エゼキエル4章〜7章「彼らは、わたしが主 (ヤハウェ) であることを知ろう」

2009年8月23日

あなたにとって、「信仰が深まる」とはどのようなイメージをもたらすでしょうか。しばしば、それは、「心が安定する」、「勇気がわく」、「喜びで満たされる」、「希望にあふれる」などと言い換えられるでしょう。しかし、そのような心の変化は、「幸福の科学」のような新興宗教が強調していることと変わりはしません。ヨハネの福音書で、人となる前のキリストが、「ことば」と呼ばれています。それは、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:18)とあるように、キリストが聖書の「ことば」を通して神を知らせ、また、人となって神を知らせてくださったということを指しています。人は、「信仰」という名のもとに勝手な神のイメージを作り上げます。それこそ、人類の悲劇です。しかし、信仰とは、まことの神を「知る」ということにほかなりません。しかも、それは頭での知識ではなく、人生という体験を通して「神を知る」ということです。今日の箇所では、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」ということばが繰り返されます。これは文語訳聖書では、「彼等は我エホバなるを知るにいたるべし」と訳されます。主の御名は、最近のほとんどの学者は、新改訳聖書の「あとがき」にあるように「ヤハウェ」と発音するのが正しいということで一致しています。それならば、ここは、「彼らは、わたしがヤハウェであることを知ろう」と訳した方が良いのかもしれません。残念ながら、多くの人は、「主(ヤハウェ)」という神ご自身のお名前をあまりにも軽くとらえています。その御名にどのような意味が込められているかを知ることこそ、実は、「信仰を深める」ことではないでしょうか。しかもそれは、この時間と空間を始められた方という抽象的なイメージを超え、歴史を導き、今もあなたの人生を具体的に導いておられる「生ける主(ヤハウェ)を知る」ことです。

1.「わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう」

主はエゼキエルに、「一枚の粘土板を取り・・その上にエルサレムの町を彫りつけよ。それから、それを包囲し、それに向かって塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、その回りに城壁くずしを配置せよ」(4:1、2)と命じられました。それは、エルサレムがバビロン軍に包囲される姿をリアルに思い浮かべさせるためでした。それは、実際に、約五年後に起こる悲劇を指し示していました。そして、続けて、「一枚の鉄の平なべを取り、それをあなたと町との間に鉄の壁として立て」(4:3)るように命じられます。これはパンを焼くためにも使われる大きな鉄板でした。その上で、彼に、「あなたの顔をしっかりとこの町に向けよ。この町を包囲し、これを攻め囲め。これがイスラエルの家のしるしだ」(4:3)と命じられます。これは、町を包囲するバビロン軍の背後に、主ご自身がおられることを示すとともに、鉄板を仕切りとして、主がご自身の御顔をエルサレムから背けていることを象徴していると思われます。

そして、「あなたは左わきを下にして横たわる」(4:4)ように命じられます。当地においての左右とは、東の方に向かってという前提で語られますから、左は北王国イスラエルを指します。彼は、「イスラエルの家の咎を自分の身の上に置」きながら、390日間同じ姿勢を取るように命じられました(4:5)。それが終わった後、「右わきを下にして横たわり、ユダの家の咎を四十日間、負わなければならない。わたしは、あなたのために一年に対して一日とした」(4:6)と命じられます。これらの数字の意味は、諸説あって断定するのは困難ですが、これを合わせると430年になりますから、イスラエルの民のエジプトでの奴隷生活の年限を指すとも解釈できます(出エジ12:40)。これは確かに長い年月ですが、同時に、神の救いが必ず来るということの保障でもあります。

その上で、主は彼に、「あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ」(4:7)と命じられます。その際、主は、「あなたになわをかけ・・包囲の期間が終わるまで寝返りができないようにする」(4:8)と言われましたが、この間、まったく身動きのできない姿勢で語り続けるという意味ではありません。主は彼に、最低限の粗末なパンを作り、また少量の水を量って飲むようにと命じられているからです(4:9-11)。これは一日最低限の粗食(雑穀を混ぜた230gのパン)と水(0.6ℓ)で我慢しながら、エルサレム残されている民の飢えと渇きをともに味わいながら、傍観者ではなく、ともに痛みながら語るようにという配慮でした。

その上で、主は彼に、「あなたの食物は大麦のパン菓子のようにして食べよ。それを彼らの目の前で、人の糞で焼け」(4:12)と衝撃的なことを言われました。人の排泄物は、律法では注意深く隠すように命じられていましたが(申命23:14)、主はイスラエル民が、「汚れたパンを食べなければならない」(4:13)という意味でそれを命じられました。それに対し、エゼキエルは、「ああ、主、ヤハウェよ。私はかつて、自分を汚したことはありません・・・」と、それを避けたいと主に懇願しました。それで主は、「では、人の糞の代わりに牛の糞でやらせよう。あなたはその上で自分のパンを焼け」(4:15)と言われます。家畜の糞を燃料とすることは汚れたことではありませんでした。

そして主は、「わたしはエルサレムで、パンのたくわえをなくしてしまおう。それで彼らはこわごわパンを量って食べ、おびえながら水を量って飲むであろう。それはパンと水が乏しくなるからだ。彼らは自分たちの咎のために、みなやせ衰え、朽ち果てよう」(4:16、17)と、エルサレムの飢饉は、彼らの咎に対する「さばき」であると語ります。

私たちは悲惨な目に会うとき、それをこの世的な次元で、原因を突き止め、それに対処しようとします。しかし、すべては主の御手の中で起こっていることです。このような悲惨について、かつて預言者イザヤは、「見よ。主(ヤハウェ)の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1,2)と語っています。私たちもイスラエルの民のように、自業自得で苦しむことがありますが、そのようなときに、まず必要なのは、示された罪を主に大胆に告白するとともに、主のあわれみにすがることです。私たちの時代はイザヤのときとは異なります。私たちの主イエス・キリストが私たちすべての罪を負って、十字架にかかられたからです。ですから、私たちは恐れることなく大胆に主のあわれみの御座に近づくことができます。私たちを襲う様々な悲惨は、この世界の真の支配者である神に向かって祈ることへの招き、祈りへの招きなのですから。

2.「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する」

主はエゼキエルに引き続き、「人の子よ。あなたは鋭い剣を取り、それを床屋のかみそりのように使って、あなたの頭と、ひげをそり」(5:1)と命じますが、主はかつてアッシリヤを「かみそり」にたとえて、北王国イスラエルに対するさばきを、「頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす」と表現していました(イザヤ7:20)。つまり、彼が頭とひげをそるとは、主がエルサレムをさばくことの象徴でした。そして、「その毛をはかりで量って等分せよ。その三分の一を、包囲の期間の終わるとき、町の中で焼き、またほかの三分の一を取り、町の回りでそれを剣で打ち、残りの三分の一を、風に吹き散らせ。わたしは剣を抜いて彼らのあとを追う」(5:2)と言われます。彼はまず、自分の毛髪の三分の一を粘土板の上に書いた町の上で焼くのですが、それは町の住民の三分の一がエルサレム城内で滅ぼされることを意味しました。そして、残りの三分の一ずつを含めて、12節では、「三分の一はあなたのうちで疫病で死ぬか、あるいは、ききんで滅び、三分の一はあなたの回りで剣に倒れ、残りの三分の一を、わたしは四方に散らし、剣を抜いて彼らのあとを追う」と解説されます。彼らを待っているのは、三種類の苦難でした。そして主は彼に、「あなたはそこから少しの毛を取り、それをあなたの衣のすそで包み、そのうちからいくらかを取って、火の中にくべ、それを火で焼け。火がその中から出て、イスラエルの全家に燃え移ろう」(5:3、4)と言われますが、それは、この主によるこの三分の一ずつのさばきを免れる者は誰もいないということを意味していると思われます。

そして主はエゼキエルに、「これがエルサレムだ。わたしはこれを諸国の民の真ん中に置き、その回りを国々で取り囲ませた」(5:5)と言いますが、それはこのエルサレムが異教の国々から包囲されるのは、主ご自身の働きであることを明らかにするためでした。そして、主のさばきの理由が、「エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった」(5:6)と言われます。本来、イスラエルの民は、「このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう」(申命4:8)と、主の律法を持っていることのゆえにまわりの国々から尊敬を得ることができるはずでした。ところが今は、みおしえを持っていない周りの国々よりも堕落しているというのです。そのことを主は、「あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行わず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行わなかった」(5:7)と嘆かれます。なお、「諸国の民の定め」とは、他国と結んだ条約を軽視したことを指すと思われます。事実、エルサレムは、バビロン帝国との約束を破ったために、バビロンから滅ぼされようとしています。神の民が、この世の民よりもずっと不誠実だったというのです。

そして、主は、彼らの想像を超えた堕落に対し、想像を超えたさばきを下すという意味で、主は、「あなたのしたすべての忌みきらうべきことのために、今までしたこともなく、これからもしないようなことを、あなたのうちで行う」(5:9)と言われながら、何と、「あなたのうちの父たちは自分の子どもを食べ、子どもたちは、自分の父を食べるようになる」(5:10)という獣でさえ行わない残虐を行うままにさせると言います。これは、直接に神が人間をそのように動かすという意味ではありません。神のさばきは、「その心の欲望のままに」生きるようにさせることだからです(ローマ1:24)。その上で、主は、「わたしは、あなたにさばきを下し、あなたのうちの残りの者をすべて四方に散らす」と言われ、彼らは国を失うことになります。そして、主が何よりも怒っておられる原因が、「あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚した」(5:11)ことにあると言っておられます。

ただし、その後、「わたしの怒りが全うされると、わたしは彼らに対するわたしの憤りを静めて満足する」(5:13)と言われます。「満足する」とは、「悔いる」とか「慰められる」とも訳されることばで、主の怒りや憤りが、「あわれみ」に変わるみこころの変化を示しています。イスラエルの民は、自分たちに対する神のさばきが全うされたとき、神のあわれみを期待できました。聖書を信じるイスラエルの民の不思議の秘訣がここにあります。彼らは、苦難に会えば会うほど、それを主の怒り、主の懲らしめと理解し、その後に、主のあわれみが注がれることを期待することができたからです。そのことを、主は引き続き、「わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主(ヤハウェ)であるわたしが熱心に語ったことを知ろう」と言われます。これは、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう、わたしが憤りを全うするとき、わたしがねたみを持って語っていたことを」と訳すことができます。これは、神の怒りは、神の愛と表裏一体の「ねたみ」から生まれていることを指しています。多くの人々は、神の「愛」と「怒り」を対立関係で捉えますが、それは誤りです。神の怒りは、ご自身の民をご自身のもとに立ち返らせようとする熱い情熱の現われであって、愛の表現でもあるのです。それは、子供に対する親の怒りが、愛と表裏一体なのと同じです。

後に使徒ヨハネは、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためのなだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ4:10)と述べましたが、「なだめの供え物」とは、「主の怒りが全うされ・・憤りを静めて満足する」ために主ご自身が用意された供え物です。神は、ご自身の怒りを、十字架の御子イエスに対して燃やすことによって、私たちに対する怒りを静めてくださったのです。

5章14節から17節まで、イスラエルの民に臨む悲劇が記されます。当時の人々は、それをイスラエルの神ヤハウェの無力さのしるしと誤解する可能性がありました。しかし、神の民に起こるわざわいは、主こそが全世界の支配者であることのしるしなのです。そのことが、17節の最後では、「わたしはあなたに剣を臨ませる。わたしは主(ヤハウェ)、わたしがこれを告げる」と記されます。聖書を繰り返し味わう者は、様々な苦しみに会いながら、主の存在を疑う代わりに、ますます主を恐れることを学びます。そこで、「どうして、こんなことになるのか・・・」と問う代わりに、「私は今、この悲惨の中で、主からどのように行動することを期待されているのか・・・」と問うようになります。

私たちにも、ときに、逃げようのない悲惨が迫ってくることがあるかもしれません。そのとき、下手に逃げようとあせることはより大きな悲惨を招くことになります。主がもたらした苦しみは、主にすがって道を開いていただくしかありません。人間的な解決をはかろうとあせる前に、主にすがることが必要です。私たち新約の時代の恵みをパウロは、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13)と語っています。大切なのは、人間ではなく、主ご自身が備えてくださった「脱出の道」が示されるのを、忍耐を持って待ち続けることです。

3.「あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう」

6章1-7節では、イスラエルの山々が、偶像礼拝の場、「高き所」で満ちていることに対し、主ご自身が彼らの祭壇を打ちこわすばかりか、「わたしは、イスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、あなたがたの骨をあなたがたの祭壇の回りにまき散らす」(6:5)と言われます。これは、偶像礼拝に対する神の激しい怒りの現われであり、彼らに偶像礼拝の愚かしさを、身を持って体験させるための、神の懲らしめでした。そのことが、「刺し殺された者があなたがたのうちに横たわるとき、あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(6:7)とまとめられます。つまり、偶像礼拝に対する主のさばきは、ご自身こそが、唯一の神、世界の唯一の創造主、すべての存在の根源、世界のすべてを成り立たせているヤハウェ、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジ3:14)という方を神の民に知らせるためのしるしであったのです。実際、この苦難の中を生き残ることができたイスラエルの民は、その後、いかなる偶像礼拝も行わないということにいのちをかける民として、世界中に知られるようになります。

そのことが、「しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう」(6:8、9)と記されます。彼らは、バビロン捕囚を通して、「主を思い出す」ようになったのです。そして、彼らが偶像礼拝の愚かさを心から悟り、「自分たちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき」、つまり、それに嫌悪感を持つようになる時、「彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう」と記されます(6:9、10)。

そして、主はエゼキエルに、「あなたは、手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ』と叫べ」(6:11)と命じられます。これは、同情の嘆きというよりは、彼らの悪の愚かさを、手をたたき、足を踏み鳴らし、「あざけって喜ぶ」(25:6)という意味がありました。それは人々が自分たちの愚かさに気づくようになるための動作によるメッセージでした。そして、これらの悲劇を通して、再び、「彼らへのわたしの憤りは全うされる」(6:12)、また、「あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(6:13)と記されます。ここにもさばきの背後に、希望が隠されています。そして、それをもう一度まとめるように、主は、「わたしが彼らの上に手を伸ばし、すべて彼らの住む所、荒野(南端)からリブラ(北端)まで、その地を荒れ果てさせて荒廃した地とするとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(6:14)と言われます。

子供にとっての親は、しばしば、身近にいるときには、「うざったい」と思え、遠くにいると、「愛おしい」と思えます。それは、人間にとって、ちょうど良い関係は、空気のようなもので、存在のありがたさが実感できないからです。神の存在を、実感できないということは、実は、今の生活が順調であることのしるしです。しかし、それは常に、退屈に変わり、そこから刺激を求めた偶像礼拝が始まる恐れが常にあります。そのとき神は、私たちに敢えて、苦しみを与えることによって、すべてが神の恵みであることを思い起こさせようとしてくださいます。親を失う前に親の存在に感謝できることが幸福なように、苦しみを受ける前に、神の恵みを感謝できる者とさせていただきましょう。

4.「銀も金も、主(ヤハウェ)の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない」

引き続き主は、イスラエルに対するさばきを、「もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た。今、あなたに終わりが来た」(7:2,3)と、「終わり」ということばを三度も繰り返しながら知らせます。それは、神の公正なさばきの基準によってなされるものですが(7:3)、ここで主は、「わたしがあなたの行いに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(7:3、4)と言われます。これは、彼らが自分たちを襲う悲惨を通して、レビ記26章に繰り返されていた七倍の懲らしめや申命記28章で警告されていた「のろい」がイスラエルの民に降りかかるというものです。神は忍耐に忍耐を重ねてご自身のさばきを先延ばししておられましたが、これ以上延ばすことは、かえってみことばを無に帰させると思われたのでしょう。

そして再び、主のさばきが避けがたいことが、「わざわいが、ただわざわいが来る。終わりが来る。その終わりが来る。あなたを起こしに、今、やって来る。この地に住む者よ。あなたの上に終局が来る。その時が来る。その日は近い」(7:5-7)と、「来る」ということばを六度も繰り返しながら強調されます。そして、そのことが再び、「今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへのわたしの怒りを全うする」(7:8)と表現され、また、「あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう。わたしがあなたがたを打っていることを」(7:9私訳)と記されます。

そして主は、「見よ。その日だ。その日が来る。あなたの終局がやって来ている」(7:10)と言いながら、それを、「杖が花を咲かせ、高慢がつぼみを出した」と表現します。「杖が花を咲かせ」とは、アロンの杖が逆らう者どもへの戒めのためにアーモンドの花をつけたことを指すのかと思われますが(民数17:8-10)、それと同じように、彼らの隠れていた高慢が芽を出しあらわになった事に対する主のさばきが下されるという意味だと思われます。イスラエルの民は、主のあわれみを受けながら、それを忘れ、自分たちの力で豊かになったと思い込んでしまいました。

それに対して、主は、彼らの相続地をたちどころに奪うことによって、すべてが主の一方的なあわれみであったことを思い知らせようとしておられます。そのことが、「その時が来た。その日が近づいた。買う者も喜ぶな。売る者も嘆くな。燃える怒りがそのすべての群集にふりかかるから。売る者は、生きながらえても、売った物を取り返せない。幻がそのすべての群集にあっても・・・」(7:12、13)と言われます。ここで、「燃える怒り」と、「幻」ということばは並行して用いられていますから、この最後の文章は、新共同訳の「すべての群集に対する審判の幻が撤回されないからだ。罪ゆえにだれひとり命を保つことはできない」という訳の方が意味をよく伝えているでしょう。

なお7章17節では、神の「燃える怒り」による恐るべきわざわいの中を生き残った人々も、「みな気力を失い・・ひざもみな震える」と言われます。生き残った人々が恐怖に圧倒される様子は、レビ記26章36,37節で、「彼らの心の中におくびょうを送り込む・・吹き散らされる木の葉の音にさえ・・追い立てられる」と預言されていた通りです。

また金や銀が、「主の日」には何の役にも立たない様子が、「銀も金も、主(ヤハウェ)の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない」(7:19)と記されます。そして、「それらは彼らの飢えを飽き足らせることも、彼らの腹を満たすこともできない。それらが彼らを不義に引き込んだからだ」とは、金銀で本来は食料を買うことができるはずなのに、彼らがそれらで偶像を作って主の怒りを買ってしまったので、かえって悲惨を招いたという皮肉です。これは、現代にもそのまま適用できるものでしょう。主のさばきの前では、お金は何の助けにもならないばかりか、お金こそが、私たちを悪に誘惑し、滅ぼす原因になったことが思い知らされます。今も、私たちは、死の病に襲われる時、お金の無力さを知ることができます。私たちのいのちはすべて、「わたしは、『わたしはある』という者である」と言われる方の御手の中に置かれています。神以外の誰も私たちに永遠のいのちを与えることはできません。

そればかりか、主がご自身の宮を、異教徒を用いて破壊すること予告し、「わたしは彼らから顔をそむけ、わたしの聖なる所を汚させる。強盗はそこに入り込み、そこを汚そう・・・わたしは異邦の民の中で最も悪い者どもを来させて、彼らの家々を占領させ、有力者たちの高ぶりをくじき、彼らの聖所を汚させよう」(7:22、24)と言われます。これはソロモンが宮を建てたときに、主ご自身が既に警告しておられたことばでした(Ⅰ列王記9:6-8)。

そればかりか、「彼らは平和を求めるが、それはない。災難の上に災難が来、うわさがうわさを生み、彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司は律法を失い、長老はさとしを失う」(7:25、26)と記されます。彼らはこの時に至っても、自分に都合の良い「幻」を求めます。しかし、預言者も祭司も長老も、神のみことばを受けることができません(参照ミカ3:5-7)。そして、最後に主は再び、「わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう」(7:27)と言われます。彼らは自分たちの幻想が破られ、昔からの預言の通りのさばきが起こっていることを知ることによって初めて、「わたしが主(ヤハウェ)であることを知る」ようになるのです。彼らは何度も警告を受けながら、それを真剣に受け止めませんでした。

エルサレムの悲劇的な滅亡は、モーセの時代から繰り返し警告されていることでした。エルサレム神殿の滅亡さえも、神殿が完成したときに既に警告されていました。彼らは、神のみことばを繰り返し聞いていながら、それを聞き流し、「のろい」の計画を自分で導き出してしまったのです。しかし、神は、「のろい」のあとに、少数の神の民を残し、そこから「祝福」の計画を始めると繰り返し語っておられました。神の怒りが全うされることは、短期的には滅びでしかありませんが、それはのろいの預言が成就して、祝福の計画が始まることのきっかけでもあるのです。もし、あなたの人生が、「終わり」になってしまったように感じる時、人にとっての終わりは、神の祝福の計画が始まる時でもあるということを常に覚えているべきです。そして、最終的には、この目に見える世界の「終わり」は、「新しい天と新しい地」が始まる時です。ですから、私たちは、自分にとっての「重い」としか思えない「患難」を、「今の時の軽い患難」と言い換えながら、それは、「私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」と言いつつ、「ですから、私たちは勇気を失いません」と告白することができます(Ⅱコリント4:16,17)。