ルカ22章1〜23節「新しい契約としての聖餐式」

2009年4月5日

「旧約と新約の違いは何ですか?」と聞かれたらどのように答えるでしょう。残念ながら、人によっては、「旧約はユダヤ教で、新約はキリスト教です」とか、「カトリックは律法主義で旧約を大切にし、プロテスタントは福音主義で新約を重んじる」などと答えるかもしれません。それからすると、旧約の解き明かしばかりをする当教会などはプロテスタントの異端児になるのでしょうか?しかし、そのような答え方は、福音の理解を根本から誤っています。旧約と新約の教えの内容は基本的に同じだというのが聖書を神の言葉と信じる私たちの立場です。使徒パウロは、その違いを、「文字は殺し、御霊は生かす」と簡潔に説明しました(Ⅱコリント3:6)。旧約の基本は、神が良い教えを人間に与えることによって人を変えようとしたという点にあり、新約の基本は、良い教えを実行できない人にそれを行う力を与えるという点にあります。私たちは小さいころから、「こうしたらいいよ・・・」という教えを数限りなく受けてきています。それは本当に私たちに役立ちます。しかし、徐々に、「あなたは何度言ったらわかるの!まるで鶏と同じじゃない・・・」と言われるようになります。イエスはそんな社会の落ちこぼれをご自分の弟子の中心に据えました。なぜなら新約とは、良い教えを実行できない者を内側から作り変えることにあるからです。イエスは最後の晩餐で、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました。まさに聖餐式こそは「新しい契約」、新約の始まりです。あなたはそれを理解しながら聖餐式にあずかっておられるでしょうか。

1.ユダの裏切りを予知しながら過越の食事の準備を導かれたイエス

「さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた」(1節)とありますが、これはユダヤ人にとっての一年で最も大切な祭りであり、エルサレムは巡礼者で一杯になりました。その直前の日曜日、イエスはロバに乗ってエルサレムに入城し、人々は「ダビデの子にホサナ!」と歌いながら喜びをもって迎えました。そこで、「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである」(2節)と記されます。昼の間、イエスが群集とともにいるときに捕らえるのは危険ですから、彼らはイエスをひそかに捕らえて辱め、イエスが無力な人間に過ぎないことを人々に顕にすることによって、群集に失望と幻滅を与えようと計画しました。そのため、彼らはイエスの周りに人々がいない瞬間を探し出す必要がありました。

そのような中で、「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った」(3節)と記されます。古来、人々は、ユダの裏切りの原因に関して様々な推測をしますが、ここでは、人間的な心理描写を飛び越えて、たったひとこと「サタンが入った」と記されます。イスカリオテとはユダヤの地名だと思われます。彼は、会計係を任されているほど重用されていました。福音記者ヨハネは不思議にも、これは詩篇41篇9節のダビデの告白、「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとをあげた」ということの成就であると記します(13:18)。そして、ダビデの詩篇には、そのような親しい友の裏切りを嘆く祈りが何度も出てきます(55:20など)。そればかりか、ダビデ自身も自分を信頼していたウリヤを裏切り、騙し討ちにしています。つまり、信頼している人から裏切られるというのは、残念ながら、誰にでも起こりえることであり、また自分もそのような行動をとりかねないということなのです。私たちは、ユダの裏切りの理由を考える以前に、神の御子は人が体験する最悪の痛みをすべて体験してくださったということを受け止めるべきでしょう。信頼していた人に裏切られるようなことがあるとき、裏切られた自分の側に甘さがあったとか、人を見る目がなかったなどと反省することも必要かもしれませんが、それ以前に、それはイエスご自身も体験された苦しみであるということの方に目を向けるべきです。聖書はユダの裏切りの原因を分析しないことによって、これが誰にでも起こりえることであると示唆しているのではないでしょうか。

そして、「ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した」(4節)というのです。つまり、ユダは、誘惑に負けたというより、自分から積極的にイエスを売るために行動していたのです。そして、「彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をし」(5節)ました。そして、「ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた」(6節)とあるように、ユダ自身がイエスをひそかに敵の手に渡すタイミングを計ることに夢中になりました。人は、一度心に決めたことを翻すのは大変です。多くの人は、ユダが神のご計画実現のために何よりの大きな貢献をしたかのように解釈しますが、それは神を悪の創始者にする不敬虔です。そうではなく、イエスのご計画は、ユダの裏切りによっても変えられることはなかったばかりか、その悪さえも、ご自身の計画の実現のために用いることができたというように解釈すべきでしょう。

「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た」(7節)とは、イエスが十字架にかけられる前日、木曜日のことです。この日、人々はエルサレム神殿で過越しのいけにえをささげ、その夜に、過越しの食事をすることになっていました。ですから、エルサレムに住んでいない巡礼者にとって、過越しの食事にあずかるための場所の確保は非常に困難だったことでしょう。そのような中でイエスは、ペテロとヨハネを遣わし、「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい」(8節)と言われました。彼らが、「どこに準備しましょうか」と尋ねたのに対してイエスは、「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、その人が入る家にまでついて行きなさい」と言われました(9,10節)。普通、水がめを運ぶのは女の仕事ですから、その人はすぐに見つかったことでしょう。それはイエスが、事前に打ち合わせし、依頼をしていたと考えて良いかと思われます。なぜなら、弟子たちがその家の主人に、「弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる」(11節)と言うときに、「すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます」(12節)と、席の用意が既になされていると述べられているからです。イエスはそれを前提に、「そこで準備をしなさい」と命じ、「彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした」(13節)という展開になりました。

それにしても、イエスはなぜ、「どこどこの家で・・」と直接的に言われなかったのでしょう?私は最初、これはイエスの予知能力を示し、ご自分が十字架への道をすべて支配しておられることを示していると理解していましたが、今は、ここに、イエスの気遣いが見えてきました。イエスが事前に具体的な場所を述べてしまうなら、それはユダを通して宗教指導者たちに知られ、この最後の晩餐の場が襲われたことでしょう。イエスはご自分が翌日には、十字架にかけられるということを知っておられましたが、それにも関わらず、また、それを知っておられるからこそ、この過越しの食事を、弟子たちにとっての最高の思い出のときになるように、あらゆる気配りをしておられたのです。

2.「わたしは・・・この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われたイエス

「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた」というところで、イエスは、「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われました(14、15節)。「どんなに望んでいたことか」とは原文で、「切望し切望する」という言葉の重複で記され、この食事に対するイエスの思い入れが明らかにされます。それはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝うための食事でした。最初の過越のとき、イスラエルの民は、家族ごとに子羊一頭をほふり、その血を家の二本の門柱とかもいにつけ、その夜、その肉を火で焼いて家族でそろって食べ、旅の支度をしました。真夜中に、主(ヤハウェ)は、エジプトのすべての初子を打ち殺しましたが、血を塗っている家は過ぎ越されました。それは神の怒りが過ぎ越すという意味がありました。そして今、私たちの前を、神の怒りが過ぎ越します。

その際、「私たちの過越の小羊キリストがすでにほふられた」(Ⅰコリント5:7)とあるように、イエスはご自身のからだをいけにえとしながら、過越の祭りに新しい意味を与えてくださいました。パウロは私たちの救いを、「あなたがたは・・・この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」というサタンの奴隷からの解放、また「私たちもみな、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」という滅びからの解放として描きます(エペソ2:1-3)。つまり、私たちも裏切り者ユダの仲間だったのです。ただ、彼は自分が罪の奴隷であったという自覚はありませんでしたが、私たちは自分の惨めさを知っています。私たちの救いは、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:5,6)と描かれますが、パウロは人の復活がすでに起こったかのように、将来的な救いを保障しています。

イエスはそこでまず、「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません」(16節)と言われましたが、これは「新しい天と新しい地」、または「新しいエルサレム」での「小羊の婚姻」の祝宴が実現するときを指します(黙示録19,20章)。そして、「イエスは、杯を取り、感謝をささげて後」、「これを取って、互いに分けて飲みなさい」と言われましたが(17節)、これは過越の食事の際に四回にわたって杯を回しのみするうちのひとつです。これは他の福音書には記されていませんが、過越の食事の大切な儀式のひとつです。その際にイエスは再び、先の小羊の婚姻の祝宴への希望を込めて、「あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(18節)と言われました。これは断酒の宣言でも、翌日の十字架での死に方の予告でもなく、イエスが私たちすべての弟子たちを天の御国の祝宴に招き、みながそろうのを待ち焦がれているという気持ちを表したものです。

その上でイエスは、過越の食事をまったく新しくすることばを述べます。これこそ現在の聖餐式で繰り返されていることばです。まずイエスは、「パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与え」(19節)ますが、この際、主はパンを手で掲げて祝福を祈り、ご自分の手で裂いてひとつひとつ弟子たちに分けてくださったのだと思われます。その意味を後にパウロは、「私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンはひとつですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです」(Ⅰコリント10:16,17)と説明しています。そして、イエスはパンを与えながら、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。

主は何と、目に見えるパンを示しながら、「これはわたしのからだです」と確かに言われました。後の時代の人々はその意味を様々に解釈しました。カトリック教会では、目に見えるパンはキリストの聖なる身体に変化したと解釈し、パンをご聖体と呼び偶像のように扱うようになりました。一方、私たち自由教会の父祖などは反対の極端に走り、パンは単なるシンボルに過ぎないからスーパーで買った食パンをナイフで切って与えても同じであると解釈しました。しかし、私たちの教会では、できるかぎりイエスの最初の聖餐式を思い起こさせるパンを用いながら、イエスのことばに解釈を加えずに、そのまま素朴に味わう形を守りたいと願っています。

しかもイエスは、「これはあなたがたのために与えるわたしのからだ」と言われましたが、これは明らかに、ご自分のからだを私たちのために十字架の死に明け渡してくださることを意味します。私たちはその尊い犠牲とされたキリストの身体をこの汚れた口から入れさせていただくのです。それは、私たちが聖なるキリストと一体とされることを意味します。私たちはパンをいただきながら、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなくキリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2:20)と告白することが許されています。

しかも、イエスは、「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われましたが、それはこの聖餐式のたびごとに、イエスが私たちの罪をあがなうためにご自身の身をささげてくださったことをリアルに思い起こすことです。

3.「わたしの血による新しい契約」と言われた契約と古い契約の違いは

イエスは、「食事の後、杯も同じようにして・・・」とは、パンと同じように杯を掲げて、「感謝をささげた」いう意味だと思われます。そこで主は、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言われました(20節)。文章の基本は、「この杯は、新しい契約です」からなっていますから、杯とともに覚えるべきことは、何よりも「新しい契約」です。しばしば、「あなたがたのために流されるわたしの血による」と説明された部分ばかりが一人歩きし、キリストの犠牲に習う生き方ばかりが強調される場合がありますが、原文では、「契約」の有効性を保障するためにこそキリストの血が描かれています。ですから何よりも、「新しい契約」の意味を思い巡らすことが大切です。それは、イエスが私たちに聖霊を与え、私たちを内側からイエスに似た者になるように造り変え、新しい身体に復活させ、新しいエルサレムの祝宴にあずからせてくださるというすべてのプロセスを指す約束です。つまり、この杯を受けるたびに、信仰を全うさせてくださるのはイエスのみわざであるということを覚えるのです。

マタイでは、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」(26:28)と記されていますが、これは、モーセがシナイ山のふもとに作った祭壇で、契約の書を民に読んで聞かせた後、ほふられた雄牛の血をとって民に注ぎかけ、「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主(ヤハウェ)があなたがたと結ばれる契約の血である」(出エジプト24:8)と言われたことを思い起こさせる表現です。つまり、イエスは、この最後の晩餐で、古い契約(旧約)に対する「新しい契約」をご自身の弟子たちと結んでくださったのです。

私たちは聖餐式のたびに、キリストがご自身の血を流しながら、「古い契約」「新しい契約」に変えてくださったことを思い起こすのです。ヘブル書の著者は、「もし・・雄牛の血・・を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。こういうわけでキリストは新しい契約の仲介者です」(9:13-15)と記しています。

ドイツ語ではこの「契約」と「遺言」は同じ言葉で表されますが、宗教改革者ルターは、「契約(遺言)とは、それぞれの約束のことではなく、死に行く者の最後の、訂正不能の意志であり、それによって彼の財産が、彼が相続させたい者に委譲される」と語り、主の最後の約束を思い起こすことが聖餐式の中心であるべきだと主張しました。また彼は、イエスがパンと杯の両方を分ける際に、「わたしを覚えて、これを行いなさい」(Ⅰコリント11:24,25)と言われたことの意味を、イエスは私たちに、「人よ、この約束を見なさい。このことばによって、わたしはあなたに、あなたのすべての罪の赦しと永遠のいのちを約束し、分け与える」と言っておられることにあると解説しています。

なお、マタイ福音書では、ルカでは聖餐式の聖定の前の杯の際に言ったことばを、この契約の血の杯に結びつけて、「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(26:29)とイエスが言われたと記します。どちらにしても、このイエスの最後の晩餐は、天の御国における小羊の婚姻の祝宴と直結しているということが明らかです。私たちはこの聖餐式のたびごとに、「新しい契約」の始まりと、「契約の完成」というふたつの時を記念するように招かれているのです。パウロは、ピリピの教会に向けて、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と言いましたが、私たちはこの聖餐式のたびに、自分の罪に嘆き、信仰の弱さを思い起こしながらも、主ご自身が私たちの信仰を完成してくださるということを堅く信じることができます。イエスは聖餐式を通して、信仰の弱い者の信仰を励ましてくださるのです。

4.「みからだをわきまえないで、飲み食いした」代表者としてのユダ

イエスは、「しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです」(21、22節)と言われましたが、これはユダが最後の晩餐に、イエスを裏切る覚悟を決めたまま陪席していたことを意味します。これはユダに最後の悔い改めを迫る言葉であったことでしょう。「そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた」(23節)とありますが、これはイエスがユダにしかわからないように、このことを言われたということを意味します。つまり、ユダにはまだ悔い改めのチャンスが残されていたのです。

しかし、ユダはイエスを裏切るという決心を固めた上でこの聖餐式にあずかり、イエスの恵みを徹底的に軽蔑し、自滅してしまいました。恵みの機会が滅びの機会となってしまったのです。後にパウロはこのユダの悲劇を思いながら、「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」(Ⅰコリント11:29)と言ったのかもしれません。なおこれは、自分の罪深さに嘆き、良心の呵責に悩む人を退けることばでは決してありません。事実、パウロはこの直後に、「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(同11:31)と言っています。これを結びつけると、聖餐式にあずかることができる条件が見えてきます。

聖餐式にあずかる人は、何よりも、このパンと杯が、単なる普通の食事ではなく、キリストがご自身を十字架で犠牲とされたみからだと血をあらわすものであるということを信じている必要があります。それは十字架の福音の核心を受け入れているという意味です。それと同時に、イエスが十字架にかかられたのは、自分の罪のためであると認めている必要があります。多くの人は、自分を一方的な被害者にまつりあげることで天才的であり、「私は悪くはなく、相手が悪い・・」と思い込んでいます。しかし、そのような気持ちのままこの聖餐式にあずかってはなりません。私たちは人の痛みをいつも自分の尺度でばかりはかり、本当の意味で人に共感することができません。しかし、それが行過ぎるとユダの心になります。ですからこの聖餐式にあずかるときは、自分にもユダの心があることを認めながら、同時に、ユダのようにイエスの恵みを軽蔑するなら救われないという恐れをもって臨む必要があります。

私たちが幼児や子供にこの聖餐式にあずかっていただくのをご遠慮いただいているのは、彼らがまだ自分の罪深さを反省する能力が十分に育っていないと思うからです。イエスの十字架による罪の赦しの大きさを感動しつつ、この聖餐式にあずかることができるときを期待するからこそ、その機会を遅らせるのです。それは、聖餐式のありがたさをわきまえるようになってからあずかってほしいという意味です。それからすると、大人の方でも、この聖餐式のありがたさをわきまえておられないなら、それがわかるまで待っていただきたいということになります。

聖餐式こそ初代教会以来の礼拝の中心でした。ただその中で、人々は聖餐式のパン自体に神秘的な力を求め、みことばを軽視するようになりました。宗教改革はみことばの朗読こそ礼拝の中心であるというところから始まっています。しかし、それが行き過ぎて、イエスが聖餐式において言われた「新しい契約」の意味を忘れ、文字と説教による「教え」ばかりが先行する教会が生まれてきたのかもしれません。しかし、「文字は殺し、御霊は生かす」とあるように、外からの文字による教えは私たちの心に自己嫌悪と失望感を引き起こします。それに対し、「それが良いことだとわかってはしても実行できない」と自分に失望する人に、慰めと力を与えるのが新約の福音です。聖餐式においては、イエスご自身が、私たちを生かすためのパンとなり、忘れっぽい私たちのためにご自身の血によって新しい契約を思い起こさせてくださるのです。そして、それを導くのはキリストの御霊の働きです。聖霊は、聖餐式を通してキリストとの出会いを起こし、私たちの内側に住んで神のみこころを実行させてくださいます。