2010年2月14日
黙示録は聖書の中で最も誤解されやすい書物のひとつです。しかし、これは信仰者にとって不可欠な励ましの書です。22章10節に、「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである」と記されていますが、これは、たとえばダニエル書で、終わりの日の幻に関して、「あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ」(12:4、9) と記されているのと対照的です。またこの書は、英語では、Revelation(啓示)と呼ばれるように、これは隠されたことばではなく、信仰者すべてに特別に明らかにされた希望のことばです。
この書は、使徒ヨハネが信仰のゆえにパトモスという地中海の島に流されている中で啓示された「終わりの日」のできごとです。そして、聖書全体から見ると、「終わりの日」とは、新約聖書の時代すべてに当てはまることばです。それは、私たちが今、旧約の預言がひとつひとつ成就してゆく時代に生かされているという意味です。
ヨハネがこれを書いたのは、イエスの十字架と復活から60年余りたった紀元90年代のことだと思われます。そのときのローマ皇帝ドミティアヌスは、皇帝を「主」、また「神」として礼拝させようとしました。彼は、自分の妹の娘であったドミティラをキリスト信仰のゆえに島流しにし、その夫を信仰のゆえに死刑に定めたと言われます。そして、ヨハネもこのとき島流しにされました。しかし、この皇帝はその残虐さゆえに人々から憎まれ、96年に暗殺され、大迫害はすぐ止みました。60年代後半の皇帝ネロの時にしても、大迫害の時代はいつも短期間でした。とにかく、そのようなキリスト信仰への迫害の嵐の中で、主は、ヨハネを通して、初代教会のクリスチャンたちに、「イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある」(14:12) と、これが世への証しの機会となると励ましました。
ユージン・ピ-ターソン師は、黙示録のテーマを「礼拝」と述べています。私たちは黙示録にある様々な象徴表現にとまどうばかりですが、そこに中心的に流れているテーマは、ハレルヤ・コーラスにあるように、キリストは「王の王、主の主」としてこの地を支配しておられるということです。そして、主のみこころとは、不条理や不正が満ち満ちている世の中で、神はすべてを御手に治めておられるということを信じ、主を礼拝することです。黙示録のテーマを、主イエスは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33) とまとめてくださったのではないでしょうか。これは信仰者の勝利を歌う詩です。
1.「獣を拝む者が受ける刻印」
ところで、この黙示録は、未来のことを描いているという見方が多くありますが、これはいつの時代にも、極めて現実的な警告の書です。矢内原忠雄氏は、第二次大戦の最中、エゼキエル書と並んで黙示録の講義をしていました。彼は戦後、黙示録13章に預言されたとおりのことが日本で起きていたと、次のように書いています。
「思うに二・二六事件当時 (1936年) のいわゆる非常時より、太平洋戦争の終了にいたるまでの十年間、わが国はサタン「竜」の権力の風靡するところとなった (13:2)。天皇を現人神としてその神格の承認を国民に強要し、神社参拝を命令し、獣の像を拝せざる者には厳しき弾圧が加えられた。獣はまた大言とけがし言を語る口を与えられ、もろもろの族、民、国語、国をつかさどる権威を与えられた (13:5–7)。而して、多くの偽祭司、偽預言者、偽宗教家、偽学者、偽思想家、偽評論家どもは、あるいは一身の危険を恐れ、あるいは利益に迎合して、獣のために或いは論じ或いは行うて、国民をして獣を拝ませた (13:12–14)。而して獣の徽章を右の手或いは前額にあった者だけが……比較的自由に売買することを得た (13:16、17)。キリストに対する貞潔は失われ、教会の中にも獣に対する賛美の声が満ちた。かかる中にありて一筋の細き信仰の道を歩んだ者は、ただヨハネの幻影に教えられて、忍耐と信仰を守ることができたのである」。つまり、矢内原は、戦時中の日本では、黙示録の記述の通りのことが起きていたと分析しているのです。それを通して、この暗闇の時代も、全能の神の御手の中にあると信じられました。
第二次世界大戦の間の日本の教会はほぼ例外なく天皇を現人神とし神社参拝に参加しましたが、日本占領下の朝鮮半島では多くの信仰者がこれに抵抗を見せました。そのような中で、キリスト教のミッションスクールでは、「警察は神社参拝に出てこない生徒を調査し、彼らを学校から退学させるとともに、彼らの父を職場から首切りし、もし商業を営む者は、それを中止させて生活に脅迫を加えた」ということが実際に行われました。これはまさに、黙示録13章16、17節のことが行われたということです。つまり、神社参拝という獣の像を拝んだ者だけが経済活動に参加することが許され、「その刻印……を持っている者以外は、誰も買うことも売ることもできないようにした」というのは、文字通り現実に起きたことだったのです。日本の教会は、そのような中で、わざわざ朝鮮半島にまで出かけていって、神社は宗教ではないと説き伏せていました。そのことを矢内原は実際に指摘しながら、弾圧が激しい最中の1942年1月の集会で、「そのほかいろんな問題に関しても、地より上ってくる獣によりまして、やれ国粋だとか日本古来の何だとか言いまして、いわゆる日本主義の基督教なんということを言いまして、小羊の血とおのが証の言に対する信仰と忠実を捨ててしまって、人々を説き勧めて、拝すべきものでないものを拝せしめる、そういう者たちも少なくない。基督教会の中にも起こってくるのです……その中にあって我々は天にあっては既に戦いは勝たれている、地にあっては地が口を開いて川を呑んでくれる。それで自分たちの戦いの意味も、事の起こりも終わりも、こうして示されております。あとは忍耐する事と、信仰することだけなのです。これはそんなに難しいことではない。苦しくないことではありませんが、難しいことではない。人もし耳あれば聞くべしだ」と大胆に語っています。
矢内原忠雄氏は、この筋の通った信仰の姿勢が、戦後、多くの人々の尊敬を集め、東京大学総長にまでなります。なお、彼は戦後すぐに、その頃の苦しみを振り返りながら、「獣(国家権力)は猛威を振るった。しかし、それはまことに『一年と二年と半年の間』(12:14) であった。過ぎ去った今、往時をかえりみれば、ひと時の悪夢である。而して我に帰れば、神の勝利に対する賛美と神の恩恵に対する感謝のみが我が心に沸き起こる。しかしながら、サタンは未だまったく滅ぼされたのではない。『七つのラッパ』(8–11章) は終わったけれど、やがてまた新しき審判の連環として『七つの鉢』(16章) が始まるであろう。その時、キリストに対する操守を全うして己が永遠の生命を失わぬよう、今の中にヨハネの幻影の教うる意味を心して学んでおかなければならないのである」と記しています。つまり、私たちがこの世の患難に耐えることができるための何よりの秘訣が、黙示録に啓示されているというのです。
聖書宣教会の岡山英雄師も、当時の日本の教会が、黙示録13章の意味を悟っていたなら、日本の教会の国家神道への対応は異なっていただろうと記しています。残念ながら、矢内原氏を例外として、日本の教会は黙示録への関心が薄かったのだと思います。そして、それは現代の日本の問題でもあります。なお、「七つの封印」「七つのラッパ」「七つの鉢」に、私たちをぞっとさせるような災いが描かれていますが、これらは、すべて、神から小羊イエスに託されたさばきとして描かれているという中心点を決して忘れてはなりません。それはイスラエルの出エジプトの際の「十の災い」と同じく、私たちを「新しい天と新しい地」に招き入れるための通過点に過ぎません。
2.「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」
そして、現代の教会が直面しているサタンの誘惑とは、17、18章に描かれる「大淫婦」、「大バビロン」ではないでしょうか。ヨハネは、「ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた」(17:3、4) という幻を見ました。「七つの頭」とは、「七つの山」(17:9) のことですが、これはローマ市が七つの丘の上に立っているからだと言われます。ローマ帝国の支配下の安定の下で、ヨーロッパからアフリカ北部、中東がひとつの市場のようになり、自由な交易が発展しましたが、それに伴って、商人たちが大きな力を持ち、政治権力さえもお金で左右される事態が生まれました。
そして、これは現代のグローバリズム市場経済の先駆けのようなものです。そして、現代、その流れはインターネットの普及とともに世界に広がっています。物もお金も、民族や国語の相違を超えて取引され、富裕な人は、もう国境や文化の枠を越えて活動しています。そして、豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなり、政治もお金によって左右されます。しかも、国が法人税を高くすると、本社は平気でシンガポールなどに移されてしまいますから、国の規制も効果がないばかりか、国が企業のご機嫌をとらなければならないような事態が生まれています。そして、そのような中では、ひとりひとりの価値が、「どれだけお金を稼ぐことができるか」という基準によって図られるようになります。つまり、富が世界を支配するという事態が生まれているのです。
そして、この「大淫婦」の姿が、「その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』という名であった。そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た」(17:5、6) と描かれます。これは、グローバリゼージョンの波の中で、誠実な仕事をしている信仰者たちが時代の変化に乗り遅れ、職を失って血を流すような事態を指しています。お金持ちは、自分が育ててもいない会社を買収し、自分に忠誠を誓わない社員を辞めさせることだってできるのです。
ところが、そのような中で、不思議な展開も起きます。それが、「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります」(17:15、16) という記述です。いつの世にも、お金に支配された権力は、やがて貧しい大衆の支持を取り付けた新しい権力者によって滅ぼされてきました。つまり、暴力の支配が富の支配を打ち砕くということがあるのです。富と暴力は、どこかでぶつかり合い、自滅してゆきます。私たちは、その背後に、傲慢な者をさばく、目に見えない神のご支配を見ることができます。
そして、この大淫婦があっけなく滅びさるときに、「彼女から富を得ていた商人たちは……泣き悲しんで」、「わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった」と言います (18:16、17)。また、「すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、彼女が焼かれる煙を見て、『このすばらしい都のような所がほかにあろうか』と叫んで言いながら」、すぐに、「頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは』と叫んで言う」と描かれます (18:18、19)。これは多くの小金持ちが、この淫婦により頼んでいたのに、一瞬のうちに財産を失うのを嘆くようなものです。日本でも、この二十年間のうちにバブルがはじける姿を二度も体験しました。そのたびごとに、安易に金儲けに走っていた人たちが、大損をし、嘆きに沈んで行きました。
この世の富は、一瞬のうちに消えてしまいます。それは驚くほどに空しくはかないものです。そのことは、伝道者の書でも、「金銭を愛する人は、金銭に満足することがない……富む者は、満腹しても、眠りを妨げられる……蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす」(5:10、12、13私訳)と驚くほど簡潔に生き生きと描かれています。
たしかに、「お金は大事だよ……」と言われることは真実です。また、最近は、「市場原理主義」などと、市場経済が軽蔑されるような論調も聞かれますが、人類は、自由市場経済にまさる効率的な資源の配分と商品の分配システムを発見することはできていません。価格の自由な変動を規制することは、問題の先送りになるばかりです。しかし、お金も市場経済も、本当に役に立つからこそ、偶像になってしまいます。知らないうちに、人も自分も、その価値を市場原理で計ってしまうようになるというのが、大バビロンの誘惑です。そのとき、人はお金の奴隷になっているのです。お金は使うものであって、お金にあなたの人生の方向を決めさせては決してなりません。これは、教会にも言えることです。お金があれば教会堂もすぐに建ちます。しかし、その会堂建設のための予算が一人歩きするときに、教会は堕落を始めます。「新しい天と新しい地」のビジョンがお金の影にかすんではなりません。
3.「新しいエルサレム……が天から下ってくる」
なお、このようにこの世の富みの力は、あっけなく自滅しますが、信仰者を迫害するこの世の権力はどうなるのでしょう。その鍵のことばが、「ハルマゲドン」です。しばしば、これは誤って、『人類最終戦争』などと解釈されますが、果たしてそうでしょうか?16章12–16節を見ると、「竜の口と竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て……全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである……こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた」と記されます。これは私たちにとって恐怖ではなく、サタンの勢力の断末魔のもがきに過ぎません。
そして、ハルマゲドンの戦いの結末は、19章11–21節に描かれています。そこでは、再臨のイエスが、「白い馬」に乗って現れ、「義をもってさばきをし、戦いをされる」とまず記されます (19:11)。しかも、「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれ」ます (19:13)。そして、その方の、「着物にも、ももにも、『王の王、主の主』という名が書かれていた」というのです (19:16)。その上で、戦いの結末があまりにもあっけなく、「私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた」と描かれます (19:19、20)。つまり、信者がこの世の権力者と戦いを交えることはないのです。戦いは、キリストの御口から出ている「鋭い剣」によって (19:15)、一瞬のうちに勝敗がつきます。私たちに求められているのは、「神のことば」と言われるキリストから目を離さず、偶像礼拝の圧力に屈しないということだけです。
その上で、黙示録20章では、サタンが捕らえられ、「千年の間縛られる」(20:2) と記されます。そしてこのとき、偶像礼拝の圧力に屈しなかった信仰者は「生き返って、キリストとともに千年の間王となった」(20:4) と描かれます。これはしばしば、千年王国と呼ばれます。なお、この千年王国に関しても、エゼキエルが預言した地上のイスラエル王国の復興であるという見解もありますが、ここでは明らかに、キリストに従い続けた「キリストの祭司が……千年の間王となる」(20:6) と記され、キリスト者がキリストとともに治める国であると記されています。
不思議なのは、これですべてが終わるのではなく、「千年の終わりに、サタンは牢から解き放され……ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海辺の砂のようである。彼らは聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると天から火が降ってきて、彼らを焼き尽くした。そして……悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた」(20:7–10) と描かれていることです。つまり、千年王国も、過渡的な地上の王国なのです。そして、これは「エデンの園」で人間を誘惑した悪魔、「古い蛇」(20:2) を最終的に滅ぼすための過程にあることです。これは、神が、古い蛇をも支配し、この地に平和を実現することができるということのシンボルです。
千年王国の意味は、「神は……世を愛された」(ヨハネ3:16) という有名なみことばで言い換えられます。神はこの目に見える世界を愛しておられるからこそ、すべてを新しくする前に、この地に平和を実現してくださるのです。
しかも、黙示録には、サタンによる大迫害の中で信仰者が耐え忍ぶべき期間が、「四十二か月」(11:2、13:5)「千二百六十日」(11:3、12:6)、「一時と二時と半時の間」(12:14) と記されていますが、これはすべて「三年半」という期間に相当します。つまり、苦しみは三年半で終わり、平和と喜びは千年間も続くという対比がここに強調されているのです。ですから矢内原氏も、戦時下の苦しみは、「ひと時の悪夢であった」と語りながら、黙示録によって、そのような時期はすぐに終わると確信でき、耐えることができたと告白しているのです。
その上で、20章11、12節では、すべての「死んだ人々」が、神の法廷、「大きな白い御座」の前に立たされ、「行いに応じてさばかれた」と記されます。これは最後の審判のときですが、これは信者に対するさばきではありません。これはあくまで、「いのちの書に名が記されていない者」に対するさばきであると繰り返されています (20:12、15)。信仰者が立たされるのは、私たちのために死んでくださった「キリストのさばきの座」であり、そこでは、キリストのために労苦しながらこの地上で報われなかった働きに対する「報いを受ける」のです (Ⅱコリント5:10)。しかも、先にあった、獣を拝み、偶像礼拝の刻印を押されるのは、「いのちの書に……名の書き記されていない者」であると記されています (13:8)。つまり、信仰を守り通すのも、すべて、神の一方的なあわれみによる「選び」によるのです。
そして、私たちの人生のゴールのことが、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た……『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:1–4) と美しく描かれています。興味深いのは、私たちが天に上るというのではなく、「新しいエルサレム……が天から下ってくる」と記されている点です。つまり、私たちに求められていることは、天国に引き上げられることを憧れながら、現実逃避的な生き方をすることではなく、神がこの地を変えてくださることを待ち望みながら、今、置かれている場所で、黙々と目の前の課題に取り組み、いつでもどこでも、主を仰ぎ、主を礼拝し続けることなのです。
黙示録を概観してわかることは、私たちはこの世で、富と権力の誘惑にさらされながら生きるということです。神の祝福とは、私たちを様々な災いや試練に会わせないことではなく、それらを通して成長させてくださることにあります。どちらにしても、気楽な人生を神に期待しても無駄です。私たちは十字架にかかられたキリストの御跡を従うように召されています。数多くの涙が流され、悲しみ、叫び、苦しみがあります。しかし、ほんとうに辛い時期は、ほんの一瞬に過ぎません。それよりも、多くの信仰者にとって最も永続的な困難は、富の誘惑に抵抗し続けることではないでしょうか。そこに霊的な戦いの中心があります。「大バビロン」の誘惑は目の前にいつもあります。
ですからイエスは、「あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません……神の国とその義とを第一に求めなさい」と言われました (マタイ6:24、33)。しかも、「神の国を求める(原文:捜す)」ということを具体的に実践することの中心をイエスは、「空の鳥を見なさい」、また「野のゆりを観察しなさい」というふたつで表現されました。これはお金のかからない神の国の楽しみ方です。しかも、私たちが迫害に耐えることができるのは、「いのちの書に名が記されている」ことの結果に過ぎません。つまり、信仰の鍛錬の中心とは、自分の心と体を苦しめながら抵抗力をつけてゆくというようなことではなく、神の恵みのひとつひとつを思い起こし続けることなのです。苦しみはどちらにしても、必ずやってきます。そのとき、恵みの体験が、何よりも、苦しみに耐える力の源泉となるのです。