イザヤ36章〜39章「わたしが計画し、今、それを果たした」

2008年4月6日

私たちは自分でコントロールできることとできないこと、「変えられることと変えられないこと」の区別を明確にしているでしょうか。私たちの明日のことは主が支配しておられます。ですから、いつでもどこでも、主の前に静まり、主に向かって祈ることがすべての原点です。一方、私たちは様々な目の前の問題に、ほとんど条件反射的な、肉的な応答をしてしまいがちです。どのような立派な人間でも、とっさに、驚くほどに愚かな間違いを犯すことがあります。直感は、本当に大切です。しかし、一呼吸おいて、それを主の前で吟味することを忘れてはなりません。

1.すべては預言の通りに

紀元前723年頃、アッシリヤ帝国は三年間の包囲の後、サマリヤを陥落させ、その住民をハランの東のゴザンからニネベ近郊の町ハラフ、そしてそのまた東のメディヤの地にまで強制移住させました(Ⅱ列王18:10,11)。それから約22年後の紀元前701年だと思われますが、アッシリヤの王セナケリブが「ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った」(36:1)という絶体絶命の危機が迫りました。ヒゼキヤは、「彼はイスラエルの神、主(ヤハウェ)に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」(Ⅱ列王記18:5)と評されたほどの人でしたが、このときは残念なことに、一時的に、「私は罪を犯しました」とアッシリヤ王に屈服し、大量の金銀を貢いでしまいました(Ⅱ列王18:14)。それは、パニックに陥ってとっさにこの世の常識の判断に身を任せたからでしょうが、それは途方もない無駄になりました。アッシリヤはそれに満足せずに、エルサレムに迫ってきたからです。先に非難されていたアッシリヤの「裏切り」(33:1)とはそれを指していると思われます。

アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、そのとき本拠地にしていたラキシュ(エルサレムの西南約50km)からエルサレムに遣わしました。ラブ・シャケがヒゼキヤの使者と会った場所、「布さらしの野への大路にある上の池の水道のそば」(36:2)とは、かつてヒゼキヤの父アハズがその不信仰をイザヤから指摘された場所です(7:3)。それはまたヒゼキヤが地下水路を掘った入り口でもあります(22:11、Ⅱ歴代誌32:2-4)。そして、ここに登場するヒゼキヤの使者のことに関しては、既に22章15,20節に述べられていました。ラブ・シャケは、エジプトに頼ろうとしているヒゼキヤをあざけって(36:6-10)、「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか・・・だれに拠り頼んで私に反逆するのか・・・」と問いつつ、エジプトを「あのいたんだ葦の杖」と呼びました。そればかりか、「われわれの神、主(ヤハウェ)に拠り頼む」というヒゼキヤのことばを引用しつつ、「今、私がこの国に上って来たのは・・・主(ヤハウェ)が私に、『この国に攻め上って、これを滅ぼせ』と言われたのだ」という不思議なことを述べます。ここまではまさに、主ご自身が語っておられることと矛盾はしません。イザヤはかつて、自分が告げる明確なことばをあざける者に対して、主は「もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる」と言いましたが(28:9-11)、それが部分的に成就したと言えましょう。イザヤが警告していたことと同じことを外国人の口を通して語られたからです。これを聞いたヒゼキヤの使者たちがあわてたのも無理がありません。あなたも聖書が言っているのと同じ意味のことばを未信者の隣人から聞くことがあるかもしれません。それは神があなたを恥じ入らせようとしているのではないでしょうか。

ところで、このときラブ・シャケは城壁の上にいる民が理解できるユダのことばで話しましたが、ヒゼキヤの使者はアラム語での対話を望みます。それに対し、彼はなおも、城壁の上にいる民に聞かせようと、「ヒゼキヤにごまかされるな」と言いながら、「主(ヤハウェ)は必ずわれわれを救い出してくださる・・・」というヒゼキヤのことばを信じてはならないと、全面降伏と他国への強制移住を受け入れるように迫りました(36:16、17)。そして、今度はアッシリヤ王のことばとして、「国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主(ヤハウェ)がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか」(36:20)と、主(ヤハウェ)を侮りました。

これも主があらかじめ言っておられたとおりです。主は、「ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖・・わたしの憤りのむち・・・しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうとは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと・・・」(10:5,7)と言っておられました。彼らがイザヤのことばを借用したのは、エルサレムに内部分裂を起こさせるためでした。しかし、彼ら自身は、イスラエルの神、主を恐れる気持ちはまったくありません。それに対し、「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する」(10:12)とも告げられていました。それが成就する様子が次に描かれます。

イザヤ書36-39章は不思議な位置を占めています。詩文で書かれた預言の中に、突然、散文による歴史的な事実の記述がはさまっているからです。その目的は何よりも、主のことばが文字通り成就していることを示すことによって、世界の終わりに関する預言も必ず成就するということを保障するものです。私たちは自分の人生を手の中に把握していたいと思います。しかし、それは不可能であり、その期待を持ち続ける人は、過去の後悔と未来の不安で心が一杯になります。私たちの主はすべてを支配しておられます。その方に信頼すれば十分なのです。

2.ヒゼキヤの祈り

「ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主(ヤハウェ)の宮に入った」(37:1)のですが、自分を恥じているのかパニックに陥ったのか、イザヤへの使いに託したことばに矛盾が見られます。彼は自分の無力さを、「子どもが生まれようとしているのに、それを産み出す力がないのです」(37:3)と表現しますが、産み出すのは最初から主のみわざであるはずです。彼は自分の力で難局を乗り切ろうとしていたかのようです。またイザヤに、「おそらくあなたの神、主(ヤハウェ)は、ラブ・シャケのことばを聞かれたでしょう」(37:4)と言いながら、「まだいる残りの者のため、祈りをささげてください」と願いますが、「おそらく」という表現に若干の疑いが、「あなたの神」という表現に、神との微妙な距離感が表されています。これに対し、イザヤはそれに応じて祈ることも、また主のみこころを求めることもなく、すぐに主のみことばを伝えます。それは、ヒゼキヤの嘆願を聞く前から、すべてのことがイザヤに知らされていたからです。これは、主の目には、意外な展開など何もないということを意味します。

そして、主は、「あのことばを恐れるな。今、わたしは彼(アッシリヤ王)のうちにひとつの霊を入れる。彼はあるうわさを聞いて、自分の国に引き上げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す」(37:7)という不思議な計画を告げられます。主は、戦う前にアッシリヤの王の心を動かすばかりか、彼がもっとも安全と思う場所で、彼の命を奪うというのです。ところで、その少し後のことだと思われますが、「ラブ・シャケは退いて、リブナ(ラキシュの約16km北)を攻めていたアッシリヤの王と落ち合った」とあります(37:8)。それは当時のエジプトの支配者クシュの王ティルハカが迫ってきたという噂を聞いたからでした。それで、アッシリヤの王は、今度は手紙をもってヒゼキヤ王に、「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな・・・」(37:10)と脅します。そこにはアッシリヤの王の焦りが見られます。

ところがこのときのヒゼキヤは、エジプトの出陣の可能性に望みを置く代わりに、その手紙を主(ヤハウェ)の宮に持って行き、「主(ヤハウェ)の前に広げ」(37:14)、自分自身のことばで主に向かって祈ります。これは先に、「自分の衣を裂き、荒布を身にまとい」ながらも、イザヤに祈ることを願ったのとは対照的に神に向かって大胆になっています。そこで彼は、「主(ヤハウェ)よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土を廃墟としたことは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石に過ぎなかったので滅ぼすことができたのです。私たちの神、主(ヤハウェ)よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主(ヤハウェ)よ、あなただけが神であることを知りましょう」(37:18-20)と訴えました。イザヤに向かって「あなたの神、主(ヤハウェ)・・」と控え目に言っていた王が、民の代表として、「私たちの神」と語りかけています。

これこそ私たちが危機に陥ったときになすべき祈りでしょう。それに対し、主は預言者イザヤを通して、アッシリヤ王へのことばを告げます。その中心は、セナケリブが主(ヤハウェ)をののしったことばが、そのまま彼の上に降りかかるということです。アッシリヤは自分の勝利を誇っていますが、それは主ご自身が起こしたものだというのです。「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしかことを」(37:26)とは、アッシリヤのイスラエル攻撃を動かしているのは、主ご自身であるということです。実際、レビ記26章や申命記28章には、主ご自身がイスラエルの不信仰をさばくために異教の国々を用いると警告されていました。イスラエルの敗北は、イスラエルの神、主(ヤハウェ)が無力なしるしではなく、主(ヤハウェ)が全世界を治めているしるしなのです。そして、その結論として、「あなたが座るのも、出てゆくのも、入るのもわたしは知っている・・・あなたの高ぶりがわたしの耳に届いたので・・あなたをもと来た道に引き戻そう」(37:28,29)と告げます。

そして、イザヤは、今度はヒゼキヤに対するしるしとして、「ことしは、落穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は種を蒔いて刈り入れ」(37:30)と五十年に一度のヨベルの年におきることを約束します(参照レビ25:21,22)。つまり、たといアッシリヤの占領によって種を蒔くことができなくても主に信頼するなら飢えることはないということです。敵に包囲されたとしても、飢えの心配がなければ持ちこたえることができるからです。その上で、後の日の繁栄のことが、「ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ」と預言され、そのことを、「万軍の主(ヤハウェ)の熱心がこれをする」と断言されます(37:31,32)。つまり、神の民は一時的に苦しむことがあっても、主が必ず救い出し、繁栄に導いてくださるというのです。これこそイザヤ書の中心テーマです。そして、主は最後に、「わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」(37:35)と言われます。それは、主(ヤハウェ)がダビデ王国を守られるのは、何よりもダビデとの契約のゆえであるという意味です。それこそ神の愛の真実(ヘセッド)です。主の真実こそが私たちの砦なのです。

そして、その後、「主(ヤハウェ)の使いが来て、アッシリヤの陣営で十八万五千人を打ち殺した」という不思議なことが起こりました。そればかりか、「アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、ニネベに住んだ。彼がその神ニスロク・の宮で拝んでいたとき、その子は剣で彼を打ち殺し・・・」と、セナケリブが暗殺されることになったのです(紀元前681年)。つまり、ヒゼキヤが軍を動かす間もなく、主はかつて予告していた通りのことをされました(37:7)。

これらの経緯はⅡ列王記18,19章にもほぼ同じように記録され、Ⅱ歴代誌32章でも簡潔に記されます。同じことが三度も繰り返されるのは極めて異例で、これは主が紅海を分けてイスラエルの民を救い出したことにも匹敵します。それは詩篇46篇で歌われている通りの救いです。この詩はその約百五十年前のものと思われますが、ヒゼキヤはこれを聖歌隊に、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、すぐそこにある助け・・・」と歌わせたのではないでしょうか。すると文字通り、「神は、夜明け前に、これを助けられる・・・主は地上に驚異を置かれた。主は地の果てまで戦いをやめさせ、弓を折り、槍を砕き、戦車を焼かれた」ということが実現しました。この詩篇では、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」(10節)と、右往左往するのをやめて、主の前に静まることを訴えています。ヒゼキヤは、一度はパニックに陥ってアッシリヤに貢物を納め、彼らをなだめようとしたことを反省したことでしょう。

私たちは困難に陥ったとき、すぐに、「今、右に進むべきか、左に進むべきか」と地上的な知恵を求めます。しかし、もっとも大切なことは、「私たちの神、主(ヤハウェ)よ。救ってください」と祈ることです。そのことをイザヤは、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30:15)と語っています。残念ながら、多くの信仰者が、「私はみこころがわからない・・・」と嘆きながら、時間と財を主に聖別するという、今明らかなみこころに従おうとはしていません。しかも、主の救いは、しばしば、人の思いもつかない奇想天外な方法でもたらされます。あなたも自分の歩みを振り返るとき、そのようなことがあったのではないでしょうか。

3.「あなたは私をまったく捨てておかれます・・・私の保証人となってください」

「その頃、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた」(38:1)とは、時間的には36章の前のできごとだと思われます。彼が、バビロンの使者に宝物倉の豊かさを見せることができたのは、アッシリヤに貢物を差し出す前のはずであり、種々の王の名前との関連からもヒゼキヤの死は紀元前687年頃であると推測されるからです。つまり、それまでヒゼキヤは、国の中からあらゆる偶像を取り除き、民をイスラエルの神、主(ヤハウェ)に立ち返らせるというすばらしい働きをしたにも関わらず、今、目の前にアッシリヤの脅威が迫り、国が滅びそうだという現実に心を弱らせていたのだと思われます。彼の病には多分に、ストレスが原因となっていたのではないでしょうか。そのような中で、預言者イザヤは、「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない』」と伝えに来ました(38:1)。これほどの不条理があるでしょうか。そのとき彼が、自分は熱心に主に仕えてきたと訴えつつ、「大声で泣いた」(38:3)のは当然です。しかし、このとき、主が再びイザヤを通して、「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす・・・あなたの寿命にもう十五年を加えよう」とご自身のみこころを変えてくださいました(38:5)。それと同時に、「わたしはアッシリヤ王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る」(38:6)と約束してくださいました。このことが37章にあった主の不思議な救いとして実現したのです。

その上で、主は彼にひとつのしるしを与えます。それは日時計の影を十度あとに戻すという不思議なことでした。これは地球を逆回転させるということではなく、影だけを戻すということで、光の創造主である方には、容易なことでしょう。全宇宙の創造主に難しすぎることなどないということを覚えたいと思います。実は、神にとって影を戻すことよりはるかに難しいのは、人の心を変えるということかもしれません。しかも、ここで主が、「わたしはアハズの日時計におりた日時計の影を、十度あとに戻す」(38:8)と言われたことには大きな意味があります。アハズはヒゼキヤの父でしたが、ユダの王では最悪の王のひとりで、あらゆる偶像礼拝を持ち込み、エルサレム神殿を汚すことを行ったからです。本来ならそれによってユダ王国は神のさばきを受けてしかるべきでしたが、神がご自身のあわれみによってその時代をもとに戻してくださるという意味が込められているように思われます。

そして、ヒゼキヤは病気からの回復後ひとつの歌を記します。彼は、「私は言った。私は生涯の半ばで、よみの門に入る。私は残りの年を失ってしまった」(38:10)と言いつつ、その現実を、「あなたは昼も夜も私を全く捨てておかれます」と二回にわたって主に訴えます(38:12,13)。つまり、自分を生涯の半ばで病にし、死に追いやるのは、主のみわざであると言っているのです。ところが、それでもあきらめることなく、「私の目は、上を仰いで衰えました。主よ、私はしいたげられています」と重ねて訴えながら、同時に、「私の保証人となってください」と嘆願しています(38:14)。彼は、まるで運命と戦っているかのようです。ある人が、「主のさばきから逃れる唯一の道は、主のふところに飛び込むことである」と言いましたが、彼はそれを実践しています。そして、彼は、「私を健やかにし、生かしてください」と願い、その直後に、「あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました・・・主(ヤハウェ)は私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主(ヤハウェ)の宮で琴をかなでよう」(38:17,20)と告白します。

ところで、38章21,22節の記述は不思議です。これは時間的には、38章の6節と7節の間に入るべきことだからです。しかし、イザヤはこのことを39章のヒゼキヤの愚かさとつなげようと、この部分を彼の歌の後にしるしたのだと思われます。ここでイザヤはいやされる方法を示しました。ところがヒゼキヤはそれをすなおに実行する前に、「しるし」を求めました。そればかりか、39章によると、彼はアッシリヤの向こうにあるバビロンの使者を迎えたとき、大喜びで自分の家と宝物倉にあるものすべてを見せてしまいます。それはアッシリヤに対抗するためバビロンとの友好関係を築くことの証しです。しかし、これは東京の暴力団に対抗するため広域暴力団との関係を結ぶことと同じです。イザヤはそのような彼の姿勢を批判して、「見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日までたくわえてきたものがすべて、バビロンに運び去られる日が来ている・・・」(39:6)と警告します。しかし、ヒゼキヤはそれを真剣に受け止めず、「自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか・・」(39:8)と思ってしまいます。つまり、ヒゼキヤはすばらしい祈りをささげている一方で、対話においては極めて愚かな反応をするのです。ほとんど無意識的な条件反射といえましょう。これは私たちが受け継いでいる肉の弱さに由来するものと言えましょう。

信仰によって巨大帝国アッシリヤと戦ったヒゼキヤでさえ、世界の見方がこれほど近視眼的になるのは驚きです。それこそが多くの人の現実ではないでしょうか。たとえば、地球温暖化の危機が叫ばれていても、多くの人々には、「自分が生きている間、平和で安全であれば・・・」と子孫たちへの配慮が欠けています。しかし、そのような無責任、無関心こそが、罪の本質ではないでしょうか。イザヤはダビデ以降の最高の王でしたが、そこにも驚くべき弱さが見られました。それでイザヤ書40章以降は、神が理想的な王を立ててくださるという預言が記されます。

マルティン・ルターは宗教改革に着手して十年後、精神的にも肉体的にも瀕死の状態に陥りました。その中で彼の何よりの慰めとなったのが詩篇46篇で、彼はそれをもとに「神はわが砦」という賛美歌を作りました。その二番目の歌詞は、「私たちの力によっては何もできない。このままでは私たちは敗北するしかない。私たちに代わって戦ってくださる方がおられる。その方は神ご自身が選んでくださった方。それはだれか。その方の名は、イエス・キリスト、万軍の主・・・」と歌われます。J.S.Bachはそれをもとにカンターターを記しましたが、ソプラノで「私たちは敗北するしかない・・・」と歌う中で、力強いバスの声で、「すべて神によって選ばれた者は、勝利者として選ばれている」と繰り返し歌われます。私たちは逃げるのでも巻き込まれるのでもなく、主に祈る中で勝利する者なのです。

ヒゼキヤは理想的な王ではありましたが、人間としての弱さを抱えていました。しかし、私たちのためにはイエス・キリストご自身が戦ってくださいます。主は私たちのうちにご自身の御霊をお送りくださり、全能の主への祈りを生み出してくださいます。私たちの心を守り、私たちの祈りを父なる神に向かってとりなしてくださいます。つまり、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)のです。私たちもヒゼキヤのような失敗と成功を繰り返しますが、いつでも、すべてを働かせて益としてくださる方に信頼して、希望を持つことができます。