エステル1章1節〜2章18節「神の摂理の御手の中で」

2012年4月22日

私たちの人生に中には、「何でこんなことになるのか……」と、泣きたくなるようなことが起きます。しかし、それはしばしば、振り返って見ると、神が示してくださった方向転換のときとなってはいないでしょうか。

私たちは昨年11月末の臨時の教会総会で、錦町の土地の取得の方向を決めました。ただ、その際、「みこころ」などということばをひとことも使わなかったことを感謝しています。そして、今年の受難週、それまでの労苦が無に帰するような空しさを味わいました。

イースター礼拝では、「何もないところに希望がある……」などとメッセージしながら、心は未練と後悔に苛まれて熟睡できず、朝早く目が覚めてしまいした。

そして、その直後から、不思議な展開が始まりました。ただそれを喜んだのも束の間、私はとんでもない誤解をしていたことに気づかされ、胃が痛くなってしまうほど悩みました。しかし、それも神の御手の中にあることがわかりました。私たちの教会堂建設には、母教会である東京武蔵野教会の理解と支援が不可欠ですが、それらすべてのタイミングが、今日という日にかかっています。

しかし、それらは、毎日、必死に手探りで進む中から、振り返って見て初めてわかることです。みこころは事前にはわかってはいけないことなのかと思います。神の摂理の御手というのは、危機的状況の中で初めてわかることと言えましょう。

1.「だれでもめいめい自分の好みのままにするようにと、王が……命じ」

エステル記の最初は、「アハシュエロスの時代のこと」という書き出しで始まります。これは紀元前485年から464年にかけてのときを指します。これは、イスラエルにおいては紀元前516年のエルサレム神殿の再建と紀元前458年のエズラによる信仰復興運動の間の出来事です。

世界史的には安定期に入ったペルシャ帝国と新興国として勢力を増し加えていたギリシャの都市国家連合との紀元前500年から479年まで続くペルシャ戦争の後半部分に相当します。

歴史教科書には、紀元前480年のサラミスの海戦でペルシャ王クセルクセスが退却をし、その後大敗北として終わったと記されていますが、その王とこのアハシュエロスとは同一人物だと思われます。その当時のペルシャ帝国の支配は現在のギリシャ北東部からエジプト、インダス川流域にまで及んでいました(1:1)。

そして、「シュシャンの城」(1:2)とは首都のスーサのこと、「第三年」とは紀元前583年のことで三年後のギリシャ遠征の準備のために王の権威を示し、家臣たちをまとめるための大宴会を開いたということだと思われます。

その宴会の様子が、「それにはペルシヤとメディヤの有力者、貴族たちおよび諸州の首長たちが出席した。そのとき、王は輝かしい王国の富と、そのきらびやかな栄誉を幾日も示して、百八十日に及んだ」(1:3、4)と記されます。

その後、「王は、シュシャンの城にいた身分の高い者から低い者に至るまですべての民のために、七日間、王宮の園の庭で、宴会を催した」(1:5)とありますが、これはこの酒宴のクライマックスのときを意味すると思われます。

その上で、6節にはそこにある調度品の豪華さが描かれ、続いて、「彼は金の杯で酒をふるまったが、その杯は一つ一つ違っていた。そして王の勢力にふさわしく王室の酒がたくさんあった」(1:7)と王の勢力と権力が強調されながら、「それを飲むとき、法令によって、だれも強いられなかった。だれでもめいめい自分の好みのままにするようにと王が宮殿のすべての役人に命じておいたからである」(1:8)と特別に記されます。

王は各自に自由を保障することによって自分の権威を示そうとしています。自由には代価があると言われます。それは、主体的に行動するという責任です。それによって王は、家臣たちの資質を試すことができます。

それと並行して、「王妃ワシュティも、アハシュエロス王の王宮で婦人たちのために宴会を催した」(1:9)と描かれます。王妃も自分の権力を誇り、自由を満喫していたことでしょう。しかし、そのような中で事件が起きます。

人は強い力には屈服する一方で、自由が与えられると急に自己主張をすることがあります。もっと、王の気持ちに寄り添って、王がなぜ、このとき、「めいめい自分の好むままに」などという命令を出しているかの真意を推察すべきでしょう。

多くの人々は、自分をすぐに被害者の立場か反対に反抗者の立場に置こうとしますが、それこそが奴隷根性と呼ばれるものです。自分自身が主体的に考え、そしてその姿勢から、自分の上に立つ者の気持ちになって、上に立つ者の不安にまで思いを向けることができるなら、組織はずっとよく機能することでしょう。

2.「王妃は……王の命令を拒んで来ようとしなかったので、王は非常に怒り」

10節から話が急展開します。「七日目に、王は酒で心が陽気になり……七人の宦官……に命じて、王妃ワシュティに王冠をかぶらせ……王の前に連れて来るようにと言った。それは、彼女の容姿が美しかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであった」のですが、ところが何と、「王妃ワシュティが宦官から伝えられた王の命令を拒んで来ようとしなかった」というのです。

それで、「王は非常に怒り、その憤りが彼のうちで燃え立」ちました。

王妃は自分が見世物のように扱われることに屈辱を感じたのでしょうが、彼女の何よりの問題は、王が自分に特別待遇を与えてくれていたことを当然のように思ってしまっていたことでしょう。

多くの人は恵みを受ければ受けるほど、それを既得権益かのように誤解します。たとえば、最初は、10分間でも話を聞いてもらえたことが感謝だったことが、そのうち「たった10分しか聞いてくれない冷たい人……」というように評価が変わるのが常でしょう。

一方、王が「非常に怒り……」ということも、当時の国際情勢を考えれば推測できます。当時のペルシャ帝国は非常に大きく広がっていましたが、紀元前490年のマラトンの戦いでペルシャはアテネを中心としたギリシャ都市国家連合軍にまさかの敗北を喫します。その戦勝報告の走者が現在のマラソンの起源となっています。

その後、紀元前484年にはエジプトが反乱を起こし、その鎮圧に苦労するというようなことがありました。つまり、国としてのまとまりにほころびが見え始めていたときだったのです。王は自分の権威によって国をまとめようと必死でした。

ところが、王妃は七人の宦官を通して伝えられた王命を、公然と拒否したというのです。これではこの王国の統一性が内側から崩れることになってしまいます。王の命令が気まぐれから発せられたものであっても、それが公になってしまったなら、それに逆らうことは王の権威を傷つけることになります。

王妃は、小さなプライドに囚われて、王権のシステムを理解することができていませんでした。王がふだんから目をかけてくれていることを当然のことにように思い、自分の地位が、国の中でどのような意味を持っているかと言うことに思いが至っていませんでした。

その後の展開が13節から、「そこで王は法令に詳しい、知恵のある者たちに相談した」と記されます。彼らは、「ペルシヤとメディヤの七人の首長たち」でした。そして、王の問いが、「王妃ワシュティは、宦官によって伝えられたアハシュエロス王の命令に従わなかったが、法令により、彼女をどう処分すべきだろうか」(1:15)と記されます。

それに対し、七人の名の最後に記されていた「メムカンは王と首長たちの前で」、「王妃ワシュティは王ひとりにではなく、すべての首長とアハシュエロス王のすべての州の全住民にも悪いことをしました」と、彼女の行動が王国の秩序に関わると指摘し、「なぜなら、王妃の行いが女たちみなに知れ渡り、『アハシュエロス王が王妃ワシュティに王の前に来るようにと命じたが、来なかった』と言って……きょうにでも……ペルシヤとメディヤの首長の夫人たちは……このことを言って、ひどい軽蔑と怒りが起こることでしょう」(1:17、18)と言いました。

現代の人々は、「女たちは自分の夫を軽く見る」などという理屈に納得できないかと思います。しかし、よく考えてみると、ペルシャとメディヤの首長である者が、公然と、王の権威にほころびが出てきているときだから厳しく対処する方が良いなどとは言えません。

昔から、重要なことは言外に表現されます。夫が軽く見られてはならないという話は、当時の男性たちの間では非常に納得しやすい話で、当時の政治情勢を知っている人はすぐに、ペルシャ王の権威が侮られ、国の統一にほころびが生まれてはならないという危機感として理解できたことでしょう。

それでメムカンは19節で、「もしも王によろしければ、ワシュティはアハシュエロス王の前に出てはならないという勅令をご自身で出し……変更することのないようにし、王は王妃の位を彼女よりもすぐれた婦人に授けてください」という提案をします。

そして、その意味が、「王が出される詔勅が、この大きな王国の隅々まで告げ知らされると、女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を尊敬するようになりましょう」(1:20)と説明されます。

自分の夫を尊敬するようになるという言葉の背後には、これによって、王から公に発せられる命令の権威が尊重されるという思いが込められているように思われます。

3.「このおとめは、ヘガイの心にかない、彼の好意を得た」

2章では、「この出来事の後、アハシュエロス王の憤りがおさまると、王は、ワシュティのこと、彼女のしたこと、また、彼女に対して決められたことを思い出した」ということばとともに、その後のユダヤ人の命運を握る意外な展開が、「王に仕える若い者たち」の提案が、「王のために容姿の美しい未婚の娘たちを捜しましょう……王国のすべての州」から、「容姿の美しい未婚の娘たちをみな、シュシャンの城の婦人部屋に集めさせ」、そして、王のお心にかなうおとめをワシュティの代わりに王妃としてください」と記されます。

そして、突然ここに、「シュシャンの城にひとりのユダヤ人がいた。その名をモルデカイといって、ベニヤミン人キシュの子シムイの子ヤイルの子であった」(2:5)というひとりのユダヤ人が紹介されます。「ベニヤミン人キシュ」とは、イスラエル王国最初の王サウルの父の名です。ですから、モルデカイは初代王家の血筋を引く王家の子孫としてユダヤ人としての誇りを大切に守っていたことでしょう。

なお、6節初めの「このキシュ」ということばは原文では「彼」になっており、それはモルデカイを指すと考えた方が良いと思われ、「彼はバビロンの王ネブカデネザルが捕らえ移したユダの王エコヌヤといっしょに捕らえ移された捕囚の民とともに、エルサレムから捕らえ移された者(たちの中にいた)」と訳すことができます。

要するに、モルデカイは由緒ある家柄で、バビロンに捕囚とされ、そこで厚遇を受けていたエコヌヤとともにいた人の家系の子孫であったということです。ネヘミヤやエズラの例にもあるように、ペルシャ帝国の中でそれなりの地位を得ていた多くのユダヤ人とその親族は、エルサレム帰還が許されても、なおペルシャ帝国内に留まっていました。まさに、「住めば都」という感じになっていたのだと思われます。

そして、7節ではエステルの名が初めて描かれ、「モルデカイはおじの娘ハダサ、すなわち、エステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。このおとめは、姿も顔だちも美しかった。彼女の父と母が死んだとき、モルデカイは彼女を引き取って自分の娘としたのである」と記されます。

その上で、エステルが王宮に招き入れられる経緯が、「王の命令、すなわちその法令が伝えられて、多くのおとめたちがシュシャンの城に集められ、ヘガイの管理のもとに置かれたとき、エステルも王宮に連れて行かれて、女たちの監督官ヘガイの管理のもとに置かれた」(2:8)と記されます。

本来、ユダヤ人でありながら、異教徒の王の「そばめ」とされるというのは、非常に不名誉なこと、律法に反することと考えられました。しかし、ペルシャ帝国の首都に住んでいるおとめが王命に背くことなどできません。

彼女は、避けられない運命ならば、それを積極的に受け止めようとしたのではないでしょうか。その結果が、「このおとめは、(宦官)ヘガイの心にかない、彼の好意を得た。そこで、彼は急いで化粧に必要な品々とごちそうを彼女に与え、また王宮から選ばれた七人の侍女を彼女にあてがった。そして、ヘガイは彼女とその侍女たちを、婦人部屋の最も良い所に移した」(2:9)と記されます。

現代の私たちは、自分には職業選択や結婚の自由があるのは当然であると思っていますが、このような自由が保障されたのは歴史の中ではごく最近のことです。そして、自分の人生は自分で選ぶことができると思うところから、かえって様々な悩みが生まれてはいないでしょうか。それは、「こんなはずではなかった……」という思いです。

私は自分の職業選択を入社三日目で、「みこころを読み間違えた」と後悔してしまいました。しかし、今振り返って見ると、あのときの様々な条件を考える時、それが最善の選択だったと今は心から思えます。

人によっては、「何で私はこんな家に生まれたのか……」などと悩みます。しかし、よくよく振り返って見ると、自分の人生の中の最も核心的な部分は、すべて自分で選ぶことができない要素から成り立っています。そこで最も大きな違いとして現れるのは、それを積極的に受け止めるか、それを恥じながら生きるかという違いです。

4.「こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた」

ただ、そこで知恵が求められる部分があります。この後のことで明らかになるように、ユダヤ人は当時のペルシャ帝国の中では奇異な目で見られ、誤解を受けがちでした。それはあらゆる偶像礼拝を拒絶し、目に見えない神だけを拝むという生き方を貫こうとすることから生まれる必然的な反感と言えましょう。

それに対する対応が、「エステルは自分の民族をも、自分の生まれをも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはならないと彼女に命じておいたからである。モルデカイは毎日婦人部屋の庭の前を歩き回り、エステルの安否と、彼女がどうされるかを知ろうとしていた」(2:10、11)と記されます。

モルデカイは、エステルを養育するという自分のおじに対する約束を、ここに至っても守ろうと必死でした。モルデカイはエステルが自分のもとから連れ去れられるときほんとうに心を痛めたことでしょう。しかし、彼は無駄な抵抗をする代わりに、その状況を受け入れ、エステルにもその中で賢く生きることを勧めると同時に、自分自身もできる範囲でエステルの安否を確かめ続けようと必死でした。

12節から 14節には当時の王宮で、おとめたちが一年間の準備期間を経て王のところに入って行くためのしきたりやその後のことが記されます。一度、王のところに入っていった女でも、「王の気に入り、指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった」という厳しいおきてがありました。王のそばめとなった者たちは、自分では何の主体的な行動をとることもできません。ひたすら、王から声がかかるのをじっと待つしかなかったのです。エステルは自分の意に反して、まさに奴隷よりも自由のないと思える状況の中に身を置かなければなりませんでした。私たちは彼女のその後の成功を見る前に、彼女の不安や葛藤をこそ思い巡らすべきでしょう。

そして、15節では、「さて……エステルが、王のところに入って行く順番が来たとき、彼女は女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうしてエステルは、彼女を見るすべての者から好意を受けていた」と記されています。まさにエステルは自分が何の選択権もない不自由な立場に身を置きながらも、その状況を積極的に受け入れて行動しようとしています。彼女は、宦官ヘガイへの信頼を態度で表現することによって、彼の好意を得ることができました。

なお、人は誰でも、人から好意を持たれたいと願うものですが、そのために最も大切なことは、まず、自分自身の出生や体形、気質、置かれた環境など、自分で変えることができないことをまず積極的に受け止める必要があります。自分を嫌っていながら、人から気に入ってもらおうなどというのは無理な要求です。まず自分自身を受け入れることこそ、人間関係を豊かに保つ最大の秘訣と言えましょう。

16節では、「エステルがアハシュエロス王の王宮に召されたのは、王の治世の第七年の第十の月、すなわちテベテの月であった」と記されますが、これは紀元前479年の真冬のときを指します。これは王がギリシャ遠征にでかけながらサラミスの海戦でギリシャに大敗北を喫し、失意のうちに帰国した翌年に相当します。王はエステルによって大きな慰めを受けたのではないでしょうか。

そして、その後のことが、「王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。それから、王はすべての首長と家臣たちの大宴会、すなわち、エステルの宴会を催し、諸州には休日を与えて、王の勢力にふさわしい贈り物を配った」と記されます。

王は、国をまとめるためにも自分の勢力を誇る必要がありました。そして、エステルはその従順さと美しさによって王を慰め、王の気持ちに寄り添って王権を支えることに協力することができたのではないでしょうか。

エステル記をペルシャとギリシャとの戦争という歴史的な文脈の中で読むときに、いろいろ興味深いことが見えてきます。私たちの人生の中にも、緊張を強いられる様々な戦いの日々があります。

そのような中で、自分を被害者的な立場に置くか、権力者の気持ちに寄り添う立場に置くかで、人生はまったく違ったものに見えてくるでしょう。

そこで大切なのは、変えられないことを受け入れる平静な心、変えられることを変えてゆく勇気、ふたつのものを見分ける賢さです。ただし、その平静な心(Serenity) というのは、そのときそのときに神から与えられる賜物と言えましょう。自分の心がパニックに弱いことを嘆く人は、さらに自分をパニックに追いやってしまいます

先日も、健康診断に行ったとき、自分の血圧数値が高く出てしまうことに驚いてしまいました。普段はとっても低いからです。その保険医の方からは、血圧があがりやすいという性質を知ることの大切さを指摘されてしまいました。つまり、僕には平静な心がいかに足りないかということの証拠とも言えましょう。

しかし、それを嘆いたところで、この感性は、変わりはしません。かえって自分の敏感さを意識すれば意識するほど問題が深まるだけです。

私たちにとって何よりも大切なのは、心が様々なことに敏感に反応し、不安定になってしまう自分の感性や心のあり方を恥じることなく、神と人とに誠実を尽くすということに心を集中することです。

人は、誰でも、自分ではなく、目の前に働きに心を集中することによってのみ自分を忘れることができます。そして、そのように行動するときに、結果的に、すべてのときが神の摂理の御手の中にあったことを覚え、安心することができるでしょう。

「平静な心」と言うのは、不安を通してこそ体験できるものです。神の摂理の御手は、パニックを通してこそ体験できるものです。

ですから、目の前の責任を回避せずに、真正面から向かって行きましょう。先の見通しがまったくつかないと思えるような中にあっても、主を呼び求めるとき、主があなたのために道を開いてくださいます