マルコ7章24〜37節「エパタ(開け)」と言われた主

2011年12月4日

フェイスブックの中で、ある方が「3・11は‎とっても辛いことだけど、3・11を経て友だちになった人たちが結構いる。3・11がなかったらきっと他人でしかなかっただろう。そういう意味ではともて不思議で奇妙な感覚だ。3・11後にできた友人たちは、悲しみの中で生きる意味を教えてくれる。僕はあなたに会えて本当によかったです」と書いているのに、妙に納得できました。

第二次大戦のときのユダヤ人絶滅計画の中を生き延びたレビナスというユダヤ人哲学者も、「ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験であった。それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のためにすべてを危険にさらしてくれたのである」と語っています。

閉塞感ということばが流行って久しくたっていますが、3・11は日本がその閉塞感の呪縛から解放される契機にもなるのではないでしょうか。1995年の阪神大震災のときには二か月後にオウム事件が起きて、信仰を求める心に水を浴びせられました。しかし、今回は、その反省が生かされた動きが起きているような気がします。

キルケゴールが言っているように、「絶望できるとは、無限の長所」であるけれども、同時に、「絶望は、罪」です。なぜなら、「罪」とは「不信仰」に他ならないからです。

今日の箇所では、雄弁なカナン人の女と、聞くことも話すこともできない男性の癒しがしるされています。雄弁な女性は、本来、希望を持ちえないところに希望を開きました。絶望していた男性は、イエスによって希望を与えられました。

私たちはこの女性の信仰から自分の不信仰を示され、そして、イエスのもとで霊の耳が開かれ、主にある希望を見いだすことができるのです。

1.「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」

「イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた」(7:24)とありますが、これはガリラヤ湖畔から約50kmばかり北に行った地中海沿いの町です。エゼキエル26,27章には、長く繁栄を誇っていたツロの町が、その傲慢さのゆえに神のさばきを受け、廃墟となると預言されており、それが文字通り実現しました。当時は復興が進んでいましたが、イエスはそのさばきのことをマタイ11章21,22節でも語っておられます。

とにかく当時のユダヤ人にとっては、ツロはのろわれた地方で、そこで福音を語るなどということは想像もできないことでした。そして、主ご自身も、そこで「家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われた」と記されています。

主はこの時、神の国の福音を宣べ伝えるよりは、群衆を避けて、弟子たちとともに静かなときを過ごしたいと願っておられたのでしょう。ところが、「隠れていることはできなかった」というのです。イエスのうわさはこの異邦人の地にまで知れ渡っていたからです。

そしてそこで起きたことが、「汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた」(7:25、26)と描かれています。

なお、「ギリシャ人」とは、「異邦人」の代名詞的なことばで、それをもっと特定するために「スロ・フェニキヤの生まれであった」と記され、彼女がツロやシドン全体を含む地域の住民であったことが強調されます。マタイではより忌み嫌うべきニュアンスで、「その地方のカナン人の女」と(15:22)と記されています。

なお、マタイではこの女は、「主よ。ダベデの子よ。私をあわれんでください。娘がひどく悪霊に取りつかれているのです」(15:22)と叫んでイエスの後についてきたので、弟子たちも困り果てたという様子が描かれています。

エゼキエル書では、ダビデの子である救い主が遣わされる目的が、「イスラエルの羊」の中から、「失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける」と記されていました(34:16)。そしてマタイによると、イエスも弟子たちに、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われたと記されています(15:24)。

イエスが「ダビデの子」であるならば、この女の訴えを聞く必要はないと思われました。しかも、律法の教師であるならば、「カナン人の女」に向き合って会話することさえあってはならないことでした。しかし、イエスは彼女の訴えに耳を傾けました。旧約はカナン人との分離を強調していましたが、イエスはカナン人の女と対話をしたのです。

そこでイエスは、「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」(7:27)と言われました。

当時のユダヤ人は異邦人を、「犬」と呼んで軽蔑しましたが、イエスは彼女を「小犬」にたとえます。当時、犬は豚と並んで軽蔑された動物でしたが、「小犬」ということばには優しさが込められています。

ルターはそれを、「表面的な否定のことばのうしろに肯定のことばが隠されている」と言いましたが、イエスのことばのトーンには、彼女の応答を引き出す優しさが感じられたのではないでしょうか。

あるユダヤ人のクリスチャン聖書学者は、ここにイエスのユーモアが隠されているとも言います。そこには、「もし、わたしが、あなたが呼んだように『ダビデの子』、イスラエルの牧者であるなら、わたしは、あなたにではなく、イスラエルの失われた羊に遣わされているはずだよね。それでも、わたしを『ダビデの子』と呼ぶのかな?」というニュアンスだったというのです。

とにかく、このカナン人の女は、イエスの側には自分を助ける理由はないことを十分に認識しながら、なお、必死にイエスにすがっています。イエスは、彼女が自分の立場を十分にわきまえながら、なお不可能にチャレンジするように訴えているという、その気持ちを受け止めるような発言をしたのだと思われます。

しかもイエスが、「まず、子供たちに満腹させなければなりません」と言われたのは、たとえば、「まずユダヤ人に食べさせなければパンが足りなくなる・・・」というように、ご自分のパンの供給力の不足を説明したのではなく、ご自分の働きが、何よりもイスラエルの王として旧約の預言を成就することにあるということを言われたのです。

イエスは、決して、人々のニーズを御用聞きのように聞いて回って、その必要に答えようとしていたのではありません。

2.「でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」

そして、この女は、イエスがイスラエルの牧者という枠を超えた救い主であることを、どういうわけか直感的に認識していました。 それで、女は、「主よ。そのとおりです」(7:28)と答えながら、すぐに「でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と答えました。

先に、イエスが男だけでも五千人の大群衆にパンを与えたとき、そのパンくずを集めただけで十二のかごがいっぱいになりましたが、この女は不思議にも、イエスがイスラエルの民の救い主としての働くことから生まれる「パンくず」の多さを理解していました。イエスはイスラエルの王として、旧約におけるイスラエル預言を成就してくださいましたが、そこから新しい異邦人への救いが始まりました。

この女は、イエスのそれまでの働きを聞きながら、それを理解したのです。当時のユダヤ人は、新しい「ダビデの子」としての救い主が来たら、イスラエルがローマ帝国の代わりにユーフラテス川以南の広大な約束の地を支配させてくださり、そのとき異邦人たちは奴隷のようにイスラエルの民に仕えるようになると期待していました。

しかし、この女は、新しいダビデの子は異邦人を奴隷にする王ではなく、異邦人にも恵みを施してくださる全世界の王であることを認めたのです。これは当時のユダヤ人の誰も理解できない大きな福音理解でした。

それにイエスは感動して、「そうまで言うのですか」(7:29)と言われました。マタイでは、イエスが「女よ。あなたの信仰はりっぱ(偉大)です」と称賛されたと記されています。そして、イエスは、「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」と言われました。これはイエスの父なる神が、この女の応答に喜ばれて、たちどころにこの娘を癒してくださったことを意味します。

たとえばイエスはユダヤ人の会堂管理者ヤイロの娘の病を聞いたときには、彼の家をわざわざ訪ねました。しかしこのときは女の応答と同時に、離れた家の娘が癒されたのです。当時のイエスは律法の教師として、異邦人の家に足を踏み入れるなどということは、それこそ大きなスキャンダルになることでしたが、そのような問題を起こすこともなく、この異邦人の娘は癒されました

その様子が、簡潔に、「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた」(7:30)と記されています。

3.「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て」

イエスは今、「デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖」(7:31)に来られました。これはゲラサ人などの異邦人が中心に住んでいる所で、かつてレギオンという悪霊の大軍に縛られていた人が救われた地方でした。その時、この人は、「お供をしたいとイエスに願った」のですが、イエスはそれをお許しにならないで「あなたの家に帰り・・主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」と命じられました。それで彼は、それを「デカポリスの地方で言い広め始めた」のでした(5:1-20)。

その伝道の結果、イエスが再びここを訪ねたとき、「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った」(7:32)という不思議な行動が起こされたのです。今回の奇跡の背後に、ひとりのゲラサ人がいます。

なお、当時は、「耳は聞こえないけれど字を読むことはできる」ということは、まずあり得ませんでした。聖書を手にできる人は稀で、会堂に集り、耳で聴くのが一般的でした。当然、彼はイエスのことを聞くこともできませんから、自分の意思で会いに来るなどということはできなかったと思われます。

つまり、彼はイエスによって癒されるにふさわしい信仰を持っていたわけではなく、ただ、他の人の信仰と愛に依存して生きていただけなのです。

三重苦を味わったヘレン・ケラーは、耳が不自由なことの寂しさを「私のまわりを取り囲む静けさは、あの神経の疲れを休めてくれる静けさではありません。『おはよう』という声や、小鳥の声でやぶられるようなそんなやさしい静けさではないのです。それは、いっさい他人と自分を引き離し閉じ込める、残酷な厚い壁のような静けさなのです。」と語っています。

当時は、手話でのコミュニケーションもありませんでした。耳が聞こえない人の立場は、今とは比較にならないほど悲惨でした。彼は、まったく世間から隔絶されて生きていたと思われます。しかし、あの悲惨なゲラサ人を救ったイエスの愛が、彼をイエスのもとに連れて来ようという人々の気持ちを動かしたのです。

4.「深く嘆息して・・・エパタ・・・と言われた。」

ところで、人々は「手を置いてくださるように願った」(32節)のですが、イエスはそれに従わず、「その人だけを群集から連れ出」されました。それは彼と個人的に、顔と顔を合わせて、出会うためでした。

その上で、イエスは「その両耳に指を差し入れ」ました。彼の目の前にはイエスの慈しみに満ちた御顔が迫りました。それは、いかなることばにもまさって、神の愛を伝える顔でした。

その上で、「つばきをして、その人の舌にさわられ」(7:33)ました。それは、主ご自身のいのちを分け与えて、その人の舌を動くようにするという、いのちのふれあいです。

そして、イエスは「天を見上げ、深く嘆息して」と記されますが、「嘆息し」というのは分詞ではなく主動詞ですから、彼は嘆息しながら「エパタ」と言われたわけではありません。嘆息したことが、ここで特別に注目されているのです。イエスは、この人の人生の悲しみをいっしょに味わい、ことばにならない祈りを、代わりに祈られたのです。

嘆息は、「私たちはどのように祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)と記されている「うめき」と同じことばです。

その上で、イエスは、その人に向かって「エパタ」と言われました。これは祈りではなく、命令です。つまり、イエスは、ことばで世界を造られた創造主として命じられたのです。弟子たちは、ギリシャ語ではなく、イエスが語ったとおりのアラム語の発音をそのまま記させました。それほど、このことばが印象的だったからです。

「すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった」(35節)と描かれていますが、これは、器官的な障害が治ったということ以上のことです。盲目の人は目が開けばすぐに見えるようになりますが、耳と口が開いても、ことばを習得していなければ、聞こえるのは意味の不明のことばばかりです。

それなのに、彼がすぐに「はっきりと話せるようになった」というのは、日本語しかできない人が急にギリシャ語で話し出すようなものです。

ことばの習得には忍耐が必要です。それがすぐにできるようになったのは、イエスがこの人をまさに内側から作り変えてくださったからです。そして、私たちにも必要なのもそのような根本的な変化ではないでしょか。

この私たちの教会で礼拝している人たちは、たまたまみな、聞くことにも語ることにも不自由はありません。しかし、失礼ながら、本当に人の話が聴けているでしょうか。また、語るべきことを語っているでしょうか。話した後で、「なんてこと言ってしまったのだろう!」と後悔することが多いのではないでしょうか?

しかも、聞くことと話すことは連動しているのではないでしょうか。多くの人は、聞いているようで理解していません。厳しいことを言うようですが、メッセージを聞いて感動していても、その内容を他の人に伝えることができなかったとしたら、それはそのメッセージが自分のものとはなっていないという最大の証拠になります。

真の意味でみことばを聞くことができたとしたら、そのみことばは自分の血となり肉となって、必要なときに必要な人に分かち合うことができるはずです。

その意味で、私たち一人一人も、イエスの「エパタ」という命令によって、霊の耳を開いていただく必要があるのではないでしょうか。ただし、それにしても、あなたはそのことを、心から求めるでしょうか?イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)と約束してくださったことを忘れてはなりません。

5.預言された神の救いが、今、成就した。

「イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられた」(36節)と記されていますが、イエスはこのいやしのみわざが宣伝されることを願いませんでした。耳の聞こえない人を連れて来た人々は、「口止めされればされるほど、かえって言いふらした」と記されていますが、イエスの関心は、このひとりの人の今までの悲しみと、これからの歩みにありました。いやしの奇跡を求める人があまりにも多く集まれば、心の通った出会いは妨げられます。

人々は、「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた」(7:37)と驚きました。しかし、ここには、もっと注目されるべきことがあるのではないでしょうか。

イスラエルの民は、外国の圧制に苦しみながら、イザヤが、「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ35:4,5)と預言したことが成就するときを待ち望んでいました。

イスラエルの悲惨は、神の栄光が離れたことの結果でした。それに対し、このイエスのみわざは、まさに、「神が(戻って)来られた」ことのしるしだったのです。待ちに待った祝福の時代が到来したのです。

イエスの救いは、「口のきけない者の舌は喜び歌う」という点にありました。それは、彼の身体以上に、彼自身に個人的な愛を注いでくださった結果です。子どもは母親の愛と忍耐に満ちた語りかけを受けながらことばを覚えますが、この人は、イエスの圧倒的な愛を瞬時に受けてたちどころに、今まで話したことがないことばで、イエスのみわざをたたえたのではないでしょうか。

ヘレン・ケラーは、サリバン先生の助けによって、冷たい水に触れながら「水」ということばを最初に覚えました。それから彼女の世界が変わったとのことです。しかし、彼女の自伝によると、一才で病気になって目も耳も口も不自由になる以前に、ウォーターという単語だけは覚えていたようです。

彼女にとって同じように画期的だったのは、「愛」ということばを知ったことでした。先生は、「雲はさわることができないけれど、そこから雨が降って、草木や乾いた土がどんなに喜ぶかが分かるわね。愛もさわることができないものだけど、それが注がれるとき、そのやさしい喜びは感じることができます。」という趣旨の説明をしました。

ヘレンは、そのときに、「自分の心と他の人々の心との間に、目に見えない、さわることのできない、美しい糸が結ばれていることがわかった」と語っています。

ヘレンは、実は、サリバンとの心のふれあいを通して、愛を体験したのです。そして、愛ということばを知ってから、彼女の世界ははるかに豊かになりました。

彼女の耳は、一生涯、閉じたままでしたが、「林の中を歩きながら、暗い土の中でせっせと苦労している根の歌を聞くような気がする」と言っています。また、「根は自分の咲かせた美しい花を見ることはできないけれども、いのちを与える喜びを味わっている」と彼女は言いました。このような感性を持ったヘレンは、人の愛を敏感に感謝し、誰よりも幸せを味わい、美しい歌を知っていました。

私たちのまわりには、耳が開いていても、みことばを聞こえない人、また、口があっても賛美できない人が何と多いことでしょう。イエスは今も、人と人との愛を通して、またみことばを通して、ひとりひとりに出会ってくださいます。

イエスが私たちに起こしてくださる最大の癒しは、神の愛、人の愛を理解する心の耳を開き、また、神を賛美し、人をいたわることばを語る心の口を開いてくださることです。

イエスが生み出す救いは、何よりも「御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせる」(詩篇66:2)ことにあります。天国はそれが満ちている所です。

カナン人の女は、本来、希望がないと思えるところに希望を求め続け、その信仰を評価していただけました。罪とは、神と自分に絶望することです。神には自分を変えることなどできないと絶望することです。その点でカナン人の女は、当時の人々の期待の枠を超えたはるかに大きなことをイエスに期待できたことは本当にすばらしいことです。

一方、私たちは彼女の信仰のすばらしさを見て、かえって自分の不信仰に悩みますが、信仰は自分で生み出せるものではありません。それは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)とある通りです。

しかし、たといみことばを聞いたとしても、そこに聖霊が働かなければ私たちの心には落ちません。イエスが、耳の聞こえない人の耳にご自分の指を差し入れ、「エパタ」と言ってくださったように、聖霊が私たちの耳を開いてくださいます。

そして、耳が開かれると、口も自由にされます。そして、そこから愛の交わりが生まれます。そして、愛は、心と心のふれあい、ことばにならないことばを聞くことから始まります。