2009年8月9日
現代の多くの日本人にとって、「父の権威」が感じられない時代になっています。私は父を怖いと感じたことはありません。母はいつでもどこでも私の無条件の応援者でした。しかし、いつでもほめられるということは、反面、どこまでやり遂げても、「それで十分!」という達成感を得られないということにもつながります。父の権威を感じられない時代は、アイデンティティーが不安定になると言われます。聖書の神を、父なる神として恐れるということがなければ、「あなたは、わたしの愛する子」という神の語りかけの有難さが分からなくなります。また、神に父としての力強さを感じることができなければ、不安の中で、神が共にいてくださることが安心感につながりません。
この箇所は、神がどのようなお方かを、最も生き生きと描写したものです。もしあなたが神を、自分の願いを聞いてくれるばかりの優しいお父さんのように思い浮かべるなら、そこには真の平安も希望も生まれません。なぜなら、命を捨てることさえ命じられる父の権威なしには、自分から自由になるという信仰の真髄は分からないからです。
1.「天が開け、私は神々しい幻を見た」
1章1-3節からこの書の背景が明らかになります。著者は、「ブジの子、祭司エゼキエル」です。この時は、第二次バビロン捕囚から五年目の紀元前593年のことです。そして、場所は、「ケバル川のほとり」と記されますが、それはバビロン帝国の首都の近郊から延びるユーフラテス川の水を引いた大運河です。それはバビロン帝国の力のシンボルとも見られたのではないでしょうか。また、3章15節を見ると、そこには「テル・アビブ」という名の捕囚の民の集落がありましたが、それこそ、現在のイスラエルの首都の名の由来です。つまり、現在のイスラエルの民は、この預言が最初に告げられた町を、今も、自分たちにとっての希望の源としていることがわかります。
なお、最初にある「第三十年」とは、エゼキエルの年齢を指すと思われます。なお、これはヨシヤ王の宗教改革から30年目でもあります。彼は短い生涯の中で、ユダ王国の絶頂期から破滅までを見た預言者です。
彼は25歳のとき、当時18歳だったイスラエルの王エホヤキンの一族とともにバビロンに捕囚として強制移住されました。彼は本来なら、30歳のとき、栄光に輝く神殿での礼拝を導くという名誉にあずかることができたはずでした。しかし、このとき、神に背いた罰を受けて捕囚とされたイスラエルの民とともに、打ちひしがれていたのではないでしょうか。しかし、そのような絶望的な状況の中で、彼の上に、「天が開け・・神々しい幻を見た」(1:1)というのです。
私たちも同じように、自業自得の失敗をして、社会的な立場を失い、絶望的な状況に置かれるということがあるかもしれません。しかも、そこでは、繁栄を謳歌している異教徒たちが、「お前の神はどこにいるのか?」と嘲っています。しかし、そのような逆境の中でこそ、私たちの上には「天が開け」、神からの幻を受けることができます。
「私が見ていると、見よ、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら北から来た。その回りには輝きがあり、火の中央には青銅の輝きのようなものがあった」(1:4)とありますが、これは神ご自身が遠いエルサレムを離れてユーフラテス川沿いを南下して捕囚の民の真ん中に近づいているというイメージではないでしょうか。イスラエルの民は、かつての荒野の旅路の間、「昼は主(ヤハウェ)の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていた」(出エジプト40:38)とありますが、それは神が彼らのただ中に住んでおられたことのしるしでした。また、モーセが幕屋を建てたときも、ソロモンがエルサレム神殿を建てたときも、その場が「主(ヤハウェ)の栄光」に満たされ、モーセも祭司も近づくことができなかったと記されています。
ユダヤ人たちはそれを「シェキナー」と呼びました。それは、恐ろしくて近づき難くありながら、それは同時に、天地万物の創造主が、汚れた民の真ん中に住んでくださったというしるしでした。そこに恐怖と喜びが同時にありました。後に、エルサレム神殿が廃墟とされる理由が、「主(ヤハウェ)の栄光」が神殿を離れたからと描かれますが(10章)、その「主(ヤハウェ)の栄光」が、今、何と、遠い捕囚の地バビロンに現れたというのです。なお、「火の中央」にあった「青銅の輝き」とは「琥珀金の輝き」(新改訳脚注、共同訳)とも訳されますが、それは、1章27節では、神の腰から上のほうの輝きを表したものです。
2.四つの顔を持つ四つの生きもの
1章5-11節には、「おのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持つ」という「四つの生きもののようなもの」の不思議な幻が記されますが、これは、契約の箱の上の「贖いのふた」を覆っていたケルビムの姿を見せたものだと思われます。律法の書では、ケルビムの顔がどのようなものかは描かれませんでしたが、贖いのふたの両端に置かれた二つのケルビムの顔が向き合い、その翼が贖いのふたを覆っていたと記されていました。ダビデは詩篇18篇では、「主はケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。主はやみを隠れ家として、まわりに置かれた」(10、11節)と描いています。つまり、ケルビムは主ご自身を乗せる存在であるとともに、やみを隠れ家とする主の栄光を目に見えるように現す存在でもあるというのです。ここで、「足の裏は子牛の足の裏のようであり」(1:7)とは、「子牛のように、はねる」(詩篇29:6)という躍動感に満ちた存在であるとの意味が込められていると思われます。
そして、「おのおの」の生きものが持つ「四つの顔」は(1:10)、それぞれの領域の王者を示しています。「獅子」は野の獣の王、「牛」は家畜の王、「鷲」は空を飛ぶ鳥の王です。そして、「人間の顔」こそケルビムの顔の中心をなすものですが、それは、人が神のかたちとして、世界のすべての生き物を治める者として創造されたからです。
なお、黙示録ではこれを少し変えて、全身が目で満ちた四つの生き物が、それぞれ、獅子、雄牛、人、鷲という姿をもって、六つの翼をもって神の御座のまわりを飛びながら、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、神である主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方」と賛美する様子が描かれています(4:6-8)。
「彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた」(1:11)と、「翼」の様子が描かれていますが、これは預言者イザヤが見た「セラフィム」の様子に似ています。その彼らの場合は、「それぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、ふたつで両足をおおい、ふたつで飛んで」いました(イザヤ6:2)。それはエゼキエルの見た生き物とは違いますが、同じく神のそばに仕えるものとして似たような翼の働きを持っていました。ただ、イザヤと黙示録の生き物は、神を賛美する存在として描かれていますがこの生き物の場合は、「翼の下から人間の手が四方に出ていた」(1:8)とあったように、神の御座を運ぶような働きをしていたのかもしれません。そして、「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった」(1:12)とあるように、彼らは向きを変えることなく速やかに移動することができました。その際、「霊が生かせる所に」と、御霊の導きに自由に応答できることが強調されています。
「それらの生きもののようなものは、燃える炭のように見え、たいまつのように見え、それが生きものの間を行き来していた。火が輝き、その火から、いなずまが出ていた」(1:13)とありますが、「燃える炭」とは、イザヤ6章6節にもあったように「聖める力」であり、また「たいまつ」も神の栄光の現れです(創世記15:17)。また、「火」と「いなずま」も、神の近づきがたい栄光を現すものです。そして、「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた」(1:14)とありますが、それは人には、恐怖を起すものです。
主(ヤハウェ)がシナイ山に降りてきてイスラエルの民に「十のことば」を告げられたとき、民の長老たちは恐怖に圧倒され、これからはモーセを通して間接的に神の御声を聞くようにしたいと必死に願ったほどです。私たちは、主の「栄光と偉大さ」(申命記5:24)を、軽く見すぎる傾向があるのではないでしょうか。
3.四つの輪と四つの生きもの、主の栄光の御座
引き続きエゼキエルは神からの幻に圧倒されながら、「私が生きものを見ていると、地の上のそれら四つの生きもののそばに、それぞれ一つずつの輪があった・・」(1:15-17)という不思議な情景を記しています。生き物に翼があるなら、「車輪」など必要がないように思えますが、これがあることによって、生き物はこの地に密着しながら、移動することができます。私たちには、地に足をつけた生き方が大切だと言われますが、この生き物に密着する輪があるおかげでそれが可能になるというのです。「一つの輪が他の輪の中にある」(1:16)という表現はわかりにくいものですが、これはふたつの輪が、私たちの想像を超えるような形で直角に交差しているようなものかと思われます。それによって、輪が向きを変えることなく移動ができるということだと思われます。
「四つの輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。生きものが行くときには、輪もそのそばを行き、生きものが地の上から上がるときには、輪も上がった・・・生きものの霊が輪の中にあったからである」(1:18-21)という表現は、この「輪」は生き物を乗せる自動車のような機械ではなく、それ自身に「いのち」があり、その「目がいっぱいついて」いることで、主体的にどの方向にでも、即座に自由に動くことができる生きた存在であるということです。
しかも、「生きものの霊」がそこに宿ることによって、輪と生き物が一体となって動くことができるという意味です。
イエスは、父なる神に向かって、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(ヨハネ17:21)と言われましたが、それは、イエスと父なる神が一体であるように、弟子たちが一つになるようにという祈りでした。神は愛の交わりの中に存在していますから、神に仕える存在も、それぞれ主体性を保ちながら、一体の者として存在しているのです。
そして、その上で、神の御座の様子が、「生きものの頭の上には、澄んだ水晶のように輝く大空のようなものがあり、彼らの頭の上のほうへ広がっていた・・・彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった」(1:22、26)と描かれます。これは、「四つの生きもの」の頭のはるか上に、「神の王座」があったことを示しています。
シナイ山で律法を受けたとき、イスラエルの長老七十人が神を仰ぎ見た様子が、「御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通って青空のようであった」(出エジプト24:10)と記されていました。
つまり、神は、ケルビムのはるか上の、澄んだ大空のようなところに、玉座を持ち、人は、その姿をおぼろげに見ながらも、その御顔はまぶしすぎて見ることはできません。私たちはケルビムの翼の音を聞くだけで恐怖に襲われます。そして、恐ろしい音を立てて移動するケルビムですら、神の御声を聞くときには、立ち止まって、その翼を垂れ、恐れをもって主のみことばを聞いていました(1:25)。私たちは、どれだけの恐れをもって、主のみことばを聴こうとしているでしょうか。それにしても、神の御姿が、「人間の姿に似たもの」と表現されているのは興味深いことです。人は神のかたちに、神に似せて創造されました。それゆえ、神は人間に似た姿として逆に描かれるのですが、私たちはしばしば、神のかたちを人間のかたちに引き下げて考えてしまいます。それこそ滅びへの道です。
そして、神の姿が、「その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた」(1:27)とありますが、「青銅のように輝き」という表現は、1章4節にあったように、「琥珀金の輝き」と訳すことができます。つまり、神は人間のように描かれながらも、決して、人間の姿として見られる方ではなく、表現しがたい輝きとともに、「火のような」存在としてしか描くことはできないのです。そして、「その方のまわりにある輝き」は、「雨の日の雲の間にある虹」のような、透き通った美しい輝きでした(1:28)。そこには、まさに、恐怖と感動がありました。
聖書の中で、このエゼキエル1章ほど、詳しく神の栄光を描いた箇所はありません。エゼキエルは、世界の終わりと思える絶望的な状況の中で、この神の栄光を垣間見させていただけました。それは、彼がこれからイスラエルの民のかたくなさにおじることなく、神ののみを恐れて、神のみことばを述べ伝えるためでした。
4.哀歌と、嘆きと、悲しみを書いた巻物は、私の口の中で蜜のように甘かった
そして、今、その栄光に満ちた主ご自身からのみことばがエゼキエルに示されます。主は彼をまず、「人の子」と呼びかけます。それは、厳密には、「アダムの息子」と記されています。それは、ダニエルが救い主を「人の子のような方」(7:13)と表現したときのヘブル語とは異なり、死すべき者、被造物に過ぎないという意味がこめられています。そして主は、彼に、「立ち上がれ。わたしがあなたに語るから」(2:1)と仰せられました。そして、その方が語られるとともに、その方の「霊」がエゼキエルのうちに入り、彼を「立ち上がらせた」というのです(2:2)。つまり、主は「立ち上がれ」と命じながら、彼を立ち上がらせたのは、彼の力ではなく、主ご自身の霊であったというのです。
そして、主は彼に、「わたしにそむいた反逆の国民に遣わす・・・彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす」(2:3、4)と言われます。つまり、神は、今、聞く耳のない民に彼を遣わすのです。
その際、彼は、「アドナイ(主)、ヤハウェはこう仰せられる」と言いながら、「聞いても、聞かなくても」、主ご自身のみことばを語る必要があります。そして、その目的が、「彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない」(2:5)と記されます。たとえば、預言者エレミヤのことばは、誰からもまじめに受け止められませんでしたが、そのとおりのことが起きたときに、人々は、彼が主の預言者だと納得しました。同じように、エゼキエルのことばも、時が来たら分かるというのです。そのとき、預言者があらかじめ語っていなければ、人々の心は、主ではなく自分たちに恩恵を施してくれた目に見える王に向かってしまいます。イスラエルの民は、ペルシャの王クロスを救い主として拝むのではなく、イスラエルの神ヤハウェを拝むべきだったのです。
主は引き続き彼に、「人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな・・・あなたがさそりの中に住んでも、恐れるな・・・彼らの顔にひるむな」(2:6)と言われました。エゼキエルが主の栄光を見させてもらえたのは、彼が自分に害を加えそうな人間ではなく、主ご自身を恐れることができるためでした。そして、主は再び彼に、「彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ」(2:7)と言われます。
そして主は彼に、「人の子よ・・・あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」(2:8)と言われながら、「一つの巻き物」を差し出しましたが、そこには「その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった」というのです。主は預言者エゼキエルに、「この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ」(3:1)と言われました。そして、彼がそれを食べたとき、「すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」(3:3)というのです。つまり、巻物は、その内容からするならば、口に苦いものであったはずなのに、それは彼の口に「蜜のように甘かった」というのです。それは、イスラエルに対する神のさばきは、彼らを滅ぼすためではなく、彼らを祝福に導くための神のご計画であったからです。それは主が預言者エレミヤに、「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。―主(ヤハウェ)の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(29:11)と言われたとおりです。
さらに主はエゼキエルに、「わたしはあなたを・・・そのことばを聞いてもわからないようなむずかしい外国語を話す多くの国々の民に、遣わすのではない。もし、これらの民にあなたを遣わすなら、彼らはあなたの言うことを聞くであろう。しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない・・・イスラエルの全家は鉄面皮で、心がかたくなだからだ」(3:5-7)と言われました。これは、ことばの通じない外国人の方が、聞き分けが良いという意味です。イスラエルの家は、「反逆の家」(2:5,7,3:9、26,27等)なので聞く耳がないというのです。
それに対し主は、「見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし・・・あなたの額を、火打石よりも堅い金剛石のようにする・・・彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな」(3:8、9)と彼を励ましました。そして再び、主のみことばを、「あなたの心に納め、あなたの耳で聞け」と言いながら、「さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え」と命じられます(3:10、11)。なお、これまで、「聞いても聞かなくても」という表現が三度も繰り返されています。
その上で、「それから、霊が私を引き上げた。そのとき、私は、うしろのほうで、「御住まいの【主】の栄光はほむべきかな」という大きなとどろきの音を聞いた。それは、互いに触れ合う生きものたちの翼の音と、そのそばの輪の音で、大きなとどろきの音であった。霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って、苦々しい思いで出て行った」(3:12-14)と記されているのは、エゼキエルが不本意な働きに召されたということへの不満とも、また、主のイスラエルに対する怒りを共有したともとれます。「しかし、【主】の御手が強く私の上にのしかかっていた」ので、彼はこの召しを拒絶することはできませんでした。どちらにしても、彼自身、自分の心を整理できなかったに違いありません。そのことが、「そこで、私はテル・アビブの捕囚の民のところへ行った。彼らはケバル川のほとりに住んでいたので、私は彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた」(3:15)と記されています。彼はとにかく七日間もの間、呆然とせざるを得なかったのです。
5.わたしに代わって彼らに警告を与えよ・・わたしは彼の血の責任をあなたに問う
そして、「七日目の終わりになって」、主はエゼキエルに、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした・・・わたしに代わって彼らに警告を与えよ」(3:17)と言われました。これは、彼が神の代理として警告を与える責任を負うということです。しかもその際、「わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う」(3:18)と言われました。これは、彼は、警告を与えなかったことの責任を問われるというのです。私たちも、身近な人々に、主からの召しによって、警告を与えなければならないときがあります。それと反対に、明確な警告を与えた場合は、たとい悪者が悔い改めなくてもあなたの責任にはならないということです(3:19)。私たちの世界では、どれだけ効果的に、人の心に届く話し方ができるかが問われます。しかし、ここでは、主の働きにおいては、召しに従ったかどうかが何よりも問われます。
また、この原則は、すでに神に従っている人にも適用できます。それは、どんな人も、道を踏み外す危険があるからです。そのことが、「もし、正しい人が・・・不正を行うなら・・彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行った正しい行いも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。しかし、もしあなたが・・・警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば・・・彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる」(3:20、21)と描かれます。
ところが、その後、不思議な展開が記されます。それは、主がエゼキエルを谷間に出て行かせながら、そこで再び、主の栄光が現され、主は彼に、「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで縛られて、彼らのところに出て行けなくなる」と仰せられます(3:24、25)。そればかりか、主ご自身が彼の口を閉ざすことがあるという意味で、「わたしがあなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることができなくなる。彼らが反逆の家だからだ」(3:26)と言われます。しかし、同時に、「しかし、わたしは、あなたと語るときあなたの口を開く。あなたは彼らに、『神である主はこう仰せられる』と言え。聞く者には聞かせ、聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ」(3:27)とも言われます。
つまり、神はエゼキエルに、イスラエルの民に対する警告を与えなければその責任を彼に問うと言いながら、同時に、彼が警告を与えることができない状況をも作られるというのです。エホバの証人などは、自分たちは、世界の見張り人、ものみの塔であるという理解の、相手の状況にお構いなく、ただ警告を与え続けること自体に意義を見出しています。しかし、私たちは、語るべきときと、語ってはならないときを、神のみこころにしたがって区別するように召されているのです。せっかくの真理のみことばも、タイミングが悪ければまったく通じないどころか、反発だけを受けることになるからです。ただし、主が語るように命じられているとき、相手が聞いても聞かなくても、とにかく、主のみこころを語るべきというときもあるのです。相手の反応ではなく、主ご自身が示されたタイミングということに目を開く必要があります。どちらにしても、共通するのは、相手の拒絶を恐れてはならないということです。
「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(Ⅱコリント4:6)とパウロは述べましたが、神は、旧約における近づき難い、恐怖を引き起こす主の栄光とともに、イエスの御顔という愛に満ちた栄光を示してくださいました。しかし、イエスが十字架にかかる前に、父なる神に向かって、「父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(ヨハネ17:5)と祈られましたが、その栄光とは、十字架の苦しみでした。そのように見ると、旧約の栄光は近づき難くて、新約の栄光は近づきやすいという誤解は解けます。どちらにしても、「主の栄光」とは、私たちには近づき難い恐怖なのです。しかし、世界を一瞬で創造し、また滅ぼすことができる方が、私たちを救うために、ご自身の側から近づいてくださったというのが、旧、新約を通じる神の救いのストーリーです。神があなたの罪を贖い、神の子として招いてくださいました。それは私たちをエゼキエルと同じようなご自身の代理としてこの世で用いるためです。そして、私たちは、主の栄光を拝する時に、この世の人々の反応を恐れることから自由にされ、また、自分の身を第一としたいという誘惑からも自由になれます。