しかも、この前にイエスは三回にわたってご自身の受難を予告しましたが、それらは、8章22-26節のベツサイダの盲人の癒しの記事と、このバルテマイの癒しの記事に挟まれて記されています。まるで、イエスの弟子たちが霊的に盲目であったことと、肉の目の癒しがセットになっているかのようです。

しかも、盲人バルテマイの信仰が称賛されたことは、弟子たちの無理解と対比されているかのようです。なお、マルコではイエスを「ダビデの子」と呼んだ人はこのバルテマイ以外には記されていません。彼はどのような意味で、私たちにとっての信仰の模範となり得るのでしょう。

1.「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」

10章46節は「彼らはエリコに来た」ということばから始まります。イエスと弟子たちはヨルダン川沿いを東の側を南下し、ヨルダン川を渡ってエリコに来ました。かつてヨシュアがヨルダンの川をせき止めて川を渡った後、町の回りを七日間にわたり神の契約の箱を祭司たちがかついでまわって、七日目には民が大声でときの声をあげて城壁を崩したという劇的な神の勝利の地でした。

そして、エリコはエルサレムに向かって登ってゆく宿場町のような意味もありました。新しいヨシュアであるイエスのエリコ入城は、人々に大きな期待と興奮を生み出したことでしょう。

そして、マルコはイエスがすぐにエリコを出たかのように、「イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると」と描いていますが、この部分がルカでは「イエスがエリコに近づかれたころ」(18:35)と記され、その後エリコに入ってザアカイに出会ったという流れになっています。実は、当時のエリコには旧市街とヘロデが建てた新市街からなっており、ルカが描いたのは新市街への入城であると言われます。

またマタイの福音書ではイエスに叫んだのはふたりの盲人であると記されています(20:30)。これもまったく矛盾することではありません。このエリコの旧市街と新市街を結ぶ道は、物乞いにとって最もお金を受け取りやすい道でした。人々はこれからエルサレム神殿に上って行くにあたって、神のあわれみに期待しながら、自分もあわれみ深くなる必要があると感じるところだからです。

ただ、マルコはここでひとりの人に焦点を当て、その名前までも正確に、「テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた」と描きました。ひょっとしたらこの人は、初代教会で大きな働きをすることになった人かもしれません。

しかし、このとき誰がこの人に目を留めたでしょう。このときのイエスには多くの群衆がついて歩いていましたが、彼らがひしめき合って歩んでいる道端に、この人は物ごいをするために座っていただけです。

当時の多くの宗教指導者たちは、盲人は神ののろいを受けていると解釈していました。その意味で、この盲人にはイエスに従うことすら許されてはいないと、イエスの弟子たちも思っていたことでしょう。

「ところが、ナザレのイエスだと聞くと」、バルテマイは、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めたというのです(10:47)。

彼がイエスを、「ダビデの子」と呼んでいたのは不思議です。イエスという名は、ヘブル語ではヨシュアと呼ばれますが、「ナザレの・・」という呼び名は、多くの人々にとっては彼の卑しい出生を表す表現、新しいヨシュアなどではないという響きがあったことでしょう。

ところがこのバルテマイは、イエスを「ダビデの子」と呼んだのです。それはまさにイスラエルを「神の国」として復興させる救い主を意味しました。

しかも、「あわれんでください」という叫びには、ただ自分の悲劇的な状況にあわれみを注いでほしいという極めて控えめで謙遜な祈りです。彼は自分の目が見えるようになること以前に、神の愛の眼差し自体を求めていたのです。それは多くの人々から、「お前は神の呪いを受けた結果として、このように目が見えなくなったのだ・・」と忌み嫌われながら、自分は神に見捨てられていると絶望を味わっていた彼に、ただ、神のあわれみの眼差しが注がれること自体を求めたことばです。

ところで、この「あわれんでください」ということばをギリシャ語にすると「エレイソン」ということばになります。昔からカトリックやルター派の教会の典礼文には「キリエ・エレイソン」という祈りがあります。これはこの盲人バルテマイの祈りに由来します。

古代教会以来東方教会の流れの中では。一日中、呼吸とともに唱えるように勧められていている、「イエスの御名の祈り」というのがあります。それは、「イエス・キリスト神の御子、この罪人の私をあわれんでください」ということばを繰り返し味わいつつ祈り続けることでした。

そこにいたイエスの弟子たちを初めとする大勢の人々は、彼の叫びのことばの奥深さに感動するどころか、「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめ」ました(10:48)。彼らにとってこの盲人の乞食の叫びは、単に、お金をせびっている声にしか聞こえなかったことでしょう。

また、この盲人が「ダビデの子」と呼びかけたということに注目し、この乞食はイエスにお金以上のことを求めているということに気づいたとしても、そこには、「先生は、今決死の覚悟でエルサレムに上ろうとしておられる。お前のような汚れた罪人に関わっている余裕などはない・・」という思いが込められていたかもしれません。

なぜなら、イエスご自身もこの最後のエルサレム行きの時には、「イエスは人に知られたくないと思われた」(9:30)とあったように、多くの群衆の訴えに耳を傾けるという働きを少なくして、弟子たちとの会話を大切にするようになっていたからです。

そのような中で既にイエスは三度にわたってご自身がエルサレムで殺された後、三日目によみがえると明確に語っておられました。弟子たちはそのことばの意味を十分には理解はしなかったものの、このエルサレムに上るという歩みは、イエスご自身にとっても大変な苦難と危険への道であることは分かっていました。ですから彼らが盲人バルテマイを黙らせようとしかことは無理もないとも言えます。

ところが彼は、「ますます」、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てたというのです。バルテマイはこの機会を逃したら一生自分はこの呪われた生活を続けざるを得ないと思い、必死に叫び続けたのです。

それに対し、「すると、イエスは立ち止まって」、「あの人を呼んで来なさい」と言われました(10:49)。イエスはこの人の心の底にある真実に気づかれたことでしょう。

そこで、弟子たちは「その盲人を呼び」、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言いました(10:49)。「心配しないでよい」ということばは、「勇気を出しなさい」「しかりしなさい」「安心しなさい」などと訳すことができることばです。それは、彼が不安に満ちて叫んでいたことに対して、安心感を与えようとすることばです。

そして、「さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」ということばは、王に召されてみもとに近づくことができるという特権を思い起こさせるような表現です。

「すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た」(10:50)とありますが、「脱ぎ捨て」という訳は、「捨て置き」と訳した方が良いと思われます。ペテロは復活のイエスに出会ったとき、わざわざ上着を着て、湖に飛び込んだと記されているように、王の御前に出る時は上着を着るのが礼儀です。

しかし、この乞食にとっての上着とは、商売道具でした。彼は上着を広げて、人々がそこにコインを投げ入れてくれるのを待っていたのです。

彼は、物乞いの生活を捨てる覚悟で、イエスのもとに行ったと解釈することができるように思えます。彼はイエスのみもとで自分の人生がまったく新しくされることを期待して、上着を捨て置いてイエスに近づきました。

2.「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」

そして、「そこでイエスは、さらに」、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねました(10:51)。目に見えない彼は、イエスの声をすぐ目の前に感じ、そのあわれみの調子に感動を覚えたことでしょう。イエスは、何よりもこの一人の人との対話を望んでおられました

そして、当時の一般の人々は、王の許しを得て初めて自分の願いを言うことが許されていましたから、個人的な対話を望まれたイエスが王として、彼にこのように尋ねるのは当然のことでした。

それに対しこの「盲人は」、「先生。目が見えるようになることです」と答えました。先に彼はイエスを「ダビデの子」と呼んでいましたが、イエスの優しい語りかけを聞いて、自分を弟子の立場に置いたかのように親しみの尊敬をこめて「ラボニ」と呼びかけました(新改訳脚注)。これはマグダラのマリヤが自分の目の前にいる方が復活のイエスであると気づいたときに最初に言ったことばでもあります。これは「ラビ」(先生)というよりは、「わが主よ」という、より大きな尊敬を表す呼びかけです。

その上で、自分の望みを大胆に述べました。この真っ向からの願いというのは大きな意味を持っています。彼はイエスが自分の目を見えるようにすることができると信じていたのです。

イエスはかつて、耳が聞こえず、口のきけない人を癒したときにも、また、人々に連れてこられた盲人の目を癒したときにも、彼らがご自分のことを宣伝することを戒めました(7:36、8:26)。

それらのみわざは、ご自身が預言された救い主であることの証しでしたが、それを不特定多数の人に一度に知らせたいとは思われませんでした。たとえば、イザヤ29章18-20節には、「その日、耳の聞こえない者が書物のことばを聞き、目の見えない者の目が暗黒とやみから物を見る」ということと並行して「横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされる」と記されています。

つまり、貧しい者の救いと横暴な者へのさばきは同時に行われると示唆されているのです。当時のユダヤ人は、ローマ帝国からの独立を切望していましたが、それは盲人の目を開く救い主は、同時に、ローマ軍を立ち滅ぼしてくれる戦士でもあると期待されていたということを意味します。彼らのそのような期待を刺激してしまうことは、彼らを戦争に駆り立てることになりかねません。

そして、このときのイエスは群衆に取り囲まれていました。ですから、いやしのみわざはなるべくひっそりと簡単に行う必要もあったのかもしれません。

イエスは、彼の目が人間的には治療不可能であるなどという印象を与えることなく、また、ご自身の権威を隠すかのように、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました(10:52)。

イエスは、かつてベツサイダにおいては人々が盲人を連れてきたときには、彼を村の外に連れ出して、その両目につばきをつけ、両手を彼に当てて段階的に癒されるというようなステップを踏みましたが(8:23-25)、ここでは「さあ、自分の好きなところに自由に歩きなさい」という意味が込めて言われたのです。

イエスは、たとえばかつてツァラアトに冒された人を癒すとき、その人にさわって「わたしの心だ。きよくなれ」と言われましたが(1:41)、ここではご自身ではなく、「あなたの信仰」が「いやし」の原因であったかのように話したのです。

ベツサイダでのときには、盲人の癒し以前に、盲人の信仰を育み育てるという意味で、時間のかかる方法を取られましたが、この場合は、彼の信仰をはっきり認めていたからこそ、たった一言、「行きなさい」というだけで十分だったとも言えましょう。

聖書の教えの中心は何よりも、私たちの信仰を育むことにありますから、「あなたの信仰があなたをいやした」ということばは、この盲人のそれまでの全生涯を肯定するような意味が込められています。

このことば原文では、イエスが十二年間長血を患っていた女性に言ったことばとまったく同じです。5章34節でも「あなたの信仰が、あなたを救ったのです」と訳すべきでした。

イエスは、「あなたは救っていただけました」という受動態で言う代わりに、「あなたの信仰が、あなたを(すでに)救ったのです」という完了形の能動態で表現しています。

当時の人々の感覚では、12年間も長血をわずらった女は、不信仰のゆえに神ののろいを受けているとも思われたことでしょう。しかしイエスは、正反対に、彼女の信仰が癒しを起こしたと断言しました。

それは彼女が、信仰の父アブラハム同様に、「死者を生かし、無い(無価値な)ものをある者のようにお呼びになる方」を信じ、また、「望みえないときに望みを抱いて信じた」からです(ローマ4:17,18)。

この結果、彼女は日陰で生きる者から、社会の真ん中に生きる者へと変えられました。それこそイエスの癒しの目的です。そのことを、イエスは保障するように、「安心して帰りなさい」と言われました。それと同じニュアンスのことばをイエスはバルテマイにも語ったのです。

「信仰」ということばは、真実とも訳すことができる、神の真実に対する私たちの応答です。「いわしの頭も信心から」などというような、思い込みの力、揺るぎない確信などという意味ではありません神のあわれみに「すがる心の動きこそ信仰です。

彼の心はこの世の人々が思うような信仰深い状態ではありませんでした。多くの人は、信仰の深い人は、どんな状況の中でも、神を待ち望んで落ち着いて、静かにしていることができるはずと誤解しています。

しかし、バルテマイの信仰とは、弟子たちが黙らせたいと願うほどに、大声で叫び続けること、また、「心配しなくてもよい」と言われるほどに不安を顕にすることでした。実は、信仰の核心とは、何よりも、自分の弱さや頼りなさを認めることにあるのです。その表れが、「私をあわれんでください」という謙遜な願いとして現されています。

3.「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」

イエスのことばを聞いた結果が、「すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った」と記されています。イエスは、自分の好きなところに行きなさいと言われたのに、彼は見えるようになった結果、「イエスの行かれるところについて行った」というのです。

彼に起こった何よりの変化とは、道端で物乞いをしている生活から、イエスの御跡について、道の真ん中を歩んで行くということでした。私たちのうちに起こる何よりの癒しと言うのも、それを表しています。

現代は、誰かの祈りによって、目の見えない人の目が開くとか、盲人が自分の信仰によって目が目えるようになったという話はほとんど聞くことができません。しかし、目の見えない人がイエスを信じるようになって、目が見えないままでイエスの御跡に従って行くということは数限りなく起こっています。

しばしば、目も耳も健康な人よりも、不自由がある人の方が、信仰がしっかりしています。それは信仰の基礎が、何よりも、自分の弱さや頼りなさを自覚することにあるからです。

自分にはゆるぎない信仰があると思っている人がイエスの喜ばれる信仰を持っているわけではありません。信仰の核心とは、「すがる」ことです(申命30:20)。このバルテマイは、まさにイエスに徹底的におすがりしようとしたという意味で、主が喜ばれる信仰を持っていたのです。

金持ちの青年は、イエスから「わたしについて来なさい」という明確な招きのことばをかけていただきながら、その前の「あなたの持ち物をみな売り払い」ということばにひっかかって、イエスについて行くことができませんでした。

バルテマイはイエスが呼んでいるという弟子たちのことばを聞いただけで、商売道具の上着を捨て置いてイエスのもとに行き、好きなところに行きなさいとイエスに言われながらも、イエスの行かれるところについて行きました

彼こそは、弟子たちに中で最後にイエスのもとに来た弟子と言えましょう。イエスは、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」(10:31)と言われましたが、それはペテロとバルテマイとの関係に当てはめることができることでしょう。

こののち、イエスの弟子たちはイエスにつき従ってエルサレムに上って行きました。バルテマイはなかなか弟子たちの交わりになじむことができなくて、あとをひっそりとついて行ったかもしれません。

しかし、後に使徒ペテロがマルコを通してこの福音書を書き残そうとしたとき、このバルテマイの名を明確にここに残す必要を感じたのではないでしょうか。ペテロは彼の信仰の姿勢に習いたいと思ったことでしょう。

非常に差別的で残念な表現ですが、「医者と乞食は三日やったらやめられない」ということばがあります。両方とも楽に儲けられるという、実態を知らない失礼な表現です。しかし、一面の真理を表しているからことわざになるとも言えます。

このバルテマイは当時の乞食にとっての最高の場で、自分の上着を広げて、エルサレムへの巡礼者から物乞いをしていました。彼は何も考えず、ただ、あわれみを乞うだけで良かったのです。何の責任を負う必要もありません。何も迷う必要もありません。ただ自分のことだけを考えて、そこに座っていればよかったのです。

それはある意味で、心地よい状態です。しかし、イエスは彼に向かって、「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われました。

それは彼が、乞食をやめて、神の国の実現のためにイエスの御跡に従うという覚悟を彼の中に見たからです。

残念ながら今も、イエスに従って道の真ん中を歩む代わりに、道端に座って、「社会が悪い、家族が悪い・・」と恨み言ばかりを言って責任を担うことができない人がいます。自分を徹底的に被害者に祭り上げることができるなら、人は自分に優しくせざるを得なくなります。

しかし、イエスのあわれみにすがるとは、自分を無力な何もできない人間にすることではありません。それは、イエスが自分のうちに生きてくださるように自分を明け渡すという意味です。自分で自分を変えられないということが心から分かった結果として、自分の心の王座をイエスに明け渡すのです。

金持ちの青年のように、自分がありすぎる人は自分を明け渡すことができないという意味で、何も持たなかったバルテマイはより良い立場にいたのは確かですが、バルテマイのような人は、自分は社会のお荷物になって当然という被害者意識や自己憐憫の思いに苛まれる可能性があります。

しかし、彼は道端に座る人から、イエスの御跡を従う人へと変えられました。それは彼が、変わりたいと心から願っていたからです。

あなたは本当に、自分の生き方を変えたい、変えられたいと願っているでしょうか。信仰においては何よりもそれが問われています。