イザヤ48章12節〜49章13節「あなたの平安は川のようになったであろうに」

2010年8月1日

多くの人々は、天国の祝福よりも、地上の歩みにおける平安を求めています。そして、不思議にも、旧約聖書では、死後の希望に関してはほとんど記されていません。そこには、地上的な、苦しみと「平安」のことが書いてあります。そして、それは実は、新約にも一貫していることでもあります。聖書はこの世の人に向けての書なのです。

最近、現実の生活でのストレスに関して考えさせられたことがあります。私たちの人生にはストレスの種が満ちています。しかし、たとえばナチスの強制収容所という想像を絶するストレスを体験したユダヤ人女性の29%が、更年期になっても何の情緒的な障害にも陥らず健康を保ち続けたという統計があります(普通の女性では51%が更年期でも健康を保つ)。つまり、激しいストレスが病気を生み出さない確率も極めて高いというのです。また、たとえば、抑うつ傾向のある人はそうでない人に比べ癌になる確率が二倍も高いという統計がありますが、それでもその癌死亡率は7.1%で、抑うつと定義された人の93%弱はストレスが癌を生むというわけではありません。

最近の風潮は、ストレスの種を避けることやストレスを発散することへと人々の目を向けますが、もっとストレスを受け止めることができる人間の生き方の方に目を向けた方が良いのではないでしょうか。確かに、感受性の豊かな人は、ストレスに弱いという場合があるかもしれませんが、鈍感な人はまわりにストレスを与えている可能性がたかいのですから、心が鈍くなることを求めてはなりません。最近の研究によると、ストレスに対処する力というのは、その人が、自分の人生を基本的にどのようなものとして見ているかによって決まると言われます。その点からすると、創造主との自由な交わりのうちに生きられる人は、すばらしい特権を持っています。人には明日のことはわかりませんが、私は明日を支配する神を知っています。私たちはどんなに弱くても、私の神には不可能がありません。私たちの人生には、「何で私ばかりがこんなひどい目に・・・」と思うようなこともありますが、私の神は、それらすべてを益に変えてくださるという確信を持つことができます。私たちの目の前からは、ストレスの種になることは尽きることがありません。しかし、私たちは神の不思議なみわざを、多くの場合、困難の中でこそ感動し、感謝できます。聖書では、天国への憧れというよりは、私たちの人生のゴールのことが記されています。それが祝福に満ちているということを確信できる者には、人生の様々なストレス要因は、冒険の機会とさえ映り得るのではないでしょうか。

「あなたの平安は川のようになる」という約束は、この地上で体験することができる祝福なのです。

1.「わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ」

神はイスラエルの背きの罪に対して激しい苦難を与えましたが、それは彼らを反省させ、神に立ち返らせるためでした。しかし、それは、「イスラエルの神は、自分の民を守ることができない・・・」と誤解される可能性も秘めていました。また、神の民でさえ、目に見えない神の代わりに、ペルシャの王クロスをあがめる可能性がありました。

それに対して主は、「わたしに聞け。ヤコブよ。 わたしが呼び出したイスラエルよ。 わたしがそれだ(I am He)。 わたしは、初めであり、また、わたしは、終わりである」(48:12)と言われます。これは、43章10節、44章6節を合わせたみことばで、主(ヤハウェ)こそが歴史の支配者であることを改めて強調する表現です。それに先立ち、主はまず、「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしが、それらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる」(48:13)と、ご自身がこの世界を自由に動かすことのできると強調します。私たちはこの目に見える世界が、神のひとことの呼びかけで簡単に動くということをどれだけわきまえているでしょうか。

その上で主は、「みなともに集まり、そして、聞け。だれがこれらの事を告げたのか」(48:14)と言いながら、ご自身の奇想天外な救いのみわざを語られます。それは、「主(ヤハウェ)は彼を愛された。彼が主のみこころをバビロンに行う。主の御腕はカルデヤ人に向かう」(48:14)というものです。それは、主がペルシャ王クロスを用いてバビロンを滅ぼすことを意味します。そして、主は、「わたしが、このわたしが、語り、そして彼を呼んだのだ。彼をわたしが来させた。彼はその道で成功を収める」(48:15)と、主ご自身がクロスに勝利を与えると言われます。

そして、主は、「わたしに近づいて、これを聞け。初めから、隠れた所で語ってはいない。それが起こった時から、わたしはそこにいた」(48:16)と、クロスの勝利は、神がご自分のみわざを預言したことの成就であると言われます。歴史は神の預言が成就する過程なのです。預言者はかつて、「まことに、あなたはご自身を隠す神」と告白していましたが(45:15)、その神がクロスを立てるのはご自身であることを、これが起こる前から告げておられたというのです。それは預言者によって明らかにされました。それでイザヤは、「今、主、ヤハウェは私と御霊を遣わされた」と敢えて、これがご自身を隠す神による特別の啓示であることを強調しています。なお、『私』をイエスに当てはめると、父なる神が御子と御霊を遣わされたという三位一体の神秘を表しているとも解釈できます。

2.「わたしの命令に耳を傾けさえすれば・・・」

そして17節の初めは、「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神」と記され、十のことばの初めのことばと同じで、天地万物の創造主があなたにとってのパーソナルな神となってくださったことを意味します。「あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道に導く」とは、私たちが右か左の選択に悩むときに、どちらが良いかが示されるというよりは、日々の生活において何を優先するかという導きです。そして、「わたしの命令に耳を傾けさえするならば・・」とありますが、それは、何かの具体的な義務を果たすというより、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛する」(申命記6:5)という心のあり方を指しています。それは戒律で自分を窮屈にするということではなく、それぞれの自由にゆだねられた極めて創造的な、いのちの喜びが満ち溢れるような生き方です。

そして、そのように生きるときの祝福の生活のことが、「あなたの平安は川のように、あなたの正義は海の波のようになったであろうに・・・」と約束されています。「平安」とは原語でシャロームと記され、平和ということ以上に繁栄とか「しあわせ」とも訳すことができ、すべての必要が満たされている完全な状態を指します。また、「正義は海の波のようになったであろうに」とは、誰にも屈する必要のない力を現わします。神はかつて、「義は平和をつくり出し・・」(32:17)と言っておられましたが、正義と平安は切り離せない関係にあるのです。

そして、その祝福がより具体的に、「あなたの子孫は砂のように、あなたの中から出る者は真砂のようになったであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに」(48:19)と描かれます。これは、神が一人子のイサクを惜しまなかったアブラハムに、「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう・・・あなたがわたしの声に聞き従ったからである」と記されています(創世33:17,18)。聖書が語る「祝福」とは、極めて現実的な身近なことを意味しました。

3.「彼らは渇くことがなかった」

その上で、「バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。歓喜の声をあげて、これを告げ、聞かせよ。地の果てにまで届かせて、言え。『主(ヤハウェ)が、そのしもべヤコブを贖われた』」(20節)という訴えは、神がクロスを通してイスラエルをバビロン帝国のくびきから解放することに対して、喜びをもって応答するようにとの勧めです。聖書が示す第一の救いは、出エジプトのできごとです。そして、バビロン帝国からの解放は第二の出エジプトです。

第一の「出エジプト」のときは、彼らはモーセに率いられてまとまって約束の地に向かいましたが、この「出バビロン」の際は、それぞれの自主的な判断に任されていました。「住めば都」と言われるように、彼らはバビロンにおいて生活の基盤を作っていましたし、ペルシャ帝国による少数民族保護政策によってかなりの自由が与えられたからです。彼らの居住地はアブラハムの出身地にウルに極めて近い所です。主は、アブラハムに語りかけたように、イスラエルの残りの民に向かって、心地よい住まいを離れて、約束の地に向かって旅をすることを勧めています。

そして、第一の出エジプトのことが、「彼らは渇くことがなかった。主がかわいた地を通らせたときも、彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた」(48:21)と思い起こされ、その時と同じように今度も、神は約束の地への旅を祝福すると保障されます。これは従ってみて初めて体験できる「祝福」です。

そして、最後に、「『悪者には平安(シャローム)がない』と主(ヤハウェ)は仰せられる」(22節)と記されますが、これは先の、「あなたの平安は川のようになるであろうに」(48:18)との対比で記されています。これは、48章全体のまとめのことばと言えましょう。私たちは主の友と呼ばれたアブラハムの原点に立ち返るように常に召されているのです。

4.「私の神は、私の力となられた」

49章1-6節は、42章1-9節に続く、第二の「主(ヤハウェ)のしもべの歌」です。これはキリスト預言として読むことができますが、それ以前に、イザヤをはじめ主の働きに召されたすべての「主のしもべ」に適用できます。

この書き出しは、原文で、「聞きなさい、島々よ。私に。耳を傾けなさい、遠い国々の民よ」となっています。全世界に向かって、「私に聞け・・」という書き出しは極めて異例です。その根拠としての主の一方的な選びのことが、「主(ヤハウェ)は、胎内にいるときから私を呼び、母の中にいる時から私の名を覚えておられた」(49:1)と描かれます。そして、選びは常に使命と結びついていますが、そのことが、「主は私の口を鋭い剣のようにして御手の陰に退かせ、私をとぎすました矢として矢筒の中に隠した」(49:2)と描かれます。彼は、世の人々が決して耳を傾けたいと思わないメッセージを取り次ぐという厳しい仕事に召されていましたが、彼は主にいつでも必要に応じて用いていただけるように、主の武具として待機しているというのです。そして、主はこの人をイスラエルの代表と見た上で、「あなたはわたしのしもべ」と呼びかけ、「イスラエル。あなたのうちにわたしの光栄を現す」(49:3)と語りかけます。

しかし、それに対して、彼は、「私はむだな骨折りをして、不毛に、むなしく力を使い果たした」(4節)と、自分の気持ちを正直に表現します。それは、人々が自分の話に耳を傾けないどころか、不当な仕打ちで応答してくるということがあるからです。これは、イエスご自身が体験された葛藤です。ただ、その直後、「それでも、私のさばきは、主(ヤハウェ)とともにあり、報酬は私の神とともにある」と、主への信頼を告白します。主に向かって正直な気持ちを告白した直後、主への信頼のことばが発せられるというのは詩篇の祈りの基本的なパターンです。

「今、主(ヤハウェ)は仰せられる」とは、この「私」という「主のしもべ」に託された働きのことです。そして、「この方は、私を胎内にいる時にご自分のしもべとして造られ」たというのです。彼に課せられた働き、それはモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したように、主は彼を用いて地の果てに散らされたイスラエルを「ご自分のもとに帰らせ・・ご自分のもとに集める」(49:5)ということです。クロスはイスラエルの民をバビロンから解放し約束の地に戻しましたが、主のしもべは、イスラエルの民を主のもとに立ち返らせるという真の信仰の回復をもたらすのです。その働きを全うすることができたのは、主ご自身の導きであったということが、「主(ヤハウェ)の目に私は尊ばれ、私の神は私の力となられた」(49:5)と記されます。これは私たちへの語りかけでもあります。なぜなら、この表現は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」(43:4)と基本は同じだからです。

そして、その働きのことが、まず、「あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせることは、まだ小さいことに過ぎない」と述べられます。これはモーセの働きに匹敵しますが、主のしもべは、それよりはるかに大きな働きをするというのです。そのことが、「わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てまでのわたしの救いとしよう」(59:6)という世界全体を主(ヤハウェ)のもとに立ち返らせることにまで及ぶと描かれます。イエスご自身が、「ここに私の使命が記されている・・」と確信して十字架への道を歩まれたと言えましょう。イスラエルの民は、「世界の光」として召されながら、それに失敗しました。それで主は、ひとりの「しもべ」を立たせ、彼をイスラエルの代表者とし、彼のうちにご自身の「光栄」を現したばかりか(3節)、彼によってイスラエルの残りの民をご自身のもとに回復し、そして、彼を用いて、世界をご自身のもとに回復させるというのです。

この第二の「主のしもべの歌」は、その最初と最後に、世界のことが記され、このしもべをイスラエルの代表者としている点で、これほど力強いキリスト預言はないと言えましょう。私たちはイエスが、イスラエルの王であるとともに世界全体の救い主であることを告白していますが、そのことがここに記されています。イエスご自身がこの歌の不思議を何度も味わいながら、ご自身に対する主のみこころを確信したのではないでしょうか。

そして、この「主のしもべ」は、キリストの弟子である私たちすべてに適用できることでもあります。イエスは復活の後、弟子たちに現れ、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われながら、「聖霊を受けなさい」と、聖霊を授けてくださったからです(ヨハネ20:21,22)。

5.「地を復興し、荒れてしまったゆずりの地を継がせよう」

49章7節は原文で、まず、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と記され、その方が「イスラエルを贖う方、その聖なる方」と紹介され、その方が語りかける対象が、「人にさげすまれているたましい、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かって」として紹介されます。これは、「主(ヤハウェ)のしもべ」、つまり、預言された救い主の姿に他なりません。それは、後に、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」(53:3)と描かれる主のしもべの姿です。そして、イエスご自身も、取税人、罪人、遊女の仲間と呼ばれました。

ただ、その直後に、「王たちは見て立ち上がり(尊敬の起立)、首長たちもひれ伏す。それは、真実なる主(ヤハウェ)のゆえであり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだから」という不思議な展開が見られます。これは、人々からさげすまれ、忌みきらわれている「主(ヤハウェ)のしもべ」が、主(ヤハウェ)の真実によって、この地の王たちを従える者とされるという意味です。そして、イエスは今、「王たちの王、主たちの主」(黙示19:16)と呼ばれています。

8節からも主(ヤハウェ)が、そのしもべに向けて語ることばで、「恵みの時に、あなたに答え、救いの日にあなたを助けた。あなたを見守り、民の契約とし、地を復興し、荒れてしまったゆずりの地を継がせよう」という約束です。イエス・キリストは「民の契約」として十字架にかかり、神と民との関係を真の意味で回復してくださいました。

そして、主がかつてダビデのもとにイスラエルの民をまとめたように、主ご自身がこの「主(ヤハウェ)のしもべ」のもとに、「地の復興」「荒れてしまったゆずりの地の所有」という回復をもたらしてくださいますが、それと並んで、主は、彼を通して、「捕らわれ人の解放」「やみの中にいる者の回復」という救いをもたらしてくださるというのです。そのことが、「捕らわれ人には『出よ』と言い、やみの中にいる者に『姿を現せ』と言う」(49:9)と描かれます。これらは、レビ記25章に記されているヨベルの年、五十年毎のすべての神の民に対する解放の宣言に相当します。この年に、イスラエルの土地は休耕されて地の復興が計られ、すべての民がそれぞれの主から与えられた所有地に戻り、奴隷は解放され、姿を隠していた人が借金を免除されて堂々と人々の前に現れることができました。

多くの人々は、親から受け継いだ様々な負の遺産を受け継いで、様々なハンディを背負いながら、グローバライゼーションという世界一律の市場競争に駆り立てられています。そこでは、豊かな人はますます豊かに、貧しい人はますます貧しくならざるを得ないという現実が見受けられます。人間は決して、平等ではありません。しかし、そのような現実の中で、ヨベルの年の教えは、五十年ごとに、人々を、主が最初に与えてくださった土地の分配という原点に立ち返らせてくれるものでした。戦後の日本の経済成長の影に、マッカーサー元帥の強力な指導による農地解放、財閥解体がありました。小作人はただ同然で農地を所有することができ、中小企業も財閥の金融支配から解放されることができました。これはすべての政策の背景に、このヨベルの年の精神がありました。

イエスがもたらしてくださった罪の赦しとは、あらゆる負債の免除を告げるこのヨベルの年をもたらすものです。神の前での負い目がすべて取り消され、神がひとりひとりをご自身の子として、神の国の富を保障してくださいました。神に祈り求めるなら、神はあなたの必要の一切を満たしてくださいます。使徒ヤコブは、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」(ヤコブ4:3)と言いました。またパウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と言いました。あなたには、創造主である神の御霊が宿っています。あなたの目の前には、様々な障害が満ちています。邪魔をしてくれる人も後を絶ちません。しかし、この世界すべてを支配しておられる方が、あなたに徹底的に寄り添ってくださるのです。

そして49章9節cから12節の表現は、「主(ヤハウェ)のしもべ」が治める新しい神の国に向かって世界中から集められる様子が描かれています。そのとき、民は、敵を恐れることもなく家畜を放牧しながら、裸の丘すべてが牧場となるのを見ながら、飢えることも渇くこともなく熱射病になることもなく約束に地に向かいます。それは「彼らをあわれむ者」である主(ヤハウェ)ご自身が、「彼らを導き、水のわく所に連れて行く」からです(10節)。しかも、その際、民の帰還を阻む山々もなくなります。12節には、神の民が東、北、西、南から集められる様子が描かれています。

私たちもこの地上では天の故郷に憧れる旅人であり寄留者です。しかし、主がともにいてくださるという確信に満たされるなら、困難も成長の糧、祝福のみなもとと見えてきます。その旅の途上は楽しい旅路となります。たとえばグランドキャニオンは、水のない渇いた荒野ではありますが、人々はその美しさに感動することができます。私たちの人生の旅路も、不安の連続と取るのか、刺激に満ちた冒険の連続と取るのか、それが問われています。

「天よ。歓喜せよ。地よ。喜べ。山々よ。歓喜の声をあげよ。主(ヤハウェ)がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ」(49:13)という呼びかけは、「主(ヤハウェ)がご自分の民を慰め・・・あわれまれる」というイスラエルの救いをもとに、全被造物が主を賛美する様子を描いたものです。神の救いは、決して、人間だけに対しての福音ではありません。あらゆる動物も植物も、全被造物が神の救いを喜ぶようになるというのです。

「あなたの平安は川のようになったであろうに」とは、私たちに反省を促す言葉です。しかし、私たちがどんなに神の前に正しく生きようとしても、目の前にはいつも、問題を引き起こしてくれる邪魔者がいます。せっかくの善意を悪意に取る人がいます。この世には残念ながら、正直者が馬鹿を見る、弱肉強食の現実があります。そのような中で、ふと、私たちは、「むだな骨折りをして、不毛に、むなしく力を使い果たした」と思えるような失望のときが必ず来ます。しかし、それは、イエス・キリストご自身がすでに味わってくださった歩みです。神は、そのようにむだに労したと思えるような人を用いて、新しい祝福の世界を開いてくださいました。あなたの苦しみにも同じような意味があります。神はあなたの労苦を決して無駄にはなさいません。神はそれを、この世界を完成に導くための一里塚にしてくださいます。天と地の歓喜の世界に私たちは向かっているということをいつでも心に留めましょう。