2008年4月27日
「古人言く、径寸十枚、これ国宝に非ず。一隅を照す。これ則ち国宝なり、と」は、比叡山の開祖、最澄が日本に広めたことばです。私は高校の修学旅行のとき、根本中堂でこのことばを聞き、いたく感動しました。これは直径が一寸(3.03cm)もある宝石十個よりも、自分に与えられた場で全力を尽くす人こそが国の宝であるという意味です。私も「一隅を照らす人」でありたいとそのとき思ったものです。しかし、私の心の中には、そのような慎み深い生き方よりも、その中国の原点に並行して記されているという「千里を照らす将軍」でありたいという思いがありました。しかも、そのような目立ち根性を、「さもしい!」と恥じる自分もいて、心が空回りを起こしていました。そのような中で、イエスの魅力にとらえられました。それでもしばしば、自分の分を超えた働きをし、「もっと多くの人から感謝されてみたい……」という思いが芽生えます。しかし、イエスはそんな心の定まらない私を含めて、「あなたがたは、世界の光です」(マタイ5:14)と語ってくださいました。私ではなく、キリストが私を通して輝くことができるからです。
1.「悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても……」
イエスはまず、「つまずきが起こるのは避けられない」(1節)と言われました。牧師をしていると、「僕が牧師でなければ、あの人はつまずかなかったかもしれない……」という気持ちになることがありますので、このみことばは慰めになります。私は、その人がその人自身の問題でつまずくことにまで責任を感じなくても良いと思えるからです。
ただ、同時に、「だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さい者たちのひとりに、つまづきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」(2節)とイエスは厳しく警告されました。「石臼」とは麦の粒を粉につぶすために使うもので、これを首にゆわえつけられたら、何の抵抗もできないまま海に沈んでしまいます。それと同じように、あなたの言動が、その人のサタンの誘惑への抵抗力を失わせ、その人を滅びに導くようになるぐらいなら、生きていないほうが良かったというのです。
後にパウロは、コリント教会に宛てた手紙で、「偶像にささげられた肉」を食べてよいかどうかに関して、その第一の手紙の8章から10章まで、非常に長い議論を展開します。彼はそこで白黒明確なルールを作る代わりに、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を高めます」(Ⅰコリント8:1)という原則に立ち返るように進めました。簡単に言うと、「こんなことでつまずくのは、つまずくほうが無知だからだ……」などと、人の良心を軽蔑するような動機で自分の行動を決めてはならないという意味です。それはたとえば、アルコール依存症から立ち直ろうとしている人の前で、敢えてお酒を飲むような行為や、子供の見ている前で赤信号をわたるような行為です。私たちには日々のいろんな事に関しての戒律のようなものはありませんが、自分の行動が隣人にどのような影響を与えるかということをよくわきまえて、すべてを隣人への愛の動機から決めるようにということです。何が隣人への愛になるかに関しては、だれも一律の答えを言うことはできません。問われているのは、あなたの心の内側にある動機だからです。
「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい」(3節)とは、自分の兄弟が滅びに向かっているとき、それを警告する責任を問うものです。人の目には、「余計なお世話……」と見えるようなことでも、警告しなかったという責任を問われて、あなた自身が「いのちを失う」ことすらあるというのです(エゼキエル3:18参照)。
「そして、悔い改めれば、赦しなさい」とは、キリストの御名によって神の赦しを宣言することです。被造物にすぎないあなた自身に罪を赦す権威などあるわけはありません。しかし、復活のイエスは、ご自身の弟子たちを世に遣わすにあたって、「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20:22,23)と言われました。あなたは隣人に対しイエスの代理、イエスの大使として生きるように召されています。そのときたとえば、その人の罪の告白を聞きながら、Ⅰヨハネ1:9-2:2のみことば「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。……もし、だれかが罪を犯すことがあれば、私たちには御父の前で弁護する方がいます・・この方こそ、私たちの罪のための……なだめの供え物です」を読み上げて差し上げるのが良いでしょう。それを受け入れるものに神の赦しが伝わります。これは牧師だけの働きではありません。
その上で、「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来る(戻る)なら、赦してやりなさい」と命じられます(4節)。なお、「悔い改める」とは、「立ち返る」とも訳されることばで、行動の変化よりも、心の方向を変えることが中心です。つまり、あなたの目には、「口先だけ……また同じことをするに違いない……」と見えても、あなたに頭を下げているということ自体を受け入れるようにという勧めです。あなたに罪を犯す人が、あなたとの交わりをなお求めているということがどれだけ大きなことかを忘れてはなりません。
「一日に七度罪を犯しながら、なお赦しを乞う」などという人は確かに口先だけとしか見えないことでしょうが、それを裁くのは神の主権に属することであって、あなたの責任はその人を赦すことです。私たちが人を赦すことができないのは、神のさばきを信じていないからではないでしょうか。パウロも、「すべての人と平和を保ちなさい」と勧めながら、「自分で復讐してはなりません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:18,19)と言っています。人からひどい目に会わされた方が、「神の目はふし穴ではない!」と言いながら、「神がご自身のときがきたらさばいてくださるのだから、私はもうこの責任を問わない……」と心から搾り出すように言っていたことがあります。さばきは神の責任で、あなたの責任は、人を赦すことです。しかも、そうすることで、あなた自身が神の赦しを心の底から味わうことができます。人を赦せない心には苦々しさが蓄積されます。ある意味で、人から不当な苦しみを受けるのは、人生で避けられないことです。しかし、それに囚われていると、自分の心が病んできます。それは二重に被害を受けることです。しかし、この二つ目の被害からは、神によってしか解放されません。そして、あなたの心が人に毒を撒き散らす「にがよもぎ」(黙示8:11)のような状態から解放されるとき、あなたを通して神の愛が人に届きます。「世界の光」となるための第一ステップは、人を赦すことから始まります。その祈りを、イエスは導いてくださいます。
2.「私たちの信仰を増してください」
使徒たちはイエスに、「私たちの信仰を増してください」(5節)と願いましたが、そこには、無限に隣人を赦し続けることから、人々の病を癒すことまで、イエスに似た魅力的な人に成長したいという動機があったことでしょう。しかし、そこには同時に、「現在の私たちの信仰のレベルではだめだ……」と、与えられた信仰を卑下する思いもあったのではないでしょうか。しかし、信仰は、神の力を取り次ぐ媒体に過ぎません。事を動かすのは、神の力であって、人間の信仰の力ではありません。私たちもしばしば、「私は信仰が弱いから……」「あの人の信仰は強いから……」などと、信仰を計りあい、信仰を人間的な能力と同じようなレベルで見るような傾向がないでしょうか。
それに対して、イエスは、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(6節)と言われました。「からし種」は、「どんな種よりも小さいのですが、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」(マタイ13:32)とあるように、その中に偉大な力が隠されているものの象徴です。イエスは、神の国の驚くべき成長力を表現するためにからし種のたとえを用いました。つまり、信仰は、増し加えられたり減少したりするようなものというよりは、どんなに小さく、弱いものに見えても、神はそれを通して不可能を可能にすることができるというのです。イエスは、このたとえによって、弟子たちの目を、人が持っている「信仰」ではなく、神の力へと向けられたのです。
なお、イエスは別のところで、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(マタイ13:20)と言われました。これも基本的に同じです。信仰の大きさが問題なら、「柿の種のような信仰があるなら……」、「鶏の卵のような信仰があるなら……」と言っても良いでしょう。しかし、どのような小さな信仰でも、神の御力は働くことができるのです。信仰とは神を見上げることです。そこで、見上げている自分の姿勢の方に目が向かうなら、それこそ本末転倒です。
その上でイエスは、「耕作か羊飼いをするしもべ」(7節)が野の仕事から帰ってきたとき、そのしもべの食事の世話をするような主人はどこにもいないばかりか、かえって、疲れているしもべに、さらに自分の食事の世話を要求するのが人間の主人であるという、当時の常識に目を向けさせます。そして、「そのしもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか」(9節)と、感謝されることを求める心を戒められました。
その上で、「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(10節)と、神のしもべとしての生き方を教えられました。これは神が私たちを役に立たない者と見ているとか、奴隷のように酷使するという意味ではありません。イエスは、12章35-38節では、主人の帰りを目を覚まして待っていたしもべに、主人のほうからしもべを接待するというたとえを話しています。イエスはそのように弟子たちに仕える者となってくださいました(22:27)。
しかし、だからといって、イエスが私たちに仕え、ねぎらってくださることをこちらから期待しては本末転倒です。私たちの中にはいつも、自分を重要な人物であると思い込みたいという誘惑があります。しかし、「私がいなければ神様が困るはずだ……」などと思うと、無意識に人を振り回すような生き方をしてしまいます。事実は常に、あなたがやらなくても、神は別の人をご自身の働きに用いることができるということです。日本のどこかの会社に「俺がやらねば誰がやる」という標語が掲げてあったのに、「誰が」の「が」の点々を消して、「俺がやらねば誰かやる」になっていた、という笑い話があるそうです。いくらでも神の目には代わりがあるのに、神は敢えてそれほど役に立たないあなたを選んで働きの場を与えてくださいました。それ自体を感謝すべきでしょう。
「信仰を増してください」という願いの中には、「より強い、より影響力のある信仰者になりたい……」という思いが込められがちです。人の心には、「目立ちたい、ほめられたい、感謝されたい」という気持ちが渦巻いています。それは人間として当然ですが、それは結果として与えられることであって、それ自体が生きる目的となることがあっては、神も人も、自分の内側にある承認欲求を満たす手段とすることになりかねません。信仰の本質とは、主の祈りにあるように、自分を忘れて、神の御名が崇められ、神のご支配が実現し、神のみこころが行われることを願うことです。「一隅を照らす」という生き方は、イエスに由来する教えといえないでしょうか。イエスは、あなたを「世界の光」と呼んでくださいましたが、それは、あなたのもっとも身近な世界を照らすことから始まります。大きな光になることを求めるのではなく、今、ここで、神から与えられている責任を、ただ忠実に、黙々と果たすことこそが神のみこころです。しかも、私たちはそれをイエスとの交わりの中で行うのです。そのとき、イエスは私たちを奴隷のように酷使する方ではなく、私たちを慰め、励まし、しかも、期待を超えた報酬までくださる方であることがわかります。
3.「あなたの信仰が、あなたを救った」とは?
「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られ」(11節)ましたが、ある村で、十人のツァラアトに冒された人が、遠くから声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうぞあわれんでください」と叫びました。「ツァラアト」とは、「らい病」とも「重い皮膚病」とも訳されることばですが、その実態は良く分かりません。とにかく彼らは、町の外に住み、人の前では、「汚れている、汚れている」と自分で叫ばなければならないような惨めな立場に追いやられていました(レビ13:45,46)。ところが、イエスはこれを見て、「行きなさい。そして、自分を祭司に見せなさい」と簡潔な癒しの方法を言われました(14節)。それは祭司だけが、この病から癒された人の社会復帰への道を導く権威が与えられていたからでした(レビ14章)。彼らがイエスに向かって叫び、またイエスの命令に従ったという中に彼らの信仰が表されています。そして、「彼らは行く途中できよめられた」のです(14節)。彼らは確かに、信仰によってイエスの命令に従うことによって、この奇跡的ないやしを体験することができたのです。
ところが、そのうちのひとりだけが、「大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスの足もとにひれふして感謝した」というのです(15,16節)。しかも、その人は、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリヤ人でした。それを見てイエスは、「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻ってきた者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」と言われました(17,18節)。そこにはイエスの悲しみの思いが込められていたのではないでしょうか。九人はエルサレム神殿の祭司のもとに行き、そこで「きよい」という宣言を受けて、七日間の後、ユダヤ人の社会に復帰することができたのでしょうが、彼らはそれによってイエスに敵対する者たちの交わりに加わることになったかもしれません。しかし、彼らにはイエスの敵の仲間になるなどという意識はなかったことでしょう。彼らはただ、自分たちの社会復帰のことばかりを急ぎ、どなたが自分たちをいやしてくれたかということは忘れていたのです。これは困ったときだけ礼拝に来るという多くの人の意識に似ているのではないでしょうか。しかし、それで損しているのは、その人自身です。いのちの交わりの機会を自分で閉じているのですから……
イエスのみもとに戻ってきたのは、外国人であるサマリヤ人だけでした。彼らはエルサレム神殿を中心としたユダヤ人の交わりから排除されているという意味で、イエスのみもとに来やすかったのかもしれません。それにしても、イエスは、この人の信仰を喜び、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直した(救った)のです」と言われました(19節)。イエスは、ここで、この人の信仰が癒される原因であったかのように語っていますが、実際は、恩知らずな他の九人も癒されたのでした。実際、ここは、「あなたの信仰が、あなたを救った」(新共同訳)と訳すことができ、この人のうちに起こったことは、肉体の癒しばかりかたましいの救いを含んだことばとして理解されるべきかと思われます。つまり、この人の「信仰」とは、いやしの奇跡の原因であったというのではなく、この人のうちに芽生えたイエスへの感謝の心自体が、イエスが喜ばれた「信仰」なのです。彼が「イエスの足もとにひれ伏し」たことは、「暗やみの圧制から救い出され……御子のご支配の中に移された」(コロサイ1:13)ことのしるしです。先には、信仰とは、神への忠実さであるという点に注目されましたが、ここでは、信仰とは、イエスのへの感謝の気持ちであるというのです。私たちはそれぞれイエスの光を受けて救われました。救われるための信仰とは、あなたがどれだけ一途に信じきることができるかというようなことではなく、イエスのみわざにただ感謝することから始まります。つまり、「もっと輝いていたい……」などと願う前に、神のみわざに感謝することこそ「信仰」の核心です。
千里を照らす将軍ではなく、一隅を照らす者としての慎み深い生き方の基本は、イエスとの交わりにあります。イエスはあなたを通してご自身の赦しを伝えようとしておられます。それによってあなた自身の心が苦々しい思いから解放されます。イエスは、他の有能な人の代わりに、あなたをご自身の働きに召してくださいました。そこにあなたの生きがいが生まれます。そして、信仰の本質とは、あなたの信念である前に、感謝の心です。しかも何よりも、イエスの貧しさのうちに神にとらえられた者としての喜びがあふれています。私たちが、「もっと、もっと……」という駆り立てから自由になり、自分も幸せになり、人も幸せになるという生き方の鍵が、以下の詩にあります。
この詩は、ニューヨークにある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁に掲げられており、「病者の祈り」または、「苦しみを超えて」という題でもよく知られています。今から百五十年ほど前の米国の内戦、南北戦争で、南部連合軍の傷病兵士が残したと言われています。
私は神に 大きなことを成し遂げるようにと 強さを求めたのに、 慎み深く従うことを学ぶようにと 弱い者とされた より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに より良いことができるようにと 病弱さをいただいた。 幸せになれるようにと 豊かさを求めたのに 賢明であるようにと 貧しさをいただいた 人の称賛を得られるようにと 力を求めたのに 神の必要を感じるようにと 弱さをいただいた いのちを楽しむことができるようにと あらゆるものを求めたのに あらゆることを楽しめるようにと いのちをいただいた 求めたものは 何一つ得られなかったが 心の願いは すべてかなえられた このような私であるにも関わらず ことばにならない祈りはすべてかなえられた 私は あらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ。 翻訳 高橋秀典