ルカ24章36〜53節「現実の生活の延長にある復活のいのち」

2009年4月12日

人は時に、「早いところこんないなや世界から抜け出したい・・・」という思いになります。またときには、「こんな交わりから離れて生きたい・・・」などと思う人さえいるかもしれません。しかし、それは復活の知らせを聞いた弟子たちにもあった心でした。しかし、イエスはそんな不信仰な弟子たちとともに歩み、「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」という信仰の喜びへと回復させてくださいました。同じ復活のイエスがあなたの日常生活のただなかにともにいてくださいます。復活のいのちとは、この世を去ったいのちではなく、天国がこの地に下りてくるといういのちです。天国に行くのではなく、天国がここに下りてくる、それが信仰の喜びです。

1.焼いた魚を召し上がった復活のイエス

「これらのことを話している間に」(36節)とは、「週の初めの日」(24:1)と呼ばれる復活の日曜日に起こったできごとをイエスの弟子たちが話していたことを指します。イエスに従っていた三人の女たちが、イエスの葬られた墓に香料をもって出かけたところ、墓は空っぽになっており、イエスのみからだはどこにも見当たりませんでした。そこにふたりの御使いが現れ、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか・・・」と言いながら、イエスがエルサレムにのぼって来る前のガリラヤにいたときご自分の十字架と復活のことを語っておられたということを思い起こさせました(24:5-7)。ところがその報告を聞いた使徒たちは「女たちを信用しなかった」(24:11)というのです。そればかりか、その話を聞いていたクレオパともうひとりの弟子は、エルサレムに集まっていた弟子たちの集団から離れ、11キロメートル離れたエマオという村に向かっていました。たぶんこのふたりはイエスがイスラエル王国を復興するダビデの子であるという期待が、十字架によって完全に裏切られたと思い、失望のあげく弟子の集団からの離脱を決意して自分たちの家に戻ろうとしていたのだと思われます。復活したイエスはご自身を隠しながらそんな不信仰なふたりとともに歩み、彼らに聖書を解き明かししてくださいました。それは彼らを弟子の交わりに復帰させるためだったと思われます。それで彼らは、自分たちに語りかけた方がイエスご自身であることがわかったとき、御姿が見えなくなるやいなや、夜になっていたにも関わらず、急いでエルサレムの弟子たちのもとに戻りました。このような最初の日曜日の出来事を弟子たちが語り合っている中に、突然、「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」(36節)というのです。使徒ヨハネは、「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが」(20:19)と、戸が閉められているにも関わらず、イエスはそのような隔ての壁を越えて、突然、真ん中に現れたと強調されています。

そのとき、「彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」(37節)とのことです。「霊」とは「御霊」と訳される言葉から定冠詞を除いたものですが、ここでは「幽霊」とか「亡霊」に近い意味が込められているのかも知れません。ただ、イエスが夜中に湖の上を歩いたとき、「弟子たちは・・・『あれは幽霊だ』と言って、おびえた」(マタイ14:26)というときの「幽霊」という言葉とは異なります。しかも日本の幽霊は、「恨めしや・・・」と出てくるので怖がられますが、弟子たちがそのように恐れたというわけではありません。それは、自滅直前のサウル王が霊媒師によって預言者サムエルを呼び出したときの現象を連想させたのではないでしょうか。とにかく、今、ここに至っても弟子たちは、預言者サムエルが死んだようにイエスも死んで、サムエルが霊媒で現れたようにイエスも現れたとしか思えなかったのでしょう。

「すると、イエスは」、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか」(38節)と彼らを叱責しました。それは弟子たちがこの世の常識にあまりにも縛られ、どれだけみことばと証しを聞いても、自分の聞きたいようにしか聞くことができなかったからです。ただイエスはそのように言われながらも、彼らが疑いから自由になれるように、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです」(39節)と言われました。ここでイエスは、「わたしの手」「わたしの足」と、十字架の生々しい釘の跡を見せたことでしょう。その上で、「わたしはそれです」と言いながら、復活の姿がその前のご自分の身体との連続性があるということを強調されました。そればかりか主は、「わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています」(39節)と言われました。単に見るだけではなく、「さわって・・・」と言われたとは、何と感動的なことでしょう。「霊ならこんな骨や肉はありません」という表現に、イエスの復活の身体が、目に見える「骨や肉」からなっていることを明らかにしておられます。

ところが、「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっている」という様子を見て、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と、復活のからだの特徴を理解させるために問いかけました。それに対して、弟子たちが、「焼いた魚を一切れ差し上げる」と、「イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった」というのです(42、43節)。復活の初日にイエスは弟子たちが差し出した焼き魚を食べたというのは何と感動的なことでしょう。

多くの人々は、「食べる」とか「飲む」ということを俗的なことととらえますが、復活のイエスはなおも食事を楽しむことができたというのです。私たちは新しいエルサレムでの祝宴に招かれています。そこでは、「神を仰ぎ見る」という霊的なことと、魚を食べるという肉的なこととが何の矛盾もなく共存していました。

霊的な生き方とは、この世離れした生き方を指すわけではありません。旬の食材を選びながら、こだわりを持って料理をし、それを家族や友人と楽しみながら食べるという生活こそが神の恵みを喜ぶ霊的な生活と言えましょう。ですから伝道者の書では「さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから」(伝道者9:7私訳)と勧められています。食べることへのこだわりや喜びがないのは、霊的なことではなく、神が与えてくださった生活のリズムが狂いだしているしるしではなのかもしれません。私は、せっかく野菜や果物作りの好きな母に育てられながら、田舎から出ることばかりにあこがれていました。今になって、自分が目の前の恵みに何と無頓着であったかということを反省させられています。

パウロはこの肉の身体と復活の身体の対比をⅠコリント15:42節から44節で「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」と描いています。パウロは、「血肉の」に対しての「霊の」ということばを強調していますが、イエスは、ご自分は「霊」ではないと言われながら、焼いた魚を食べたというのですから、「血肉のからだ」「御霊のからだ」の間には、基本的な連続性があることがわかります。

そして、「キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)とあるように、キリストの復活の姿は、私たちの復活の姿と同じ本質を持っています。つまり、私たちも、「まさしく私です」と言える手と足を持ちながら復活し、天の御国における食事を喜ぶことができます。そのときの身体は、もう朽ちるものではありませんから、生きるために食べるのではなく、太る心配もなく、ただ楽しむために食べることができるのです。

2.「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」

その上でイエスは彼らの聖書の読み方を正そうとされます。それはキリストの復活を、聖書全体のストーリーから解釈するということです。たとえば私は聖書を読み始めたころ、様々な奇跡の物語を読みながら、感動するどころか、かえって「そんなことが実際に起こるわけがない・・・ご利益宗教と同じではないか・・・」と疑いの心がかえって強くなってしまいました。しかし、聖書全体から見るときに、ひとつひとつの奇跡に意味があり、それらに一貫したテーマがあり、また個々の不思議出来事またその必然性があったということが分かり、深い感動を覚えるようになりました。

「そこでイエス」はまず、「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」(44節)と言われました。つまり、旧約聖書の全体には、救い主の待望のことが書いてあるのです。たとえば私はモーセ五書の結論はルカ15章の放蕩息子の記事につながるということを、最初の拙著『主があなたがたを恋い慕って・・』で記させていただき、多くの人々が心から納得してくださいました。預言者の書にキリスト預言が満ちているのは誰もが知っていることです。今も、ユダヤ人は何よりもイザヤ53章を読みながらイエスを救い主と認めることができるようになっていると言われます。また詩篇には私たちがこの社会で味わう様々な人間関係の苦しみが書いてありますが、救い主はそれをご自身で味わう者となってくださったのです。イエスの十字架のことば、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、ダビデがその千年前に記した詩篇22篇の祈りそのものです。

また、「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」、「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり・・・」(46節)と言われましたが、実際に、そのように書いてある記事を見つけることはできません。しかし、キリストの原型となるすべての聖書の物語の主人公たちは「苦しみを受け」、その苦しみの中に一定期間閉じ込められ、それから救い出され、人々を導くという歩みをたどっています。イスラエル民族の父ヤコブは、無一文でカナンを逃れ、ハランの伯父ラバンに騙されながら多くの家族と財産を手にしました。その子のヨセフは兄たちによって奴隷として売られながらエジプトの総理大臣とされ、家族をエジプトに呼び寄せました。モーセは、エジプト王家で育てられながら、そこを追われ、四十年間も羊飼いとして生き、その後に召しだされてイスラエルの出エジプトを導きました。ダビデもまたサウルに追われて何度も死ぬ目に会いながらイスラエルの王になりますが、その後、息子と家来に裏切られ、再び復帰して王国の基礎を築くことができました。これらすべての主人公たちは、苦しみを受け、社会的には死人と同様の所に一定期間(「三日目」はその象徴表現)閉じ込められ、その後、神によって救い出され、人々を導く者とされています。それからするなら、救い主が苦しみを経ずに人々を救いに導くということはあり得ないことと言えましょう。ところが当時の人々は、救い主はイスラエルをローマ帝国からの独立に導く、連戦連勝の将軍かのように期待していたのです。そのような期待は、聖書の解釈から生まれるものではなく、この世的な常識の結果に過ぎません。イエスは確かにダビデ王国を再建する王として誕生しました。それは、御使いガブリエルが、処女マリヤに、聖霊によってみごもると伝えた際に、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主(ヤハウェ)は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(1:32,33)と言ったことからも明らかです。旧約の偉人たちは苦しみを通して謙遜にされ、人々に祝福をもたらすことができました。イエスはすべての人の最後の敵である死の力に一時的に服することによって、死の力を打ち破り、人々を死の支配から救い出すことができました。イエスが十字架の死に服することがなければ、永遠のいのちが支配する王国を建てることができなかったのです。

イエスは続けて、「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です」(47、48節)と言われました。これは、神がモーセを通してイスラエルに律法を与える際に、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジ19:5,6)と言われたことを思い起こさせます。つまり、イスラエルの民が神によって選ばれたのは、彼らを特権階級にするためではなく、全世界の民と創造主なる神との和解を実現する「祭司の王国」としての使命を果たすためだったのです。ところが彼らはその使命を忘れたばかりか、異邦人を軽蔑してしまいました。それでイエスが新しいイスラエルの民を創造する救い主として立てられ、キリストの弟子たちが新しいイスラエルとして使命を果たしてゆくということが語られているのです。

また、「罪の赦しを得させる悔い改め」とは、全世界の民を神のみもとに招き、神の子供として受け入れるという壮大な福音です。使徒パウロは自分の使命を、異邦人中心のコリント教会に向けて、「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」と語っています(Ⅱコリント5:19,20)。

神はたったひとりのアブラハムから神の民を創造し、小さな民族に過ぎないイスラエルの歴史を通してご自身の栄光を世界に証しをされました。神の眼差しは常に、社会的には吹けば飛ぶような小さな存在に向けられています。そして、神はひとりひとりの人生を変えるということを通して、またひとりひとりを具体的に和解に導くということを通して、ご自身の救いを全世界に広げようとしておられます。神にとって小さすぎる人は誰もいないのです。旧約聖書のひとりひとりがキリストの原型であるとともに、私たちひとりひとりがキリストの大使とされています。

3.「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」

イエスはひとりひとりを「証人」とするために、「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)と言われました。これは聖霊が与えられるという預言です。イスラエルの民が神からの使命を果たすことができなかったのは、彼らがアダムの子孫に過ぎなかったからです。彼らは自分の欲望の奴隷であったため、どんなに良い教えを受けてもそれを無駄にしてしまいました。それに対して神は、既にモーセの時代から、彼らが神ののろいを受けて地の果てにまで散らされ、異邦人の奴隷とされて苦しんだ後、神ご自身が彼らを集め、彼らの心を造りかえるということを、「あなたの神、主(ヤハウェ)は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主(ヤハウェ)を愛し、それであなたが生きるようにされる」(申命記30:6)と言っておられます。

また、彼らが主の警告されたとおり異教徒の奴隷とされた後の希望に関して、主は、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:26,27)と約束しておられました。旧約には聖霊預言が満ちています。そして、新約とはそれが成就するということです。神はご自身の霊を私たちひとりひとりに与え、私たちを内側から造り変えてくださるのです。

「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた」(50、51節)とありますが、多くの古い写本には、「そして、天に上げられた」ということばが追加されています。新改訳は注で記しますが、新共同訳を初め多くの英語の翻訳もそれを本文に入れています。「使徒の働き」では、この福音書の記述は、「天にあげられた日のことにまで及びました」と解説されていますから(使徒1:2)、この記事は、イースターから四十日後のことを指していることは明らかです(使徒1:3,9)。その間、マタイやマルコの記事を見ると、弟子たちはガリラヤに一度戻り、そこで再びイエスと出会い、信仰の歩みをやり直したということがわかります。ただ、ルカの福音書は、異邦人に向けて記されているため、同じカナンの地におけるガリラヤとエルサレムの往復のことなどの記事を省き、「いと高き所から力を着せられるまで、都に留まっていなさい」という点に注目されるようにしているのだと思われます。なお、ここでイエスが「天にあげられた」場所が、「ベタニヤ」となっていますが、これはオリーブ山のふもとですから、オリーブ山からの昇天を描く使徒の働きの記事とは矛盾しません。

ここで興味深いのは、イエスが天に昇り、再び彼らの前に姿を現さないということがわかっていながら、「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」(52,53節)と記されている点です。エルサレムはイエスが殺された場所であり、宮はイエスを実質的に十字架にかけた宗教指導者たちが支配する場世です。彼らはそこに向かって、「非常な喜びを抱いて」帰って行きました。かつて、イエスの復活の知らせを聞きながらも、ユダヤ人を恐れ、戸を閉めて隠れていた弟子たちが、喜び勇んで危険な所に戻り、「いつも宮にいて神をほめたたえていた」というのです。これこそ、復活のイエスに実際に出会ったことの実です。私たちの目の前にも、常に様々な不安があり、様々な問題があります。しかし、心の中で復活のイエスに出会った人は、そのただ中で喜ぶことができるのです。そして、聖霊のみわざとは、この復活のイエスが、時間と空間を越えて、あなたの傍らに、またあなたの内側に、いつでもどこでもともにいてくださることを確信させてくれることにあります。私たちが日頃、そのようなイエスの臨在を味わうことがないのは、まだ自分が強すぎるからではないでしょうか。しばしば、「もう私の力ではお手上げです・・・」と思った瞬間に、「わたしは、あなたとともにいる」というイエスの約束が心に響くことでしょう。

この福音書はエルサレム神殿での礼拝から始まり、神殿での礼拝で終わります。それは、イスラエルの神、主(ヤハウェ)を創造主と告白し、その方を「私の父」と呼ぶという福音が、全世界に広がってゆくということの出発点だからです。エルサレムから去っていた神の栄光はイエスにおいてエルサレム神殿に戻りました。そして、イエスの十字架と復活こそ、神殿を完成に導くわざでした。そして今、エルサレムから福音が全世界に広がってゆくのです。

盲目の詩人ファニー・クロスビーは名曲、Blessed assurance(賛美歌529)を記しました。彼女は盲目であるが故にかえって、いつも目の前に復活の主を置くことができました。彼女は、神の国の完成に憧れ、それが霊的にはすでに実現したかのように生きていました。いわゆる「天国の前味」という言葉こそ、復活の主を信頼する私たちの歩みのキーワードでしょう。それは、今、不条理に満ちたこの世界のただ中に、神のご支配を認め、愛する人との食事を楽しみ、神を賛美する生き方です。この歌では、「This is my story, this is my song, Praising my savior all the day long」(これは私の物語です。これは私の歌です。私は一日中、私の救い主をたたえています)と歌われていますが、旧約聖書に出てくる人々の物語と私の人生の物語は、多くの共通点が見られます。それは、すべて、苦しみを通して栄光にいられるということです。ですから、たとい目の前に、「なぜこんなことが・・・」と思えることがあっても、心配は要りません。あなたを襲っている試練こそ、あなたが聖書に記された神に選ばれた人々の仲間とされているしるしかもしれません。キリストを信じるすべての人生の物語は、神の愛の御手の中にあるのですから。