マルコ7章1〜23節「人から出て来るものが、人を汚す」

2011年11月20日

多くの宗教には何らかの戒律があります。イスラム教では豚肉を食べずお酒も飲みません。モルモン教徒はカフェイン飲料を飲みませんし、エホバの証人は輸血を拒否し、格闘技をしません。それは異教徒のとの区別を明らかにして、信仰共同体の一致を保つ上で大きな力となります。それに対して、正統的なキリスト教会ではあまり目に見える戒律や規則のようなものはありません。しかし、それでも、ときにこの世の常識との分離をどのように明確にするかということが課題になります。

しかし、そのような分離をルール化したとたん、多く場合、別の問題が生まれます。イエスに敵対したパリサイ派の名前の由来は、「分離された者」という意味です。そして、分離を強調すると、しばしば、イエスが非難した偽善の問題が前面に出てきてしまいます。それよりもイエスは、自分の内側から汚れが広がるということ言われました。罪の根本は、心の方向にあることを忘れてはなりません。

1.「堅く守るように伝えられた、しきたり」

「さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった」(7:1)とあるのは、パリサイ人たちの多くは宗教の中心都市であるエルサレムに住んでいましたが、イエスの人気が非常に高くなっているのを耳にして、それを調べるために、彼らが軽蔑していたガリラヤ地方にまで下って来たのだと思われます。

そこで彼らは、「イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て」、スキャンダルを発見したかのように驚きました。なお、「汚れた手」とは私たちが思うような意味での汚さではありません。「汚れ」のギリシャ語は、一般的には「普通の」(英語のcommon)と訳されることばで、宗教的な「きよめ」の儀式を経ていないという意味にすぎません。

それでマルコは異邦人のために「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある」(7:4)という解説を加えています。

なお、「よく洗う」の「よく」とは原文で「こぶしで」と記されており、特別な洗い方を示しています。それは、次のような方法だったと言われます。

「水はきよめられた石の器に入ったものを用います。一回に使う水の量は卵一個半程度です。まず指先を上にして手を差し出し、他の人に上から水を注いでもらい、そのしずくが手首から落ちるのを確かめます。それは、汚れた水が再び手を汚すことがないようにするためです。その後、一方の手を握ってこぶしにし、他方の開いた手とこすり合わせ、同じ動作を手を入れ替えて行い、最後に手の指を下に向けて水を注いでもらいます。」

たとえばレビ記には、「人が、何であろうと汚れたもの・・・に触れていながら、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる」(7:21)とか、「聖なるものと俗なるもの(common)・・汚れたものときよいものを区別する」(10:10)という教えが記されていましたが、当時のパリサイ人はみことばを正確に守ろうとするあまり、「俗」とか「汚れ」の意味を細かく規定したり、「きよめ」の手続きを明確にして、民を指導していました。それがハラカーという口伝律法としてまとめられていました。

それが垣根のように本来の律法を取り囲むことで、口伝律法の規定にさえ従っていたら、神の教えに反することにはならないという安心感を与えていました。日本でも葬儀の際の塩を初め、冠婚葬祭の際の様々なしきたりがあります。多くの人はそのような慣習が生まれた経緯を知らずに、形だけを整えようとする傾向がありますが、同じことが、聖書を信じる人の集まりでもなされることがあります。

フィリップ・ヤンシーというアメリカのクリスチャン・ジャーナリストは南部のバイブルカレッジでの1960年代後半の生活を次のように記しています。女子学生には厳格な服装の規定があり、スカート丈は膝下と決まっていました。ときに学部長の助手が違反者を探し回り、ものさしでスカート丈を測ることもありました。また、異性どうしは、手をつなぐこと、抱擁、キスやその他の肉体的接触は絶対に避けなければならないと、聖書の66巻をまねた66頁もある規則本には記されていました。下級生は週に二回だけデートが許されましたが、二回とも同じ相手ではいけないとか、ダブルデートでなければいけないとか、そのうち一度は日曜の夜に教会に行くことでなければならないとか、カフェテリヤで近づきすぎないようにとか、様々な規定がありました。

そして、禁止されたリストの中には、ダンス、トランプ、ビリヤード、映画、ボクシング、レスリング、そして、「バレエやダンス、みだらな歌が入ってるオペラや音楽プログラムの上演が禁止され、学生たちは自室でのみ、「キリスト教の証しと一致する」音楽をかけることが許されていました。もちろん、当時はやりのビートルズを聞いたり、彼らを称賛するような発言をしたら、仲間から信仰の道から堕落をした者として軽蔑されました。大学としては、学生たちをあらゆる性的な誘惑から守ろうとしたのだと思われますが、それがかえって聖書の教えの本質を見失わせることになったとヤンシーは振り返っています。

特に彼はC.S.ルイスというイギリスの作家を信仰の命綱として尊敬していましたが、大学の仲間たちは、「彼がパイプをふかしビールを飲むからという理由で、その著作に眉をひそめた」というのです。

本当に不思議なのですが、彼らの多くは聖書を真剣に読み、すべてを捨ててキリストに従うことに憧れていたのに、その行動や考え方は、イエスと激しい対立関係にあったパリサイ人と限りなく近くなって行ったのではないかと思われます。

ただし、パリサイ人たちは聖書の教えを日常生活に生かそうとする信仰熱心な人々で、社会では人々の尊敬を集めていました。彼らは模範的な市民でした。使徒パウロが最高の聖書教師でありながら、同時に、自分の生活費をテント作りをしながら稼いだという生き方は、パリサイ人として訓練を受けた成果です。

パウロはガマリエルという当時最高のパリサイ人から訓練を受けていたからこそ、キリストに出会った後に、様々な試練に耐えながら、キリストにある正しい聖書解釈を教え続け、また何にも代えがたい宝物の手紙を残すことができたのです。私たちは、この社会で模範的な生活ができる、そのためならば、もっとパリサイ人の生き方から学ぶべきかもしれません。

ところがここで、「パリサイ人と律法学者たち」は、イエスの教えや弟子たちを軽蔑し、真っ向からその疑問を、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか」(7:5)とぶつけました。そこにはイエスへの激しい敵意が込められていました。イエスは彼らが最も大切にしていた「昔の人たちの言い伝え」を否定しているように思えたからです。

たとえば、あなたの身近な人が冠婚葬祭に関わる様々な日本のしきたりをあなたに親切心から教えようとしているときに、あなたが、「私はクリスチャンですから、そのようにはできません・・」と答えたら、多くの人は怒りだし、キリスト教を日本の美しい伝統を壊す教えのように警戒することでしょう。パリサイ人たちは、それと同じような敵対心をイエスに対して抱いたのだと思われます。彼らにとっては、イエスは伝統的な聖書解釈を真っ向から否定する異端の教師と見えたことでしょう。

2.「自分たちの言い伝えを守るために・・神の戒めをないがしろにした」

それに対して、イエスは、「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです」(7:6)と、イザヤ29章13節のことばを、 「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」と引用しながら、「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」(7:8)と非難しました。

パリサイ人たちはもちろん、預言者イザヤの書を愛読していました。そして、イザヤがマナセという王に「のこ引き」の刑で殺されたという殉教の話をしながら、先祖のような過ちを犯すまいと心に決めていたことでしょう。

しかし、イエスによるとパリサイ人の心はイザヤをあざけった人々とまったく同じだというのです。イザヤの時代の人々は、それなりに礼拝儀式を守っていました。経済的な犠牲をともなったいけにえもささげていました。そして人々はエルサレム神殿を誇っていました。そのような中で、イザヤは、人々の信仰生活の場であるエルサレム神殿が破壊され、異教徒の王によって再建されるというようなことを言っていたのです。それは当時の信仰者たちには、神を冒涜するような教えにしか思えませんでした。

しかし、イザヤが何よりも指摘していたのは彼らの心の内側のことでした。なぜなら、イエスも言われたように、聖書の教えの中心は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)というふたつにまとめることができますが、これはすべて、神と人とに対する私たちの「心のあり方」に関わっていることです。

たとえば、日本では葬儀に関わる様々なしきたりがあります。しかし、その基本は、故人のことを思い起こすということにあります。ところがしばしば、形だけ整っているけれども、故人の思い出話しも、故人への感謝の思いも、何も聞くことが出来なかったという通夜や法事というのがあるのではないでしょうか。

これは、私たちの信仰にも起こり得ます。先ほどの米国南部のバイブルカレッジの規則を守っているような人々が、しばしば、自分たちの枠にはまらない人々を軽蔑していました。しかし、人を軽蔑することと、スカートたけの規則を破ることと、どちらが神の前に重い罪なのでしょう。

彼らの中には、南部の人種差別を正当化している人や当時のベトナム戦争を聖戦かのように言う人々が少なからずいました。人種差別に無抵抗で戦い、ベトナム戦争を非難したマルティン・ルーサー・キング牧師などは、自由主義神学に流れた共産主義者の手先と見られていました。しかし、今になって思うと、彼らが悪魔呼ばわりしていたビートルズの方がまともなことを言っていたとも言えるのではないでしょうか。

そのことを思いながらイエスは、「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです」(7:9)と言いながら、一例として、「モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです」(7:10-13)と言われました。

これはたとえば、ある人の年老いた親が、生活費の援助を求めてきたようなとき、「お父さん、残念ながら、このお金は神へのささげものとして聖別していますから、もう私の自由にはならないのです」と言ってしまうようなことを正当化していたことを非難したことばです。

理屈から言えば、神に対する約束は、親に対する約束にはるかにまさります。しかし、議論の焦点が、その二者択一に向かった時点で、基本が神の教えからずれているのです。心の動きから言うならば、神をあがめることと親を敬うことには何の矛盾がないばかりか、そのふたつは車の両輪のように進むものです。たとえば、未信者の親から偶像礼拝を強要されるようなことがあったとしても、親の命令を拒絶しながら、なおも親を尊敬し、親に尽くすということは可能なのです。

しばしば、規則やしきたりは、細かくなればなるほど、また丁寧になればなるほど、その本質を見失わせることになります。たとえば、アメリカでクリントンが大統領だった時、別荘のキャンプデービットなどにはいかがわしい雑誌が散乱し、スタッフの規律もゆるみ公私混同が多くなっていたと言われます。しかし、ブッシュが大統領になったとき、すべてが見違えるようにきれいになり、秩序が生まれたと言われます。彼はアルコール依存から立ち直ったいわゆる敬虔なクリスチャンでした。しかし、彼はしばしば、狭い正義感に駆られた怒りから、より大きな悲惨である戦争を引き起こしてしまったように思えます。キャンプデービットには秩序が回復されたけれども、西アジアには混乱をもたらしたのではないでしょうか。国際平和の観点から見る限り、不倫疑惑のクリントンと気まじめなブッシュと、どちらが良かったかは言いにくくなります。

3.「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません」

そのうえでイエスは再び群衆を呼び寄せて、「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」(7:14、15)と言われました。

ある人が、「クリスチャンは、酒は良いけど、タバコはだめなのですね。だって、酒は外から人に入るけど、タバコの煙は人から出てくるから・・・」と言いましたが、それは本質を見失わせる冗談です。

パリサイ人たちは、何よりも、この世の汚れから自分たちを分離することに心を配っていました。弟子たちは、イエスの話の意味がわかりませんでしたが、それに対しイエスは、「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです」と明快な説明をしました。実際、私たちの心も身体も、外から入って来る汚れには、驚くほどの抵抗力を持っているものです。

あるクリスチャンの外科医がまず、「イエスはここで解剖学の授業をしておられます。身体の内側と外側にはその境界線をまもる精巧な皮膚の細胞があって、外からの危険から身体を守っています。私は素手でどぶさらいをしたり、トイレに手をつっこんで栓を開けることさえできます。皮膚細胞は、バクテリヤが私の身体に侵入しないように、しっかりと守ってくれます。イエスの言われたことを強調すると、上皮細胞がすべての消化管の内側を覆い、不活性物質を飲み込んでもーたとえば泥棒がダイヤを飲み込んでも、ドラッグの密輸業者がビニールの包みを飲み込んでもーその物質は決して身体に侵入しないし、外に排出される前に、上皮細胞の障壁を突き抜けることもありません」と説明しました。

そして、ここでは不思議な解説が、「イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた」(7:19)と記されています。マルコの福音書は異邦人に向けて記されています。そして、その時代のホットな課題は、聖書を信じるようになった異邦人は、レビ記で「汚れている」と規定されている食べ物を食べてよいのか悪いのかという問題でした。

カトリック教会では聖典に準じる文書として聖書に挿入されているマカベア記第二の7章では、紀元前二世紀にギリシャの王アンティオコス・エピファネスから豚肉を食べることを強要されたひとりの母と七人の息子の殉教の記事が記されています。彼らは手足を切断され、舌を切られても、豚肉を口にしませんでした。母はすべての息子たちに、神の教えに背いて豚肉を食べるよりも、潔く死ぬことを勧めたということが英雄談として記されていました。

それに対して、ここではイエスが、豚肉もえびやたこも、「きよい」と見られたこととして適用することが出来ます。では、レビ記の記述は無意味になったのでしょうか。そうではなく、レビ記は人々をキリストのもとに導く養育係であったのです。

ユダヤ人が命をかけて神の民としてのアイデンティティーを守ったからこそ、イエスはユダヤ人の王として来ることが出来ました。キリストの教会はあくまでもユダヤ人の共同体の上に建てられているのです。彼らが豚もえびもたこも食べなかったおかげで、彼らはまわりの偶像礼拝の国々から区別されてくることができたのです。

4.「悪はみな、内側から出て、人を汚す」

その上で、イエスは、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」と言われました(7:18-23)。

ここでは「人の心から悪い考えが出てくる」と述べた後で、その具体的な現われとして12の罪が記されていると解釈できます。「殺人」にしても「姦淫」にしても、まず心の内側で恨みや欲情がマグマのようにたまってしまったことの結果が行動に現れたものです。心が神への愛と人への愛から離れて行った結果として、目に見える様々な罪が現れるのです。

残念ながら、パリサイ人は人々から尊敬される人になることで社会を変えようと自分を厳しく律しようと思うあまり、神のあわれみが見えなくなっていました。彼らは礼儀に反することや無駄話はしませんでしたが、神のあわれみに感動したり、罪の赦しの恵みに涙を流すこともありませんでした。外側を整えることよりも、内側が神と人との愛を受けて守られることの方がはるかに大切なのです。

フィリップ・ヤンシーは自分の学生時代を振り返りながら、祈りは特権であるよりも責任と思え、聖書を読むことはいのちの源であるよりも義務になっていたと反省しています。そして、彼の多くの友人たちが、卒業して規則の枠がなくなったとたん、堕落していったのに心を痛めていました。

私たちには確かに守るべき境界線があります。境界線が破られるとすべてが汚される恐れがあります。そのことを先の外科医は次のように続けています。

「しかし、皮膚の障壁が切られて、内側の傷つきやすい部分が外界からの危険にさらされると、極めて重大な危機にさらされます。外科医は手術する前に出来る限り強力な消毒薬で手を洗いますが、それでも患者は深刻な伝染病にかかる可能性があります。私は手をごしごし洗ったあとで、患者の準備が整うまで、指先と指先をつけて両手を合わせています。部屋の中のバイ菌を隠し持っているかもしれないもの一切に触れないためです」と説明しながら、この両手を合わせた姿を、祈りの手として描きます。

ところで、私たちは自分で自分のこころをきよくできるでしょうか。パリサイ人は外側の汚れから身を守ることで内側をきよくできると考えましたが、実際には、まったく逆のことになりました。彼らの心は規則を守る自分への誇りと、規則を守ることが出来ない人々への軽蔑で満ちました。

そればかりか彼らには、神のあわれみが感じられなくなっていました。私たちに何よりも大切なのは、自分の内側にある汚れをすなおに認めて、祈りのうちにそれを神の身前に差し出すことです。そのとき創造主である聖霊ご自身が私たちを内側からきよくして行ってくださいます。

それはたとえば、目の毒になるものから目をそむけようと注意深くなることよりも、心がイエスの愛のまなざしにとらえられ、イエスのみことばによって養われることを目指すことです。汚れから身を避けることよりも、自分の心に響いてきたみことばを思いめぐらし、心が神と人への愛で満たされる方向を目指すことです。

私たちは、外の世界から自分を守ろうとすることよりも、内的な生活を豊かに育むことにエネルギーを注ぐべきなのです。それは自分の汚れを聖霊のみわざに明け渡すことから始まります。聖霊こそが私たちの内側を守ってくださる創造主なのですから。

主は、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(レビ19:2、Ⅰペテロ1:16)と言われました。聖ということばは、「汚れ」とも訳された「普通」Commonに対比させられる概念です。

つまり、クリスチャンは、「普通であってはいけない」のです。それは確かに、普通の人と違った手の洗い方をするとか、普通の人と違った音楽を聴くとかという分離で表現されることもありますが、イエスは何よりも、心のあり方や方向を問われました。

それは、神と人との間の愛の交わりです。私たちが聖なる者になるとは、この世の基準を超えた神の基準で生きるということを意味します。聖とは神の領域であり、私たちはその聖なる交わりの中に入れられました。ですから大切なのは、この世との分離を目指すこと以上に、神と教会との交わりを深めることです。そこに聖霊様の働きが現れます。

神があなたの人生に現れてくださったその原点を大切にすること、あなたが人の優しさに支えられたその原点を大切にすること、それこそが交わりを深める原点になります。普通とは違った形で、神を愛し、人を愛する、それこそが聖なるものとされるという意味です。聖における、分離から交わりへの転換を私たちは考えるべきでしょう。