2009年8月2日
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語の冒頭では、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」ということばとともに、中国や日本での権力者の滅亡の有様が、「楽しみを極め、人の諫言も心に留めて聞き入れることもなく、天下の乱れることも悟らないで、民衆の嘆き憂いを顧なかったので、末長く栄華を続ける事なしに滅びてしまった」と説明されます。これは、今もそのまま適用できる原則ですが、これが記された二千年も前に、ソロモンは同じ趣旨のことを語っています。しかし、ソロモンはそれを悟ってはいましたが、実行することはできませんでした。何が欠けていたのでしょう。
ところで、十字架の福音はきわめて逆説的です。自分の罪深さを認めないものの心には決して響かないからです。しかし、「あなたは罪人です」といわれる言葉をどうして私たちは受け入れることができたのでしょう。最近ベストセラーになっている村上春樹の小説の中で、ある宗教指導者のことばが次のように書いてありました。
「ほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する……多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」。
つまり、すべての宗教は、人が自分の正気を保つために幻想的なセルフイメージを求めるところに始まるというのです。これは本当に鋭い視点でしょう。しかし、聖書の福音は、そのような宗教の枠を超えたものです。福音は、私たちを、神の御子を十字架に架けたほどの罪人と宣言しながら、同時に、御子を犠牲にするほどに価値ある存在と定義しているからです。私たちの罪深い言動を断罪しながら、存在を尊ぶという逆説こそ、福音の神秘です。
1.「家を建てる者、家を壊す者」
「知恵のある女は自分の家を建て、愚かな女は自分の手でこれをこわす」(14:1) とありますが、これが特に女性に当てはめられているのは、31章で「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い」(10節) と記されていることと同じような趣旨で理解すべきでしょう。多くの男性は、女性に何よりも外面的な美を求めますが、何よりも大切なのは、彼女の「知恵」であるというのです。
ダビデ王家の没落は、ソロモンが女性の美を追求したことに始まっていますが、この部分の著者がソロモン自身であると記されているのは何とも皮肉な事です。所詮、人間は、理性に従っては行動できない者なのでしょうか。それにしても、ここで「知恵」と「愚かさ」との対比が、「建てる」ことと「壊す」こととして記されているのは興味深い事です。残念ながら、いつの世にも、自分で築き上げてきたものを、激情に振り回されて一瞬に壊してしまう人がいるものです。パウロはこのことをさらに進め、「知識は人を高ぶらせ (puffs up)、愛は人の徳を建てます (builds up)」(Ⅰコリント8:1) と記しています。ここでも、愛の交わりを「壊す」ことと「建てる」こととの対比が記されています。
この世では、短時間で問題を解決する能力とか、批判能力や分析能力とかが尊重されますが、神は何よりも、「建て上げる」という能力を伸ばすことを求めておられます。たとえば、私は昔、「日本の教会はこれだからだめなんだ……」などと批判ばかりしていた時期がありました。しかし、今振り返ると、自分は何と無知で高慢であったかと恥じ入るばかりです。神から与えられた真の知恵は、神の家を批判することではなく、神の家を建て上げることに現されるはずであると今は心から思わされています。しばしば、瞬時に問題を解決できると思い込む人こそ、瞬時に壊してしまう人です。何よりも大切なのは、どんなに時間がかかっても、建て上げ続けるという忍耐力です。
そして、それを別の観点から述べたのが、「まっすぐに歩む者は、主 (ヤハウェ) を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る」(14:2、3) という表現でしょう。「主を恐れる」とは、自分の無知と無力さを認めて主に信頼する人です。そのような人は「まっすぐ歩む」ことができます。反対に、「愚か者」は、このような話を聞いても、「これをあの人に聞かせてやりたい……」などと思うばかりで、自分のうちにある破壊性に気づきません。「自分は大丈夫……」と思う人の内側には、「誇りの若枝がある」ということを忘れてはなりません。ただ、このような話を謙遜に聞こうとするあなたは、「愚か者」ではありません。そして、「知恵のある者」は、自分の知恵を吹聴することなく、また人々を批判もしないので、「身を守る」ことができます。
2.「牛がいなければ飼い葉おけはきれいだ」
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」(14:4) という表現は、驚くほど示唆に富んだ表現です。昔、私の家には、農耕用の馬がいました。馬の餌をやるのが私の小さな勤めだったことがあります。しかし、馬小屋には馬糞がたまります。それを処理するのは父の役割でしたが、それは稲を育てるための効果的で安全な肥料になりました。現在はどの農家でも、手のかかる馬の代わりに高価な機械で昔よりはるかに広大な農地を効率的に用いることができるようになっていますが、農耕に手がかからない代わりに、借金にうめいている農家が数多くあり、その借金を返すために安い賃金で手稼ぎに出る必要が新たに生まれています。また化学肥料や農薬の害が新たな心配となっています。つまり、ひとつの便利さの影に、思わぬ苦しみが付随するというのがこの世の現実です。とにかく、今から三千年前に、農耕用の牛を持つことができたときに、生産力は格段に飛躍しました。しかし、それに伴い、飼い葉おけその他の、牛の世話にも多くの労力が必要になってきました。
私たちが何か大きな働きを成し遂げようとするとき、チームワークが何よりも大切になります。しかし、それを保つためには、本来の働きとは別の数多くの配慮が必要になります。それは時に、耐え難いほどのストレスになることがあります。多くの宣教師の方々に、「発展途上国での宣教の働きで、何が大変ですか……」と聞くとき、私たちは、「電気や水道もない生活が大変です……」という答えを期待しがちですが、しばしば最も正直な答えは、「宣教師どうしの人間関係や、宣教団体との関係でのストレスです」というものです。しかし、そのようなストレスの原因ともなる大きなチームワークがなければ、危険を伴う宣教地に宣教師を派遣することはできません。つまり、目的とする働きを効果的に成し遂げるためには、面倒な人間関係を円滑に保つための数多くの日常的な気配りが必要になってくるのです。牛がいなければ収穫を多くする事は出来ません。しかし、牛を飼えば、飼い葉おけはいつもよごれます。馬がいなければ北海道での農作業は成り立ちませんでした。しかし、馬を飼えば馬糞を処理しなければなりません。私たちにとって、人と人との関係はいつも大変です。しかし、人と人との面倒な付き合いを避けて、目的に沿った協力だけに集中することなどできないのです。これは、教会にも適用できます。子どもがいなければ教会は静かになるかもしれません。しかし、子どもがいなければ教会の未来はないばかりか、現在の活力も生まれないことでしょう。この世的には、足手まといがいなければ組織は有効に機能するという見方があります。しかし、枠にはまらない人がいなければ、どんな組織は息苦しくなってしまうものです。私たちの生きている世界では、自分にとって都合の良いものだけを選んで、面倒なことを避けるということは自殺行為にしかならないのです。
そして、何よりも、「建て上げる」という働きのためには、「飼い葉おけをきれいに保つ」という面倒な働きが不可欠です。自分にとっての心の満足ばかりを極めようとする生き方は、働きを壊すことにしかなりません。
3.「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」
「利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く」(4:8) とは、目の前の危険に気づくことです。たとえば、登山をしていると、晴天の時と雨天のときの落差に驚きます。晴れている時、半袖でも暑いと感じる場が、一日違いでどんな防寒具も役に立たないほど寒くなります。そのとき、「愚かな者」は、雨は降らないと自分に言い聞かせます。私も、日帰りで大雪山に登りながら、「晴れるはず……」と自分を欺いて、難儀したことがあります。しかし、「利口な者」は、あらゆる状況に対処できる備えをしています。先日、大雪山で9人もの命が失われましたが、残念ながら、装備ばかりか時間でも、危険への備えが不足していたことは明らかです。
そして、「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」(14:10) とは、人の苦しみも喜びも、それぞれの固有のものであり、だれも、「そんなことで苦しむなんて、軟弱すぎるのでは……」などと、その人の気持ちを軽蔑することはできないという意味です。また、「悪者の家は滅ぼされ、正しい者の天幕は栄える」(14:11) とは、この世で完結するような真理では決してありません。来たるべき世のいのちを前提として初めて断言できることです。私たちはしばしば、あまりにも自分の狭い尺度で、人生を評価しようとしています。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(14:12) とは、一見、成功が約束されていると思える道こそが滅びに向かっているという逆説です。そのことをイエスは、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13、14) と言われました。そして、「死の道」を歩む者に関して、「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる」(14:13) と言われます。自分の人生のゴールが「新しいエルサレム」にあると信じられるかどうかは、現在の「笑い」にまで影響を及ぼすというのです。
「わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる」(14:15) とありますが、「わきまえのない者」の直訳は「単純な者」であり、「利口」は、「蛇が一番狡猾であった」(創世記3:1) と訳されているのと同じことばです。イエスは、「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(マタイ10:16) と言われましたが、「私は単純だから、何でもすぐ信じられる……」ということは、聖書が勧める「信仰」とは異なります。
それが別の観点から、「知恵のある者は用心深くて悪を避け、愚かな者は怒りやすくて自信が強い」(14:16) と述べられます。「用心深い」とは厳密には、「恐れている」と訳され、「自信が強い」とは、「安心している」とも訳されることばです。つまり、多くの人々の常識に反し、「知恵のある者は恐れることを知っており、愚かな者は根拠もなく安心している」というのです。多くの人は、心の平安を求めていますが、聖書によると、「神を恐れる」こと、つまり、神の守りがなればすべてが不安であり、神の怒りを受ける者は、どんな努力も無に帰するということを受け入れること、つまり、「不安を認めて、神により頼む」ことが「平安への道」であると語っていることを忘れてはなりません。
4.「力強い信頼は主 (ヤハウェ) を恐れることにあり……主 (ヤハウェ) を恐れることはいのちの泉」
「力強い信頼は主 (ヤハウェ) を恐れることにあり、子たちの避け所となる。主 (ヤハウェ) を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」(14:26、27) とは、私たちが暗誦すべき聖書の真理の表現でしょう。「主を恐れる」ことの中には、「おびえ」ではなく、「力強い信頼」が生まれます。また、「主を恐れる」とは、見捨てられ、滅ぼされるかもしれないという恐怖ではなく、「いのち」を湧き出させる「泉」を私たちの内側に与えられることです。
イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28) と言われましたが、しばしば、「神を恐れる」ことは、「人を恐れる」こととの対比で明らかにされます。人の目を恐れて生きる人には「いのちの輝き」が生まれないことは明らかではないでしょうか。また、人にすがっても、最終的には拒絶されるだけです。ですから、私たちは、「主を恐れよ」ということばを、「人ではなく、神を恐れよ」と言い換えたほうがわかりやすい場合があります。なお、イエスは、それに続けて、「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから、恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりもすぐれた者です」(同10:29–39) と言われました。まさに、そこでは、「主を恐れることの中に力強い信頼があり、主を恐れることはいのちの泉である」という真理が、生き生きと表現されています。
また、「穏やかな心はからだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ」(14:30) とは、人の健康状態が心の穏やかさや激しさに左右されるという現実を指しますが、「穏やかな心」を持つことができるための秘訣は、「主のさばきを信じる」ことから始まります。そして、「主のさばきを信じる」ことからは、人をさばく心ではなく、愛が生まれます。そのことをパウロは、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:19) と表現しましたが、そこには、自分が悪人を裁こうとしなくても、神がさばいてくださることに信頼して、心を穏やかに保って、「敵が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませる」という隣人愛を実践することの勧めが伴っていました。
そして、「主を恐れる」ことは、同時に、隣人との関係に並行して現れるということが、「寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う」(14:31) と描かれます。
また、「悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある」(14:32) と描かれますが、イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25) と言われました。私たちは死の中にも希望を見出すことができます。そして、「知恵は悟りのある者の心にいこう。愚かな者の間でもそれは知られている」(14:33) とありますが、聞く耳を持つことの幸いを語るものですが、「愚か者」でさえ、神を信頼する者のうちにある希望を、最終的には認めざるを得なくなるという現実を示します。
5.「悪者のいけにえは主 (ヤハウェ) に忌みきらわれる」
「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす」(15:1) とは私たちが人との会話の際に心に留めるべき大切な知恵です。何と多くの会話が、「売り言葉に、買い言葉」というような悪循環に陥ってしまうことでしょう。私たちは、相手が怒っていればいるほど、柔らかなことばで応答しなければなりません。そして、そのように自分の口を制することの大切さが、「知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。主 (ヤハウェ) の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅」(15:2–4) と描かれます。自分の舌を制することには、私たちのいのちがかかっているというのです。
なお、使徒ヤコブは、「舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:8) と不思議な、同時に絶望的な言い切りをしています。だからこそ、私たちは、その現実を謙虚に認め、主のあわれみにすがるしかありません。そして、「主を恐れる」とは、そのように自分の弱さを謙虚に認め、「主にすがる」ことです。聖書では、「主を恐れる」ことと、「主にすがる」こととは同義的な意味を持っています (申命記10:20参照)。これはたとえば、あなたの特別に目をかけてくれている上司がいるときに、別の上司に自分の相談を持ちかけることが、どれだけ心証を害することになるかということを考えみれば明らかでしょう。
そしてそのことが別の観点から、「知恵のある者のくちびるは知識を広める。愚かな者の心はそうではない。悪者のいけにえは主 (ヤハウェ) に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。主 (ヤハウェ) は悪者の行いを忌みきらい、義を追い求める者を愛する」(15:7–9) と描かれます。ここで、「知恵のある者」「正しい者」「義を追い求める者」というのはすべて基本的に、「主を恐れる者」ということばに含まれる同義語です。私たちにとって大切なのは、自分を神の前で正当化できることではなく、自分の罪深さを認め、イエスの十字架にすがることです。神はイエスの贖いのみわざに信頼する者を「義と認めて」くださいます。ですから、私たちは人を助けたり、主にいけにえをささげたりする前に、主の前にへりくだることが必要です。それは、ダビデも、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17) と告白している通りです。
6.「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」
「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」(15:13) とは、自分で自分の心を元気付けることではなく、自分の悩みや思い煩いを主に打ち明けることから生まれる喜びを求めるようにとの勧めです。
「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である」(15:15) というのも、主との関係で生まれる心です。癌にかかって絶望していた人が、このみことばに出会って元気が出たという話を聞きましたが、私たちの心の楽しみは、自分の健康や環境以前に、主との関係から生まれるからです。
「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する」(15:22) で、「密議」ということばは原文で悪い意味で用いられているわけではありません。それは信頼できる人との親密な会話を意味します。私たちは、不特定多数の参加者がいる会議に諮る前に、少数者による事前協議が不可欠です。公の会議での多数決というのは、主の導きに関しての見解が分かれたときの最後の手段に過ぎません。様々な情報を共有しながら、そのことに大きな責任意識を持っている人の中で計画が練られてこそ、計画は成功に導かれます。
そして、「主 (ヤハウェ) は高ぶる者の家を打ちこわし、やもめの地境を決められる。悪人の計画は主 (ヤハウェ) に忌みきらわれる。親切なことばは、きよい。利得をむさぼる者は自分の家族を煩わし、まいないを憎む者は生きながらえる」(15:25–27) というのも、この世の損得を越えて、主を恐れる者への幸いを約束することが趣旨です。私たちは自分の心の弱さに居直ってはなりません。主は、最終的に、私たちのすべての行いの良し悪しを問われます。イエスの十字架の赦しを信じるとは、同時に、イエスの御霊の助けによって善い行いに励むことでもあるのです。
「正しい者の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪者の口は悪を吐き出す。主 (ヤハウェ) は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる」(15:28、29) とは、日々の生活で、「思い巡らす」ことと「祈り」とを何よりも優先すべきであることを示します。その際、自分が「正しい者」であるかを問うよりも、何を優先しているかを問うべきでしょう。
「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る。訓戒を無視する者は自分のいのちをないがしろにする。叱責を聞き入れる者は思慮を得る。主 (ヤハウェ) を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」(15:31–33) において、謙遜とは何よりも、叱責を受け入れる心として表現されます。しばしば、偉くなりすぎると、批判の声が耳に入らなくなります。多くの指導者の失敗は、常にそこから始まります。裸の王様になることは、周りの人をすべて不幸に陥れるきっかけになります。「知恵のある者の間に宿る」ことが何よりも大切です。
パウロは、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが……神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです……キリストは私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、あがないとになりました」(Ⅰコリント1:22、 23、 25、 30) と記していますが、私たちにとっての最高の知恵とは、イエスの十字架です。そしてパウロは、割礼という肉のしるしを誇りとしようとするユダヤ人に対し、「しかし私には、私たちの主イエス・キリスト以外に決して誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14) と語りました。
しかし、ソロモンは、「神を恐れる」ということの大切さをわかっていながら、神の怒りを買うような誘惑に負けてしまいました。それは、彼が賢くなりすぎて、「知恵のある者の中に宿る」ということができなくなったからかもしれません。しかし、それは同時に、最高の知恵を与えられても、人の叱責や訓戒を必要としないほどの知恵者はいないということを示しています。そして何よりも、ソロモンは、神の御子の十字架の神秘を知らされていませんでした。私たちはそれを知らされているのですから。いつでもどこでも、主の十字架の前にへりくだる必要があります。そのとき、「謙遜は栄誉に先立つ」とあるように、神があなたを高くしてくださいます。祝福の鍵は、主の前での「謙遜」です。