イザヤ40章1節〜42章17節「主を待ち望む者は新しく力を得る」

2008年4月20日

私たちは基本的に自分の力を、他の人との比較で計ります。そのため人の心の中には、以下の詩にあるような醜い思いがあるのではないでしょうか。

もし私の隣人が 私より強いならば、私はその人を怖れる。
もしその人が 私より弱ければ、私はその人を軽蔑する。
もし私とその人とが 同じであれば、私は詭計に訴える。
私がどのような動機をもっていたら、その人に服従することができ、
私にどのような理由があったら、その人を愛することができるのだろうか」
(ジャン・ド・ルージュモン)

しかし、私たちの基準をキリストにおくとき、徹底的に自分の弱さを受け入れると共に、必要ならばどんな苦しみをも引き受ける勇気をいただくことができるのではないでしょうか。

1.「そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」

イザヤ39章はバビロン捕囚の預言で終わり、それを前提として「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」と、神が語りかけられます(1節)。これからヘンデル作「メサイア」の冒頭の歌が作られますが、神は自業自得で苦しむ民を慰めるために、救い主を遣わしてくだるのです。

「労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた」(2節)とは、借金証書が返済完了の印に二つ折りに壁に鋲で留められると同時に、借金と同額が贈り物として与えられるという奇想天外な恵みです。そして、そこで「荒野に呼ばわる者の声」(3節)、「呼ばわれと言う者の声」(6節)、「シオンに良い知らせを伝える者」(9節)という三重の福音が語られます。

第一の声は「主の道を整えよ・・」ですが、これは本来、長く不在だった王の帰還に先立ち、馬車が通る道路を整備することです。あなたの心には、主をお迎えする道が備えられているでしょうか?自己満足にひたり、心の渇きの声に耳をふさいでいるなら、どんなに福音が分かりやすく語られても理解することはできません

第二の「呼ばわれ」という者の声は、「人の栄光は・・野の花のように・・枯れ・・しぼむ、だが私たちの神のことばは永遠に立つ」(6-8節)という永遠の真理を告げるように命じます。「人の栄光」の空しさを覚えると同時に、すべてを支配する創造主は忘れられてはなりません。明日何が起こるかを予想することは、株価予想のように当てになりませんが、この世界が「神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地」(Ⅱペテロ3:13)に向かっていることを確信できるなら、自分の労苦が無に帰するように見える中でも堅く立ち続けることができます。

第三の「良い知らせ」の声は、「見よ。あなたがたの神・・は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」(10節)という福音を告げます。「主の御腕」は、力強さとともに優しさの象徴とされ、「子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く」(11節)と描かれます。旧約の民は、外国の軍隊を打ち破ることができるような力強い「御腕」ばかりを求めていました。しかし、主がもたらされた「二倍のもの」とは、まさに、主の御前に立つことがとうていできないような者を、あわれみをもって招き、内側から作り変える愛に満ちた「御腕」のことでした。

私たちも自業自得の苦しみの中で、後悔に囚われることがあるかもしれません。しかし、そこで主の御前にへりくだり、あわれみを求めるとき、ここにあるような三重の慰めの声を聞き、罪の赦しばかりか、その大きさに倍する祝福を受け取ることができるのです。神の懲らしめは、決して、脅しによって私たちを矯正しようとするものではなく、私たちを謙遜にし、神の救いを求めさせようとするあわれみの表れなのです。

2.「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」

17節では、どんなに強い国々も「主の前では無に等しい」と描かれます。当時のユダヤはアッシリヤ帝国とエジプトの狭間でかろうじて生き残っていましたが、「主にとっては」それらの巨大な帝国も「むなしく形もないもの」に見えるというのです。これは、現代のアメリカ合衆国のコンピューターを駆使した大軍事力が、主の目には、太平洋に浮かぶ小島トンガ王国の王宮警備隊にまさりはしないというようなものです。

「あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから告げられなかったのか」(21節)とは、人間的な知恵を横に置き、「創世記」の原点に立ち返る勧めです。「地の基がどうしておかれたか」とは、「宇宙のはじまり」に思いを向けることですが、いかなる科学も、それに関して仮説は立てられても、実証することは不可能です。

しばしば、人がアミーバーからの進化の歴史の頂点に立つという大胆な仮説が、科学的事実であるかのように教えられますが、それが事実なら、優秀な遺伝子を持つ者が支配権を握ってより多くの子孫を残す社会システムが正当化されないでしょうか。

しかし、「主は地をおおう天蓋の上に住まわれ」(22節)とあるように、全宇宙を超越しておられる方です。創造主の目には、人が知性や美貌で優劣を競い合っている姿は、「いなご」の競争のようなものにすぎません。ですから、主は、「君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされ」(23節)るというのです。

今、このとき、イエス・キリストこそが、「王たちの王。主たちの主」(黙示17:14)として全地を支配しておられます。そして、その方はご自身を無力さの象徴の「小羊」として紹介されながら、人が自分の力を誇る姿を笑っておられます。

「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節)とは、大宇宙に目を向けることの勧めです。神は、すべての星を区別して「一つ一つ、その名をもって、呼ばれる」方ですが、同時に「この方は勢力に満ち、その力は強い」ので、「いなご」に等しい私たち一人一人をも「その名をもって、呼ばれる」というのです。私は何をしても良い結果が出ないと落ち込んでいたとき、このみことばを友人から贈られて深い感動を覚えたことがあります。

「ヤコブよ。なぜ言うのか・・」(27節)とは、「神の民」がこの地であまりにも惨めで、「私の道は主(ヤハウェ)に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と嘆かざるを得ない現実が目の前にあるからです。

敬虔な信仰者にとっても、肝心のときに神を遠く感じざるをえないというのは、避けがたい現実でもあります。私たちはそんなとき、心が萎え気力を失います。

しかし、私たちの主イエスもそのような神の不在を体験されました。しかし、その主の御苦しみによって全世界の罪が贖われました。まさに主は、「その英知は測り知れない」(28節)方です。

ここでイザヤは、「主(ヤハウェ)は永遠の神、地の果てまで創造された方」(28節)と、私たちを創造の原点に導き戻しますが、同時に、新約の時代に生きる私たちは、神を遠く感じるたびに、神がイエスを死者の中からよみがえらせてくださったという原点に立ち帰ることができます。その神が、私たちのうちに、聖霊、いのちの息を吹き入れてくださいました。

そして、「主は・・疲れることなく、たゆむことなく」という表現は、「若者も疲れ、たゆみ」(30節)と対比されるとともに、主を待ち望む者は「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(31節)というクライマックスの表現に結びつきます。つまり、「主を待ち望む者」は、疲れることも、たゆむこともない主に似せられてゆくというのです。

「たゆむ」とは、心がたるんだ弓の糸のようになり、気力が湧かなくなる状態です。それは、私たちの肉体の自然な反応ですが、主は「疲れた者には力を与える」と同時に、心がたゆみ、「精力のない者には活気をつける」ことのできる方です。そのために必要なのは、外からの刺激にただ反応し、時間を惜しむように動き回ることではなく、「主(ヤハウェ)を待ち望む」ことです。

それは、「主(ヤハウェ)の前に静まり、耐え忍んで主を待て」(詩篇37:7)とあるように、すべての働きを、主のみ前で静まるということから始め、まず何よりも、主からの力を受け、その上で動き出すということです。そうする人こそ、この世においても主の祝福を受けるというのです。

しかも、「新しく力を得る」とは、食べて寝て元気を回復するという生物学的な力ではなく、鷲の翼が生え変わってより高く舞い上がるような、内側からの変化です。これは英語で、Changeではなく、Transformationとして表現される「新しさ」です。それが肉体の現実を超えた変化だからこそ、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」と表現されるのです。

今、「主を待ち望む者」の心のうちに、「主(ヤハウェ)」ご自身が入って来てくださいました。パウロはこれを、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」と言いつつ、「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘している」と告白しました(コロサイ1:27,29)。

つまり、私たちのうちには、死に打ち勝った「キリストの力」が働いているのであり、そのキリストこそ私たちにとっての「栄光の望み」であるというのです。私たちは自分を「いなご」のようにちっぽけな存在に感じることがあるかもしれませんが、主は「地をおおう天蓋の上に住んで」おられると同時に私たちの内に住んでおられます。

ですから、私たちは、今、私たちをとらえてくださった天におられる主のみもとに向かって、「鷲のように翼をかって上ることができる」のです。

3.「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」

41章8-20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られています。8,9節では、神がイスラエルを、「わたしのしもべ」と繰り返し呼びかけています。「しもべ」とは「奴隷」のことですが、そこには、全世界の創造主である方がイスラエルをかけがえのない財産と見て、世の権力者から守るという意思が込められます。

それは神がこれまでひとりのアブラハムからイスラエルという奇跡の民を造り出して下さったという歴史に現されています。その思いを込めて、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(10節)と語られます。

今から16年余り前のことですが、あるご高齢の方に洗礼を授けさせていただきました。正直申しまして、イエス・キリストの贖いのみわざをどれだけご理解いただけたか不安でしたが、この10節のみことばを暗誦し、ただこのみことばによって神と出会っている姿に私は圧倒される思いでした。私ははるかに聖書を知っています。しかし、彼はほとんど聖書を知らないようでいて、私などより心の奥底で神と出会っているように感じさせられました。それは彼が人生の苦しみを通して自分の弱さを嫌というほど思い知らされてきたからです。

しかし、人間的な誇りにより頼む人は、「わたしのしもべ」と呼ばれること自体に喜びを感じることができません。そして、「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(10節)という約束にすがることはできません。また、愚かなプライドに囚われている人は、「恐れるな。虫けらのヤコブ」(14節)と言われて気分を害するばかりで、それに続く「わたしはあなたを助ける」ということばに励ましを見出すことはできません。

そして、自分の無力さに絶望している民に、「あなたは主(ヤハウェ)によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」(16節)と語られます。そして、主は渇きに苦しむ者に、「わたし、主(ヤハウェ)、彼らに答え・・・裸の丘に川を開き・・・砂漠の地を水の源とする」(18節)と言いつつ、荒野や荒地を様々な木々で満たすと約束してくださいました(19節)。その上で、「主(ヤハウェ)の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るため」(20節)とまとめられます。

21-24節は、「そうすれば、われわれが、あなたがたが神であることを知ろう」(23節)とあるように、偶像の神々に、自分たちが神であることを証明してみよと迫るための議論です。

22節は、「(偶像を)持ってこさせ・・告げさせてみよ。後に起こることを。先にあったことは何であったかを告げよ・・・」と訳すこともできますが、それは偶像の神々が何も語ることができないことを皮肉ったものです。

特に、「良いことでも、悪いことでもしてみよ・・・」(23節)というのは極めて興味深い表現です。多くの人々が偶像を拝むのは、それが何かの良いことか、わざわいをもたらす力があると信じられているからですが、それらは何もできない「無に等しい」(24節)存在に過ぎません。

このような偶像のむなしさの対比として、「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出るところからわたしの名を呼ぶ」(25節)と言われます。東で起こされた王は、イスラエルの北から迫ってきますが、その異教の王が主の名を呼ぶというのです。

エズラ記の最初には、このイザヤのときから約百六十年後の事として、「主(ヤハウェ)はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせたので・・・・『天の神、主(ヤハウェ)は、地のすべての王国をわたしに賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることをゆだねられた』」と記され、第二神殿が、ペルシャ王クロスの命令がなければ立たなかったことを記しています。

27節は原文で、「シオンへの最初の事を、見よ、これを見よ」と記されており、これを新共同訳では、「見よ。シオンに初めから告げられていたことはここに実現した」と訳していますが、その方が新改訳よりも意味を伝えていると思われます。

つまり、主(ヤハウェ)がこの世界を支配しておられるということは、イザヤの預言がひとつひとつ成就していることに表されていること、特に、異教の王クロスがエルサレム神殿の再建を命じるという不思議の中に現されています。

「イスラエル人は、昔の時を自分の『前にある』現実として見る・・それはちょうどボートの漕ぎ手のようなもので、未来の方へ背を向けて・・・前に見えるもの(過去)によって方向を取りながら目標に到達する」と言われます。今までの歴史を、またあなたの歩みを、主がどのように導いてくださったかを覚えることによって、未来の方向が決められるのです。日々の決断は私たちの記憶を基礎になされます。その記憶が神の光に照らされる必要があります。

4.彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる(衰え行く)燈芯を消すこともない

42章1-9節は、イザヤが記す四つの「主(ヤハウェ)のしもべの歌」(この他は49:1-9,50:4-9、52:13-53:12)の最初です。これは当然ながらキリスト預言でありますが、同時に、主のしもべとしてのイスラエルに、また私たちキリスト者に求められる生き方でもあります。そして、何よりも、人としてのイエスご自身がこれらの主のしもべの歌を心の底から味わい、そのみことばを実践されたということを忘れてはなりません。

マタイ12:15-21では、この主のしもべの歌の前半の部分が引用されていますが、そこでイエスが人々をいやしながらも、ご自身のことを知らせないように命じたのは、このみことばを成就するためであったと記されています。

「見よ。わたしのしもべを。―彼をわたしは支えているーわたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者。彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」(1節私訳)のみことばは、イエスがバプテスマを受けたときに、神の御霊が鳩のようにくだり、天から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がしたときに成就しました(マタイ3:16,17)。私たちが御霊を受けてキリストの弟子となるとは、それが私たちへの語りかけになることを意味します。私たちの上に人間イエスを導いたのと同じ御霊が宿ってくださったとは何という驚きでしょう。

「彼は叫ばず・・・」とは、独立革命軍を指導するような者ではないという意味です。「傷んだ葦」とは役に立たないものの象徴ですが、主のしもべは、社会の役に立たないと思われる人にもやさしく対応してくださるというのです。また「くすぶる(衰え行く)燈芯」も早く取り替えたほうが良いようなものですが、それさえも大切にして消すことがないというのです。これは現代的に言えば、後期高齢者と呼ばれるような人々への優しさを意味します。

そのことが、「彼はまことをもって公義をもたらす」(3節)と記されます。これは、社会的弱者を守るという意味での正義を実現してくださるという意味です。イエスは当時の最下層の人々、取税人や遊女、罪人の友となってくださいました。

「彼は衰えることも、傷つき果てることもない」とは、「主(ヤハウェ)のしもべ」自身が、「傷んだ葦、衰え行く燈芯」と同じように見えながら、そこに驚くほどの強さが秘められていました。

イエスはゲッセマネの園で、「苦しみもだえ・・・汗が血のしずくのように地に落ちる」(ルカ22:44)ような祈りをささげた後、無抵抗で権力者に捕らえられ、不当な裁判でも何の弁明もされずに十字架にかけられました。その姿は、人々の目には弱さでも、そこには自分の身を守る必要を感じないという真の強さがあるのではないでしょうか。

「神である主(ヤハウェ)はこう仰せられる」と述べられた後、その方は、「天を創造し、これを広げ、地と産物を押し広め、その上に住む人々に息を・・霊を授ける」と説明され、その語りかけとして、「わたし、主(ヤハウェ)義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、異邦人の光とする」と記されます。ここに主(ヤハウェ)ご自身の主導権が強調されています。これは私たちにもそのまま適用されることばです。

「それは、盲人の目を開き、囚人を牢獄から自由にするため、闇の中に住む者を、その獄屋からも」(7節、私訳)と描かれますが、イエスの贖いのみわざは何よりも私たちをサタンの支配から自由にすることにありました。サタンは私たちを盲目にし、この世の成功しか見えなくさえ、死の力によって脅し、私たちの心を束縛します。しかし、イエス・キリストを信じる者の勝利は確定しました。私たちはその恵みを伝えることができます。

「わたしは主(ヤハウェ)、それがわたしの名」(8節)とは、この名の由来、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:13)を指すと思われます。それは主が、この世界のすべてのみなもとであり、その栄光も栄誉も、この地上のものによって言い表すことができるようなものではないからです。

そして、「先のことは、見よ。すでに起こった」(9節)とは、主がアッシリヤを用いて北王国イスラエルを滅ぼし、またバビロン帝国を用いて南王国ユダを滅ぼしたことを指すと思われます。それらはイスラエルの神の無力を示すものではなく、はるか昔に記されたレビ記や申命記の預言が成就したことを意味します。

その上で、「わたしは、新しいことを告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう」と言われます。これはペルシャ帝国を用いてイスラエルの民を約束の地に戻すことであり、また、最終的には、ここに記された主のしもべによって世界を救うことを意味します。

て主は、「わたしは目の見えない者に・・知らない道を歩ませ・・知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする」(16節)と約束されました。後に復活のイエスが使徒パウロを召しだされたとき、ご自身の光によって、彼を三日間、盲目としました(使徒9:3-18)。

彼は人々に手を引いてもらってダマスコにいた見知らぬイエスの弟子アナニヤのもとに導かれ、そこで目が開かれましたが、このときパウロは自分にこのみことばが成就したことを悟ったのではないでしょうか。

彼は後に、アグリッパ王の前で自分の働きを、「彼ら(ユダヤ人と異邦人)の目を開いて暗闇から光にサタンの支配から神に立ち返らせ、・・・彼らに罪の赦しを得させ、聖なる者とされた人々の中にあって御国を受け継がせる」(使徒26:18)と紹介しましたが、そのとき彼はこのイザヤ書42章を思い起こしていたのだと思われます。

パウロは自分の目が見えていると思っていたときには神に逆らっていましたが、自分が霊的にも盲目であることを知ったときに、見知らぬ地へと福音を宣べ伝える者とされました。

私たちは自分の弱さに直面させられる中で初めて、主が私に目を留めてくださったことの恵みが分かります。「地をおおう天蓋の上に住まわれる」主が、「いなごのよう」な私たちひとりひとりに「力を与え、活気をつけ」てくださいます。それは何よりも、「わたしはあなたとともにいる・・・わたしがあなたの神だから」とひとりひとりに語りかけることによって起きます。そして、このように私たちが自分の弱さと同時に、主にある強さを体験できるとき、私たちは傲慢になることも自分を卑下することもなく、「あなたを・・国々の光とする」という約束を覚えることができます。