2010年10月31日
多くの人は、「死ぬ」ことを、意識が麻痺できることと捉え、それほど恐れてはいません。それどころか、激しい不安と恐れを抱いている人は、自分の意識を無くするために、死ぬことを自分から願ったりさえします。
しかし、それこそ、サタンの策略です。誰も、死んだ後のたましいの状態を見た人はいないからです。神から与えられたかけがえのない「いのち」を意図的に粗末に扱った人は、神の厳しいさばきを受けざるを得ないと聖書は一貫して書いてあるからです。
そこで大きな誤解があるのは、私たちの不安は、何かを失うことへの「恐れ」であるはずなのに、「死」を、すべてを失うことのシンボルとは見ていないことです。死において人は、人は孤独です。やがてすべての人から忘れ去られます。財産があったって相続争いの原因になるだけかもしれません。
しかも、肉体の死に恐怖を感じない人でも、死を腐敗のプロセスと見ると嫌悪と恐れを抱きます。「腐ってゆく」というのは何とも嫌なことです。肉体の衰えを防ごうとスポーツクラブに通う人が増えていますが、私たちは「心が腐ってしまう」ことにも注意を向けなければなりません。
それに対して、キリストにある者の人生は希望に満ちています。私たちの内なる人は日々新たにされ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてゆくと約束されているからです。神は、私たちを、腐敗ではなく、栄光へと導いてくださいます。
1.神が多くの子たちを栄光に導くために
人はすべての生き物の中で、最もひ弱なものかも知れません。しかし、全宇宙の創造主である神が、ひとりひとりを「みこころに留められ」「これを顧み」(6節) ておられ、すべての人が、本来「栄光と誉れの冠」(7節) を受けるために創造されたのです。
しかし、多くの人は、自分に価値を与えてくださる方を忘れて、傲慢になったり、卑屈になったりしています。私自身も、しばしば、この人との対比で見られる「私」に注目し、目を留めてくださる方を忘れ、自分の力で栄光と誉れの冠を掴み取ろうと頑張って来ました。そして、自分に問題が降りかかることを恐れ、問題を起こしそうな人を避けたい、小心者の自分が見え隠れしています。
ところがイエスは、「万物の相続者」「世界を造られ」「万物を保っておられる」方でありながら (1:2、3)、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」(イザヤ53:3)、十字架で死にました。
彼はその際、すべてから見捨てられ、ひとりぼっちとなった者の仲間ばかりか、その代表者となり、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と叫ばれました。
しかし、神は彼を三日目によみがえらせ「栄光と誉れの冠」(9節) を与えてくださいました。しかも、それは、彼が、完全な人として生きる模範を示されたばかりでなく、その死を、「すべての人のために味わわれた」とあるように、「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げる」ためでした (9:12)。
「多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされた」(10節) とありますが、「子たち」とは原文では、「息子たち」と記されています。これは、神が私たちを、ご自身のひとり息子であるイエスと同じように見ておられることを意味します。しかも、「救いの創始者」とは、イエスのことですが、彼はご自身の血によって、私たちを聖めてくださいました。
三世紀から四世紀にかけ、キリストが神であることを否定する誤った教えが広がりました。それに対して、正統的な信仰を守るために戦ったのが アタナシウス です。彼の名は、高校の教科書にも出てくるほどです。彼は、「ことばの受肉」という日本語訳で80ページぐらいの文書を記しています。
その中で彼は、「ことばが人となられたのは、われわれを神とするためである」という有名な命題を記します。それは聖書が、私たちに与えられた救いを、「世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となる」(Ⅱペテロ1:4) と描いていることを基にしています。
これは、私たちに与えられた約束です。「ことば」と呼ばれるキリストが人となり、十字架にかかってくださったのは、この私たちがイエスと同じような神のご性質を持つ者に変えられるためだというのです。
それに続いて、「聖とする方」(イエス)も、「聖とされる者たち」(私たち)も、「すべて元はひとつです」(御父に由来する)と、不思議な表現が記されています (11節)。これは、私たちが、このままでイエスの妹、弟とされているという神秘を表すためのものです。事実、イエスは私たちを「兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう』」(12節) と言われるというのです。
これは詩篇22篇22節からの引用ですが、その詩篇の冒頭のことばこそ、上記にあるようにイエスが十字架で叫ばれた「わが神、わが神……」です。私たちもこの詩篇と同じような絶望感を味わうことがあるかもしれません。しかし、イエスご自身が私たちの兄としてこの気持ちを先立って味わい、そして、よみがえり、ご自身を死の中からよみがえらせてくださった父なる神の御名を、妹や弟である私たちに先立つワーシップリーダーとして、「わたしはあなたを賛美しよう」(12節) と言っておられるというのです。
私たちの信仰とは、このままの私たちがイエスの妹、弟とされ、御父のかけがえのない娘、息子と見られているという途方もない特権を覚えることなのです。それを思い巡らすことから、真の心の平安が生まれ、この世の困難に立ち向かい、人を愛する力が生まれます。
2.私たちの兄となり死の力を滅ぼしてくださった方
「わたしは彼に信頼する」(13節) とは、イザヤ8:17、18を引用されたイエスご自身の告白です。これは、まわりが暗闇に見え、神の御顔が隠されているように思える中で、なお、神に信頼し、望みをかけるという意味です。
そして、続く、「神がわたしに賜った子たちは」の「子」とは、原文では「幼子」で、イエスが私たちをご自身が世話すべき無力な妹、弟と見ておられるという意味です。つまり、イエスご自身ばかりか、神が彼にゆだねてくださった幼子たち自体が神の救いの偉大さのしるしとなっているのです。
人は、だれしも、一度や二度は、「教会に行って神様を礼拝したって、状況は何も改善しない!」とぼやきたくなることがあります。その時イエスは、そんな私たちを叱責する代わりに、ご自身の十字架と復活を振り返りつつ、「心配せずに、私の父なる神をともに賛美し、信頼しながら歩んで行こう。わたしと同じように、お前たちも神の救いの偉大さを証しするのだから……」と、私たちを励ましておられるのです。
なお、真の指導者は、自分に従ってくる者たちの苦しみを体験している必要があります。火の中に飛び込む救助隊の指導者が、火の中をくぐり抜けた体験を持っていないなら、どうして隊員は彼の指示に従おうという勇気が湧いてくるでしょう。
それと同じように、キリストは私たちと同じ苦しみを体験されたことが、「子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになられた」(14節) と記されています。
イエスは「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(1:3) であられ、また、私たちの創造者であられるのに、私たちと同じ「血と肉」のからだをお持ちになりました。
これは、王様が奴隷になるよりも、はるかにすごいことです。「血と肉」を持つとは、飢え渇き、病になり、やがて死んで行く、不自由な身体を意味します。本来、永遠に死を味わうことがない方が、私たちと同じ死の苦しみを体験しようとされたのです。
ところで、人間が死に支配されるようになった経緯を、聖書は、人類の父アダムが、欲に負けて善悪の知識の木の実を取って食べ、滅びる者となったことにあると説明します。その後、「欲によって滅びる」という原理がすべての人を支配しています。
事実、神が創造された美しい世界は、人間の欲望によって、救いがたいほどに腐敗してしまいました。その原因は、神のかたちに創造された人間が、神から離れて生きるようになったためですが、人間の腐敗は、「教え」や「悔い改め」では癒しがたいほどに進んでしまいました。
それに心を痛められた神は、ご自身の御子をこの世界に遣わしてくださいました。御子は私たちの創造主であられますが、ご自身でこの腐敗してゆく肉体を持つ身体となることによって、腐敗する身体を不滅の身体へと変えようとしてくださいました。
すべてのいのちの源である方が、死と腐敗の力を滅ぼすために、敢えて、朽ちて行く身体を持つ人間となられたばかりか、最も惨めな十字架の死を自ら選ばれたのです。
先の「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じようにこれらのものをお持ちになりました」にはそのような意味も込められながら、同時に、「これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14、15) と驚くべき説明がなされます。
その意味は、キリストの弟子たちに起こった変化によって知ることができます。ローマ帝国は、紀元三百年頃まで、クリスチャンを絶滅しようと必死でした。彼らは皇帝を神として拝む代わりにイエス・キリストを神としてあがめていたからです。
ところが殉教者の血が流されるたびに、クリスチャンの数が爆発的に増えてしまったのです。それは、クリスチャンたちの、死の脅しに屈しない姿が、人々に感動を与えたからでした。そこには、真のいのちの輝きが見られました。そして最後の大迫害の後まもなく、ローマ帝国はイエスの前にひざまずきました。
現在の日本に、幸い、そのような大迫害はありません。ただ、たとえば、重度の癌の苦しみに会う人は数多くいます。しかし、イエス・キリストを信じる人は、その死の苦しみの中で不思議なほどの平安に満たされ、いのちを輝かして行きます。それは、キリストのいのちが、死の力に打ち勝っているしるしと言えましょう。
「私は死など恐れない!」という人でも、自分の評判が傷つくことや孤独を恐れ、財産が失われることを恐れてるなら、それこそ、「死の恐怖につながれて奴隷となって」いる状態にあると言えます。
もし、本当に、死に打ち勝った結果として、死の恐れから解放されているとしたら、その人は、もっと余裕を持って、人のことも配慮しながら生きていられるはずなのです。
もしその人が、この死の恐怖を単に押し殺しているだけなら、自分で知らないうちに、恐れに支配され、まるでネズミのように、刺激や衝動に反応するだけの生き方をしてしまいます。
3.あわれみ深い、真実な大祭司となられた方
このように、イエスが私たちと同じ血と肉を持たれたのは、「神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため」(17節) でした。「神のことについて」とは、「神との関係に関することについて」という意味で、イエスが、父なる神と、罪人である私たちとの、「仲介者」としての「大祭司」となられたことを意味します。
「あわれみ深い」とは、私たちの痛みや悲しみを、ご自分のことのように一緒に感じてくださる感覚を意味します。また、「忠実」とは、「真実」とも訳され、頼ってくる者を決して裏切らない真実さを意味します。
アタナシウスは、キリストがローマ帝国にもたらした変化を、「十字架のしるしによってあらゆる魔術は終わりを迎え、あらゆる魔法も無力にされ、あらゆる偶像礼拝も荒廃させられ、放棄され、非理性的な快楽は終わりを迎え、すべての人は地上から天を見上げている」と証しています。
キリストのすばらしさが明らかになるにつれ、人は、自然に、偶像礼拝や魔術に見向きもしなくなって行ったのです。そればかりか偶像礼拝では、「戦いの神」や「快楽の神」が人々を戦いや無軌道な性の快楽に向かわせましたが、当時の人々は、「キリストの教えに帰依するや否や、不思議なことに、心を刺し貫かれたかのように残虐行為を捨て……平和と友愛への思い」を持つようになり、また、「貞節とたましいの徳とによって悪魔に打ち勝つ」というように、生き方の変化が見られたというのです。
それは、ひとりひとりが、イエスの「あわれみ」と「真実」に触れることによって、その価値観が根本から変えられたからです。イエスは世界の価値観を変えました。イエス以外の誰が、社会的弱者や障害者に人間としての尊厳を回復させ、また、結婚の尊さや純潔の尊さを説いたことでしょう。
不思議にも今、キリスト教会やクリスチャンの悪口を言う人はいくらでもいますが、イエスご自身のことを悪く言う人はほとんどいません。みな一様に、「イエスは立派だけど、教会は駄目だ……」と言ってくれます。居直ってはいけないことは重々わかりますが、それはキリストの教えが広まった証しとさえ言えましょう。
クリスチャンは、自分が馬鹿にされても、キリストの御名があがめられることを、いつでもどこでも求めるべきなのですから、これは喜ぶべきことかもしれません。
イエスの御名があがめられるところでは、自然に、偶像礼拝や不道徳は力をなくして行きます。不条理や不正と戦うのではなく、キリストが世界に知られるようになることこそが大切なのです。
ところで、イエスは、「あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で、ご自身の兄弟たち(妹や弟である私たち)と同じようになられた」(17節)と記されていますが、それはどんな意味を持つでしょう。
人間の場合の兄は、妹や弟と同じ親のもとで同じ所に住み、同じ物を食べて育ち、しばしば通う学校まで同じです。妹や弟は、それを見ながら育つことができます。イエスはそれと同じような意味で私たちと同じようになられたのです。
その上で、イエスは私たちの代表者としての大祭司となられました。大祭司は、民に代わって、民の罪のために、神の怒りをなだめるためのいけにえをささげるのですが、イエスは動物の代わりに、何と、ご自身の身をいけにえとされました。つまり、彼は、私たちの罪の身代わりになるほどに、私たちの側に立ってくださったというのです。
しかも、創造主であるキリスト・イエスが人となられたのは、私たちにふりかかるすべての「のろい」をご自身で引き受け、担うためだったのです。
「のろい」とは不気味ですが、働いても生活が楽にならないばかりか、ある日突然、職場を追い出されてしまうという社会の構造は、確かに、「のろい」のもとにあると言えましょう。
そして、その始まりは、アダムが善悪の知識の木から取って食べた時、神が彼に「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない」(創世記3:17) と言われたことにあります。
イエスの十字架の意味を聖書は、「キリストは、私たちのために、のろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13) と語っています。イエスは私たちの創造主であり、王ですから、私たちすべてののろいをご自身で引き受けることができたのです。
アタナシウスは、「主の死は、すべての者のための身代金であり、この死によって『隔ての壁』が取り壊され、異邦人の招きが実現し、イエスは一方の手で旧約の民を、もう一方の手で異邦人からなる民を引き寄せ……われわれのために天への道を開いてくださった」と語っています。
「隔ての壁」とは、神と私たちを隔てる壁、人と人とを隔てる壁の両方です。主は十字架でご自身の手を広げながら、私たちをご自身の中に招いておられます。ただ、それは不思議にも、私たちすべてをまずご自身の死とのろいの中に招きいれることから始まります。
そのしるしがバプテスマ(洗礼)で、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られました」と言われます。ところがそれによって、「死んでしまった者は、罪から解放されている」という死と罪の支配からの解放がもたらされました (ローマ6:4、7)。将来の肉体の死は、私たちの霊的ないのちを損なうことはできません。
今、私たちはキリストとともに死んだことによって、キリストとともによみがえる者とされています。バプテスマは、キリストにあるいのちをその身に着ることの象徴です。私たちはすでに、「死からいのちへ」「のろいから祝福へ」と移しかえられているのです。
サタンは、私たちの罪や汚れを指摘しながら、「お前のようなものが神の祝福のもとに入れられたなどというのは嘘だ。実際、お前はずっと昔の失敗を引きずって生きているだろうが……」などとささやきながら、キリストによる救いを否定しようとします。サタンは今も、私たちがのろいを受け、天への道が閉じられているように見せ、「どんなに頑張っても、頭の上には暗雲がただよっている……」と思わせようとします。
しかし、イエスは十字架に上り、空中で死ぬことによって、天への上昇路を開いてくださいました。十字架を見上げるとき、私たちはもう、すべての労苦が無駄になる「のろい」の下にはないことを知らされます。それは、「ですから、愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58) と記されている通りです。
「ことばが人となられた」のは、私たちが神の愛とあわれみを知ることができるようになるためでした。そして、私たちは「ことばの受肉」を信じることによって、腐敗から不滅へ、のろいから祝福へ、死からいのちへと移されるのです。
二千年前に、私たちの創造主が、滅び行く人間となってくださいました。それは、「私たちがみな、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられてゆく」(Ⅱコリント3:18) ための第一歩でした。
ところで、ここでは最後に、イエスご自身が弱い肉体を持つ人となり、「試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになる」(18節) と記されています。そのようなあわれみに満ちたイエスにとって最も悲しいことは何でしょうか?それは、私たちが、心の底で味わっている悲しみや不安やさみしさを認めないことではないでしょうか。
たとえば、私は、長い間、自分の内側にいる寂しがり屋の声を圧迫してきたとふと気づかされました。自分では、心と心の交わりを築いてきたつもりでした。しかし、今思うのは、「私は交わりを築くことによって自分の寂しさと戦ってきた」ということです。それが戦いである以上、心の底には緊張があります。
イエスは、私のうちに住む、寂しがりやの私と交わりを築きたいと願っておられるのに、私は、「イエス様。どうかそばにいて、私がどうするかを、ただ見ていてください。」と言いながら、イエスの語りかけを心で味わう前に、自分で動き出してしまいます。そして、知らないうちに、自分のうちにある名誉欲に駆り立てられているのです。
今、改めて思います。この私が母の胎のうちにいる時から、神は私を「わたしの息子よ」と目を留めておられ、時が来たときに、私にイエスを救いの創始者として示してくださいました。イエスは私を「私の弟よ」と呼び、私を礼拝者の交わりに加えてくださいました。
イエスは私に代わって死の力を持つ悪魔と戦い、勝利を得られ、「大丈夫だから、わたしについてきなさい」と招いておられます。たとい、様々な過ちを犯していても、イエスは大祭司として、私たちの側に立って、父なる神にとりなしてくださいます。
ですから、恐れることなく、すべての思い悩みを、いつくしみ深いイエスにお話ししましょう。私たちの兄となるためにイエスは人となられたのですから。