2007年11月4日
私は昔、「あなたはどうして、そう肩肘張って生きているの・・・」と言われたことがあります。先日、シンガポールでは、「高橋先生は、完璧から程遠いけれど、何とも愛嬌がある・・」という趣旨のことを何人からも言われ嬉しくなりました。私は昔、「完璧」と「完全」の区別がついていませんでした。「完璧」とは元来、傷のない宝石という意味でした。そして、完璧を目指す人の前では、しばしば人は、息が詰まるような感じを味わうのではないでしょうか。しかし、聖書が語る「完全」は、神が悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さるという包容力として表現されます。しかも、列王記などでは、「完全」の模範は、あの欠点だらけのダビデとして描かれています。今日の記事は、何事も「完璧」を目指したパリサイ人、律法学者に向かって、神が望まれる「完全」を教えたものと言えないでしょうか。
1.申命記の結論から生まれる放蕩息子のたとえ
モーセはイスラエルの民への遺言として、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:20)と語りました。しかし、神は、彼らが「のろい」を選び取り、彼らの上に、「多くのわざわいと苦難がふりかかる」ことを知っておられ、彼らが苦難の中で神に立ち返ることができるようにと歌を授けました。その中心は、「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これを抱き、世話をして、ご自分のひとみのようにこれを守られた」(申命記32:10)という主の愛を思い起こさせるための歌でした。放蕩息子は父の愛を軽蔑して自業自得の苦しみを招きましたが、遠い異教の地で、父の愛を思い起こしたからこそ、家路につくことができました。つまり、イスラエルを、また放蕩息子を父の家に帰るように仕向けているのは、父なる神の愛なのです。事実、神はご自身のことを、そこで、「わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」(同32:39)と歌うようにも命じておられたからです。まさに、悔い改めさえも、神のみわざなのです。ところが、イエスの当時の宗教指導者は、「悔い改め」をあくまでも人間の働きと理解していました。つまり、きちんと悔い改めた者を、神は受け入れてくださるのであり、悔い改めの実を結ぶことこそが何よりも大切であるとの教えです。それで、取税人や罪人たちがイエスのみもとに近づいている様子を見たパリサイ人、律法学者たちは、イエスを非難して、「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」(2節)と非難しました。イエスはそんな彼らに、三つのたとえを話されました。第一は、百匹のうちの失われた一匹を「見つける」羊飼い、第二は、十枚のうちの失われた一枚のコインを「見つける」女の人、第三は、放蕩息子の帰還を「見つけた」(20節)父の物語です。そこに共通するのは、失われたものを探し出し、その回復を喜ぶ神の熱い思いであり、回復を導くのは神ご自身の主導であるということです。そして、神の喜びが、三つの祝宴として描かれます。そして、第一と第二のたとえの結論として、ひとりの人の悔い改めのたびに天では喜びの賛美が沸き起こると記されます(7,10節)。
2.放蕩息子のたとえ
自分の恵まれた環境を軽蔑すること放蕩息子の物語は、弟息子が、「お父さん。私に財産の分け前をください」(12節)と言ったということから始まりますが、それは、父親が死んだことを前提としての権利を主張することで、これほど親不孝な願いはありませんが、父は、不思議にも、その願いを叶えてしまいます。それは、息子が自業自得で挫折しない限り、立ち直ることができないということを見越した苦渋の決断でした。そして、息子は、財産をお金に変えて、遠い国へと旅立ちました。彼は、自分のしあわせは、父の家ではなく、遠い国にあると思ったことでしょう。それは私自身のうちにもあった憧れでした。しかし、神はあなたを、計画をもって創造されました。あなたの出生の環境のすべても神の御手の中にありました。それは、「あなたは私を母の胎から取り出した方。乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です」 (詩篇22:9,10)とある通りです。
弟息子は、遠い国で、「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(13節)のでした。その後、その国に飢饉が起こり、彼は食べ物にも困り始めます。ユダヤ人は豚を汚れた動物の代名詞のように見ていましたが、彼は豚の世話をするほどに身を落としてしまいます。しかも、彼は豚の餌で腹を満たしたいほどだったのに、「だれひとり、彼に与えようとしなかった」(16節)のでした。彼はまさに、だれも味方がいない孤独な状態になりました。そしてそれは、自分の出生を軽蔑した代償でした。彼は、かつて、自分の力で生き、自分で人生を切り開くと張り切って家を出たことでしょうが、そのように与えられた交わりを軽蔑した結果、いざとなったら誰も助けてくれないという孤独感を味わうはめになりました。まさに、恵みの大きさは、失ってみて初めて分るものと言えましょう。
ここで、「われに返ったとき」(17節)と記されます。これは、「自分に立ち返る」ということで、自分の存在の根本、出生のうちにあった恵みを思い起こす事です。それは「父のところには、パンのありあまっている雇い人が大勢いる」という現実です。そこには、幸せを父の家とは別のところに探そうとして、「飢え死にしそう」になっていることへの反省があります。つまり、放蕩息子の回心とは、父の家の恵みを思い起こすことに他ならないのです。ところで、「私の父母はそんないい人間ではない・・」と言わざるを得ない人もいることでしょう。しかし、ここにおける「父」とは、創造主である神をイメージしたものです。そして、あなたの創造主は愛に満ちた父であり、その方が、あなたの出生のすべてを支配しておられました。実際、神は、あなたに苦しみと同時に、それに耐える力をも与えてくださったのです。また、悲しみと同時に、喜びをも与えていてくださった方です。私たちは、ひとりで生きていたかのように誤解することがあるかもしれませんが、何と多くの恵みがあったことでしょう。私たちは苦しみばかりを思い出し、自分を被害者に仕立てる天才ですが、苦しみにまさる恵みがあったおかげで今まで生きてくることができたのです。「私は罪人です」という告白とは、「私は生きるに価しない駄目人間です」と認めることではありません。そうではなく、「私はこんなに愛されているのに、その愛に応答して生きていない」という自覚です。この放蕩息子は、父に会ったときに言うべきことばを思い巡らしながら、父の家への旅路を歩んだことでしょうが、「まだ家までは遠かったのに、父は彼を見つけ・・・」(20節)とあるように、息子が悔い改める前から、父は息子をずっと探し続けていたのでした。父の痛みは、神の痛みです。そして、旧約聖書には神の痛みの歴史が記されているのです。父は、「かわいそうに思い、走りよって、彼を抱き、口づけした」のですが、そこには息子に、悔い改めのことばを語らせる余裕もないほどの情熱が見られます。それは、回復の主導権が、息子の悔い改めではなく、父のあわれみにあることを記しています。父親が走り寄る姿を、ある人は、「踊る神」とさえ表現しています。息子は、「お父さん・・」と呼びつつ、「天に対し」また「あなたの前に、罪を犯しました。もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません・・」と言いますが、父はそれをさえぎるように、彼に子としての誇りを回復させるための用意を命じます。「一番良い着物」とは、貴族としての正装、「指輪」とは、家督相続者のシンボル、「靴」は、奴隷ではなく、自由人であることの象徴です。つまり、「赦し」は、悔い改めへの結果として勝ち取られるものではなく、神があらかじめ用意しておられたものなのです。それについてパウロは、「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたにお願いします。神の和解を受け入れなさい」(Ⅱコリント5:20)と記しています。神の側から、「赦し」を与えたいと懇願しておられるというのは何という驚きでしょう。
父は後で、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのが見つかった」(24節)と言っていますが、見つけた主導権は父にあったということを忘れてはなりません。私はこの世では放蕩息子のようではありませんでしたが、放蕩三昧をした人の証を聞きながら、自分の悔い改めの不徹底さを恥じるようなところがありました。しかし、それは何という矛盾でしょう。悔い改めとは、悪事の反省である以前に、「この私は・・」(17節)という、父の子としての自覚の回復にあることを決して忘れてはなりません。しかも、すべては父の主導権のもとにあるのです。
3.放蕩息子の兄
兄息子は、祝宴の音を聞いて、嫌悪感を覚えます。これはイエスの祝宴を嫌悪したパリサイ人、律法学者の気持ちを言い表したものです。実際、やりたい放題やって父を悲しませ続けた者に、すぐに祝宴をはるなど、正義が成り立たないと言えないでしょうか。まさにこれでは、「正直者がバカを見る」ということわざの通りです。兄が、「怒って家に入ろうともしなかった」(28節)というのももっともではないでしょうか。ところが、このとき、父が出てきて、「いろいろなだめてみた」というのです。父は、兄の怒りに寄り添い、慰めのことばを与えようとしています。しかし、彼は父を誤解していたのです。彼は、「長年の間、私はあなたに仕え」(29節)と言っていますが、原文では、「お父さん」とは呼んでいません。彼は、「あなたに仕え・・・」と言っていますが、これは、横暴な主人に奴隷として仕えてきたような表現です。しかも、「あなたの戒めを破ったことは一度もありません」、それなのに、「子山羊一匹もくださったことがありません」(29節)と言いながら、父親を厳しくけち臭い人間として描いています。これほど失礼な表現があるでしょうか。しかし、事実は、「父は身代をふたりにわけてやった」(12節)のであり、彼には自由があったのです。そのことを父は、「子よ。私のものは全部お前のものだ」(31節)と表現しています。兄は、自分が父の子であることを忘れているという点では、弟息子と変わりはしません。しかも、それ以上に悪いとも言えるかもしれません。なぜなら、彼は父を横暴でけちくさい奴隷主人であるかのように見ているからです。
パリサイ人や律法学者は 神を誤解していました。モーセ五書を誤解していました。彼らは、愚かにも、聖書の教えを、「愛」ではなく「義務」に変えていたのです。兄息子は弟のことを、「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶしたこのあなたの息子」(30節) と的確に表現していますが、自分の問題は見えていません。少なくとも弟は、自分勝手を求めはしましたが、父を横暴な奴隷主人と見ていないという点では兄よりまともとも言えましょう。
父は、弟息子のことを、「死んでいた・・・いなくなっていた」(24,32節)と繰り返していますが、これは兄息子に優しく聞かせていることばと言えないでしょうか。父は兄息子に向かって、「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる」といいました。「子よ」という呼びかけの重さを覚えたいと思います。これは、原文の大切な言葉ですが、第二版では自明のこととして省かれて、第三版で初めて訳出されたことばです。父にとって彼も、かけがえのない息子であり、父は、兄息子の働き以前に、彼の存在自体を喜んでいるのです。「それで父は出てきて・・・」(28節)ということばの重さを覚えたいと思います。失われている兄の回復を導こうとしているのは父自身なのです。 私たちは、主の教会で仕えられること自体が何よりの恵みであるのに、神の愛を勝ち取ろうとするかのように必死に頑張ってしまうようなところがないでしょうか。そこには、「良い子でなければ拒絶される・・」という隠された恐れがあると思われます。しかし、頑張った程度に応じて報われるという因果応報の考え方は、この世の常識であって、 神の存在を前提としなくても成り立つ原則です。しかも、弟の放蕩を非難する気持ちの中に、「気ままな生き方をしてみたい・・」という憧れがないでしょうか。多くの人々は、放蕩の結果を恐れるだけで、本当はそのような気ままな生き方にあこがれているのかも知れません。しかし、弟息子は、そこにある不幸を、身を持って体験したのです。お金がないのは辛いことですが、それ以上に苦しいのは、生きがいのない人生ではないでしょうか。
4.失われたふたりの息子の父に習うイエス
失われたふたりの息子の父に習うイエスは、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい」(ルカ6:36)と言っておられます。兄は弟の問題をひとことで言い表わしましたが、父は弟息子の罪に対して、何の指摘もしていません。弟息子は財産の分与を願った時点で、既に父を殺していました。しかし、父は彼が帰ってくるのを忍耐してただ待ち続けています。そして、弟息子を迎えた時も、弟息子を恥じ入らせることも追い詰めることもなく、父の子としての誇りをまず回復させようとしておられるのではないでしょうか。私たちは真に守るべき誇りがあります。それは神の子としての誇りです。それがなければ父なる神のあわれみの姿に習おうとする気力が生まれません。
私たちも、人の相談などをうけたとき、その人の悩みを軽蔑しないという態度がまず必要です。何よりもまず、誇りの回復を手伝う必要があるのではないでしょうか。そして、罪の目覚めは誇りの回復から生まれます。
帰ってきた弟息子は、心から、「お父さん」と呼びましたが、兄は、「あなた」(29節)としか呼んでいません。しかも、そのように父を心の中で軽蔑していた兄息子に、父の側から懇願しているというのは何とも驚きです。父は兄に向かって、真っ向から 「お前は失われている・・」とは言ってはいません。弟息子へのことばを通して、兄に父の愛を伝えようとしています。そこには、あくまでも兄息子の気づきを待とうとする忍耐の姿勢が見られます。しかも、父は喜びの祝宴を開いています。愛は何よりも喜びで表現されるからです。神はご自身が傷つきながらも神の民に喜びを与えようとしています。愛は「すべてを覆い・・」(Ⅰコリント13:7別訳)と言われますが、そこには神のいつくしみの御翼があります。それは、手を広げて、やさしく寄り添い、罪を覆う姿です。「神はそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)とは、神がご自身の身を削りながら私たちを愛されたということです。ろうそくは自分を削りながら回りを照らします。私たちの憧れは、愛の交わりの完成ではないでしょうか。そして、そのために私たちに求められていることは、裏切られながら何度も手を差し伸べることではないでしょうか。
私たちは自分が放蕩息子と同じように、与えられていた恵みの大きさを忘れ、軽蔑していたことがありました。そして、神に立ち返ったのは良いけれど、完璧なクリスチャンを目指して自分で息苦しくなるばかりか、まわりの人をも息苦しくしてきたことがあるかも知れません。しかし、神が喜ばれるいけにえは、何よりも、「砕かれた霊、砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)です。そのとき私たちは神のあわれみを心から喜ぶとともに、人の過ちに対しても寛大になることができます。そこに余裕のある愛の交わりが生まれます。そして、最後に、私たちもこの放蕩息子の父の姿に習って、恩知らずで身勝手な人々に忍耐しながら、自分の身を削りながら愛するように召されています。