マルコ8章34節〜9章13節「栄光の姿から十字架を見る」

2012年2月12日

人の心の中には、矛盾した自分が住んでいます。同じ人が、とてつもなく臆病でおどおどとしているときがあるかと思うと、世間体など気にせずに堂々と自分の意見を主張するときがあります。たとえば、私などは、「僕って、鋭い分析力を持つと同時に、すばらしい優しさを備えている・・」などと思うことがある一方で、「自分は愚図でのろまで、偽善者だ。結局、自分のことしか考えていない・・」と自己嫌悪に陥ることさえあります。それがごくたまに、一日のうちに何度も繰り返されることだってあります。

そして、そのように分裂した自分理解が、同時に、イエスに対する分裂した見方に現れます。エルサレムの群衆は、イエスを「ダビデの子にホサナ!」と歓呼を持って迎えた五日後に、「こいつを十字架につけろ!」と大合唱しました。無力にローマの法廷の前に立つイエスの惨めな姿を見て、人々は、騙され、裏切られたと思ったからです。

しかし、イエスは栄光の王として、光の創造主として、惨めな十字架をしのばれたのです。神に喜ばれる者として、どん底の惨めさと苦しみを味わってくださったのです。

イザヤ53章の苦難のしもべは、52章13節の栄光の姿の描写から始まっています。変貌山におけるイエスの栄光の姿から、十字架を見るというのが聖書の描き方です。それは私たちにも適用できます。イエスの似姿にまで変えられることが保障されている者として、一見、この世の失敗者、敗北者、罪人の頭であるプロセスを歩んでいるのです。神の愛のまなざしから、今の自分を評価できるようになるとき、世界が変わって見えてきます。

1.神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者

イエスはご自分の弟子ばかりか群衆に向かって、驚くべきことを言われました。当時のガリラヤはローマ帝国からの独立運動を目指している様々なグループがゲリラ活動を展開していました。そのような中で、イエスは、ご自身がエルサレムの宗教指導者たちから捨てられ、ローマ帝国への反逆者として十字架にかけられて殺されると言われました。

その上で群衆に向かって、剣による勝利を目指す代わりに、当時最も忌み嫌われていた十字架による死刑をも忍ぶ生き方をするように命じられました。

しかし、このことばは、既に、この世の不条理の中で、孤独と不安に苛まれている人にとっては、「私は、イエスの御跡に従っている・・・」という不思議な慰めを与えることもできます。そのような当時の状況を思い巡らしながら、イエスの語りかけを味わってみましょう。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう」 (8:34-35)

ここで「いのち」ということばは、「たましい」(soul)、「自分自身」(self)などとも訳すことができることばで、それぞれの存在の真の源を指します。これは英語で、肉体的ないのちが奪われても、いのちを成り立たせるたましいが失われていないために、それをもとに新しい身体を持つことができます。それは輪廻転生のよみがえりではなく、朽ちることのない永遠の身体によみがえることです。

しかし、そのような中で、イエスとイエスのことばを恥じる者に対しては、永遠のさばきの可能性を示唆しながら、「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」 (8:36)と言われました。

マタイの並行個所では、より明確に、「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います」(10:33)と記されています。

私たちは自分だけの平安を体験するためにキリストの弟子となったのではなく、使命のために召されたのです。ただ、それは敵を武力で圧倒することではなく、右の頬を打たれたら左の頬を向けることができるような平和の使者としての使命です。それは正反対のようでありながら、使命のために命を賭けるという点では同じです。

ただし、しばしば理想に燃える人は、自分の隠された名誉心に囚われ、人を振り回す危険があります。ですから、イエスは、「日々自分の十字架を負う」ことを命じました(ルカ9:23)。これは単に何かの苦しみに耐えるという意味ではありません。十字架は恥辱のシンボルでした。イエスのように人々から嘲られながら、ひとり寂しく死んで行くことです。

ですからイエスは、この世で主のため「恥」に耐えることが、神の国の完成のときに、ご自身から「恥」とされないための道であると言われたのです。

そしてイエスは、この群衆に向かって、「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます」(9:1)と言われましたが、これは、8章の終わりの記事と結びついています。

これは、再臨のことを指しているというよりは、今ここにいる弟子たちの中に、生きたままで「神の国が力をもって到来しているのを見る」ことができる人がいるという意味で、9章2節以降の、変貌山におけるイエスのからだの変貌を三人の弟子たちが「見る」ことを指していると思われます。

なお、この解釈は諸説がありますが、彼らの一部が生きていながらにして、この地に神の国が実現してゆく様子を見ることもできると保障されたということは確かです。それは後にエルサレム神殿が破壊され、それとともに、イエスを信じる者たちが爆発的にローマ帝国に増え広がるようになったことを指しているとも解釈できます。少なくとも、使徒ヨハネはそれを見る栄誉に預かることができました。

「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ということばは、殉教の勧めと誤解される場合がありますが、イエスはここで、この世で生きる中で味わう喜びの希望を語っています。

その意味で、このことばは、「死に急ぐこと」を戒めた勧めとしても理解できるのではないでしょうか。私たちは、神のみこころによって生かされ、神から与えられた使命のために生かされているからです。

2.「私たちが、幕屋を三つ造ります」

「それから六日たって」(9:2)とありますが、この福音書で、ある出来事からある出来事の間に日数が書いてあるのは非常に珍しいことです。六日というのは一週間の枠に入りますから、これは8章の受難告知とこれからの変貌山の出来事は切り離せない関係にあるということが示されているように思われます。

ちなみにルカの並行箇所では「八日」となっていますが(9:28)、それは足掛け一週間という意味で、六日とは矛盾しないと思われます。

そして、「イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた」と描かれます。その山がガリラヤ湖の西にあるタボル山(標高583m)であるという伝統的な見方もありますが、ピリポ・カイザリヤから向かったということであればヘルモン山である可能性が高いと思われます。

ヘルモン山は標高2,814mもあり、そう簡単に登ることができる山ではありませんが、頂上に登ったとは書いていないので、どこか中腹の台地で起こったことが記されているのかもしれません。

とにかく、三人の弟子たちの前で、イエスの「御姿が変わった」というのです。

その様子が、「その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった」(9:3)と描かれています。マタイの描写では、「御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」(17:2)と記され、ルカでは、「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた」(9:29)と記されています。

これらに共通するのは、天からの光を反射するような輝きではなく、イエスご自身から湧き出たような輝きということです。

当時のイスラエルの民は、主の栄光がエルサレム神殿に戻ってくるのを憧れていました。モーセが神の幕屋を作ったときにも、ソロモンが神殿を建てたときにも、神の栄光が宮に満ちて人々が近づくことができないほどになりました。ところが、バビロン捕囚の後で再建された神殿には、ゼルバベルのときにも、ネヘミヤのときにも、もちろんヘロデ王のときにも、そのような不思議は一度も起きませんでした。

しかし、その主の栄光が、今、イエスによって現されたのです。このときのイエスの輝きは、彼が光の創造主であることを明らかにすることに他なりません。

イエスはこの少し前に、弟子たちに向かって、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ね、ペテロが、「あなたは、キリストです」と答えましたが(8:29)、ペテロは聖書が語るキリストを過小評価していました。それに対し、ここでは、神ご自身がキリストとはどのような存在かを明らかにしてくださったのです。

イエスは光の創造主としての神の栄光を保ちながら、十字架にかけられようとしていることを、私たちは忘れてしまいがちではないでしょうか。

そして、そこに さらに不思議なことが起こりました。それは、「また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた」(9:4)というのです。エリヤは、火の戦車とともに天に引き上げられた最高の預言者ですが、旧約聖書の最後では、キリストが現れる前に神から再び遣わされると預言されていました。

モーセは律法を神から受け取るという最高の栄誉にあずかった人で、神と顔と顔とを合わせて語り合うことができたと記されています。このふたりこそ、人間から生まれた者の中で、もっとも神に近い存在と見られていましたが、彼らがイエスと語り合っていたということは、イエスが人間以上の存在であるという最高の証しになります。

なお、ルカはこのときの会話を、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最後についていっしょに話していたのである」(9:31)と記録しています。この「最後」とはギリシャ語で「エクソドス」つまり、「出エジプト」を指すのと同じことばで、神による贖いの御計画を示唆します。モーセは神から律法を授かり「神の国」を説いた最初の預言者であり、エリヤは「神の国」の完成の直前に再び来る預言者です。

ですからこれは、イエスが神の救いのご計画のすべてを知らされて、全世界の贖いという神の使命を帯びて十字架にかかるということの証明になります。

そのような中で、「ペテロが口出ししてイエスに」、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言いました(9:5)。そしてペテロがそのように言った理由が、「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった」(9:6)と記されています。

弟子たちはこのとき、恐怖とともに深い感動を味わっていました。それが、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです」と表現されています。ただ、イエスに向かって、なおも「先生」(ラビ)と呼びかけていることに、彼の理解の限界が現されています。

ただ、そのようなときに、「雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から・・・声がした」というのは、かつて神の幕屋やエルサレム神殿を覆った神の栄光の雲(シェキナー)が、イエスとモーセとエリヤを包んだということを意味します

これは、ペテロが、「私たちが、幕屋を三つ造ります」と言ったことに対し、神ご自身が、イエスとモーセとエリヤのために、幕屋を造ってくださったと解釈することもできます。そして、これは同時に、イエスのみからだこそが生ける神の神殿であることを証しするものです。

そればかりか、雲の中から、父なる神の声として、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がしたというのです。弟子たちはこれを通して、後に迎えるイエスの十字架が神のご計画の成就であることを理解できるはずでした。

ペテロは、イエスが捕らえられたとき、それをすっかり忘れていましたが、後にその意味を理解し、彼が書いた最後の手紙で、「私たちはキリストの威光の目撃者なのです・・・私たちは聖なる山で・・・天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです」と、人々に証しするようになります。

しかもそれは、私たちもそのような神秘体験を憧れるべきだと教えるためではなく、人生に様々な苦しみがあり、神の救いが分らないと思えるような中でも、「確かな預言のみことばを・・・暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよい」ということを教えるためでした(Ⅱペテロ1:16-18)。

なお、これはペテロの目撃よりも、預言のことばの方が信頼できるという意味ではなくて、ペテロ自身が、天からの御声を聞くことができたということを通して、預言のことばが、人間から生まれたものではなく、天から届いたものであるということが確かなものとされたという意味です。

私たちもペテロと同じように、この聖書のみことばを通して、天の父なる神からの語りかけを聞くことができているのです。

なお、イエスはバプテスマを受けたとき、すでに天から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)との御声を聞いていますが、この変貌山の体験は、弟子たちばかりか、これからエルサレムでの苦しみに向うイエスご自身にとっても慰めと支えになったのではないでしょうか。

3.「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」

その後のことが、「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった」(9:8)と記されます。目に見える現実は、少し前とまったく同じですが、三人の弟子たちはこのとき天を垣間見たのです。

私たちの人生も、毎日が何も変わりはしないと思えるかもしれませんが、そのような中で、自分の姿を、やがて実現が保障されている神の国の観点から見ることができる時に、すべてが違った情景に見えるのではないでしょうか。

そして、「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた」(9:9)とは、ペテロの信仰告白の後で、イエスが、「自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた」(8:30)とあったのと同じ意味です。

イエスが預言された救い主であるというイメージが独り歩きさせてしまえば、当時の独立運動に火をつけることになってしまうからです。弟子たちも、イエスが神の御子であるということの本当の意味は、イエスの十字架と復活の後で初めてわかったことでした。

そして、その後のことが、「そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った」(9:10)とありますが、この三人の弟子たちには、主の栄光の姿を垣間見た後でも、イエスの復活ということの意味は分かりませんでした。

イエスは既に弟子たちみんなに向けて、「人の子は必ず多くの苦しみを受け・・捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」(8:31)と言っておられたのですが、それほどに主の復活ということは、弟子たちにも理解しがたいことでした

私たちは幸い、イエスが十字架にかけられた後で、三日目によみがえられたということを信じることができています。死人の復活などということが信じられるということ自体が、どれほど大きな恵みであり、また奇跡であるかということを忘れてはいないでしょうか。

それにしても三人の弟子たちは、復活のことに互いに論じ合ってはいながら、イエスにそのことを正面か尋ねることができませんでした。人は、残念ながら、忌まわしい現実があっても、それを確かめる代わりに、目をそらすということがあります。この時の弟子たちも、ある意味で、話題をそらすような質問をしたとも言えましょう。

ところで、彼らは、少し前に、イエスとともにいるエリヤの姿を見ていました。それで彼らは主に、「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか」と尋ねました(9:11)。それに対し主は最初に、「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します」と認めます。

これはマラキ4章5、6節で、主が、「見よ。わたしは、主(ヤハウェ)の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤを遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」と記されたことが成就するという意味でした。しかし、弟子たちは、それを勝利者としての姿であるとしか思えませんでした。

それに対し、イエスは弟子たちに向かって反対に質問をしながら、「では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか」と尋ねました。ここでの「人の子」とは、イエスがご自分とを指して言ったというよりは、預言者エゼキエルが神から「人の子」と呼ばれたと同じような意味で使っています。

つまり、ここでは、エリヤは人の子としてこの地上に現れるが、その彼も、「多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてある」というのです。それはイザヤ53章では、救い主の姿という以前に、主のしもべの姿が、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちもかれを尊ばなかった」(3節)と描かれていたことを指しています。エリヤも主のしもべですから、同じように苦しむというのです。

その上でイエスは、驚くべきことを告げました。それは、「しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にした」(9:13)というもので、王の宴会のときの気まぐれで、あまりにも不条理に首をはねられたバプテスマのヨハネこそが、エリヤであったと言いました。

バプテスマのヨハネは、確かに人々の心を悔い改めへと導きました。しかし、彼の使命は、何よりも、人々の目を、救い主イエスに向けさせることでした。ヨハネは、その使命を果たした上で、この世から去って行ったのですが、それは誰よりもみじめな不条理な死を通してでした。

しかし、それも、神の目からは、イザヤ53章に記されていたように、苦しみを通して栄光の復活にあずかるという歩みであったのです。

私たちはイエスの弟子とされました。そして、イエスの御霊を受け、イエスの代理大使とされてこの地に派遣されています。そこで私たちも、バプテスマによってイエスに「つぎ合わされた」ものとして(ローマ6:4,5)、父なる神からのイエスへの語りかけが私たちへの語りかけとなり、天から、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語りかけられていることを御霊によって心の耳で聞きます。

私たちがこの世で様々な誤解や非難を受けながら、なおイエスに従うことができるのは、そのような愛の語りかけを日々心の耳で聞くことができるからなのです。この世界は、すでに私たちの主であるキリストのご支配のもとにあるということを常に心に覚えましょう!

ヘブル書の著者は、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座された」(12:2)と描いていますが、イエスが十字架をしのぶことができた秘訣は、何よりも、ご自分の前に置かれた喜びを見ていたからなのです。

そして、私たちも信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいることによってのみ、この地上の苦難に耐えることができます。

自分の十字架を負ってイエスに従うとは、神に愛されている者としての自分を、また、栄光の姿に変えられる者としての自分をイメージしながら生きることです。それは美しい蝶々に変わるものとしての青虫を見るようなものです。神は、欠けだらけのそのままのあなたを、ご自身の働きのために用いることがおできになります。

今回の百万人の福音3月号のマーク・ハリス師の記事にありますが、12世紀初めに活躍したクレルボーのベルナルドは、信仰の四つの段階を描きました。第一は、自分のいのちを大切に見られること、第二は、自分の必要から神を求めること、第三は、神が神であられるがゆえに神を愛するということです。これは、信仰のゆえに試練に会いながら、なお神を愛するということとも言えましょう。

そして、驚くべきことに第四は、「神ゆえに自分を愛する」ことであるというのです。これは、矛盾に満ちた欠けだらけの自分を、神が見るように見るということです。イエスは「わたしの愛する子」という神の語りかけを聞きながら、十字架に向かって行きました。そして、私たちも同じように、「あなたは、わたしの愛する子」という語りかけを聞きながら、「平和の器」としてこの世に遣わされるのです。