イザヤ57章13節〜59章4節「こころを神に開く」

2010年11月7日

ある教会の青年が、「教会で出会う人たちは、みんな神を身近に感じているように見えるけど・・」と自分の不信仰を恥じていました。私は、とっさに、「みんな、信仰生活が長くなるにつれ、クリスチャンらしい言葉使いや、振舞い方が身についてきているだけで、心の内側はあまり変わっていないと思うよ・・・」と言ってしまいました。すると彼は、「あっ、そうなんだ・・」と笑っていました。ただ、私は同時に、「不信仰だからこそ、教会に来て、みことばを読みます。その習慣化も大切です」とも付け加えましたが・・・。

実は、信じたばかりのときの方が、信仰が純粋かもしれません。そのとき、本当に素直に自分の罪と無力さを認め、ただ神の前に自分のこころを開こうとしていたのではないでしょうか。しかし、人は、信仰生活が長くなるにつれ、信仰をはかるようになりがちです。

すると、神がまず私たちを愛してくださったという「初めの愛」を忘れて、神への愛をアピールし始めるということになります。しかし、ことばと行いで、敬虔なクリスチャンのふりをするのがうまくなればなるほど、心は神から離れてしまいます。しかし、そんな自分を神の目から隠そうとしてはいけません。罪の始まりとは、神から自分を隠すことにあったからです。信仰の成長の鍵は、自分の偽善性を認めることにあるのではないでしょうか。

1.「悪者どもは・・・静まることができず・・・平和がない」

57章3節から13節には、カナンの偶像礼拝の様々なみだらな習慣に惑わされる人の姿が描かれています。そのような者たちに対する主のさばきは避けがたいものになりますが、主はここで、それ以前に、「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」(13節)という希望を語ります。

その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「高く聖なる所にわたしは住む。砕かれ、へりくだった霊とともに。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(15節)と語られます。

私たちは、自分の無力さ、心の醜さに深い悲しみを覚えることがありますが、そのようなとき、イエスは、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)と慰めてくださいます。

人の目には低いところに「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエス・キリストにおいて明らかにされました。

しかも、主は「なぜなら、いつまでもわたしは争わず、いつも怒ってはいないから。それは、霊がわたしの前で衰え果てるから。わたしの造ったいのちの息が」(16節)と言われます。これは子供を叱責する親の気持ちに似ています。子供が心の底から反省できるように、厳しくその問題を指摘したいと思うのですが、生きる気力をなくするほどに追い詰めてしまっては本末転倒になります。

その神ご自身の葛藤が再び、「むさぼりの咎のためにわたしは怒った。わたしは顔を隠して彼を打ち、怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。その道をわたしは見たが、彼をいやそう」(17、18節)と言われます。

ここでは不思議にも、「むさぼりの咎」のために主の怒りを受けながらも、自分の道を改めようとしない頑なな者をさえ、主が癒してくださると約束されています。

ところで、主はどのようにして私たちを癒してくださるというのでしょう。そのことが原文で難解な次の文章に記されているのだと思われます。ここは、「彼を導き、彼と悲しむ者たちに慰めを回復させよう、くちびるの実を創造しながら」と訳すことができます。

多くの信仰者は、深い悲しみに沈むようなときに、何よりも「くちびるの実」である賛美の歌によって慰めを受けています。霊的な名曲は多くの場合、絶望的な状況の中で、神からの不思議な啓示のように、一瞬のうちに生まれています。それはまさに神の創造のわざです。

そして、それがまた、他の人の心の琴線に触れ、信仰にある慰めを回復させてくれます。私たちは信仰を回復した結果として、「くちびるの実」としての賛美をささげることができるのではなく、神によって創造された賛美の歌が、私たちの信仰を回復させてくれるのです。

私たちの神への賛美は、神ご自身によって生み出されるものです(詩篇22:25)。

その上で主は、「平和が、平和があるように、遠くの者にも近くの者にも。わたしは彼をいやそう」(20節)と仰せられます。これは、「砕かれ、へりくだった霊」への語りかけです。それと正反対なのが「悪者ども」です。新共同訳はこのことばを一様に、「神に逆らう者」と、その意味を分かりやすく訳しています。それはこの世的には有能な善人と見られるかもしれません。

しかし、彼らは自分の力で生きようとして神を求めないという意味で、「悪者ども」と呼ばれるのです。つまり、聖書によると、「私は神の助けがないと生きてゆけない・・・」と思う人が「善人」で、「神に祈らなくても、どうにかやって行ける・・・」と思う人こそが「悪者」なのです。

私は自分を振り返ってみると、神に立ち返った後でも、悪者の心の状態であったことが多かったと思います。ドイツにいたときなどは、気分が沈んでくると、愛車BMWのカーステレオのボリュームを最大にしてビートルズを聞き、制限時速のないアウトバーンを時速180キロで車を走らせ、トヨタやVW車を追い抜いて良い気分になっていました。

神学校で学ぶようになっても、神学議論で仲間を圧倒することで心の平衡を保とうとしていた面があります。

そんな私にとって何よりも苦手だったことが「静まる」ということでしたが、あるとき、「悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平和がない』と私の神は仰せられる」というみことばが心に迫ってきました(21節)。

当時の私は、静まろうとすると、心の奥底に押し込めようとしていた不安や孤独、怒りやねたみなどのマイナスの感情が沸きあがって来るばかりでした。

その頃の私は、「この世で成功することがクリスチャンとしての証になる・・」などと強がり、自分が善意で行動しながら人を傷つけてしまうような者であるということが分かっていませんでした。

ところが、自分の中には神に喜ばれる信仰すらもないということが思い知らされ、静まることができない自分を、イエスにあって受け入れることができたとき、静まることが苦痛ではなくなりました。

神の目からは、自分の気持ちに蓋をしていることができるようなこの世の善人こそが「悪者」なのです。その隠された正体は、静まろうとするときに明らかになります。

では、私たちはどのようにしたら静まることができるのでしょう。それは、たとえば、「主よ、私は静まることができません!」と言うことから始まるかもしれません。また、「主よ、私は、このことが気になってたまりません・・」「主よ、私の心にはこんな醜い思いが湧き上がっています・・」と、湧き上がるすべての思いを正直に打ち明ければ良いのです。

「悪者」とは、自分で自分の問題に整理をつけようとする人のことであり、「正しい者」とは、自分のすべての問題を主に祈ってゆく人のことです。

多くのまじめな信仰者は、どのようにしたら自分の祈りの時間を増やすことができるかと悩みますが、解決は簡単です。いろんなことを迷ったり悩んだりするたびに、その頭に、「主よ、どうしましょう・・・」とくっつければよいのです。そうすると、すべての悩みの時間が祈りの時間になります。

そして、そのようにして自分の心の内側にあるすべての醜い思い、抑圧された不安などを、ひとつひとつ主に明け渡して行くとき、結果として、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:7)という不思議を体験できるのです。

2. 「わたしの好む断食はこれではないか・・・」

58章初めでは、「せいいっぱい大声で叫べ・・わたしの民にそのそむきを、ヤコブの家にその罪を告げよ」と述べられた直後に、「ところが、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行なっている国であるかのように、神の公正を捨てたことのないかのように」(2節)と言われますが、そこには皮肉が込められています。

なぜなら、彼らは自分たちの偽善を認めずに、「なぜ、私たちが断食したのに、ご覧にならなず、身を戒めたのに、認めてくださらないのですか」(3節)と、自分たちの正当性を神に訴えているからです。

それに対して主は、「見よ。断食の日にお前の好むことをし、お前たちの労働者をみな、圧迫している。見よ。争いとけんかのために断食をしている、不法にこぶしを打ち付けるために」とその偽善を責めています。

その上で、彼らの断食をあざ笑うように、「お前たちは今、その声がいと高きところに届くような断食はしていない」と指摘しながら、彼らの断食が心の伴わない外見を整えるだけの空しい儀式になっている様子を描いています。

これは、まさにイエスの時代のパリサイ人の姿そのものです。彼らは、主を全身全霊で愛しているように見せかけていますが、それは主に対して自分の敬虔さをアピールする手段にしかなっていませんでした。

そればかりか、身近な人の苦しみを見て、「あれは自業自得だ・・神にのろわれているのだ・・」と軽蔑していました。

そのような偽善に対し、主は、「わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親から身を隠さないことではないか」(6、7節)と仰せられます。

しかし、主のあわれみを知ることこそが、主を愛することの核心ですから、主を愛することと隣人を愛することは、本来必ず並行して進むはずなのです。

実際、イエスは、何度にもわたってイザヤとほぼ同じ時代に記されたホセア6章6節を引用しながら、パリサイ人に向かって、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んできなさい」と、神のあわれみを知ることこそが信仰の核心であると、彼らの聖書解釈を正されました(マタイ9:13等)。

そして、隣人愛の伴った礼拝をするときの希望が、「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの健やかさがすみやかに現れる。あなたの義があなたの前を進み、主(ヤハウェ)の栄光が、あなたのしんがりとなられる」と記されます(8節)。神に属するはずの「光」「健やかさ」「義」のすべてが私たち自身のものであるかのようにされるというのです。

かつて、「主(ヤハウェ)があなたがたの前を進み」と言われたことばが、「あなたの義」となり、「イスラエルの神が・・しんがりとなる」が、「主(ヤハウェ)の栄光」と言い換えられています(52:12参照)。

つまり、そのとき私たちは自分の良心に恥じないことを堂々と行い前進しながら、私たちの後には、自分の栄光ではなく、「主(ヤハウェ)の栄光」が見られているという真の証しの生活ができ、福音が広まってゆくのです。

しかも、「そのとき、あなたが呼ぶと主(ヤハウェ)は答え、叫ぶと、『わたしはここにいる』と仰せられる」という主との親密な交わりが回復されます(9節)。

また、それに続いて、6節以降のことが言い換えられながら、繰り返され、「もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、偽りのことばを除くなら、また、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる」と美しく描かれます(9、10節)。

しかも、「真昼のようになる」ことが、灼熱の太陽をイメージさせることがないように、「主(ヤハウェ)は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、たましいを満たし、骨を強くしてくださる。あなたは、潤された園のように、水の枯れない水の源のようになる」とも言われます(11節)。

「たましいを満たし」とは、どのような厳しい状況に置かれていても、神ご自身がたましいの奥底に喜びと潤いを与えてくださることを意味します。

イエスはサマリヤのスカルの井戸で、孤独なひとりの女性に、「この水を飲む者は、だれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13,14)と言われました。

私たちはいつでもどこでもイエスの御名を呼ぶときにいのちの喜びを体験することができます。いのちのみなもとである聖霊ご自身が宿っているからです。

3.「そのとき、あなたは主(ヤハウェ)を喜びとしよう」

そして、最後に、主は安息日律法を回復するようにと勧め、「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『はえある日』と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことをせず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主(ヤハウェ)を喜びとしよう。『わたしは地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地で養う』と主(ヤハウェ)の御口が語られたからである」と述べられます(13,14節)。

これは、安息日を守ることによって、ダビデ王国が回復されると解釈できます。このみことばをもとに、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、安息日を守ることに必至になり、たとえば、敵の攻撃を受けるような中でも礼拝をし続けて剣で殺されたということが美談になるほどでした。そのような中で、安息日に歩いて良い距離を規定するなどという規定を数多く作るようになりました。

しかし、そのような表面的な熱心さを求める中で、先の断食の場合と同じように、貧しい人々がかえって苦しむということが起こっていました。しかし、このイザヤの記述では、「喜びの日」「はえある日」という祝祭の面が強調されています。

イエスが安息日に敢えて人々を癒されたのは、そのような安息日の喜びを回復するためでした。ところが、当時のパリサイ人たちは、ローマ帝国の支配という現実を憎みながら、ダビデ王国の復興を夢見ていました。

しかし、安息日は、神が既に創造してくださった世界を「喜ぶ」ことを何よりも大切にしながら、同時に、様々な世界の悲惨にしっかり目を向けて「心の中でうめきながら」(ローマ8:23)、世界のために祈る日です。

本来の安息日には、喜びと悲しみが同居しています。喜びの反対は、悲しみや「うめき」ではなく、無感動ではないでしょうか。パリサイ人は、生まれつきの盲人の目が開かれたときにも、感動する代わりに、イエスが安息日に医療行為という労働をしたと責め立てました。

私たちに求められているのは、目の前の現実に不満を抱きながら、「自分でどうにかしなければ・・・」と動き出す前に、すべての問題を神に祈って委ね、同時に、神が「わたしは新しい天と新しい地を創造する」という約束に思いを向けることです。

そして、それが既に実現したかのように、「だから、わたしの創造するものをいついつまでも楽しみ喜べ」ということを、「今ここで」実践します(65:17、18)。安息日にすべての労働から身を引く必要があるのは、神の恵みを思い起こし、神のみわざに心を開くためです。

そして、このようにすることが、他の六日間の仕事をより充実したものにすることにもつながります。私たちが日々の仕事を、創造主であられる神からの課題として受け止めることこそが、信仰の核心であるからです。

59章の初めでは、「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が重くて、聞こえないのではない。それは、あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、その罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」と、「救い」が何よりも、「咎」と「罪」の問題が解決され、神との交わりが回復されることにかかっていると説明されます。

絶望的な状況になったとき目の前の問題を解決することばかりに夢中になることがありますが、何よりも大切なのは、すべてを支配しておられる創造主との関係をきよく保つことにあります。それは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)とある通りです。

神にとって不可能なことはありません。問われているのは、その方が味方になっておられるかという、神との関係です。そして、イエス・キリストが十字架で成し遂げてくださった神との和解こそ、この問いに対する答えでした。

その上で、3、4節ではイスラエルの民の罪の現実が生々しく描かれています。特に、「義をもって訴える者はなく、真実をもって弁護する者もいない」とは、人々が自分の身を守ることばかりに夢中になり、人の権利が踏みにじられているのを見過ごすようになっている現代の日本にそのまま適用でします。

積極的に人を傷つけはしない人でも、この点では自分の正義を主張できなくなる人が多いのではないでしょうか。

ところで、58章2-4節では、イスラエルの民が、自分たちが正しいことをしていると思いながら、実は、神の怒りを買うようなことをしていたということが記されていましたが、ここで問われているのは、そのような偽善をすなおに認め、神の前に自分たちの罪を告白することです。

自分の正義を主張し、それに頼るということこそが、ここで記される、「不毛なことに頼り、むなしいことを語り、害毒をはらみ、不義を産む」(4節)ということの本質です。

人は、自分を正当化するための議論ならいくらでも出てきます。しかし、それは所詮、それは「不毛」で「むなしい」ことであり、その結果、人は心の奥底に「害毒をはらみ」、目に見える「不義」を産むということになるのです。大切なのは、何よりも、神の前で自分の心を開いてゆくというプロセスではないでしょうか。

最初の人間アダムは、明白に神に背きながら、自分の罪を認めることができませんでした。イエスの時代のパリサイ人も、自分を正当化することに長けているばかりでした。主の御手を妨げる最大の罪とは、自己義認です。自分の罪と咎と偽善、醜い思いのすべてを認めることができないことこそが、最大の救いの障害になるのです。

創造主の前に心と思いを開くとは、秋のやさしい光のもとでの日光浴のようなものです。私たちは自分の心の傷も、神に対する疑いも、罪責感も、恥の思いも、すべて神の愛の光のもとに開いてゆきます。そこで、イエスの十字架に思いを向けると、このままの私たちに神が大きな口付けをしてくださっているのがわかります。

信仰の核心とは、問題を抱えたままのこの私が神の愛の光にとらえられていることを覚えることです。そして、その神の愛のまなざしをもって、自分の隣人を見るようになることです。そこから真の隣人愛が生まれます。