イザヤ42章18節〜44章23節「わたしに帰れ。わたしはあなたを贖ったから」

2008年5月4日

今日の箇所は旧約聖書でもっとも親しまれているところのひとつです。「イスラエル」とか「ヤコブ」という部分を自分の名前に置き換えて読んでみてはいかがでしょう。それこそが、旧約を今の時代の私の文脈から読むということにつながります。聖書の歴史を、あなた自身のパーソナルな人生の文脈で読みことの大切さを思わされています。信仰者としての模範的な「生き方」を教えるのではなく、天地万物の創造主からのかたりかけをパーソナルに聞きながら生きるという生きるというのが、新約時代の恵みです。

私たちのまわりには、様々な「How to」(どのようにしたらよいか・・・)という情報が満ちています。そして、教会に来られる方も、「生き方」を教えて欲しいという願望があるように思えます。しかし、「他人の成功例を真似できるぐらいだったら世話がない・・・」のではないでしょうか?それどころか、聖書には、神の民の失敗例ばかりが記されていると言っても良いほどです。「このように生きたら・・・このような結果が生まれる・・」というのは、創造主を抜きにしても考えられることです。聖書は、そのような発想に慣れている人に、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(イザヤ40:26)と問いかけます。また、自己嫌悪に陥っている人に向かって、創造主である方は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださいます。私たちのなすべき問いは、「どのように」という以前に、「神はどのようなお方で、私はだれか・・」という、「だれ・・」ではないでしょうか。

1.「だれが、ヤコブを・・・かすめ奪う者に渡したのか」 ― 悲劇を支配しておられる主(ヤハウェ) -

神は私たち異邦人を「耳の聞こえない者たち」「目の見えない者たち」と呼びながらも、イスラエルに起こった悲劇を、「目をこらして見よ」と勧めています(42:18)。神はアダムの子孫である人間の愚かさイスラエルというサンプルを通して見せようとしておられます。神はイスラエルを「わたしのしもべ」と呼びながらも、彼らが「多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない」と嘆いておられます(42:19,20)。主は、彼らを通してご自身の「みおしえ(トーラー)を広め、これを輝かすことを望まれた」のですが、この民はそれに従うことでみおしえのすばらしさを証しするのとは反対に、「かすめ奪われ、略奪され・・・獄屋に閉じ込められた」のです(42:21,22)。

これは今で言えば、せっかくクリスチャンホームに生まれ、みことばを聞き続けて来たのに、それが心の底に落ちることがなく、かえって自業自得で苦むばかりで、主のみおしえのすばらしさを証しできないことに似ています。

そして、「だれが、これに耳を傾け・・・注意して聞くだろうか」、「だれが、ヤコブを・・イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか」という問いかけがなされます(42:24)。人は原因と結果という観点から歴史を見ることに慣れ、いつも「なぜ?」と尋ねますが、何よりも大切なのは、「だれが?」という問いかけです。イスラエルを苦しめるのはアッシリヤ帝国やバビロン帝国で、悲劇の原因は外交政策の失敗のように見えます。しかし、その背後で、「だれが」これを起こしたのかを、「だれが」聞くのかと問われています。「それは主(ヤハウェ)ではないか。この方に、私たちは罪を犯し・・・そのおしえに聞き従わなかった。そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず・・・心に留めなかった」と記されます。ここでは、「主が」これらすべての悲劇を起こしたということ、神の民イスラエルが聞こうとも、心に留めようともしなかったことが強調されています。

私たちは、この世界に起こる様々なできごとの原因と結果を、客観的な知識として知ることよりも、主(ヤハウェ)こそがすべてを支配しておられるということを、自分のこととしてパーソナルに知ることが求められています。私たちは科学万能の夢から覚めた時代に住んでいます。今、問われているのはパーソナルに、心で悟ることです。

2.「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」― 私たちはどのような存在かー

43章1節では、「だが、今、主(ヤハウェ)はこう仰せられる。ヤコブよ。この方はあなたを造り出した方。イスラエルよ。この方はあなたを形造った方」と記されます。つまり、主(ヤハウェ)は、全宇宙の創造主である以上に、神の民ひとりひとりの個人的な創造主であるというのです。この方の最初のメッセージは、「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ」です。これは出エジプトを思い起こさせると同時に後のバビロンからの解放を告げることだと思われます。

そして、神を見失った民に、神の側から、「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの・・わたしは(強調形)あなたとともにいる・・水の中を過ぎる時も・・火の中を歩いても・・・」と慰め、ご自身のことを、「わたしが(強調形)、あなたの神、主(ヤハウェ)、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」と紹介してくださいました。その上で、具体的な救いの方法を、「わたしは、エジプトをあなたの身代金とし・・・」(3節)と語りました。イスラエルは、目前に迫る北の国々の脅威に対し、南のエジプトの力を借りて対抗することばかり考えましたが、神は、その頼りのエジプトの犠牲によって、彼らを救い出すと奇想天外なことを言われました。あなたが心ならずも頼りにせざるを得ない権力者がいるようなとき、あなたが突然、その権力者を抑える立場に抜擢されるようなものです。人のご機嫌を取りながら地位を守ろうとしなくても、全宇宙の創造主があなたを特別な立場を与えてくださいます

その神が、これから苦しみに向かうイスラエルの民に向かって、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(4節)と語りかけます。「高価」とは希少価値のある宝石などに使われる表現で、「かけがえのない」とも訳されます。また、「尊い」とは、「尊ばれた」という動詞形で、「栄光」「重い」と同じ語源のことばです。目に見えるイスラエルの現実は大国の狭間で吹けば飛ぶような存在でしたが、神はイスラエルを「高価で尊い」ものとして見ているからこそ、敢えて試練を与えて、造り変えようとしておられるのです。あなたも自分のことを、いてもいなくても同じような、軽い存在だと感じることがあるかも知れません。しかし、神にとってあなたは、かけがえのない、重い存在なのです。

その上で、「わたしは(強調形)、あなたを愛している」と語られます。人は愛を求めていますが、誰の愛でも良いということはありません。どんな方から愛されているかが大切なのです。しかも、「愛の鞭」ということばがあるように、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子にむちを加える」(ヘブル12:6)というのです。

そして、「恐れるな。わたしがあなたとともにいる・・・わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造ったと」まとめられます(5,7節)。私たちの人生には様々な試練や苦しみがありますが、それらすべてを通して、主(ヤハウェ)の栄光があがめられることこそ歴史の目的です。

3.「見よ。わたしは新しい事をする」 -苦しみの中に神のみわざを認めるー

43章9節で、「だれが・・・先のことをわれわれに聞かせることができようか」と問われますが、神の民イスラエルだけが主の救いのみわざを証しできます。神の救いは、パーソナルな体験としてしか証しできない面があります。歴史は客観的なようでも常に、数多くの出来事から編集者が選んで書き綴った主観的な記録です。それを前提に、「あなたがたはわたしの証人・・・わたしが選んだわたしのしもべである」(10節)と、神がご自分の民イスラエルに使命を思い起こさせます。続くことばは原文で、「これは、あなたがたが・・・『わたしこそ彼である』ことを悟るためだ」と記され、この「彼」のことが、「わたし、このわたしが、主(ヤハウェ)であって、わたしのほかに救い主はいない」(11節)と紹介されます。ところが、人は、アダム以来、創造主を求めるよりも、自分の目に好ましいものを慕い求めます。それは麻薬に溺れる心理と同じです。一時的な喜びや解放感を味わっても、現実は変わりません。この世界は、あなたの思い通りに動くようなところではありません。世の多くの人は、神に頼ることを現実逃避と見ます。しかし、まことの神から離れて生きようとすることこそ現実逃避に他ならないのです。そのことを思い起こさせるように、「わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行えば、だれがそれを戻しえよう」(13節)と言われます。

16節初めは、「主(ヤハウェ)は、こう仰せられる」と記され、その主が、かつて海をふたつに分けてイスラエルの民を逃がし、エジプトの戦車と馬を海に沈めた方であると描かれます。そして、メッセージの内容が、「先の事どもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。見よ。わたしは新しいことをする」(19節)です。それは、これから起こる神の救いのみわざが、海をふたつに分けることが色褪せて見えるほどに偉大で、奇想天外だからです。

神の救いのみわざは、ひとつひとつが極めてユニークです。ところが、たとえば、「日本は神国だからいざとなったら、元の来襲を退けた時と同じ神風が吹く」と真面目に言われていたように、彼らも「エルサレムが包囲されても、神はまた同じ奇跡を起こしてくださる」という幻想を自分たちの信仰としてしまい、神のさばきを見ようとはしなかったのです。しばしば、過去の成功は将来の失敗の原因になります。昔から、失敗には共通の法則を見出すことができるが、成功のパターンはそれぞれがユニークだと言われます。ですから、人の成功例は意外に参考になりません。しかし、失敗例からは多くを学ぶことができます。ただ、それは伝わり難いものです。しかし、聖書は失敗例の宝庫です。それらに共通することは、常に「高ぶり」ではないでしょうか。彼らは、常に、自分を正当化します。現実を直視する代わりに、自分の見たいように世界を見ようとします。本当に残念なことですが、誤った信仰理解こそが、最大の悲劇の原因となっています。それはエレミヤ書などに明らかです。しかし、主のさばきを受け入れ、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」という御声を聞き続ける者の上には、日々、ユニークなみわざが示されます。

「今、もうそれが起ころうとしている」(19節 新改訳)は、「今や、それは芽生えている」(新共同訳)とも訳されます。それは、ペルシャ帝国を用いての救いは、さらに大きな救いのみわざの萌芽だからです。主は、「見よ。わたしは新しい事をする」と言われましたが、それは、究極的には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ65:17)というみわざにつながります。そのとき、「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける・・」(19、20節)とあるように、神は、赤茶けた岩ばかりの起伏の激しい危険に満ちた地に、真っ平らな道を開いてくださり、また、水のない乾いた荒れ地に川を造ってくださり、この地をエデンの園のように変えてくださるのです。

「野の獣、ジャッカルやだちょうも、わたしをあがめる」とは、希望に満ちた表現です。ジャッカルは山犬とも訳され、他の動物の食べ残しをあさって食べる臆病な動物です。また、だちょうは、自分の産んだ卵を置き去りにし、ひなは、別のふ化しない卵をえさとして育つとも言われる無慈悲で、貪欲な動物の代名詞です。それらは荒野に生息する忌み嫌われた動物でしたが、新しい世界では、のろわれた動物さえも神を賛美するというのです。パウロは、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:22)と語りますが、新しい世界では、「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べる」(イザヤ65:25)ような平和が実現します。

「わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう」(21節)とは、イスラエルが神のさばきを受けることによって新しくされることによって実現します。たとえば、バビロン捕囚は、神がイスラエルを新しくするためのみわざでした。彼らはこの後、一切の偶像礼拝を避け、どのような困難の中でも唯一の神をあがめ続けています。ですから、神がもたらす苦しみには、私たちの生き方を根本から変える創造的な力が秘められているのです。

「見よ。わたしは新しいことをする」と言われる方は、世界の創造主であり、私たちをキリストにあって選んでくださいました。これから起こる様々な出来事のなかに、すでに始まっている世界の再創造のみわざのつぼみを見出しましょう。もし、私たちの知恵や力では解決不能と見える問題が起こっても、それは、神の不在のしるしではなく、神の栄光をみさせていただくチャンスです。神はそれぞれの個人的な創造主であられ、ひとりひとりに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけ、あなただけのために新しいことを、日々ユニークなことをなしてくださいます。過去の自分の成功や人の成功例などに習おうとする前に、目を大きく開いて厳しい現状を、また、自分の能力の限界を直視しましょう。その上で、全能の神を仰ぎ、祈り続けましょう!

4.「わたしは初めであり、わたしは終わりである。」  主は神の民の創造主であり贖い主、

44章では、「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ」と呼びかけながら、「主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と再び告げられ、その主が、「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける方」と描かれます。これは43章1節に通じる表現です。つまり、私たち神の民は、自分たちの知恵によって、また功績によって、神の愛を勝ち取ったのではなく、神の一方的な創造、選び、あわれみによって神の民とされているのです。すべては、主ご自身から始まっているからこそ、「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ」と言われます。「エシュルン」とはイスラエルの愛称で、本来、「正しい者」という意味が込められていたと思われます(申命記32:15)。そして、「恐れる」必要のない理由を、「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」(3節)と預言されます。つまり、神はご自身の民の罪を赦すばかりか、ご自身の「霊」を与え、内側から造り変えてくださるというのです。そして、4節では彼らの繁栄の様子が、5節では「主(ヤハウェ)の民」の枠が肉のイスラエルを超えて広がり、異邦人にまで及ぶことが示唆されています。これこそ新約の恵みです。

そして、6節では再び、「主(ヤハウェ)は仰せられる」と告げられ、その主が、今度は、「イスラエルの王、これを贖う方、万軍の主(ヤハウェ)」として描かれます。そして、その主がご自身のことを、「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はいない」と紹介されます。これは、主(ヤハウェ)は世界の歴史を始めた方であり、また、歴史の完成を導く方であり、世界が存在する原因でありまた目的であるという意味が込められています。そして、7節は「だれが、わたしのようであろうか」という問いかけから始まり、「このように宣言し、これを告げることができようか。わたしが永遠の民を起こしたときからのことを並べ立ててみよ。彼らに未来の事、来るべき事を告げさせてみよ」と記されています。「永遠の民を起こしたときから・・」とは、神がご自身の民をひとりのアブラハムから創造されたことを指すと思われます。私たちも信仰においてアブラハムの子孫とされ、この神の永遠のご計画の中に招き入れられています。ここにおいても、何よりの問いかけは、「なぜ」ではなく、「だれが・・」「だれを」です。

人は、古来、「私は何のために生まれ、何のために生きているのか・・」と問い続けてきましたが、私たちが主(ヤハウェ)に結びつくとき、「この私は主(ヤハウェ)によって、高価で尊い者として創造され、主に愛され、罪を贖われ、主の民としてふさわしい存在に造り変えられる途上にある。近い将来のことは何も分からないけれど、人生のゴールは分かっている。それは神の平和(シャローム)が完成する愛に満ち溢れた世界だ!」ということを、感動を持っていうことができます。私たちは人生の意味や目的を、主(ヤハウェ)を離れては知ることができないのです。この世界の「初め」と「終わり(目的)」が、「だれ」のもとにあるかを知るものは、人生で最も大切なことを知っているのです。

5.「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」 偶像礼拝にある落とし穴

9節の「偶像を造る者はみな、むなしい」とは、20節まで続くこの箇所のテーマを言い表したような表現です。17節の、「その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたはわたしの神だから』と言う」とは、他の宗教に頼る人をあまりも侮辱したことばのように思えるかもしれませんが、そこには、偶像礼拝の恐ろしさが描かれています。それは、偶像を拝む者は、「だれが・・」という問いかけをやめてしまうからです。彼らは、人間の中にある永遠への憧れ、美や平和への憧れを熱心に表現しようとしますが、最も大切なことに対して、「彼らの目は堅くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって見ることができない」(18節)という状態に陥ります。そして、偶像礼拝の愚かしさを反省する感性さえも失われ、「あこがれる者の心は欺かれ、惑わされて・・・『私の右の手には偽りがないのだろうか』とさえ言わない」(20節)という心が停止する状態に陥るというのです。主は、かつて、「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(40:26)と呼びかけられましたが、偶像を拝む者は、このような呼びかけに心の目と耳を自分で閉ざしてしまうのです。

そして、その上で、「ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたがたを造り上げた」と言われ、またそれを繰り返すように、「あなたはわたし自身の(わたしに属する)しもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない」と言われます(44:21)。私たちはどこかで、神との関係が自分の主導権にあると誤解します。しかし、信仰とは、自分が神から目を留めていただき、忘れられることがないということを、思い起こすことから始まっているのです。しかも、主(ヤハウェ)は、「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(44:22)と、神の救いのみわざが語られます。私たちは自分の悔い改めの誠実さによって、罪を赦していただくのではありません。神が一方的に私たちの罪を赦してくださったという現実を受け入れる結果として、神に立ち返り、真の悔い改めの実を結ぶことができるのです。神の赦しが、私たちの悔い改めに先行するというのが福音の本質です。

「天よ。喜び歌え。主(ヤハウェ)がこれを成し遂げたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声を上げよ。林とそのすべての木も。主(ヤハウェ)がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ」(44:23)とは、主の救いのみわざを、天も地も山々も林も、全被造物が喜び歌う姿です。神の救いのみわざ私たちのたましいを天国に入れることにとどまるものではありません。私たちのからだを栄光の姿に変えることばかりか、すべての被造物を新しくすること、「ジャッカルやだちょう」(43:20)でさえも主を賛美するという全宇宙的な回復なのです。

私たちは神の救いのご計画をあまりにも小さくとらえてはいないでしょうか。J.S.バッハはクリマスオラトリオの最初で神の御子の驚くほど貧しい誕生を告げる福音書の朗読の前に、この箇所のみことばを、テインパニ、トランペットなどとともに壮麗な喜びの歌として表現しています。神の御子の貧しさ、地上の私たちの貧しさ、そのすべては、天上に響く喜びの歌声の下で一時的に起こっていることに過ぎません。全世界の創造主の驚くべき偉大な創造とあがないのみわざの中で、このつかの間の私たちの地上の人生を見るということこそが福音の核心です。

聖書の神は、あなたの創造主であり、贖い主です。あなたが神をとらえたのではなく、神があなたを恋い慕い、あなたをとらえてくださいました。あなたはその結果として、創造主を礼拝しています。あなたがまだ罪人であったとき、神の御子キリストがあなたのために死んでくださいました。罪の赦しは、あなたの回心以前に、神の選びから始まっています。創造主である神の壮大な救いのご計画の中に、あなたは招き入れられています。その方の御手の中で、あなたに生きる目的が与えられます。そして、あなたの目に、自分が惨めに見えても、神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と語りかけてくださいます。あなたの目には明日の希望が見えなくても、神はあなたに、「見よ。わたしは新しいことをする」と語りかけてくださいます。あなたが自分勝手な道に歩んでいる時に、神は、「わたしに帰れ、わたしはあなたを贖ったからだ」と語りかけてくださいます。信仰生活とは、この「わたし」と言われる方の「あなた」への語りかけの中に生まれます。「どのように」から「だれ・・」という発想の転換が必要です。