マタイ11章25〜30節「幼子たちに現された福音」

2007年11月18日

人は誰しも、馬鹿にされると傷つき、大切にされると嬉しくなります。そしてこの社会では、人の価値がその人の生産能力で測られているかのようです。そのような中で、あなたの中には、「自分の存在価値を証明しなければ!」という駆り立てる思いがないでしょうか。しかし、その気持ちをイエスの前でも持ち続けるなら、信仰に安らぎは生まれません。それどころか、身体を壊すほどに頑張りながら、イエスを悲しませることになりかねません。

1.これらのことを幼子に現してくださいました。

イエスはご自身のみわざを、「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」(5節)と語りました。それはイザヤ書35章などに預言されていた救いが実現したことを意味しました。しかし、それらのすばらしいみわざを目撃したカペナウムを初めとするガリラヤの人々はイエスを救い主と信じませんでした。そのような中でイエスは、それらのガリラヤの町々に対する神のさばきを宣言しました。ソドムはその罪深さのゆえにアブラハムのときに天からの硫黄の火で焼き尽くされましたが、それより厳しいさばきがこの地に下るというのです。

イエスはそのような厳しいことばの直後に、「あなたをほめたたえます。天地の主であられる父よ」(11:25)と祈ります。それは、そのような中でもイエスを救い主と信じる人々も起こされていたからです。そのことをイエスは、「これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と、父なる神の選びによるものであると言います。ここでの「幼子」とは、文脈からすると、年齢的な意味よりも、未成熟な者、無知な者という意味が込められており、イエスの弟子たちが社会の底辺の人々から構成されていたことを指すと思われます。イエスは、「そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした」(26節)と言われますが、そのことを後にパウロは、「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです・・・これは神の御前でだれをも誇らせないためです」(Ⅰコリント1:27,29)と語っています。つまり、神は、自分の愚かさ、弱さを自覚した「幼子」のような人から順番に福音を知らせようとしたのです。ところが、しばしば、聖書が「いのちの書」というより、ひとつの教養に留まってはいないでしょうか。日本には、福音がインテリ階層から広まり始めたことの固有の弱さがあると言われます。しかし、福音は本来、愚かな者に生きた知恵を、弱い者に真の生きる力を与える神の生きた働きとして理解されていたことを忘れてはなりません。

その上でイエスは、福音の核心を、父なる神とその御子であるご自身との関係から説明します。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています」(27節)ということばの中に、ご自身が父なる神から徹底的に信頼され、ゆだねられているということが表されています。そして、「父のほかには、子を知る者がない」とあるように、イエスが完全な人でありながら同時に完全な神であるという不思議は、父だけが理解しうる神秘なのです。そればかりか、神の子であるイエスご自身と、イエスが「父を知らせようと心に定めた人のほかには、だれも父を知る者がいない」と言われます。つまり、イエスが私たちに知らせてくださらない限り、だれも父なる神を真の意味で知ることができないのです。私たちの信仰はイエスによって与えられた一方的な恵みです。

「私が神の子とされた、罪びとの私が・・・無限の愛の大きさにただ感謝をしよう」という賛美がありますが、私たちが「神の子」とされるのは、互いを完全に知り合っている父と子の親密な愛の交わりの中に、聖霊のみわざによって招き入れられるという途方もない奇跡です。イエスの父なる神を「私の父」と呼ぶことができるということこそ、神がもたらした最高の救いです。私たちはどこかで自分の知恵や信仰の訓練によって神を知るかのように思い、自分の敬虔さや信仰心を人間的な基準で計ろうとしてはいないでしょうか。そのようなとき、神がご自身の救いの豊かさをまず「幼子」に知らせようとしたという神秘に思いを向けてみましょう。私たちはどこかで福音を難しくしすぎていないでしょうか。また恵みによって与えられた信仰を、人間的な基準で評価してはいないでしょうか。

2.「すべて、くたびれた人、重荷を負わされた人は、わたしのもとに来なさい」

この世の組織は、有能な人材を集めようとします。ところが、イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(28節)と不思議な招きをしました。ここで、「疲れる」とは、「くたびれる」という強い疲労感をあらわすことばです。また、「重荷を負っている」も、厳密には、誰かによって「重荷を負わされている」という意味です。旧約聖書の核心である律法は、本来、罪人に対する神ご自身の愛の語りかけです。ところがイエスの時代の宗教指導者は、それを人の行ないを矯正する道具に用い、「お前は、神の教えに反したので、神ののろいを受ける」などという脅しの手段に用いました。あなたもこの社会で、あなたの個性を無視した一方的な重荷を負わされて苦しんでいないでしょうか。また、「こんなこともできないのは社会人として失格だ・・」などと、「人間失格」という烙印を押される脅しを受けて生きてはいないでしょうか。しかし、イエスは、「取税人や罪人の仲間」(11:19)と非難されるほどに、落ちこぼれ意識を味わっている人々の味方となってくださったのです。

イエスは、「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)と力強く断言されました。この「休み」とは、「そうすればたましいに安らぎが来ます」(29節)とある「安らぎ」と同じことばです。つまり、イエスが与える「休み」とは、肉体的な疲れや重荷がまったくなくなるということではありません。それどころか、イエスは「わたしのくびきを負いなさい」と命じられましたが、「くびき」とは、苦難や服従を強いられることの比喩として用いられる表現でした。

初代教会で、異邦人から信仰に導かれた人に「割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張する人々がいました。それに対しペテロは、「なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです」と反論しました(使徒15:5-11)。つまり、イエスの招きの基本は、人間的に解釈された律法のくびきで苦しんでいる人に、イエスご自身のくびきを負わせることにあったのです。ですからイエスは、「わたしから学びなさい」と付け加えています。つまり、イエスのくびきを負うとは、イエスの生き方、働き方に習うということを意味したのです。

人は、「くびき」からの解放を望んでいるようで、互いに「くびき」を作り続けています。たとえば、人は、仕事からの解放を望みながら、仕事がなくなったとたん、「自分は生きていても何の役にも立たず、呼吸をするたびに空気を汚しているだけだ」などと自己嫌悪に陥るかもしれません。アダムが、禁断の実を食べて、「神のようになり、善悪を知るようになった」結果、人は、神の基準ではなく、人間的な基準で、互いや自分を評価し続けています。人に向かって「おまえ役立たずだ!」と言っている人は、自分をいつも仕事に駆りたて、決して安らぎを体験し続けることはできません。ですから、くびきをなくすことよりも、自分に合った「くびき」こそ救いとなるのです。

イエスは「わたしは心優しく、へりくだっているから」(29節)と付け加えられました。「心優しく」とは「柔和」とも訳され、人や状況に合わせて揺れることができる柔軟さ、「力みのない生き方」を意味します。また、「へりくだっている」とは、「自分が軽く見られた!」などと怒ることの反対で、イエスが、奴隷の姿になって弟子の足を洗う自由を持っておられたことを示しています。つまり、イエスは、自分の存在価値を証明しようなどというあらゆる駆り立てから自由な生き方、「疲れない生き方」をしておられる、その生き方に習うようにと勧められているのです。

私たちが頑固で傲慢になるのは、余裕がないからです。それがまた互いを安らぎのない状態へと駆りたてます。イエスに見られる柔和と謙遜は、「すべてのものが・・わたしに渡されている」(27節)という、御父から信頼され、愛されている関係から生まれています。そして、御父と御子だけが互いを完全に知り合っているのですが、私たちは「子が父を知らせようと心に定めた」結果として、御父を知り、「神の子」とされました。ですから、イエスの「くびき」とは、何よりも「神に愛されている子」としての生き方「Sonship」を習うためのものではないでしょうか。

3.「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」

イエスは、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(30節)と言われました。彼は、有能な大工で、特注品のくびきを作ることに長けていたという話しもありますが、ここでは、イエスが私たちに一定の枠を当てはめてさばく代わりに、それぞれの能力と個性に合わせた働きのリズムを与えてくださるということを意味します。

社会では何らかの共通の尺度が必要になります。偏差値教育を否定はしても、生徒の学力を評価をひとりひとりの教師の内申書の評価に頼ることのほうがはるかに危険かもしれません。たとえば、私は野村證券で苦しみましたが、そこにある公平さにも感謝しています。上司からは「数字は顔である」と教わりましたが、それは会社が社員を公平な物差しで計っているという意味でもありました。どんなに口先で偉いことを言っていても、結果を出すことができない人が出世するようでは、同業他社のように倒産の憂き目に会います。それが問題になるのは、会社が与える評価を、自分という人格への評価?として受け入れてしまうセルフイメージの不安定さにあります。

私たちはイエスのくびきの代わりに、この世のくびきを自分の首にはめるから苦しくなってしまうのです。パウロは、「私は自分で自分をさばくこともしません」(Ⅰコリント4:3)と言いました。私たちは知らないうちに、人間的な尺度を受け入れて、「もっと成果を出さなければ・・」と自分を駆りたてて、自分で自分の首を絞めてはいないでしょうか。働きの成果を出すことには際限がありません。それは旧ソ連共産党支配下のノルマのように、果たすたびに目標が上がるだけです。自分で自分を責めるのでも、人に脅されながらでもなく、神に愛されている子としての働きのリズムを見出すようになりたいものです。それは、イエスとの親密な交わりの中から生まれるものです。

あなたの上司、あなたの依頼主、あなたの主人は、イエス様です。人ではなくイエスの期待に答えることを求め、日々、課せられている働きを、イエスから委ねられたものとしてとらえなおすことが大切ではないでしょうか。

ある講演会で、ある母親が「私の息子は偏差値教育の犠牲者です」と訴えたところ、講師は、「お母さんはどんな尺度でお子さんを見てきましたか?」と問い返しました。それは、彼女自身がイエスの基準にしっかり立たなければ息子の回復は期待できないからです。私たちには、この世のくびきか、イエスのくびきかの選択が迫られているのです。中途半端な立場を保ち、ふたまたをかけていると、ふたつの「くびき」で首がまわらなくなります。働きに評価はつきものです。それを否定するのではなく、それを超えた神の基準に常に思いを向けましょう。