伝道者の書8章2節~9章10節 翻訳
私だ。王のことばに注意を払え。
これは、神の誓約に基づくのだから。
あわてて彼の前から立ち去るな。悪事に荷担するな。
彼は自分の望むまますべてを行うから。
王のことばには権威があり、誰も彼に、「あなたは何をなさるのか?」と言えないのだから。
命令に注意を払う者は悪事を知るようにならない。
知恵ある者の心は、時とさばきを知るようになる。
実に、すべての営みには、時とさばきがある。
ただ、人の災いは彼の上に重くのしかかっている。
しかも、彼は自分に何が起こるかを知らないし、誰も彼に起こることを告げることはできない。
風を支配し、風を押しとどめることのできる人はいないように、死の日を支配できる人はいない。
戦いの最中に除隊されることがないように、悪はそれを行い続ける者を解放することはない。
このすべてを見て、日の下で行われるすべてのわざに心を傾けた。
人が人を支配して、災いを及ぼしている時がある。
そこで、私は見た。
悪者どもが葬られ、そのままにされながら、働きをした人が聖なる所を去って、町から忘れられるのを。
これもまた、空しい。
悪い行いに対する宣告がすみやかに行われない時、そのため人の子らの心は悪を行う思いで満たされる。
たとい、罪人が百度悪事を犯しても、長生きをしている。
それでも、私は知っている。
神を恐れる者は、御前で恐れているなかで、しあわせであることを。
しかし、悪者にはしあわせがない。
彼は、その生涯を長くすることはできない。
それは影のようだ。
それは、彼が、神の御前で恐れることがないからだ。
この地上でなされることには空しいことがある。
悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受けることがあり、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた空しいことだと言おう。
それで私は、快楽をたたえる。
日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。
これこそが、日の下で、神が与える一生の日々の労苦に添えられるものなのだ。
私が、知恵を知り、地上で行われる仕事を見ようと、昼も夜も眠ることなく心を傾けたとき、
すべては神のみわざであることがわかった。
日の下で行われるみわざを人は見出すことはできない。
人が労苦し、求めても、見出せない。
知恵ある者が「分かった」と言おうとも、見出してはいない。
実に、私はこのすべてに心を傾けた。
正しい人も、知恵ある者も、彼らの働きも、このすべては神の御手の中にあることを確かめた。
愛も憎しみも、これからのすべてを、人は分かってはいない。
すべての人に待っているすべてのことは同じ出来事。
正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも。
善人と罪人も同じで、誓う者と誓うのを恐れる者にも同じことが待っている。
これこそが、日の下で起こるすべての中で最も悪い。
実に、すべての人に同じ出来事が待っている。
それで、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心に狂気があり、その後は死人となる。
実に、すべて生きている者の中に選ばれている者には希望がある。
生きている野良犬は死んだライオンにまさるのだから。
生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死人は何も知らない。
彼らにはもう、何の報いもなく、彼らの記憶は忘れ去られる。
彼らの愛も憎しみも、ねたみも、すでに消えうせてしまい、
彼らには、日の下で起こるすべての中に、もはや永遠に受ける分はない。
さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。
神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。
いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな。
日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。
あなたの空しい日々に……
これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから。
手もとに見出したことはすべて、あなたの力で行え。
あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないのだから。
埼玉のジョン・レノン・ミュージアムに行って何よりも教えられたことは、二十世紀後半の文化に最も大きな影響力を発揮したビートルズのリーダーにとっての最高の幸せは、小野洋子との静かな生活のただ中にあったということです。そのとき私も、「僕の最高の幸せも、洋子との今ここでの生活にある」と心で感じられました。それは本日の箇所の結論、「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ……これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから」(9:9) に記されている通りです。なお、ジョン・レノンが凶弾に倒れる数ヶ月前にリリースされた「ウーマン」という曲があります。そこで彼は、「女性よ。僕は君に永遠の負い目がある。この気持ちと感謝をどう表現できよう。君は僕に、成功の意味を教えてくれた (for showing me a meaning of success)」と歌っています。彼は五年間近くも家事と子育てに専念しながら、人生で最高の宝が、何かを達成することよりも、今ここでの生活にあると分かったのでしょう。しかも彼は女性の素晴らしさを、「男性の内側にある幼子の心をよく理解している」ことにあると歌っています。彼はそこに、たましいの安らぎを感じることができました。私は、ジョンとは異なった信仰的な立場に立っていますが、かつて何かに駆り立てられるように忙しく生きていながら、人生で目指すべき成功が最も身近なところにあることを気づかずにいました。しかし、私たちの心の底にある「成功への憧れ」は、今ここでの、神との交わり、また、神が与えてくださった最も身近な人との交わりの中で満たされるものなのです。
1.「知恵ある者の心は、時とさばきを知るようになる」
8章2節の原文は、「私だ。王のことばに注意を払え」という不思議な書き出しです。最初に「私」ということばが、何の述語もなく出てくるので、多くの翻訳者は何らかのことばを加えて意味を明確にしようとします。しかし、著者は自分のことを最初に、「エルサレムの王、ダビデの子」と紹介していますから、読者の注意をそこに向けさせようとしたのだと思われます。「これは、神の誓約に基づくのだから」とは、神が、ダビデの世継ぎの子に向かって、「わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13) と約束されたことを指していると思われます。神はダビデの世継ぎの王座を守ることによってイスラエルという国の安定を実現しようとされました。それは、神のあわれみに満ちたご計画でした。人は、神の約束に基づく秩序を大切にすることによって、この世の生活を安定させることができます。
しかも、当時の王は、絶対権力者で、その口から出ることばには、人の生死を決めるほどの権威がありました。それをもとに、「あわてて彼の前から立ち去るな。悪事に荷担するな。彼は自分の望むまますべてを行うから。王のことばには権威があり、誰も彼に、『あなたは何をなさるのか?』と言えないのだから」(8:3、4) と記されます。著者はここで、目に見える王を恐れることとの類比で、目に見えない神を恐れることの意味を教えようとしています。多くの人は、「世界にこんな不条理を許している神など信頼できない……」と言うことがありますが、人が目に見える王を恐れるのは、王の命令を納得するからという以前に、それに逆らうと自分の身の滅ぼすからではないでしょうか。それと同じように、神のことばが納得できないように感じられるからと言って、それを軽んじるなら自分の身に滅びを招きます。
最初の人アダムは、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17) という神のことばを軽んじて、死ぬ者となってしまいました。現在も、多くの日本人にとって、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない……自分のために偶像を、造ってはならない……拝んではならない・・・安息日を覚えて聖なる日とせよ……七日目には……どんな仕事もしてはならない」という「十のことば」の核心は納得しがたいものです。しかし、それは今から三千年前のイスラエルの民にとっても納得し難いことでした。彼らはこの明確な教えを軽んじることによって、紀元前586年に国を滅ぼしました。それ以来、彼らは基本的に、約束の地で平安に暮らすということはできなくなりました。信仰の本質は、完全には納得できないまま、それでも信じるということにあります。それは、子供と親の関係に似ています。幼児期は、みな、親のことばを理解できないまま、ただそれに従うことが求められています。それは成長に必ず必要なプロセスです。そのことが、「命令に注意を払う者は悪事を知るようにならない」(8:5) と記されます。「知る」とは「体験する」という意味が込められていますが、これは、親から善悪の基準をしつけられている子が、悪事への自制心が常に働くようになることに似ています。
それと並行して、「知恵ある者の心は、時とさばきを知るようになる」(8:5) という生きた知識のことが記されます。私たちはそれでも、盲目的に信じることを強要されているわけではありません。「実に、すべての営みには、時とさばきがある」(8:6) と繰り返されるように、私たちは聖書にある膨大な記録を通して、神が、ご自身のときに、さばきを下されるということを知ることができます。確かに目の前の人生の現実は、「人の災いは彼の上に重くのしかかっている。しかも、彼は自分に何が起こるかを知らないし、誰も彼に起こることを告げることはできない」(8:6、7) とあるように、暗闇の中を手探りで進むような面があります。しかしそれでも、聖書によって、世界がどのように始まり、どこに向かっているのかという歴史の全体像を知ることができます。これこそ哲学者たちにとっての憧れの知識でした。その意味で私たちは既に、「知恵ある者」とされ、「時とさばきを知る」者です。聖書を知る者は「成功の意味を知る」者なのです。
なお、「知恵ある者」は、何よりも、知るべきことと知りえないことの区別ができる人です。多くの人は、自分の将来を把握したいと願いますが、「風を支配し、風を押しとどめることのできる人はいないように、死の日を支配できる人はいない」(8:8) とあるように、それは不可能なのです。この単純な真理をもっと大胆に宣言するなら、少なくとも、占いや偽りの宗教の被害から人々を守ることができるかもしれません。それにしても、「戦いの最中に除隊されることがないように、悪はそれを行い続ける者を解放することはない」とあるように、あなたの身近な人が、偽りの教えや悪い行いに夢中になっているとき、何を言っても無駄です。私たちは何よりも、自分の限界を知っていなければなりません。
2.「神を恐れる者は、御前で恐れているなかで、しあわせである」
著者はそれで、「このすべてを見て、日の下で行われるすべてのわざに心を傾けた」と言いながら、目に見える世界の不条理を、「人が人を支配して、災いを及ぼしている時がある。そこで、私は見た。悪者どもが葬られ、そのままにされながら、働きをした人が聖なる所を去って、町から忘れられるのを。これもまた、空しい」と描きます (8:9、10)。これは、創造主を忘れて生きた人が神の都エルサレムの一等地の墓に葬られる一方で、神を恐れ誠実に神殿に仕えてきた人が、エルサレムから遠くはなれて死に、その働きも忘れられているということがあるということです。
しかも、「悪い行いに対する宣告がすみやかに行われない時、そのため人の子らの心は悪を行う思いで満たされる。たとい、罪人が百度悪事を犯しても、長生きをしている」(8:11、12) という現実が見られれば見られるほど、悪行に対する歯止めがなくなります。残念ながら、「正直者がバカを見る」と言われるような現実が歴史には常にありました。
ところが、著者はここで、「それでも、私は知っている。神を恐れる者は、御前で恐れているなかで、しあわせであることを」(8:12) と語ります。つまり、「神を恐れる」生き方を全うしている人は、それによって富も長寿をも受けられず、非業の死を遂げるようなことがあったとしても、その生き方自体の中に「しあわせ」があるというのです。
ダビデはそのことを、「主 (ヤハウェ) こそ、私の割り当ての地、また私の杯」(詩篇16:5) と告白し、私たちの「喜び」は、主から与えられる土地や財産以前に、主ご自身との交わり自体にあると告白しています。それはたとえば、恋愛をしている人や仕事に夢中になっている人は、それ自体の中で幸福感を味わうことができているのと同じです。
ただし、恋愛は失恋に終わり、仕事も失敗に終わることがありますが、神との交わりは失われることがありません。神は、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5) と約束しておられるからです。しかも、たとい一時的な貧しさを味わったとしても、全世界の富の真の所有者が、ご自身のときに私たちの必要を満たしてくださることを知っているなら、その確信の中で、心を豊かに保つことができます。
それと対照的に、「悪者にはしあわせがない。彼は、その生涯を長くすることはできない。それは影のようだ。それは、彼が、神の御前で恐れることがないからだ」(8:13) と言われます。聖書の用語で「悪者」とは「神を恐れない人」を指し、それは、「創造主を忘れて生きる人」を意味します。人は、自分の創造主を忘れるとき、自分が何者であるかというアイデンティティーを知ることができません。そこに生まれるのは、人との比較で自分をはかり、優越感に浸ったり、また劣等感に苛まれたりという空しい生き方です。たとい、人との比較を忘れるほどに何かに夢中になることができたとしても、その努力を生かしてくださる方を知っていなければ、目に見える結果に一喜一憂することになりかねません。つまり、創造主を忘れた生き方は、「いのち」の実体がない「影」のようなものになるというのです。
その上で著者は、この世の不条理を再び、「この地上でなされることには空しいことがある。悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受けることがあり、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた空しいことだ」(8:14) と言います。つまり、「しあわせ」を、目に見える現実ばかりで判断すると、悪人が幸せになり、善人が不幸になっているように見えることがあり、その不条理に私たちの心は揺り動かされるというのです。
その現実を前提に彼は、「それで私は、快楽をたたえる。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これこそが、日の下で、神が与える一生の日々の労苦に添えられるものなのだ」(8:15) と言います。これは、世界の不条理を正そうとする前に、今、ここで、神が許してくださった「快楽」を味わうことが人生の何よりの知恵だという意味です。共産主義思想の創始者マルクスは、「宗教は、悩める者のため息……人民のアヘンである。人民の幻想的な幸せとしての宗教を廃棄することは、人民の現実的な幸せを要求することである」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判に寄せて」序論、土屋保男編訳、青木文庫1964年)と言いましたがそれは大きな誤解です。たとえば、箴言の著者は、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1) と記していますが、神を恐れている人は、どんなに貧しい食事でも、それをともに喜ぶことができる一方で、互いに争いながら、人を恐て生きている人は、食事の交わりを楽しむことさえできないという現実は歴然としているのではないでしょうか。信仰は死後の望みばかりか、現実的な幸せの保証でもあります。つまり、神は、この地で私たちを幻想で生かそうとしておられるのではなく、目に見える些細な喜びから、来るべき世界の喜びを期待できるようにと導いておられるのです。
実際、現実への不満を抱いてばかりいる人は、人と人との関係を平和に保つことができません。その結果、現状を正そうと仲間を集めて立ち上がったはずが、仲間同士で争い、組織的な締め付けをやって、なお悲惨な現実を作り出します。ジョンも「Revolution(革命)」という曲で、「憎しみの心で」抑圧からの解放運動に走る人に向かって、「まず自分たちの心を解放すべきではないのか……」と歌っています。憎しみの心の中には、成功の希望はありません。
ところで、多くの日本の知識人は、「多神教の方が一神教よりも平和的だ・・・」などと言っていますが、何が正しくて何が間違っているかの基準となられる創造主なる神がおられなければ、「目的のためには手段を選ばない」ということが正当化されるのではないでしょうか。しかも、残念ながらいつの時代にも、不条理のない世界などはありませんでした。ですから、この世界の支配者である神を忘れて、「結果さえ良ければ……」という発想に生きるなら、人の心はありもしない未来への夢に駆り立てるばかりで、「今ここでの幸せ」を味わうという「成功」を見ることができません。
3.「それで、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心に狂気があり……」
著者は、「私が、知恵を知り、地上で行われる仕事を見ようと、昼も夜も眠ることなく心を傾けたとき、すべては神のみわざであることがわかった。日の下で行われるみわざを人は見出すことはできない。人が労苦し、求めても、見出せない。知恵ある者が『分かった』と言おうとも、見出してはいない」(8:16) と、三度も、「見出せない」ということばを繰り返しながら、人間の知恵の限界を強調しています。これは、8章7、8節と同じような意味が込められています。
その上で、「実に、私はこのすべてに心を傾けた。正しい人も、知恵ある者も、彼らの働きも、このすべては神の御手の中にあることを確かめた。愛も憎しみも、これからのすべてを、人は分かってはいない」(9:1) と記されます。私たちは、自分の正義や知恵によって、神と人から認められようともがきますが、私たちには、「もらったものでないもの」は何もありません (Ⅰコリント4:7)。そればかりか、「愛も憎しみも……人はわかっていない」とあるように、心の中では愛と憎しみは複雑に絡み合っています。それは夫婦喧嘩に現れるようなものです。しばしば、「かわいさ余って憎さが百倍」ということわざがあるように、自分で自分の心の揺れが分からないようなところがあるのではないでしょうか。
しかし、そのような中で、一つだけ明白な現実があります。それは、人は必ず「死ぬ」ということです。そのことがここで、「すべての人に待っているすべてのことは同じ出来事。正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも。善人と罪人も同じで、誓う者と誓うのを恐れる者にも同じことが待っている」(9:2) と描かれます。しかも、著者は、それを自然として受け止める代わりに、「これこそが、日の下で起こるすべての中で最も悪い」と評価し、その結果として、「それで、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心に狂気があり、その後は死人となる」説明します (9:3)。死とは、愛する人と別れるとき、すべての富を失うとき、この肉体が灰になってしまうとき、地上の働きが無に帰するとき、人々から忘れ去られるときです。「死」とは、私たちが心の底で恐れているすべてのことの象徴ではないでしょうか。また、死がすべての終わりだとしたら、「どうせ死ぬのだ……」という自暴自棄につながらないでしょうか。死がすべての終わりなら、正しく生きようとすることに何の意味も見出すことができなくなり、刹那的なその場限りの快楽を正当化することになるだけです (Ⅰコリント15:32)。
しばしば、宗教は「死」を美化し、受け入れやすくするように作用します。それこそアヘンであり、現実の問題を見えなくしてしまう幻想の教えです。私が、ジョン・レノンの曲に魅力を感じるようになったのは、「ジェラス・ガイ」という曲を聴いたのがきっかけでした。そこで彼は、『僕は自分を制することができなくなっていた。決して君を傷つけるつもりはなかったのに、君を泣かせてしまった。僕はただの嫉妬深い男なんだ。僕はとっても不安だったんだ。君がもう愛してくれないのではないかと。僕は内側で、震えていたんだ……僕はその痛みを呑み込んでいた』と歌っていました。
彼はここで自分の強がりや攻撃性の背後に、自分の「見捨てられ不安」があったということを正直に認めています。実際、ジョンは、「洋子が自分の人生を救い出してくれた」と言っています。彼は、ビートルズ時代に、「俺たちは今や、イエスよりも有名になった……」などと豪語しましたが、それは孤独と不安の裏返しの気持ちでした。しかし、洋子と出会ってから、「僕がどこにも居場所がなかったとき、彼女がいてくれた」と言っています(ジョン・レノン魂の軌跡 p127)。ジョンは、洋子の愛を受けることによって、自分の心の内側にある闇をすなおに認めることができるようになったばかりか、自分の心の弱さや醜さに居直ることもなく、そのあるがままを歌にして全世界に知らせました。そのとき多くの人は、彼と同じような気持ちが自分の中にあることを認め、その音楽に慰めを受けることができたのではないでしょうか。
私たちは、自分の不安の原因が、まわりの人にあると思うときに、他の人を攻撃します。しかし、怒りたくなる原因は、まわりの人ではなく、自分の内側の不安にあります。そして、不安は、死の不条理から来ます。そして、私たちは自分をそのままで愛してくれる人を知ったときに、その不条理に直面する勇気が生まれます。しかし、小野洋子は神ではありませんでした。七歳年上の洋子も、彼の母になることに疲れたのかもしれません。六年間の蜜月生活の後、彼らは十五ヶ月間の別居生活をせざるを得なくなります。そして、このとき、ジョンは酒と麻薬で自分を破滅させる一歩手前までの狂気に陥ってしまいました。それは洋子に精神的な依存をしすぎたことの反動かもしれません。
彼はその後、洋子に甘える代わりに、洋子を生かすという方向へ変わります。洋子が42歳でショーンを出産したとき、彼は公の音楽活動を止めて、約五年間、主夫として生きるようになります。その間、洋子は彼らの財産を二倍に増やすことができたという噂もあります。そして何よりも、この時期、ジョンは本当の意味での幸せを味わうことができました。そして、彼らがふたりでそろって、音楽活動を再開した数ヵ月後、ジョンは狂信者の凶弾に倒れました。彼は、ほんとうの成功を手にできたと喜んだ矢先に、息を引き取りました。それこそがこの世の人生の不条理、限界です。
その悲劇の意味を解釈しようとすることは傲慢です。私たちはただ、不条理の中を生きるように求められています。
4.さあ、喜んであなたのパンを食べ……愛する妻との生活を楽しめ
「実に、すべて生きている者の中に選ばれている者には希望がある。生きている野良犬は死んだライオンにまさるのだから。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死人は何も知らない」(9:4、5) とありますが、私たちが「生きている」のは、神に生きるように「選ばれている」からです。私たちはみな、生かされて生きているのです。そして、人は生きている限り、成長し、自分への理解を深めることができます。しかし、人は誰も、死んでしまってから自分の人生をやり直すことはできません。仏教的な風習では、死んだ方に向かってお経が唱えられますが、その内容は明らかに生きている人が知るべき人生の真理です。生きているときに忙しすぎて学ぶことができなかったことを学んでいただいているという意味があるのかも知れませんが、聖書は、人はこの地上の生涯を終えた後、成長の機会もやり直しの機会もないということを強調します。神は、今、どのように生きているかによって、死後のさばきを下されます。
なお、著者は、9章6節では「彼らにはもう、何の報いもなく、彼らの記憶は忘れ去られる。彼らの愛も憎しみも、ねたみも、すでに消えうせてしまい、彼らには、日の下で起こるすべての中に、もはや永遠に受ける分はない」と述べ、10節では、「あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないのだから」と、人には死後に何の希望もないかのように言っています。ただし、「よみ」とは厳密には、「死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所」(新改訳聖書あとがき参照)と定義されます。多くの人々は、この死者のたましいが眠っている世界がどのようになっているかに大きな関心を持ちますが、聖書は、それよりも、神のさばきが行われた後に実現する、「新しい天と新しい地」に私たちの目を向けようとします。なお、私たち信仰者のたましいがそこに置かれるのだとしても、それは一時的なことに過ぎません。それは、ダビデが、詩篇16篇で、「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず」(10節) と記している通りです。ペテロは、イエスの十字架の後、この詩篇を引用しながら、キリストの復活が聖書の預言の成就であることを論証し、「神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が、死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2:24) と宣言しました。私たちも同じ勝利を約束されているのです。
多くの人々は、「死」を受け入れるべき現実として見ますが、聖書は、「死」を究極の「敵」として描きます (Ⅰコリント15:26)。私たちの信仰の核心は、「キリストは私たちの罪のために死なれ……三日目によみがえられた」(同15:3、4) という、キリストの十字架と復活にありますが、そこには、キリストが私たちを、「一生涯、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放」するという意味がありました (ヘブル2:15)。つまり、キリスト者として生きるとは、死の力に打ち勝つ者として生きるということなのです。イエスは、ご自身を救い主として信じる者は、すべての罪を赦され、「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことばなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24) と断言してくださいました。
なおここでは、私たちすべてが肉体的な死を迎えなければならないという現実に直面するからこそ、今、神によって生かされていることを心から感謝するように勧める意味で、「さあ、喜んであなたのパンを食べ、幸せな心でぶどう酒を飲め。神はすでにあなたがそうするのを喜んでおられるのだから。いつも、真っ白な衣を着て、頭には香油を絶やすな」(9:8、7) と記されます。これは刹那的な生き方の勧めではなく、神に生かされていることの恵みを心から喜び味わうようにとの勧めです。そこには、私たちは神に信頼することによってのみ、死の力に打ち勝つことができるという信仰告白が込められています。そして、続けてこの箇所の結論として、「日の下であなたに与えられた空しい人生の日々に、愛する妻との生活を楽しめ。あなたの空しい日々に……」(9:9) と記されます。それは、この世の人生の空しさを見据えるからこそ、今、与えられている最も身近な人との交わりを喜ぶ必要があるということです。これこそ天国の前味です。神が備えていてくださる「新しい天と新しい地」は、そのような愛の交わりの完成するところです。そして、「これこそが、あなたが日の下で労したあなたの人生と労苦からの受ける分なのだから。手もとに見出したことはすべて、あなたの力で行え」とあるのは、この地上での「食うために働かなければならない」という「空しい」現実をそのまま受け入れ、働く事とその報酬を楽しみ喜ぶ事という生活のリズムを、神の恵みとして受け入れることとの勧めです。
イエスの救いのみわざを知る者は、自分の人生のゴールが、喜びと平安に満ちた世界であることを「知るように」していただいています。確かに目の前には、常に、様々な悩みがありますが、全知全能の神は、人生の嵐のただ中でさえ、愛する人との食事の交わりを喜ぶことを可能にしてくださいます。それこそ天国の前味です。また私たちは生きている限り、一瞬一瞬、何らかの決断を迫られます。そのとき問われているのは、今ここで、自分の損得を超えて、明確な神のことばに従いながら、同時に、与えられた知性を生かして、将来が見えないまま右か左かの選択をするということです。私たちは、いつも決断に迷いますが、神を恐れて生きる者は、今、ここで、神の御手に包まれている「しあわせ」を味わうことができます。それこそ、私たちがこの地で味わうべき人生の成功の意味ではないでしょうか。