ローマ11章25〜36節「神の選びがもたらす和解」

2010年8月15日

英語で8月はAugust と呼ばれますが、それは皇帝アウグストがこの月にローマ帝国に平和をもたらしたことを記念したためです。それは、後に、さらに大きな平和をもたらしたキリスト降誕後の年の中で記念される月となりました。私たちもこの8月を過去の過ちを反省し、主にあって平和を祈念する月とすべきではないでしょうか。

ところで、日本人とユダヤ人には意外にも多くの共通点があります。その最も大きなことは、両者ともイエス・キリストの福音に心を閉ざしているということかも知れません。日本のクリスチャン人口は約1パーセント、イスラエルにおけるクリスチャン人口は約0.25パーセント、ちなみにイスラエルの人口は約600万人、アメリカに住むユダヤ人は650万人とされていますが、そのうちのたったの3.7パーセントがクリスチャンであると言われます。

このような低い比率は迫害の激しいイスラム教国においても見られないほどです。イラン、イラク、エジプトなどのイスラム教国には意外に、どこにおいてもローマ・カトリックよりも古いキリスト教会の流れがあります。迫害がなくなったらクリスチャン人口が爆発的に増えることは間違いありません。つまり、信教の自由が認められている国で最も宣教の困難なのは日本人とユダヤ人なのです。そこに共通するのは民族的な伝統意識です。それはほとんど無意識のうちに根付いています。アメリカでもフィリピンでも、国歌や国旗が驚くほど大切にされますが、日本でもイスラエルでも、それらが必要ないほどに伝統に基づいた常識感覚が根付いているのではないでしょうか。たとえば多くの日本人は、異口同音に、「一神教は排他的である。私たちのように多神教を信じる者は、寛容の心を養っている」などと言います。これを中国や朝鮮半島の方々に、そのまま言ったら、唖然とされることでしょう。

この8月15日は、日本人の常識感覚が、相撲界の非常識と同じように、世界では通じなかったことを改めて反省すべき日ではないでしょうか。大東亜共栄圏という美名の下に、何という野蛮が正当化されたことか・・・

聖書ではイスラエルの民のかたくなさがテーマとされています。それは、日本の民にも適用して考えることができるように思われます。ただ、まずは聖書の文脈に立ち返って、イスラエルの救いということを考え、最後に、それぞれの方々が、日本の文脈にそれを置き換えて考えてみると良いのではないでしょうか。

1.新しいエルサレムこそ

宗教改革者マルティン・ルターは私にとってかけがえのない教師ですが、一つ残念に思うことがあります。

ルターは、宗教改革の初めの頃はユダヤ人に対して極めて同情的で、「イエスは生まれつきのユダヤ人であった。」という文書をしたためたほどです。そして彼は、ローマ・カトリックはユダヤ人を犬のように扱い、福音を語ってこなかったから、ユダヤ人は回心できなかった、と主張しました。

ところが、当時のユダヤ人は、宗教改革運動に乗じてキリスト者に働きかけ、ユダヤ伝承を持ち出して土曜安息を守るように教えたり、割礼の儀式を復活させたりして、ルターの改革運動の最も恐ろしい敵対者になってしまいました。

それで彼は、態度を180度転換させ、国の指導者に対してユダヤ人の会堂を焼き払い、彼らの家を壊し、商取引から締め出す法律を作るように促しました。彼の最後の説教は、ユダヤ人の国外退去令をドイツの領主に勧めることでした。残念ながらそれは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の根拠とされてしまいました。

第二次世界大戦が終わった二十世紀後半からは、その反動もあって、アラブ人に大きな犠牲を強いてでもユダヤ人を守ろうという動きが強くなります。そればかりか、エルサレム神殿の文字通りの復興が必要との見方さえ出てきます。

その際によく引用されるみことばが、「こうして、イスラエルはみな救われる」(ローマ11・26)です。そのように理解する人々は、イスラエルの民には異邦人とは別の救いの計画があると主張します。そして、その一プロセスとして、1948年のイスラエル建国があったと解釈します。結果、「現在のイスラエル国家をアラブ諸国の攻撃から守ることこそキリスト教国アメリカの使命である」などの主張も生まれるのです。

しかし果たして、エルサレムのイスラム寺院を壊してエゼキエル預言の神殿を建てる必要があるのでしょうか。と言うより、イエスの時代のヘロデの神殿は、外庭、内庭、聖所という分離の構造を見る限り、エゼキエルの設計図を参考にして作られていたと解釈できるのではないでしょうか。

つまり当時の人々は、救い主が、ヘロデの建てた不完全な神殿をエゼキエルの預言通りのものに完成してくれると期待していたのです。しかしイエスは、ご自身の十字架と復活でそれを成し遂げてくださいました。(ヨハネ2・19参照)これを本当に理解するなら、目に見えるエルサレムの支配を巡ってアラブ人と対立する必要はありません。私たちの希望は、新しいエルサレムが天から下ってくることなのですから。

ところで、ユダヤ人は福音の敵となっているという見解と、神はユダヤ人を愛し、特別な計画をお持ちであるという見解は、互いに相容れないものなのでしょうか。不思議にもパウロは、その両面を受け入れるように、「彼ら(ユダヤ人)は、福音によれば……神に敵対している者ですが……選びによれば……愛されている者なのです」と言いながら、「神の賜物と召命は変わることがありません」と論じています(ローマ11・28、29)。そしてこれは、ローマ人への手紙全体に流れる思想とも言えます。彼らは神の敵であり、同時に神に愛されている者です。

これは、あなたの身近な家族にもそのまま適用できる表現ではないでしょうか。あなたの大切な方は、神に敵対している者かもしれませんが、同時に、あなたがたの家族であるということのゆえに、神に特別に愛されている方々なのです(Ⅰコリント7:14参照)。

2.聖霊によって救われる

手紙を読むというのは、電話の会話の一方だけを聞いて全体を想像するようなものです。この手紙の解釈は、その背景をどのように理解するかによって変わってきます。

この手紙を受けた当時のローマ教会は、たぶん70人から80人程度の信徒が集う歴史の浅い教会でした。紀元49年頃、皇帝クラウオデオの勅命でユダヤ人がローマから追い出されており(使徒18・2)、教会では聖書のヘブル語を理解する人は非常に少なかったことでしょう。

ところが皇帝が変わると、ユダヤ人のローマへの帰還が許され、この教会にもユダヤ人が急増します。その中で、ユダヤ人キリスト者に対する批判が大きくなり、このような手紙を書く必要が生じました。つまりこの手紙は、ユダヤ人とユダヤ人を通して与えられた旧約聖書を異邦人に受け入れさせることを第一の目的にしているのです。

そのことは特に、14章1節の「信仰の弱い人を受け入れなさい」という勧めに表されています。それは、食物律法(コーシェル)や古来の祭りの習慣を守り続けるユダヤ人キリスト者を受け入れることの勧めです。そこでパウロは、クリスチャンにはそれらを守る義務はないことを明確にしつつも、ユダヤ人の慣習を尊重するように勧めます。それは、ユダヤ人と異邦人が共に暮らして行けるための具体的な指針になりました。

それと同時に、それは旧約聖書の中心的な教え(律法)をどのようにクリスチャンが受け止めたらよいかを考えさせる契機にもなりました。

そしてパウロは、その話をする前に、律法が与えられたモーセの時代からはるかにさかのぼって、神がアブラハムを召してくださった原点にまで立ち返って、福音を再確認しようとしています。

昔から、ローマ書の中心テーマは1章17節の「福音のうちには、神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」というみことばにあると言われてきました。

それは、聖書に記された「神の義」、すなわち「ご自身の契約に対する正しさ、真実さ」が、私たちに信仰を生み出し、信仰を完成に導くという意味です。それはアブラハムの物語に明らかです。神は不信仰なアブラハムに信仰を与え、その信仰を成長させてくださいました。

そのことはまた、4章5節で「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」と記されます。私たちは、不信心な者にご自身の真実を示して、信仰を芽生えさせてくださる方を信じるのです。私たちのうちに与えられた信仰こそ、神の真実の最高の証です。

私は神経症の傾向があるせいか、「信仰によって救われる」と言われると、「では、どの程度の信仰があれば救われるのですか…」と問いたくなったことがありました。そればかりか、神学校に入ったとき、すばらしいお証しを聞きながら、「自分のような不信仰な者が牧師になってよいのだろうか…」と落ち込みました。

そこでその悩みを校長先生に相談しました。するとその先生は、「あなたはみことばを聞いて、感動したことがありますか?」と聞いてくれました。僕は、「もちろんです。だからこそ、ここで学びたいと思ったのです」と答えました。先生は、「それで十分ではないですか。あなたは神にとらえられて、ここにいるのですよ」と語ってくださいました。

神のみわざは、不信心な者に信仰を生み出し、その信仰を義と認めてくださることに現されています。それこそ聖霊のみわざです。

その上でパウロは、7章で律法を弁護しながら、「律法は聖なるもの……律法が霊的なものである」(12、14)と語っています。だからこそ、律法は、アダムの子孫のままでは全うすることができず、「キリストの霊」、「聖霊」によって初めて全うできると言うのです。

そして8章9節では、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と、キリストの霊を持たないクリスチャンなど存在し得ないと言います。つまり、人は自分の信仰心によってではなく、創造主である御霊の働きによって救われるのです。

聖書によれば、私たちはみな、神の霊を宿している者、キリストの霊を宿している者なのです。そこでは、人種や国籍、性別の違いなどは、大きな問題にはなりません。

私は自分を、「創造主である聖霊を宿している者」として見直すことができたとき、深い感動を覚えました。人の目から自由になれる気がしました。そこでは、一人ひとりの個性が神に豊かに用いられて行きます。

3.「イスラエルはみな」の意味

そしてパウロは、9章から11章で、「神の選び」について議論を展開していくのですが、それに先立ち、「肉による同国人」の救いのためになら、「のろわれた者となることさえ願いたい」とまで言います(9・2、3)。

にもかかわらず、同国人が救われないことを見て、「事は人間の願いや努力によることではなく、あわれんでくださる神による」(9・16)と悟ります。これは、パウロの情熱に反してユダヤ人の心がますます「かたくなになっている」という現実を見て生まれた告白です。

なお、彼は、神がイスラエルの人々の心をかたくなにした理由を、それによって異邦人に救いがもたらされるためであったと言います。同時に、異邦人の救いによって、「イスラエルにねたみを起こさせ」(11・11)、彼らを回心させると説明します。

たとえば、ギリシャ人のような異邦人が旧約聖書を喜んでいるなら、それを見たユダヤ人は、ギリシャ人がユダヤ人以上に聖書の教えの真意を理解していることにあわて、「ねたみ」を覚えることでしょう。そのような健全な「ねたみ」は、ユダヤ人をなお一層、旧約聖書に向かわせます。事実、ユダヤ人は今も、イザヤ書53章などの主のしもべの歌に真剣に向き合うことで、イエスこそ救い主であると気づきます。

その上でパウロは、異邦人がユダヤ人に向かって高ぶることがないようにと戒めています。私たちはユダヤ人の歴史があって初めて、神の救いのご計画がわかるからです。そのような説明の後に、パウロは、神のご計画の「奥義」を「イスラエル人の一部がかたくなになったのは、異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる」(11・25、26)と明かします。

文脈から見て「こうして」とは、まずユダヤ人の心をかたくなにし、異邦人に救いをもたらし、ユダヤ人に「ねたみを起こさせる」という神の不思議な救いのプロセスを指しています。また、「イスラエルはみな」とは、すべての肉のイスラエルの子孫を指すとは限りません。そのことをパウロは、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく」(9・6)と言っています。神の選びによる、真の意味でのイスラエルのみが救われるのです。

これは、基本的に、「主(イエス)の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです」(10・13)の言い換えに過ぎません。ここでの「だれでも」とは、ギリシャ語では「すべて」と書いています。つまりここでは、すべてのイスラエルが、イエスを主と告白することによってのみ救われるという当然の告白が記されているのです。

なお興味深いのは、パウロがその論拠として引用したのはイザヤ書59章20節のみことばですが、パウロはそれを、キリストの救いの観点から大胆に言い変えています。それは、イエスこそ主であり、またヤハウェであるという福音がエルサレムから全世界にもたらされ、その結果として、ユダヤ人の不敬虔を取り払うというプロセスです。

続く引用もエレミヤ書31章32~34節につながりますが、そこでは、「新しい契約」のことが記され、石に刻んだ律法ではなく、聖霊によって律法が心に刻まれ、彼らが心から主を知ることになると記されています。つまり、パウロが引用した「彼らの不敬虔を取り払い……彼らの罪が取り除かれる」(11・26、27)という救いは、イエスと聖霊によって成就するのです。

ですから、聖霊によってイエスこそ主であると告白して救われるというのは、異邦人ばかりか、すべてのユダヤ人に本来予定されていた救いなのです。その意味で、ユダヤ人と異邦人の救いの方法は何も変わりがありません。ただ同時に、神ご自身が、異邦人に救いをもたらすために、一時的に、ユダヤ人の心をあえてかたくなにしたという意味で、逆説的にユダヤ人は神に特別に覚えられているのです。

4.和解の福音

パウロは、ユダヤ人の心がかたくなにされているのは異邦人の世界に福音が広められるためであると強調します。確かに、ユダヤ人が自分たちの律法解釈を持ち出して食べ物のことや日の守り方などを指導するなら、多くの異邦人は、イエス・キリストに出会う前に聖書の教えに拒絶反応を示してしまうことでしょう。

しかし、救いはユダヤ人から始まっており、キリストの十字架の奥義は、何よりも異邦人とユダヤ人が和解できるということにありました。それをパウロは別の手紙で、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、様々な規定から成り立っている戒めの律法なのです。」と言いつつ、それによってキリストは異邦人とユダヤ人を「新しいひとりの人に造り上げる」と記します(エペソ2・14、15)。これは現代的には、日本人と韓国人、黒人と白人がキリストにあって「ひとりの人に造り上げられる」こととして適用できます。

「神の選び」は、私たちを謙遜にする教えです。そのことをパウロは11章32節で、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じこめられたからです。」と言っています。

私たちは、自分の知恵で真理を掴み取ったのではありません。なぜなら、私たちは生まれながら神に不従順だからです。私など、信仰の決心ができたのは、二十歳の頃の米国留学中にクリスチャンの女性に恋をしたことが最大の契機になっています。神は、理屈好きの私を謙遜にするためにそうされたのです。

パウロはこれらの最後に11章36節で、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」と閉じます。信仰は、神から出て、神によって保たれ、神に向かいます。私たちのうちに芽生えた信仰こそ、神のみわざの現れです。

そして、私たちが心の底から、すべてを神の恵みと受け止めるなら、人と人との和解が生まれます。

パウロはユダヤ人と異邦人の和解のためにいのちをかけました。この手紙を書いた後、彼は異邦人から集めた献金を携えてエルサレムに上り、ユダヤ人キリスト者を助けようとしましたが、それによってイエスを信じないユダヤ人から命を狙われ、牢に閉じ込められました。しかし神は、そのわざわいを益に変えてくださいました。彼は、裁判を待つ囚人としてローマに護送され、この手紙で願っていた通りに、ローマの信徒たちに会うことができました。

私たちはパウロによる「神の選び」の教えを彼の情熱とセットで解釈する必要があります。彼は異邦人に伝道しながら、いつも、ユダヤ人に「ねたみを起こさせ」(11・14)、彼らが福音に心を開くようになることを切に願っていました。しかし彼は、異邦人とユダヤ人の和解をもたらすプロジェクトを全うしようとして反対に投獄されてしまいました。それは、彼がユダヤ人の「ねたみ」をその身に引き受けたからです。

私たちも同じように、人と人との和解のために、自分の身を差し出すことが求められているのではないでしょうか。自分の正義を主張して戦ってはなりません。そのことが伝道者の書7章16節では、「正しすぎてはならない」と記されています。神の選びの教えこそ、私たちを真の意味で謙遜にし、人と人との和解を導くものなのです。

「イスラエルはみな救われる」とは、決して「外見上のユダヤ人」(2・28)がみな、終わりの日に自動的に救われるという教えではありません。と言うより、旧約の民にとっての「救い」とは「約束の地」を平和のうちに占領できることを意味しました。それができなかったのは、彼らの「罪」のためでした。しかし、イエスはイスラエルの王としてその罪を担い十字架にかかってくださいました。それによって彼らは、あの狭いパレスチナの地ばかりか、「全世界」を、異邦人と一体の「キリストとの共同相続人」(8:17)として、相続することになりました。

全地は新しい神の民の前に開けています。イエスに出会ったユダヤ人は、争いに満ちた中東世界に平和をもたらす民となることでしょう。なぜなら、彼らは「キリストとの共同相続人」として、目に見える約束の地の相続という視点から自由にされるからです。そればかりか、彼らはユダヤ人から全世界に神の民が広がったことに健全な誇りを抱き、狭い民族主義から自由になることができます。

日本人はかつて、血筋による民族の誇りを正当化してアジアの覇者になろうと戦争を引き起しました。ユダヤ人も、自分たちの血筋でパレスチナの地の占領を正当化するなら、同じ悲劇が待っていると言えないでしょうか。

旧約聖書はイスラエルに対する最高の「賜物」であり、彼らへの「召命」の書ですが、そこには彼らが「世界の光」として、神の一方的なあわれみを謙遜に分かちあうという使命が記されています。そこには本来、アラブ人との和解が生まれるべきはずなのです。そして、イエスこそは、真のイスラエルの王として、民族の和解を生み出して下さる方です。

私たち異邦人も、ユダヤ人から「ねたみ」を感じられるぐらいに、真剣に旧約聖書に向き合う必要があるのではないでしょうか。そして、異邦人クリスチャンが謙遜に、本来イスラエルの民に向けて記されていた旧約聖書を心からの感謝をもって受け止めるとき、その読み方も変わってくるのではないでしょうか。

神の救いのゴールは、「新しい天と新しい地の創造」です。そこでは、神の平和(シャローム)が全世界に満ちます。それこそ旧約聖書に記されたユダヤ人の夢であり、私たちの希望です。ユダヤ人も異邦人もすべて、神の一方的なあわれみと選びによって神の民とされました。そこには常に、神の平和を世界に広げるという使命がセットになっているのです。神はあなたを平和の使者にするために、日本人の中から選び出してくださったのです。

イエスは、ローマ帝国への独立運動に燃えているユダヤ人たちに驚くべきメッセージを語りました。彼らは当時、圧倒的なローマ軍に向かって、イスラエルの山々に身を隠しながら、現代のアラブのテロリストがやるように、いのちがけで剣を振り回していました。それに対してイエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。あなたに一マイル行けと強いるような者とは、いっしょに二マイル行きなさい」(マタイ5:39-41)という途方もないことを言われました。これは、力に力で対抗するという復讐の連鎖によって、争いがエスカレートする状態を避けるための知恵でもありますが、それ以上に、ここには、神ご自身がこの世界の王として支配しておられるという認識がありました。

そのことをパウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:31,32)と言いました。私たちには、御子といっしょにこの地のすべてのものを受けるという約束が与えられているのです。これは、たとえば、たとい一千万円を騙し取られても、百億円の相続財産が約束されているというようなことを意味します。

これは非現実的な教えではありません。今から二千年前のユダヤ人はこの教えを非現実的とあざ笑って、ローマ帝国に武力で対抗した結果、国を失い、二千年間の流浪の民となりました。しかし、もし彼らがイエスの教えに耳を傾けていたとしたら、彼らは世界中のキリスト者の兄のような存在として、富と名誉にあずかり、平和に暮らすことができたはずなのです。

しかも、残念なことに、今も、イスラエルという国は、アラブのテロリストと、目には目を、歯には歯をどころか、ひとりのユダヤ人のいのちには百人のアラブ人のいのちを奪うという報復によって約束の地を支配しようとしています。しかも、多くのアメリカの保守的な信仰者が、聖書の読み方を誤って、そのようなイスラエルを支援し続けています。それに対し、戦争の悲惨さを誰よりも知る日本のクリスチャンこそ、聖書の正しい読み方をまわりの人々のやさしく分かち合ってゆくべきではないでしょうか。