マルコ10章32〜45節「みなのしもべになりなさい?」

2012年5月27日

キリスト教は奴隷制を擁護する宗教として批判を受けてきたことがあります。アメイジング・グレイスの作者ジョン・ニュートンは難破しそうな船の中で、自分は死後地獄にゆくしかないという恐怖に襲われて劇的な回心を果たしますが、その後も奴隷船の船長としてしばらくは働き続けました。しばらくして奴隷貿易がいかに神の御心に反するかを悟って、牧師になり、奴隷制廃止のために献身します。

そこに見られるように、当時の多くの信仰者たちは奴隷制度を神の御心に反することだとは思わずに生きていました。それはイエスが奴隷制を真っ向から非難する代わりに、奴隷として生きることに喜びを見いだすように勧めたことと無関係ではないと思われます。

実際、イエスは弟子たちに向かって、明確に、「みなのしもべ(奴隷)になりなさい」なとど、とんでもないことを命じられたのです。

イエスは、奴隷制度を排する代わりに、奴隷になることを勧めました。これは本当に不思議なことです。しかし、イエスは同時に、誰よりも明確に、ひとりひとりが神の目に高価で尊い存在であるということを、ご自分のことばと行動によって示されました。奴隷制は同時に、神のみこころを知ったキリスト者によって廃止される方向へと進んだのです。奴隷制を擁護したクリスチャンと、それを廃止しようと頑張ったクリスチャンの、どこが違うのでしょう。

実は、神の奴隷としての生き方が、「真の王」としての生き方であることは、イザヤ52章13節から53章12節の「主(ヤハウェ)のしもべ」の歌に鮮やかに記されています。

イエスが「みなのしもべとなりなさい」と言われたのは、決して、人間の奴隷になることの勧めではなく、預言された「主(ヤハウェ)のしもべ」の生き方に習うようにとの勧めだったのです。イザヤ書との関連を知らなかった信仰者がイエスのことばの意味を誤解したのかもしれません。

多くの人々は、この世界が平和で満たされるという「神の国」を政治制度によって実現しようと考えますが、イエスにとって、「神の国」を実現するための唯一の道は、みなのしもべとなって十字架にかかることであったのです。

1.「イエスは先頭に立って歩いて行かれ・・・あとについて行く者たちは恐れを覚えた」

「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた」(10:32)とあるのは、それまでのイエスのお話から、「永遠のいのちを受けるために」自分の財産や家族を犠牲にせざるを得ないという可能性があることを聞いていたからだと思われます(10:29,30)。彼らはエルサレムでローマ軍との衝突があると思って恐れを抱いていたのかもしれません。

ところが、イエスは、弟子たちの気持ちとは正反対に、堂々と先頭に立ってエルサレムに向かっていました。しかもイエスはそこでどれほど悲惨なことが待っているかということを正確に把握していました。

それはイエスが、ご自分はイザヤ53章などに記されている苦難の主のしもべとしてご自分を犠牲とすることが、主のみこころであると自覚していたからです。

そこでは「しかし、彼を砕いて、痛めることは主(ヤハウェ)のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ、主(ヤハウェ)のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ53:10,11)と記されていました。

つまり、自分が苦しむことこそ主のみこころであり、それを通してご自身の「満足」が生まれると確信していたからです。

そして、そのような中で、「すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた」(10:32)と記されていますが、これは8章31節、9章31節に続いて三回目の予告でした。

8章31節では、イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえられなければならない」と言われ、それを聞いたペテロは傲慢にもイエスを諌め、イエスがそれに対し「下がれ。サタン」と叱責されたと記されていました。

また9章31節では、イエスは、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられましたが、弟子たちはその意味が理解できないままイエスに尋ねるのを恐れていたと記録されていました。

そしてイエスは10章33、34節では、さらに詳しい受難のプロセスを描きながら、 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります」と述べられます。

何と、救い主であるイエスはご自分の民の宗教指導者たちによって死刑に定められ異邦人の手によって無残な苦しみを受け、殺されるというのです。

弟子たちはイエスを律法の教師と見ていましたが、イエスは異端者として断罪され、またイエスは新しい神の国の王となるはずであるのに、異邦人によって殺されるというのでは、到底、弟子たちに理解することはできませんでした。

ただしイエスは三回の受難予告のすべてにおいて、三日の後によみがえると、ご自身の復活を明確に語っておられました。弟子たちが、この復活預言をどのように理解したのかは定かではありません。しかし、彼らは三回目にイエスの受難予告を聞いたときには、より冷静になって、これが単にイエスの死で終わるものではないことを理解し始めていたのではないでしょうか。

彼らはダニエルがメディア・ペルシャ連合王国の支配者ダリヨスの家来の陰謀によってライオンの穴に投げ込まれながら、神によって守られ、その後、イスラエルの民をバビロン帝国の支配から解放したペルシャ王クロスにまで重んじられるようになったというダニエルの物語と結びつけて考えたとも推測できます。

彼らがイエスの肉体的な死の後の復活ということは理解できなかったことは確かですが、これをダニエルの物語のように、殺されそうになりながら神の国を実現するという物語として理解したのだと思われます。

イエスも弟子たちも、目に見える神の国の実現のために生きていました。イエスの福音の核心は、「時が満ち、神の国は近くなった(is at hand)。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)でした。弟子たちはそれをより具体的な新しいダビデ王国として、ローマ帝国からの独立を待ち望んでいたのだと思われます。

当時も今も、福音の核心は、「神の国」ということばで描かれます。イエスも弟子たちも「神の国」の実現のために命をかけようとしていたという点では一致しています。弟子たちは当時の権力者たちとの真っ向からの戦いを予期していたことでしょうが、イエスは、宗教指導者たちから捨てられ、ローマ帝国の支配者によって殺されることを通して神の国を実現しようとしていました。目指す方向は基本的に似ていても、それに至る手段が徹底的に異なります

神の国をこの世の権力を握ることによってではなく、十字架によって実現するなどということがどうして信じられましょう。しかし、イエスはそれを信じていたからこそ、自分の惨めな死が待っているエルサレムに向かって堂々と歩んでゆかれたのです。

2.「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない」

そのように神の国を目指して歩んでいる中で、「さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て」、「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います」と申し出て来ました。イエスが、「何をしてほしいのですか」と尋ねると、彼らは、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください」と、極めて具体的な希望を訴えました。

マタイの並行記事では彼らの母がふたりを従えてイエスに願い出たという面が強調されていますが(20:20,21)、ここではそれはヤコブとヨハネ自身の願いであったと記されています。

とにかく彼らはイエスが新しいダビデ王国を作ってくださるということに期待し、その新しい国で、右大臣、左大臣にしてもらえることを期待していたというのです。今の私たちには愚かな願いと見えるかもしれませんが、人が命をかけて新しい国が実現することを望むとき、そこにおいて権威ある立場が与えられることを期待するのは当然のことと言えましょう。

人が権力を求める動機には、この世界をより住みやすくするために力を発揮したいと願うとい面が必ずあります。権力闘争を否定的ばかりにとらえてはなりません。権力を握らなければ実現できないという理想も多くあるという点を決して忘れてはなりません。

しかし、イエスは、その人間的な常識を変えようとされたのです。

それでイエスは彼らに、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」(10:38)と尋ねられました。

預言者イザヤはかつてエルサレムに向かって、「あなたは、主(ヤハウェ)の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」と預言していましたが、弟子たちにもイエスが意味する杯が、苦しみを引き受けるという趣旨のことであるということはわかったと思われます。

また、バプテスマを受けるとは、バプテスマのヨハネがイエスに授けたバプテスマを思い起こさせるものですが、それは水の中に沈められて死ぬことを意味しました。

弟子たちはイエスが言われたことがどこまでわかったかは不明ですが、少なくとも彼らは、それがイエスとともに苦しむということを意味するということは良くわかりました。それで彼らは、「できます」と答えました(10:39)。

それに対し、イエスは、「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします」と言われました。後にヤコブは、十二弟子たちの中で一番最初に殺されます(使徒12:2)。

またヨハネは弟子たちの中で一番長生きしますが、パトモス島というところに流されて黙示録を記します。どちらもイエスが言われた通りに、イエスが飲む杯を飲み、イエスが受けるバプテスマを受けたのです。

私たちも、イエスとともに苦しむことによってイエスとともに栄光を受けるようにと招かれております(ローマ8:17)。確かにイエスはご自分が神の憤りの杯を飲むことによって、私たちに祝福の杯を残してくださいました。それこそ聖餐式の意味です。

また、私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによってキリストとともに葬られ、既に死を乗り越え、復活のキリストとともに歩みだすことができました。しかし、それは決して、私たちがひとりひとりこの地で何の災いからも解放され、平安に満たされて生きるためではありません。

イエスはあくまでもご自分の弟子たちに、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おおうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」(9:34,35)と言われました。

簡単に言うとイエスは、決して私たちに気楽な人生などを保障してはおられません。

私は、自分の十字架を負ってイエスに従うというみことばによって、牧師への道を神の召しと確信しました。それは、苦しみ甲斐のある人生を求めてみたくなったからとも解説できます。

証券会社での仕事も、牧師の働きも、苦しいということでは同じでしょう。しかし、自分が高給を受けとる一方で多くの顧客が損をしてしまうというような苦しみと、神にある永遠の祝福を紹介するために誤解されて苦しむというのでは、苦しみ甲斐が決定的に違います。

しかし、イエスとともに苦しむという覚悟を決められることは、イエスの復活のいのちをともに味わうという、ダイナミックないのちの喜びに満ち溢れた歩みです。現在の日本の閉塞感、それは互いが自分ひとりの平安を最優先して、面倒を避けて生きるという、臆病さから生まれていると言えないでしょうか。

苦しみを引き受けるというのは多くのエネルギーが必要になります。ですから、イエスとともに苦しむことへの招きの中には、イエスの「いのち」の福音が隠されているのです。

イエスは私たちに何よりも、生きる力を保障し、生きる力を与えてくださいました。そして、その圧倒的ないのちのエネルギーはイエスと共に苦しむということの中に現されているのです。

3.「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」

イエスはヤコブとヨハネに、引き続き、「しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです」(10:40)と不思議なことを言われました。

私は以前、このことばを、新しい神の国での栄光ある地位のことを指していると思いました。しかし、イエスはここで、「そこに備えられた人々がある」と極めて具体的なことを語っておられます。これは、イエスとともに十字架にかけられたふたりの強盗を指していると解釈すべきではないでしょうか。

イエスにとっての十字架とは、まさにイザヤが預言した苦難のしもべとしての栄光のときです。しかし、イエスと共に十字架にかかること自体が栄光なのではありません。

そこで一人の強盗は悔い改めてパラダイスへと導かれましたが、もうひとりの強盗はイエスを罵り続けて神のさばきを受けました。苦しむこと自体に意味があるのではなくて、苦しみの中でイエスとの交わりを体験できるかどうかが何よりも大切なことなのです。苦しみの中に希望を見いだすことができることこそ、イエスの福音の力です。

その後、「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた」(10:41)とあるのは、十人の他の弟子たちも心の底では、ヤコブとヨハネと同じような願望を持っていたことの証拠と言えましょう。

弟子たちは神の国の実現のために苦しむ覚悟をそれなりに持ってはいましたが、それは地上的な意味での栄光を受ける道と考えていました。しかし、イエスの受ける十字架は、この世的には敗北者のしるし、犯罪人とされたことのしるしでした。

イエスはそのことを彼らに知らせるために、「彼らを呼び寄せて」、彼らの発想を根本的に変えるために、「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(10:42-45)と言われました。

ここで注意する必要があるのは、イエスは決して、「偉く(偉大に)なりたい」とか「人の先に立ちたい」という願いを否定することなく、受けとめているということです。

イエスの弟子たちは「神の国」を実現したいと純粋に願っていたことでしょう。そのためには人の上に立つ必要があると考えるのは当然のことです。しかし、イエスは反対に、世界を変えて神の国を実現したいと思うなら、徹底的に人に仕えること、また、自分を奴隷のようにこの社会の底辺に置くことを目指すように勧められたのです。

イエスの教えは天と地を逆さにするものです。この世の手っ取り早い解決のためには、権力を握るのが一番です。しかし、力による解決は、必ず、別の力による反動を生み出します。

たとえば、二十世紀の社会主義運動は、純粋に、資本をもたない労働者を奴隷状態か解放しようという運動として始まりましたが、社会主義国は結局、万人を奴隷とする制度として惨めな失敗に終わりました。それは、人を上からの指導によって造り替えようとしたからです。

私の青春時代、中国の文化大革命は人間の発想を根本から変えようとする運動として注目を集めていました。そして、創価学会の代表の池田大作氏なども、「人間革命」という書を記して、人の発想を根本から造り替えるという運動を起こしました。そして、それは公明党という政党を作って国を変えるという運動へとつながりました。

ギリシャの経済は、なぜ破綻したのでしょう。それはひとりひとりの勤労意欲や責任感に訴える代わりに、通貨や政治の仕組みを変えることでみんなを豊かにしようとしたことの結末ではないでしょうか。

この世が飢えているのは、人の愛です。それは社会制度によって解決できる問題ではありません。

イエスが語った神の国とは、人々を奴隷解放運動に駆り立てるものではありませんでした。それどころか、イエスはそれと正反対に、みんなで奴隷になることを勧めたのです。

事実イエスは、「みなのしもべとなりなさい」と言われましたが、これは直訳すると、「みなの奴隷となりなさい」と訳すことができます。また、「仕える」ということばのもともとの意味は、主人が食事をするときの給仕として、主人の気持ちに寄り添って食事や飲み物を提供するという働きから生まれている言葉です。

そればかりか、イエスは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与える」と言われましたが、イエスは、他の人を生かすためにご自分のいのちをささげられたのです。これはイザヤ53章の「主のしもべの歌」の要約です。

イエスは、この世界を治める王としてこの世に来られましたが、その支配は、権力によって人を抑えるのではなく、世界のすべての罪を負って、神と人とを和解に導き、ひとりひとりの心の内側に神にあるいのちの喜びを回復させるためでした。

そして、いのちの喜びは、この世の優劣の逆転の中に現されると言われました。

イエスは社会制度を変えるためではなく、人の生き方の方向を変えるために来られたのです。しかもイエスは、世界の創造主でありながら、主人として仕えられるためではなく、奴隷として、給仕として、仕えるために来たというのです。

これは私たちにとって何を意味するのでしょう。どのような生き方を意味するのでしょう。

パウロは後に、コロサイ人への手紙を通して不思議なことばを書きました。それは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです」(1:24)という不思議な告白です。

私たちの周りには様々な欠けがあります。私たちはその欠けを指摘し、正そうとします。今や、子供までもが、まるでわかったように、政府の政策を批判し、社会の問題を論じています。まるで一億すべてが評論家になっているかのようです。

しかし、日本語的には、泥をかぶる覚悟(不正ではなく)の人が少なすぎます。十字架を負うとは、人の非難や中傷を受けながら泥をかぶるような生き方をすることです。

イエスの弟子たちは英雄的な苦しみの道を目指していました。しかし、イエスは犯罪人として、奴隷として十字架にかけられるということを、栄光を受ける道とされました。

仕える生き方、しもべとなるという生き方は、決して格好の良い生き方ではありません。しかし、格好の悪い生き方ができることこそ、イエスに従うという生き方なのです。イエスの弟子たちはそれが分かっていませんでした。

イザヤ52章13節から始まる主のしもべの歌の冒頭では、「見よ。わたしのしもべは栄える」と記されます。主のしもべとして生きることは、真の意味で、神の栄光に包まれて生きることなのです。

イエスの栄光は十字架に見られました。それは人の目には忌み嫌われる刑罰でしたが、それは預言された人の子として、徹底的に神のみこころを全うしていた瞬間でした。私たちにとって最も避けたい苦しみが、神のみこころを全うする栄光の時とされました

私たちはだれもひとりで生きることはできませんから、基本的に人はみな、人の上に立ちたいと思うのが人情です。しかし、そこから人の心を貧しくする無意味な競争や権力闘争が起きてしまいます。もし、みなが、イエスの言われたように、人の下に置かれることが栄光への道だと心から納得できるなら、この社会はずっと住みやすくなることでしょう。

人に寄り添い、人に仕える生き方にイエスとの交わりを見いだせるなら、この社会は変わります。イエスに従うとは、主のしもべとして生きることを意味します。人に振り回され、人に誤解され、中傷を受けながら、なお、黙々と、目の前の課題に心を集中して生きることができるなら、そこに神の愛の眼差しが何よりも注がれていることでしょう。

人の上に立つことよりも、人に仕える生き方を目指すなかに、イエスとの交わりが成長します。

あなたは、神の国の理想を、権力を動かすことによってではなく、しもべの道を通して実現できると本当に信じているでしょうか?