今、中国では、女川町の佐藤充さんという名が有名になっています。5月21日に来日する温家宝首相も同地に佐藤さんのご家族を訪ねたいと願っているとのことです。佐藤充さんは佐藤水産という会社の専務で、あの大地震のときご自分の家族の心配を後に回して20人の中国人研修生を高台に避難させた直後に、津波に流され命を落とされました。そして、その兄の佐藤仁社長もご家族の世話を後にして、雪の中、この20人の方の宿泊場所を探してくださったとのことです。
後に中国大連の研修生派遣会社の幹部が佐藤社長をお礼に訪ねたとき、彼は、「弟は日本人として当たり前のことをしただけです」と答えたとのことです。たぶん、これは、普段の当たり前の生活の中から生まれたとっさの判断だったのでしょう。私たちの目は、多くの人を感動させるような行動に目が向きますが、実は、それは日々の生活の積み重ねの中から生まれるものです。私たちも何かの働きができたとき、「クリスチャンとして当たり前のことをしただけです……」と自然に言えるべきでしょう。
本日の箇所には、ダニエルは、「いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」と記されています。彼は、自分にとって当たり前の日常生活を大切にしていました。しかし、その当たり前の行動が、世界の歴史を変えることになるのです。
1.「ベルシャツァル王はひどくおびえて、顔色が変わり……」
エルサレムを滅ぼしたバビロンの王ネブカデネザルは、イスラエルの神ヤハウェの前に謙遜にさせられましたが、その子のベルシャツァルは傲慢にも、「千人の貴人たちのために大宴会を催し」たとき、「エルサレムの宮から取って来た金、銀の器」を持って来させて、「王とその貴人たち、および王の妻とそばめたちが……その器で……ぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美」するようなことをしました (5:1-4)。
ユダヤの伝承によると、このときベルシャツァルは、「エルサレムは七十年間バビロンに仕えるが、その終わりにバビロンは滅びる」という趣旨のエレミヤの預言 (25:11、12)が実現しなかったと言いながらエルサレムの神を嘲ったとのことです。
しかし、そのとき、「突然、人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた」いうのです。それを見たとき、「王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震え」ました (5:5、6)。
「王は、大声で叫び、呪文師、カルデヤ人、星占いたちを連れて来させ」、「この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう」と言いましたが、そこに集められた「王の知者たち」はだれも、「その文字を読むことも、王にその解き明かしを告げることもできなかった」というのです (5:7、8)。
なおここで「第三の権力」とあるのは、当時のバビロン帝国では、ベルシャツァルは正式な王である父ナボニドスを補佐する副王の立場であったからだと思われます。
とにかく、「それで、ベルシャツァル王はひどくおびえて、顔色が変わり、貴人たちも途方にくれ」ましたが (5:9)、その様子を聞いた「王母」は、「おびえてはいけません。顔色を変えてはいけません」と、王の気弱な反応をたしなめます。
その上で、彼女は、「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます」と、王に希望を沸き立たせるようにして、ネブカデネザル王の時代に、「王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあること」が明らかにされたと紹介し、ダニエルを呼んでその不思議な文字の「解き明かし」をさせるようにと王に助言します (5:10-12)。
それで、王はダニエルを連れて来させながら、「あなたは、私の父である王がユダから連れて来たユダからの捕虜のひとり、あのダニエルか」(5:13) と尋ねます。ここでは、厳密には、「あなたはダニエルか、ユダからの捕虜のひとりの……」ということばから始まっています。
王がダニエルの本名を呼び、彼が自分の意思に反してバビロンにいることに同情するかのような言い方をしながら、その上で、「今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう」(5:16) と言います。
ベルシャツァルは、ダニエルへのよびかけにも、王としての冷静さよりも、彼の気を引こうとするかのような魂胆が見えています。彼には真の意味での威厳がありません。ネブカデネザルの場合は、夢の解き明かしを命じる際に、「夢を解きたくて私の心は騒いでいる」(2:3) とか、「私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた」(4:5) と理由を明確に語っていますが、この王は強がっているだけで、エルサレム神殿の宝物の器を用いてぶどう酒を飲んで権力を誇示したり、また、不可解な事象を見るとおびえまくって、法外な報酬で家来を動かそうとするばかりなのです。
彼のように自分のない人間は、状況が変わると、自分の権威を誇るためには、人を人とも思わない態度を取ってしまうことになります。王としての政治理念を持ちもせずに、権力を誇示するような王は、国を破滅に導きます。
イエスの少し後の時代の歴史家 ヨセフス は、このときバビロンは、すでにペルシャ王クロスとメディア王ダリヨスの連合軍に包囲されていたとのことです。
ベルシャツァルは、この国家の危機のときに、途方もない大宴会を開き、自分の権力を誇示しながらも、国力を回復させるためのビジョンを求めようともしていなかったのです。
2.「あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした」
しかし、ダニエルは、「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください」と、王の態度をたしなめながらも、「しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう」と言います(5:17)。
そして、過去を振り返りつつ、「王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました」(5:18) と言いつつ、バビロン帝国を繁栄させたのは、ネブカデネザルの功績以前に、「いと高き神」の恵みであると説きました。しかし、ネブカデネザルは自分を神のようにしました。その様子が、「彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました」と描かれます (5:19)。それに対し、「彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまった」のを見た神は、彼を「その王座から退け」「栄光を奪い」ました。それによって彼は、「人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました」というのです (5:20、21)。
その上で、ダニエルは、王の傲慢な態度を真っ向から叱責するように、「その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器を……持って来させて……あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした」と言い (5:22、23)、その王の傲慢に対するさばきとして、「神の前から手の先が送られて、この文字が書かれた」と説明します (5:24)。
そして、書かれた文字を、ダニエルは、「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」と読みながら、「メネ」とは、「神があなたの治世を数えて終わらせられた」という意味、また、「テケル」とは、「あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかった」、「パルシン」とは、「あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる」という意味であると解き明かしました (5:28)。
そのような忠告を聞きながら、ベルシャツァルが悔い改めたという様子が描かれる代わりに、彼が、「ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を彼の首にかけさせ、彼はこの国の第三の権力者であると布告した」ということばかりが描かれます (5:29)。これは、この王が、この不思議な現象が解釈されたこと事態に満足し、そのメッセージの意味を自分のこととして真剣に受け止めなかったということを示しています。
彼は最後の悔い改めの機会を逸してしまいました。そして、その後のことが、あまりにもあっさりと、「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ」(5:30、31) と描かれます。
この「メディヤ人ダリヨス」については、歴史の教科書にはどこにも載っていません。どの教科書でも、バビロンを滅ぼしたのは、ペルシャの王「クロス」であると記されています。しかし、この頃、メディアとペルシャはひとつの王国のように機能していたとも解釈されます。たぶん、このメディヤ人ダリヨスが高齢でバビロンを滅ぼした後、彼はまもなく死に、クロスがダリヨスの支配地も治めるようになったということではないでしょうか。
なお、預言者イザヤはこのはるか前の時代に、バビロンの滅亡に関して、「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか」と問いかけながら、それは、「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ……いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(14:12-15) と告げていました。これは、サタンと同じように、自分を神とする者に対する神のさばきです。
3.「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように」
6章は、ダリヨスによる領地支配のシステムの描写から始まります。そこでダニエルは、ダリヨス王によって、「全国に任地を持つ百二十人の太守」の上に立つ「三人の大臣」のひとりとして重用されたと記されます (6:1、2)。
そればかりか、「ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った」(6:3) と、ダニエルが総理大臣の地位に引き上げられようとしていた様子までが描かれます。
しかし、ダニエルはあくまでもユダヤからの捕虜に過ぎません。
メディヤ人の「大臣や太守たち」が彼にねたみを覚えたのは当然です。しかし、彼らは、「国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである」というのです (6:4)。
ダニエルは、遠い異国の地で、「何で俺はこんな異教徒の国の繁栄のために尽くさなければならないのか……」などとぼやくことなく、与えられた仕事を忠実に果たしていました。ダニエルは異教徒の上司に仕える多くの日本人にとっての良き模範でもあります。
そこでこの人たちは、「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない」と言います (6:5)。つまり、ダニエルの信仰と王の命令が相容れなくなるような状況を意図的に作り出そうと画策したのです。
それで、「この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来て」、「ダリヨス王。永遠に生きられますように」と、王に取り入りつつ、王の権威がますますあがめられる最良の方策を話し合ったかのように、「国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください」(6:6-8) と言いました。
「そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名」しましたが、ダニエルはそれを知りながら自分の家に帰り、いつもと同じように神に向かって礼拝をささげました。その様子が、「彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた」とその部屋の状況が描かれながら、「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」と、礼拝の様子が記されます (6:9、10)。
これはまさに、彼らの思う壺でした。彼らは王に向かって先に出された禁令が確かなものであるかを尋ねますが、王は、「取り消しのできないメディヤとペルシャの法律のように、そのことは確かである」と答えます (6:11、12)。
そこで、彼らは王に、「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています」(6:13) と訴えます。
「このことを聞いて、王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努め」ますが、ダニエルを訴えた者たちは、「王よ。王が制定したどんな禁令も法令も、決して変更されることはない、ということが、メディヤやペルシヤの法律であることをご承知ください」と、王に文字通りの刑の執行を迫ります (6:14、15)。
そして、「王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれ」ますが、その際、「王はダニエルに話しかけて」、「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように」と心を痛めながら語りかけます」(6:16)。これは、異教徒の王が、ダニエルのために、彼の神に向かって祈ったことばと言えましょう。
これほどの皮肉がありましょうか。「ダリヨス王にはすべての願いをかなえる力がある」という権威を表すための勅令を出したせいで、王は自分の願いに反する命令を発せざるを得なくなり、今やダニエルの神に祈るしか手立てが残されていません。
4.「彼が神に信頼していたからである」
とにかく、王の心の願いもむなしく、「一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴人たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないように」せざるを得ませんでした (6:17)。その後、ダニエルのことで無力に悩むしかできない王の姿が、「王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった」と描かれます (6:18)。
そして、「王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行」きますが、「その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ」、「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか」と尋ねます (6:19、20)。
すると、なんと獅子の穴の中からダニエルが、「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません」と答えたというのです (6:21、22)。そこで「王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じ」ます。
そして、「ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった」と、驚くべき奇跡が描かれます。その上で、これが起こった理由が、「彼が神に信頼していたからである」(6:23) と記されます。ダニエルが神に信頼していたという事実は、自分の命を危険にさらすという行動に現されていました。彼は、王命をものともせずに、日に三度、エルサレムに向かってひざまずき、神に祈っていたのですから。
預言者イザヤも、かつて、絶望的な状況の中でなお聞こえる神のことばを、「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える……これを信じる者は、あわてることがない」と記していました (イザヤ28:16)。
そして、後にパウロもペテロもこの箇所を引用しながら、人々に捨てられ、十字架につけられたイエスに信頼し続ける恵みを、「彼に信頼する者は、失望させられる(恥を見る)ことがない」と繰り返し約束しています (ローマ9:33,10:11、Ⅰペテロ2:6)。
私たちの救い主は、当時の人々の期待を裏切り、十字架にかけられましたが、三日目に死人の中からよみがえりました。ですから、イエスに従う者が、一時的に苦しみの道を通らなければならないということは、想定外なことではなく、まさに想定通りのことです。
「神に信頼したのに、何でこんな目に会わなければならないのですか……」とつぶやきたくなるような事態も歩みの一部です。ダニエルが獅子の穴から救い出されたことは、私たちの最終的な復活の希望を示すものです。私たちは、死人に新しい命を与えることができる全能の神を信頼しているのです。
そしてその後の逆転が、「王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった」(6:24) と描かれます。王は、前の命令に矛盾しない新しい命令を出したのです。
その上で、ダリヨス王は、「全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに」向けて、「私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行い、獅子の力からダニエルを救い出された」と書き送ります (6:25-27)。
これは、かつてエルサレムを滅ぼしたバビロンの王ネブカデネザルの言葉とほとんど同じ内容です。つまり、イスラエルの神は、イスラエルを滅ぼし、支配する国々の王に対して、ご自身こそが全世界の王であることを、ダニエルとその友人を通して証し続け、バビロンもメディヤもペルシャも、神のみ許しの中でしか立ち得ない一時的な帝国であることを繰り返し語り続けていたのです。
そして、最後に、「このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた」(6:28) と記されます。地上の王国が、バビロン、メディア、ペルシャと変わってゆく中で、「ユダからの捕虜のひとりダニエル」がそれぞれの国で豊かに用いられ、栄え続けることができたということは、途方もない不思議です。
なお、ダリヨスの後を継いだペルシャの王クロスは、ユダヤ人のエルサレムへの帰還を許したばかりか、エルサレム神殿の再建を全面的に援助するようになりました。その際、ネブカデネザルが神殿の宝物倉から持ってきた宝物のすべてを、エルサレムに返すように取り計らいました。このクロスの親エルサレム政策の背後に、ダニエルの影響力が見られます。
なお、ダニエルが、エルサレムに向かって日に三度ひざまずいていたとき、エルサレム神殿はすでに廃墟とされていました。彼はそれを知りながら、なお、エルサレム神殿が建てられたときの神の約束に信頼し続けていたのです。
ソロモンはエルサレム神殿を奉献する際の祈りで、神の怒りを買って捕囚とされた民が、「捕らわれていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り……この宮のほうに向いて、あなたに祈るなら……彼らをあわれむようにしてしてください」(Ⅰ列8:48-50) と願いましたが、神はその願いを聞き入れると約束してくださいました (同9:3)。
ダニエルはこの捕囚の地で人のねたみを買うほどの権力を手にしても、それに溺れてユダの捕囚の民としての自覚を失うことなく、イスラエルの復興を願いながら、ソロモンの祈りのことばの通りに行動し、結果的にクロスの心までをも動かすようになります。彼は異教徒の国に忠実に仕えながらも、心はエルサレムにありました。
私たちの心も天の「新しいエルサレム」に向けられるべきです。「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20) と告白しながら、この世の栄華や権力溺れることなく、「地上では旅人であり寄留者」(ヘブル11:13) として生きるように召されています。ただ、ダニエルと同じように、神を礼拝しながら、この世の職務には忠実でなければなりません。
神を知らない人でも、使命のためにいのちを捨てることができます。ましてキリストの復活を信じ祝っている私たちがいのちがけで使命を果たせないことがありましょうか。
ただし、使命ということばは、実は、きわめて日常的な言葉であるべきです。ごく普通の毎日を過ごすことのなかに、ふと、神を知らない人との違いが、ごく自然に現れてくるというのが健全な信仰です。
私たちは生活者の非日常的な出来事に心を動かされますが、何よりも大切なのは、毎日の当たり前の生活です。「生活者の視点」からキリストの福音を見直す必要があるのではないでしょうか。