イザヤ49章14節〜50章11節「私の耳を開いてくださる方」

2010年8月22日

私たちは心の中に様々な「駆り立て」の言葉を聞き過ぎ、今、ここでの神の語りかけに耳を傾けることができなくなってしまいがちです。多くの人の心には、常に、「急ぎなさい」「もっと努力しなさい」「強くありなさい」「完全でありなさい」「人を喜ばせなさい」という五つの言葉のどれかが響いていると言われます。人によっては、これが「存在するな」という自己否定の言葉と結びついて、「人を喜ばせている限りは生きていて良い・・そうでなければ、生きている資格がない」というささやきを聞き続けるということになります。そして、人は自分の心に聞いている声を人に向かって語ります。人に意地悪な言葉が出てしまうのは、自分を責める言葉ばかりを聞いている結果です。そのような人は、「疲れた者をことばで励ます」(50:4)代わりに、落ち込ませてしまいます。そのような心は、恐れて敏感なようでも、信仰的には眠っているのではないでしょうか。私たちはこの世の価値観から生まれている語りかけと、神からの語りかけとを区別する必要があります。そのために聖霊によって、この心が目覚めさせられる必要があります。

1.「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」

49章8-13節では、主がイスラエルを祝福し、繁栄を回復させてくださるばかりか、全被造物が主を賛美する様子が描かれていました。しかし、このイザヤの預言が聞かれるようになった「シオン」と呼ばれるエルサレムの置かれる現実は、「主(ヤハウェ)は私を見捨てた。主は私を忘れた」と言わざるを得ない絶望的な状況です(14節)。

そのような中で、主はイスラエルに対するご自身の思いを、「女が自分の乳飲み子を忘れようか・・・」と言いながら、さらに、「たとい、女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」とご自身の断固とした意思を強調します。最近、母に見捨てられて飢え死にした子供の悲惨が話題になっていましたが、その女性だけが特別に鬼のような心を持っていたというわけではありません。バビロン帝国の軍隊に包囲されたエルサレムでは、「あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子供を煮て、自分たちの食物とした」(哀歌4:10)という悲惨が起きたと記されています。それほど、人の心は脆いものです。いざとなったら、母親でさえ何をしでかすかわからないという現実があるということを前提とした上で、主はご自身の愛が、母親の愛にまさるということを強調しておられます(15節)。

自分の母親の愛情を疑う必要のない方は、それだけで幸せとも言えましょう。「母ちゃん!」と心の中で呼びかけるだけで、あったかい気持ちが湧きあがる方は、「神様!」とか「天のお父様!」と呼び求めるとき、自分の中にどのような気持ちが湧きあがってくるかを確かめてみてはいかがでしょう。神は、ここで、ご自身の愛は、母の愛にまさるということを断固として強調しておられます。それを心の底から味わうことこそ、私たちの信仰の基本です。

そればかりか、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」と記されます(16節)。文語訳は、「われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(きざ)めり」です。それは人が、恋人の名を手のひらに刻んだのと同じように、主は私たちを心から恋い慕っておられるという意味です。主は、私たちを忘れないどころか、いつでもどこでもご自身の手のひらに刻むようにして私を覚えておられるというのです。主は、おひとりおひとりに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と語りかけておられるのです。

「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とは、目に見えるエルサレムの城壁が崩れ去っている中で、なお神ご自身が目に見えない私たちの城壁となっておられるという意味です。霊の目が開かれるとは、敵に取り囲まれた預言者エリシャを「火の馬と戦車が取り巻いている」(Ⅱ列王6:16,17)という現実が見えることです。詩篇34:7には、「主(ヤハウェ)の御使いが陣を張り、主を恐れる者を囲んで助け出してくださる」と記されています。

ところで、主に逆らい、主ののろいを受けたときの悲惨が、申命記28章32節では、「あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない」と描かれていますが、まさにイスラエルはそのような悲惨を体験することになりました。今も、貧しい国では、子供を奴隷に売らざるを得なくなるような悲劇が起こります。私たちもそこまでひどくなくても、かけがえのない人を失い、自分の世界が音をたてて崩されるような絶望感を味わうことがあるかもしれません。残念ながら、「主があなたを愛しておられるなら、あなたは苦しむことがない・・・」というのは、幻想であって、信仰ではありません。しかし、私たちは苦しみに会うけれども、それはごく短期間のことであり、神の永遠のときの視点から見るなら、私たちは神の圧倒的な力によって守り通されているということは確かです。そのことが、17、18節では、「あなたの子どもたちは急いで来る。あなたを滅ぼし廃墟とした者は、あなたのところから出て行く」という、失ったと思われた子供の回復と、あなたを滅ぼした敵の退散が約束され、また、それを印象付けるように、子供たちの帰還のことが、「みなが集められ、あなたのところに来る・・みなを飾り物のように身につけ、花嫁のように結び付ける」と描かれます。

マルティン・ルター作詞作曲の「Ein feste Burg is unser Gott(神はわれらが堅き砦)」の終わりの歌詞では、サタンに向かって、「わが命も、わが妻、子も、とらばとりね。神の国は、なおわれらにあり」と言い放つ歌詞が記されます。これに違和感を覚える方がおられ、賛美歌267番では、「わが命も、わが宝も取らばとりね。神の国はなお我にあり」などと衝撃の少ない個人的な歌詞に訳されていますが、それは作者の意図に反することです。ルターは、みことばの奉仕のために、自分の家族が犠牲にならざるを得ないという心の痛みを感じながらも、サタンに屈せずに神に仕え続けることの大切さを歌っています。そこでは、神の永遠の視点からは、神ご自身が、私たちのかけがえのない家族を守り通してくださるという信頼のもとに、「神の国は、なおわれにあり」と歌われているのです。

多くの人は自己嫌悪に陥る中で、「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」という、主の親密な愛の語りかけに安らぎを発見します。私たちはこの地では様々な不条理に直面せざるを得ません。しかも、しばしば、その一部は、サタンの攻撃というよりも、自分が蒔いた種です。しかし、自業自得の苦しみ、自分の責任で大切なものを失ってしまったような絶望感の中で、なお、主が失ったものを取り返してくださるという恵みが約束されているのです。

2.「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」

そして、19、20節では、主の祝福の様子が、散らされていた家族が集められ、家族が爆発的に増加することとして表現されます。なお、20節は、「さらに、あなたの耳に、子を失ったときの子らが言おう」と訳することができます。今日の箇所では、「耳」がテーマです。これは先に失われたと思っていた子らが集められた結果として、その子らが、かつて子を失ったと嘆いていた親の耳にささやきかけるように、「この場所は、私には狭すぎる。住めるように取り計らってください」と願うほどになるというのです。そればかりか、その様子を見る者は、「私は、子を失った、子を生めない女、捕囚のさすらい者であったのに・・・」(21節)と過去の苦しみを振り返りながら、「だれがこの者たちを私に生んでくれたのだろう」と言いながら、主の祝福の大きさを喜ぶようになるというのです。

そして、22節では、「主であるヤハウェ」が、「見よ。国々に向かってわたしは手を上げ、国々の民に向かってしるしを揚げる」と、国々の民はイスラエルの息子や娘たちをふところに抱いたり肩に負いながら運んでくると約束され、その際、「王たちはあなたの守役(もりやく)となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる」(49:23)という完全な立場の逆転が生き生きと描かれます。

「そして、あなたは知るようになる。わたしは、主(ヤハウェ)、わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」と、神の民が真心から主に信頼するようになる様子が描かれています。なお、ここでは、主の民を踏みつけていた王や王妃たちが「恥を見る」ようになることとの対比で、「主を待ち望む者は恥を見ることがない」と描かれています。これこそ、聖書に繰り返し記されている救いのパターンです。多くの人々は、この地で「恥を見る」ようになることを恐れ、みんなから遅れを取ることがないようにと競争しています。しかし、主を待ち望む者は、最終的に勝利者となることが約束されています。この約束も、一時的な視点ではなく、神の永遠のときの観点から見るべき約束です。

そして、24,25節では、敵の「勇士の・・とりこ」とされた者や略奪された宝物が、主ご自身によって「奪い返される」と描かれるばかりか、主は、「あなたの争う者とこのわたしが争い、あなたの子らをこのわたしが救う」と、ご自身で私たちの敵に復讐をしてくださると約束しておられます。それは私たちの「救い」の時でもあります。このように主のさばきを信頼する者は、自分で敵と戦う必要がありません。

その神の復讐のことが、「あなたをしいたげる者に、自分の肉をわたしは食らわせる。彼らはぶどう酒のように自分の血に酔う」(49:26)と、彼らが自滅する様子が描かれます。その結果、「すべての肉なる者が知るようになる。わたしは主(ヤハウェ)、あなたの救い主、贖い主、ヤコブの力強き者であることを」と告白することになります。ここでは、神のさばきが、「自分の肉を食らわせる」と描かれながら、その同じ、「肉」ということばが使われながら、すべての生まれたままの罪に支配された「すべての肉なる者」が、主の救いを知るようになると約束されます。かつて、「あなたは知るようになる」と約束されましたが、ここでは全世界の民が、主を知るようになると約束されます。

私たちは、一時的な辱めに屈することが何と多いことでしょう。しかし、「主に信頼する者は、恥を見ることがない」というのは、永遠のときの観点から断定できることです。イエスご自身も、十字架上で、この世の誰よりも辱めをうけました。しかし、このみことばに信頼して、その辱めに耐えることができました。そして、いまや、すべての肉なる者が、イエスの高貴さを何らかのかたちで認めざるを得なくなっています。あなたのまわりの人々も、最終的に、「あなたの神こそが、全世界の支配者であったのに、私はそれを認めなかった」と恥じるようになります

3.「主であるヤハウェは・・・朝ごとに私を呼びさまし、私の耳を開かせ(呼びさまし)・・」

エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされますが、それを前提に、50章1節では、エルサレムを、「あなたがたの母親」と呼びながら、「あなたがたの母親を追い出したというわたしの離婚状は、いったいどこにあるのか」と問いかけられます。そこには、主とエルサレムの関係は切れていないという主の宣言が込められています。

また、「わたしがあなたがたを売ったというわたしに債権を持つ者はだれなのか」ということばで、主の民の所有者は主ご自身であられるので、その民が完全に売り渡されてしまうことはないという保証がなされます。もし、主に負い目があって彼らが売られたのなら、主は何もできませんが、彼らはその咎のために一時的に売られ、追い出されているに過ぎず、回復の希望があるというのです。そのことが、「見よ。自分の咎のためにあなたがたは売られ、あなたがたのそむきのためにその母親は追い出された(エルサレムは滅んだ)のだ」と言われます。

なお、「なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか」(50:2)とは、神が遣わした預言者の声を神の民イスラエルが無視し続けたことを表します。そして、「わたしの手が短過ぎて、贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか」(50:3)とは、彼らが神にすがろうとしなかったことこそが、このような悲惨の真の原因であると語ったものです。人間関係では忙しい人の手を煩わすことは悪いことかもしれませんが、神に対して遠慮することは信頼の欠如として非難されます。申命記では、「主にすがる」ということばは、「主を愛する」と並行して記されますが(11:22、30:20)、主にすがろうとしないことこそが罪なのです。「見よ。わたしの叱責によって・・・わたしは天をやみでおおい・・」(50:2,3)とは、出エジプトの際に海を二つに分けたことから、目に見える世界をさばくことに至る神のみわざを指します。神に不可能はありません。

50章4~9節は、第三の「主のしもべの歌」です。その最初は、「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを知るようにさせ」です。「疲れた者をことばで励ます」とは、「頑張って!」などという言葉ではありません。それは、「我を張る」から転じた言葉で自分の力を前面に出すことだからです。しかし、疲れた者に力が回復されるのは、人間の努力ではなく、神のみわざです。それは、「主(ヤハウェ)を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ってゆく」(40:31)とある通りです。その主への信頼を「励ます」ことができるのも、人間の知恵ではなく、主ご自身が「知るようにさせ」てくださることによります。そのために、主は、「朝ごとに、私を呼びさまし、この耳を呼びさまし、弟子のように聞くようにされる」というのです。主は先に、「わたしが呼んだのに、だれも答えなかった」と嘆いておられましたが、ここでは主ご自身が「私の耳を開」(50:5)いてくださるのです。

なお、「それでこの私は、逆らわず、うしろに退きもせず」とは、主のことばに逆らうことも、また臆することもないという意味です。そして、「打つ者にこの背中をまかせ」(50:6)とは、不当な鞭打ちを甘んじて受けること、「ひげを抜く者にこの頬をまかせ」とは、侮辱のしるしとしてひげを抜こうとする者に抵抗しないことです。イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬を向けなさい」(マタイ5:39)と言われましたが、それは侮辱のしるしとしての手の裏で打つ者に対して、刃向かわないようにとの教えでした。そのことが、「侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」という生き方として表現されます。そして、そのように無抵抗でいられるのは、「主であるヤハウェは、私を助ける」(50:7)という保障があるからです。

そして、その主の助けを前提として、「それゆえ、私は侮辱されなかった。それで、この顔を火打石のようにした」と記され、その理由がまた、「私は恥を見ることがないと知っているから」(50:7)と説明されます。これは、侮辱を感じないように心を麻痺させることではなく、主が私を助け、辱めから救い出してくださることに望みを置いて、苦しみに耐えるという意味です。そのことがまた、「私を義とされる方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、共に立ってみよ。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来い。」(50:8)と記されます。

これはたとえば、まわりの人が私に侮辱を加え、罪に定めるような中で、神ご自身が私に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」(ルカ3:22)と語りかけてくださることに、「耳を開く」ということです。私たちが『神の子』とされたという意味は、父なる神からイエスへの愛の語りかけが、罪びとである私への語りかけとなったということです。しかも、そのような声に耳を開くことができるのも、主のみわざに他なりません。ただし、人の声を聞かない者は、神の御声を聞くこともできなくなりますから、私たちが求めるべきことは心を麻痺させることではなく、人からの嫌なことばにも耳を傾けながら、それ以上に、神からの愛の語りかけに耳を傾けることではないでしょうか。

そして、それと同じような意味で、「見よ。主であるヤハウェが、私を助ける。だれがいったい私を罪に定めるのか・・」(50:9)と言われます。私に敵対する者に対する神のさばきを知っているからこそ、敵のあざけりや迫害に耐えることができるのです。その反対に、主のさばきを信じないからこそ、自分で反撃する必要を感じるのです。

イエスは、ローマ総督ピラトのもとで裁判を受けたとき、祭司長、長老たちからの不利な証言が次々となされたときの様子が、「それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」(マタイ27:14)と描かれています。イエスはこのとき、このイザヤ50章の主のしもべの歌を、心に思い巡らしていたのではないでしょうか。イエスは、嘘の証言をする者に対する神のさばきを知っておられ、また、神ご自身がイエスを義としておられることを知っていました。また、ユダヤ人の反乱を恐れて不当な判決を下す総督ピラトの臆病さをもよく知っておられました。イエスの沈黙は、神がご自身の傍らにおられることの余裕から生まれています

4.「だれが・・・主(ヤハウェ)を恐れ、そのしもべの声に聞くだろうか」

「だれが、あなたがたのうちで主(ヤハウェ)を恐れ、そのしもべの声に聞くだろうか」(50:10)とは、私たちすべてに対する問いかけです。先の歌が「主のしもべの歌」と呼ばれるのは、このことばに由来します。私たちもこの主のしもべの生き方に習うように召されているということです。その上で、「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主(ヤハウェ)の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」と勧められます。これは、たとい、「暗やみの中を歩き、光を持たない者」も、イエスを見上げるときに、「主の御名に信頼し、自分の神により頼む」ことができるという意味です。

それと対照的な生き方が、「見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。歩いてみよ。自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持ちながら・・・」(50:11)と描かれますが、これは自分の力により頼むものが自滅への道を歩んでいるというアイロニーです。神のさばきは、人に自分の望むままを行わせ、自滅へと導くということだからです。しかし、私たちはイエスの復活を見るときに、この悪循環から救い出されます。そこでは、主が私たちの信頼に答えてくださることを知り、どのような苦しみにも出口があり、どのようなやみも光に変わると信じられます。自分の知恵や力ではなく、主に信頼する者こそが、「恥を見ることがない」からです。

イエスはこのイザヤ書50章4-9節のみことばを思い巡らしながら、人々からの罵詈雑言に黙って耐えておられました。私たちもその模範に習うように召されています。それは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」(Ⅰペテロ2:22-24)という生き方です。そこにはイエスの沈黙と積極的ないやしのみわざが記されています。イエスはご自分が苦しみを担うことで人を生かしてくださいました。私たちは自分を生かそうとして、人を押しのけ、人を非難してはいないでしょうか。それは自分で頑張ろうと焦って、自分の内側で、自分を非難し、軽蔑するようなことばばかりを聞いていることの結果です。「主であるヤハウェは・・・朝ごとに、私を呼び覚まし・・耳を開かせ」、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(43:4)と語りかけてくださいます。そのことばに耳を開きながら、同じことばを隣人に語りかけたいものです。

自己嫌悪と傲慢は、同じコインの裏表です。私たちは自己嫌悪に陥った反動として、自分は愛されるに値する人間だということを証明しようとして、この世の空しい名誉や富や権力に憧れるようになるのではないでしょうか。

「主であるヤハウェは、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを知るようにさせ」(50:4)という約束をイエスの御霊があなたのうちに成就してくださいます。そしてそれはあなたの耳が朝ごとに呼び覚まされることから始まります。私たちはこの世から受けている価値観と、神の救いのご計画を見分ける必要があります。主を最も悲しませる罪とは、何かとんでもない過ちをしでかすということ以前に、神の愛を忘れることです。主があなたになしてくださった救いのみわざを、また主の期待を忘れることこそが最大の罪です。あなたの前には、新しいエルサレムの祝宴が待っています。世界は喜びの完成に向かっています。イエスを救い主として喜び迎える声は、今も世界中で聞こえています。霊の耳を開いて、それに耳を傾けましょう。イエスはすでに世界の歴史を変えてくださいました。私たちはすでに新しい世界に足を一歩踏み入れています。父なる神は、あなたをイエスの弟、妹と見て、あなたに向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語っておられます。