2009年8月30日
ある有名な会社に30年あまり勤め、従業員百人を超える大きな海外現地法人の社長にまでなった方が、こんなことを言っておられました。海外駐在生活の中で、神と教会とに仕える生き方に喜びを見出し始めた40歳の頃、突然、上司から、「君を管理職に、特別に推薦したけれど、無理だったようだ・・・」と言われ、強いショックを受けました。彼は、自分はそんな出世競争とは無縁に生きると思ったのに、いざ、それに直面すると、自分の心には、「サラリーマンとしての競争に勝ち残りたい・・・」という思いがどれほど強いかということに愕然としました。その時、神が、「お前はそんなに肩書きが欲しいのか・・」と問いかけているように感じました。同時に、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)というみことばが心に迫って来て、悔い改め、深い感動を味わいました。しかし、それから意外にも、数日後、通常の順番を越えて、管理職に抜擢するという通知を受けたとのことです。それを通して彼は、「神様は、私を会社で用いようとする前に、自分の動機を正してくださった・・・」と心から感謝できました。彼はこれによって、「この世の肩書きがどうであれ、クリスチャンとして与えられている仕事にベストを尽くすことこそ主が求めているのだと知った・・・」と言っておられます。彼は今、早期退職の後はアメリカでJCFNを始めとする超教派による帰国者ミニストリーを支えていきたいと願っておられます。日本のサラリーマン社会では、同僚との競争を意識しないような者は、「男ではない・・」と言われてきました。競争意識は人間の本能のようなものでしょう。しかし、より大切なのは、誰の目を意識し、どこに向かって生きるかということではないでしょうか。
1.人生のゴールを意識する
前回7月12日に、ルカ21章から「終わりの日」のことを学びました。そこでイエスは、この世界に混乱が広がり、暗闇が増し加わることを詳しく預言しながら、「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上げなさい。贖いが近づいたのです」(21:28)と言われました。これは私たちの常識に反する驚くべき逆説です。つまり、私たちは、世の闇が深くなればなるほど、希望に満たされることができるというのです。これはなかなか理解しにくいことです。しかし、自分の歩みを振り返ると、「もう駄目だ・・・」、「もう終わりだ・・」と思ったことがあっても、そこから不思議な展開があったということがなかったでしょうか・・・。そして、私たちにとって百パーセント確実な統計、それは私たちの肉体が滅びるということです。しかし、それは私たちにとって、朽ちることのない復活の身体が与えられるということです。「贖いが近づいた」とは、そのような復活の身体が与えられるときが近づいたという意味です。
それは、なかなかピンとこないかもしれませんが、赤ちゃんの身体に触れると感じることができるでしょう。私たちは自分の身体がどんどん不自由になってゆくことに痛みを感じています。しかし、赤ちゃんの身体は、何と柔らかく、弱いようで力に満ちていることでしょうか。そこには成長のエネルギーが満ちています。だからこそ、ご老人は、赤ちゃんとともにいると活力を受けることができると言われます。私たちもそのような身体を、持つことができます。私たちの人生のゴールは、そのようないのちにあふれる世界なのです。信仰の不思議、それは、私たちがどんなときにも「希望を持つ」ことができるということです。そして、それは試練に立ち向かう勇気を与えてくれます。
ルカ22章1-23節の最後の晩餐の記事は、今年の4月の受難週に学びました。その中心は、「過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません・・今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(22:16,18)という表現でした。これはイエスの断食宣言でも断酒宣言でもなく、神の国での祝宴を主ご自身が準備してくださり、このときの弟子たちと現在の私たちを含め、主に頼るすべての者が食卓にそろうときを、主は待ち焦がれておられるという意味です。
つまり、私たちは、聖餐式において、ふたつのときを思い起こすのです。それはイエスが十字架にかけられる前の夜と、天の御国での祝宴の完成のときです。そして、イエスは私たちのこの地における歩みを守り導き、ご自身のみもとへと招いていておられます。キリストにある者にとって、永遠の祝福の始まりのときは、すぐ目の前にあります。永遠という時は、死後の遠い世界というのではなく、常に、この現在に接点を持っているからです。
2.「この中でだれが一番偉いだろうか・・・」
今回の箇所、「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(24節)とは、このようにイエスが、この目に見える世界の終わりのことを語り、また最後の晩餐の席で、ご自身の十字架の意味と弟子たちのうちの一人がご自分を裏切るということを、悲しみを込めて語っておられた時のことです。弟子たちはイエスが語られた神の国での自分たちの地位にばかり目が向かい、イエスの心の痛みに無頓着でした。これは、日本の将来を決める選挙戦を戦いながら、自分の大臣の椅子のことばかりが気になっているかもしれない日本の政治家と同じです。イエスの弟子たちは、主のメッセージを直接に三年近くも聞き続けながら、その意味をまったく理解していませんでした。私も、「新しい天と新しい地」や「新しいエルサレム」の希望を語りながら、それが通じないことに焦りを感じることがありますが、イエスのお話しでさえ弟子たちにはまったく通じてはいなかったということを思うとき、慰めと励ましを感じます。福音の奥義は、この世のことで忙しくしている人には理解しがたいものなのです。
イエスは、そのような弟子たちに向かって、「いつになったら君たちは私の話が理解できるのか・・・」「なぜ自分のことしか考えられないのか・・・」「どうして、そう打算的なことばかりを考えるのか・・」などと叱責しても当然だったのに、イエスはなおも、弟子たちの心に寄り添って語ろうとしています。
イエスはまず、「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています」(25節)と言われます。ここで「守護者」とは、昔の日本の大名が「守護」と呼ばれたのと同じ意味だと思われます。彼らは「お殿様」とあがめられますが、本来、その称号は、領民を自分の命をかけて守るという責任に対して与えられているものです。ところが、彼らは、人をひざまずかせる権威として自分の立場を誇るようになりました。
その上で、イエスは弟子たちの「偉くなりたい」「治める人でありたい」という心を軽蔑する代わりに、その気持ちをまず受け止めて、その上で、「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい」(26節)と言われました。
私たちは生きている限り、人との競争意識から自由になることはできません。だいたい、それがなければ、オリンピックだって、ゲームだって何も楽しくなくなります。イエスは別の機会に、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい」(マルコ9:35)と言われましたが、イエスは明らかに、「人の先に立ちたい」という気持ちを受け止めてくださった上で、「しんがりとなり・・仕える者になりなさい」と言われました。
イエスはかつて、「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」(12:48)と言われましたが、これはノブレス・オブリージュ(noblesse oblige、noble obligation、貴族の義務)ということばの由来となっています。第一次大戦では英国の貴族の子弟の死亡率が高かったといわれます。それは、貴族の誇りを持って、真っ先に前線に飛び込んだからです。また、平常時、彼らはしばしば孤児院や障害者施設などでボランティア活動をします。昔のローマ貴族は、私財を投じて道路を整備した見返りに自分の名をつけましたが、日本の政治家は、国民の税金を使って道路や橋を作りながら、そこに自分の名がつけられるのを許しています。
ここでイエスは、「自分を偉いと思ってはいけない」と言う代わりに、「一番偉い人は、一番年の若い者のようになりなさい」と言われました。これはたとえば、食事に招かれたら、すぐに下座につき、他の人がたくさん食べるのを待ってから、食事につくような姿勢です。また、「治める人は仕える人のようになりなさい」とは、リーダーは人に命令を下す前に、人が嫌がるような仕事を進んでやりながら、人に模範を示す必要があるという意味です。
そして、「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」(27節)とは、ヨハネ13章に記されたように、イエスが最後の晩餐にさきがけて弟子たちの足を洗われたような姿勢を指しており、その姿勢に習うようにとの勧めです。
人間の社会は、猿山と同じような面があります。残念ながら、どこにいても序列が生まれ、強者と弱者が生まれます。私たちは、そのような現実を軽蔑する前に、「自分は与えられた立場や富を、何のために用いるのか・・」と問われています。使徒パウロは、自分の貴族としての地位、ローマ市民としての立場を、福音宣教のために存分に生かしていました。避けるべきなのは、何の働きもせずに、自分の地位を誇るという愚かさなのです。たとえば、世の人は、自分の家柄、学歴、社会的地位、家族構成など、何でも誇りの理由にしがちですが、それはすべて神からの一方的な恵みの賜物です。問われているのは、それをどのように生かしているかということです。何よりも恥じるべきは「宝の持ち腐れ」にしてしまうことです。パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」、人間的には誇りにできるすべてのことを「ちりあくたと思っています」と言っていますが(ピリピ3:8)、同時に、福音を宣べ伝えるためには、自分の地位や経歴を隠そうともせずに、すべてを生かしています。
3.「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます」
ところで、ここでイエスは不思議に、彼らの身勝手な根性を良くご存知でありながら、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」(28節)と言われました。それは、イエスが、彼らの動機がどのようなものであるにせよ、ご自身との交わりの中にあるということ自体を喜んでおられるという意味です。私たちもある意味で、それぞれ自分の都合を優先してイエスについてきている面があります。ただ、それでも、イエスとの交わりの中で、自分の信仰の動機が、あいも変わらず、自分の利益ばかりを優先し、イエスの思いを第二にしているという身勝手さに気づくことができてはいないでしょうか。人は純粋な動機でイエスに従うというより、イエスに従う中で、動機が純粋に変えられるのです。イエスについてゆくというステップを、まず始めてみなければ、何も変わりはしません。ですからイエスは、どんな動機であれ、ついて来る人を喜ばれるのです。
その上でイエスは、「わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます」(29節)と言われます。イエスの父なる神は、イエスに十字架の苦しみをお与えになりましたが、それはイエスをこの世界の支配者、王にするためのプロセスでした。キリスト者の生涯は、イエスの歩みの御跡をたどるものですが、そこには十字架の苦しみと同時に、復活と昇天の希望があります。イエスは、弟子たちが引き続き、御名のために苦しむということをご存知であられるからこそ、ここで、明確な報酬を約束しておられます。残念ながら、私たちは報酬なしに動くことができるほど無私な心になることはできません。それこそ人間の現実でしょう。しばしば、「私は何の報酬も期待せず・・」などと言っている人こそ、名誉という最高の報酬にとらわれてはいないでしょうか。人は、自分の名誉のためなら命を捨てることができます。パリサイ人は、その思いを隠した偽善者でした。
黙示録では、偶像礼拝の誘惑に命をかけて抵抗し続けた信仰者たちについて、「彼らは生き返って、キリストとともに千年の間王となった・・・この第一の復活にあずかる者は・・・神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間王となる」(20:4,6)と約束されています。イエスがここで、「それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(30節)と言っておられるのは、このことを指すのだと思われます。イエスは、弟子たちに、この地上の生活での名誉のためではなく、神の国で約束されている名誉のために、この地でのどのような苦難にも耐え、ご自分に従うように命じられたのです。
そして、「新しいエルサレム」が実現するときには、「神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である」(22:5)と約束されています。そして、私たちに「永遠のいのち」が与えられているということは、この将来的な「王」としての立場が保障されていることを意味します。それは十二弟子ばかりか、イエスに従う者すべてに約束されていることです。私たちも、「王」になると約束されているのです。
そのことを後に使徒ペテロは、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」と表現しました。そして、そのような名誉ある立場を約束された者としてのノブレス・オブリージュ(貴族の責任)が、「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」と言われています(Ⅰペテロ2:9)。自分をちっぽけに見る人は、人をもちっぽけに扱うことでしょう。また、自分をちっぽけに思う人は、目の前の様々な必要を見ても、「これは私の仕事ではない。誰か他の人がやったらいい・・」と逃げ腰になります。使徒パウロは、経済的な報酬を受けずに福音を述べ伝えることに関して、「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましです」(Ⅱコリント9:15)と言い、自分の働きの仕方に驚くほどの誇りを持っていました。もちろんそれは、他の人の評価から生まれる誇りではなく、神から任された働きに対する誇りです。ですから、決して、自分の能力や時間を無視して、神から期待されている以上の働きをすることではありません。問われているのは誰の目を意識しているかということです。
4.「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」
ところで、ここで突然イエスは、ペテロの気持ちをくじくようなことを言います。それが、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(31、32節)というおことばでした。つまり、ペテロはまず、サタンの誘惑に負けてイエスを裏切り、イエスの祈りによって初めて信仰を保つことができるというのです。しかし彼は、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33節)と答えました。彼は他の弟子たちはさておき、自分だけはイエスを裏切ることなど絶対にありえないという確信を抱いていました。しかし、「私は大丈夫!」などと豪語する者ほど危ない人はいません。そのように言う人は、旧約聖書を知っていないことを証明しています。旧約は、どんなに良い教えを受けても、アダムの子孫はそれを実行することができないということを証明するための記述だからです。
それでイエスは、「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(34節)と言われました。そして、イエスが言われたとおりに、ペテロは失敗します。それはペテロにとっての弟子訓練の最終段階を指しています。彼はこれによって文字通り、「心の貧しい者」とされました。彼は、そこでイエスの祈りなしには、自分の信仰がなくなっていたということを知りました。彼は、それを通して、他の弟子たちの弱さを軽蔑する代わりに、共感できるようになります。そこで、イエスが彼に、「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という命令を実行できるようになりました。彼は、福音を語るたびに、自分の愚かな失敗を証ししたに違いありません。彼の愚かさと、主のあわれみがセットになって、人を慰め励ましたのです。
私たちにとって「誇り」は命より大切ですが、それが肉の思いを正当化する根拠になってしまう恐れがあります。働きや危険の前で尻込みすることも問題ですが、主のみこころを離れて、「私こそ・・」「私でなければ・・」という思いが先行してしまっては本末転倒です。ですから、しばしば、主は、私たちをご自身の働きに生かす前に、私たちの自我を砕くというプロセスをとってくださいます。それは、私たちにとって苦痛に満ちたものとなるかも知れませんが、その後には、「主の御霊に生かされる」という、この世のすべての喜びにまさる平安が約束されています。
キリスト者として生きるとは、聖霊に生かしていただくという歩みです。キリスト者とは聖霊を受けた人です。私たちがしばしば聖霊のみわざを感じることができないのは、自分の空虚さを心から味わうことができていないからです。これはあくまでも逆説ですが、あなたが聖霊のみわざを知ることができないのは、信仰がないからではなく、ありすぎるからかもしれません。私はあるとき、自分の祈りをとてつもなく空虚なものに感じ、「もう、祈るのをやめよう・・」と思ったとき、反対に、自分の中で聖霊様が祈りを起こしてくださっているということが分かりました。ローマ人への手紙8章9-11節は次のように訳すことができます。これを繰り返し、じっくりと味わってみましょう。
「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです。なぜならキリストの御霊を持たない人は、キリストのものではあり得ないからです。 キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。
それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」
ある精神科病棟に、黙々とごみ拾いをしているご老人がいました。その謙遜な姿を褒めてくれる人に、彼は、「僕は実は、天皇なのだ。かつての戦争で、多くの人を苦しめてしまったから、このように、人の嫌がる奉仕をして、罪滅ぼしをしているのだ・・・」と答えたとのことです。病院の人々は、彼を「ばた屋天皇」と呼んで、尊敬していたとのことです。私たちは、人が避けたいと思う奉仕、人のためになる奉仕を黙々としながら、自分を天皇と称する人を、「気が違って、可愛そうに・・・」と軽蔑する資格があるでしょうか。威張り散らして、人に不快な思いをさせる人より、彼はずっと健全な心をもっています。私たちも、この世の人々から見たら、「ばた屋天皇」のような存在です。私たちはすでに、「キリストとともに王とされる」ということを信じているから、人から馬鹿にされても、中傷されても耐えることができます。そして、人が避けたいような仕事を、進んですることができます。私たちは最終的に、「あなたは、自分が生きたことによって、より多くの愛がこの世にもたらされたと思いますか。あなたの日々の努力によって、この世を少しでも、暖かく、住み良い場所にすることができたでしょうか。」と問われるのではないでしょうか。
パウロは、「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(Ⅱコリント5:13,14)と告白していますが、聖霊に満たされるとは、キリストの愛に駆り立てられて、一見、この世の計算を度外視した行動をとることができることです。私たちは福音を弁明するときは、正気である者として語る必要があるでしょう。しかし、神を愛し、人を愛する生き方においては、気が違っていると思われるぐらいになる必要があるのではないでしょうか。ロシアの小説家、ドストエーフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」という小説で、アリョーシャという不思議な人物の生涯を描こうとして、その半ばで息を引き取りました。それは、東方教会の中で、聖霊に満たされた者は「キリストにあって愚かになる」と描かれているような生き方です。その人は、一見、この世的な意味での生きる知恵に欠けているように見えます。しかし、その人と接した後は、不思議に心がやすらぎます。そして、その人の後には、不思議な平和が残されて行きます。聖霊に満たされるとは、何かをつかみとろうとする生き方ではなく、すでに自分のうちに聖霊が宿っておられることに信頼して、自分を空っぽにしてゆくことです。それは自分に死ぬことでもありますが、同時に、それこそ自分の個性と賜物を十二分に生かす道でもあります。