ルカ14章15〜35節「神の国の祝宴を目指して」

2007年9月26日

19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーは、「生への意思」に注目しつつ、「人間の生命は苦難と退屈の間を振り子のように行ったり来たりするものだ」と述べましたが、それは世の多くの人の現実ではないでしょうか。人は苦難から逃れることを望みますが、幸せも束の間、すぐに「倦怠感」が生まれます。それこそ現在の日本の問題でしょう。多くの人々は、その中で、生きていることの実感を味わいたいと様々な刺激を求め、依存症や反社会的な行動にまで走ります。今から、六十数年前、「国体を守る!」などという空しい目的のために多くの若者が特攻隊に駆り立てられました。その反動なのでしょう。だれも、人生には命をかけてでも守るべきものがあるということを語れなくなりました。イエスは、命をかけてご自分に従うことを命じました。それはむやみな殉教の勧めではありません。来たるべき世界の大きな喜びを目の当たりに浮かべるからこそ、つかの間の苦しみに耐えることができるという教えなのです。それは運動選手が、栄冠を得るために一定期間、生活を厳しく律することに似ている面があります。

1.「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」といいつつ、招きを断る人々

あるパリサイ派の指導者の安息の食事の席で、イエスといっしょに食卓についていた客のひとりが、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」(15節)と言いました。これはイエスが、「義人の復活のとき」ということばを語ったことを受けてのことです。たぶん、これを語ったのはパリサイ人か律法学者のひとりで、終わりの日に自分は神の前での義人として復活にあずかり、神の国の食卓に着くことができるという希望を語ったのだと思われます。

それに対してイエスは、彼らを婉曲的に批判するようなたとえを話します。それは、「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた」(16節)のですが、事前に招きを受けていた人々が、次々と言い訳を言って、その招きを断るというたとえです。畑を買ったということも、五くびきの牛を買ったということも、妻を娶ったということも言い訳にしか過ぎません。たとえば、葬儀などはいつも突然の連絡でしょうが、それが自分にとって大切な人であれば、あらゆる予定をキャンセルしながらでも出席することでしょう。そこに、その人への思い入れが現れます。それに対して、この宴会の場合は、主人は、事前に招待の旨を知らせておいて、準備万端整えた上で、礼を尽くして再度、「さあ、おいでください」と招いたのです(16節)。それなのに、このときになって断るというのは、その宴会の主人を辱めることにほかなりません。普通に社会生活を営んでいる人であれば、どんなときにでも毎日、何らかのなすべきスケジュールがあります。つまり、断りの理由はいつでもあるのです。問題は、どれだけ柔軟に、優先順位を見直すことができるかということです。「神の国で食事する」ことの幸いに憧れているのであれば、彼らが今なすべきことは、神が遣わした救い主の招きを受け入れることです。パリサイ人や律法学者は、旧約聖書に精通していたという意味で、神の招きをずっと聞き続けていた人です。ところが彼らは、実際に救い主が来たときに、その招きを軽蔑しました。それは彼らには、自分たちの期待が強すぎて、招きの重大性が見えなくなっていたのです。

それで主人は、「町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちをここに連れてきなさい」(21節)と命じます。ふだんから食べ物に飢えている彼らは、すぐに喜んでその招きに応答することでしょう。しかし、それでも席が埋まりませんでした。それで、主人は、街道や垣根のところに出かけていって、人々を連れてきなさいと命じます。これはサマリヤ人や異邦人を神の国に招くことを意味します。

これはイエスの福音が多くのユダヤ人たちから拒絶され、社会の落ちこぼれや異邦人たちから歓迎されたことを指します。たとえばイエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11:28)と招かれました。それは今、人生が充実し、人々から尊敬を集めているような人々とは反対の状態にある人です。自分の目の前の予定が「ばら色」に思えている人は、しばしば、イエスの招きが耳に入らなくなります。しかし、自分の問題と真に向き合っている人は、イエスの招きにすぐに応じたくなることでしょう。そして、招かれる目的地は、「神の国で催される盛大な宴会」です。イエスは、このたとえの直後に、人々を敢えて退けるかのような厳しいことを言われました。しかし、それは私たちの思いをはるかに超えた喜びの世界への通過点に過ぎないということを忘れてはなりません。苦しむこと自体に美しさを認めようとするのはマゾヒズムの世界ではないでしょうか。

2.「・・・自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできません」

「さて、大ぜいの群集が、イエスといっしょに歩いていたが・・」(25節)とあります。イエスのいやしの奇跡やそのお話の魅力に惹かれて、驚くほど多くの人々が集まってきましたが、そこには単に好奇心に駆られて集まったような人が数多くいたと思われます。イエスはそこで、「彼らのほうに向いて」、恐るべきことを言われました。26,27,33節では、三回にわたって、人の目には明らかに無理と思われる要求を出しながら、それをしなければ、「わたしの弟子になることはできません」と厳しく迫りました。これは、先のたとえで、神の国の宴会に加わえていただける条件が、「招待に応じる」という簡単なものだったことと極めて対照的な条件のように見えます。

しかし、「弟子になる」とは、「神の国」に入るとは少し違った概念です。それは一生をかけて、「イエスに似た者に変えていただく」という継続的なことを指すからです。これは私たちの結婚に似ているのではないでしょうか。プロポーズを受けても、それに、「はい。喜んで・・」と応答しなければ結婚はできません。しかし、結婚したからといって、真の意味での夫婦になるのは一生のプロセスです。晩年になって、ようやく夫婦らしくなれるというのが現実ではないでしょうか。

それどころか、人によっては、憧れの人がこちらを振り向いたとたん、躊躇してしまうということがあります。たとえばキルケゴールの哲学の鍵は、レギーネという女性を熱烈に愛し、求婚に応じられたとたん、婚約を破棄せざるを得なくなったことにあると彼自身が書いています。恋することと、一緒に生活し続けることは大きく異なります。抑うつ傾向の激しい彼は、毎日をともにし続けることで彼女を不幸にしかできない自分がいることに絶望していたのだと思われます。同じような気持ちを味わっている人は、意外に多いのかもしれません。ところが、イエスの弟子となるとは一緒に暮らすこと以上のことが求められます。どんな親密な夫婦でも、互いの心の中まではわかりません。しかし、イエスの弟子となるとは、誰も知らないあなたの心の中の秘密の部屋にイエスを招き入れることなのです。

イエスは第一に、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまで憎まない者は、わたしの弟子となることはできません」(26節)と厳しいことを言われました。ここで、「憎む」とは文字通りの意味ではなく、誇張表現です。なぜなら、聖書は家族の大切さを一貫して教えているからです。家族は仕事などよりもはるかに大切なものです。野球の日ハムのヒルマン監督は、自分の家族との時間を優先するために監督を辞めると発表したら、「きっとアメリカで何か良い誘いがあったのだろう・・・」と言われ、その反応にかえって驚いたと言っています。私たちにとっての優先順位は、常に、神様、家族、仕事です。その順番が狂ってはなりません。

ある人が、「結婚とは、他のすべての異性の友を捨てること・・」とまで表現していますが、それにも一理あります。妻や夫に隠れて異性との友情を保つということはあってはならないからです。同じように、イエスの弟子となるとは、イエスとの結婚を意味しますから、その前には、すべての関係が二の次になります。昔からよくこんなケースがあります。妻があるとき急に教会に熱心に通うようになった。それまでは、困ったことは全部、夫に頼っていたのに、あまり頼ってこなくなった。そればかりか、妙に自分に対して優しくなった・・・これは浮気の始まりの兆候としか思えません。そう、夫の目からすると、彼女はイエスという方に浮気しているのです。彼がやきもちをやくのも当然です。しかし、目に見えない方を相手に戦いようがありません。そのうち妻が洗礼を受けるという・・・・夫は慌てだします。なだめたり、脅したりして、思いとどまらせようとします。しかし、妻はこの26節のイエスのみことばに従って、断固として、「私はイエス様との関係を第一とします・・・」といい続けます。すると、しばしば、夫は徐々に変わってきます。自分が妻の愛を受けようとイエスと競争しても勝てないということが分かるからです。そして、ついには、夫ばかりか、家族全員がイエスを主と告白するようになる・・・初代教会以来、福音はそのように広がってきました。

結婚したい相手が現れたときには、特にそうですが、安易な妥協はしばしば、すべてを失うことにつながります。あなたが誰もよりもイエスとの関係を第一としていることは、あなたの何よりの魅力となっています。それなのに、相手の気持ちを自分のもとに引き寄せたいなどという下心を持って、相手に合わせようとすると、かえってあなたはイエスが与えてくださった輝きを失うことになります。イエスを誰よりも大切な存在とすることは、短期的には摩擦を生みますが、長期的には真の平和の基礎となります。なぜなら、イエスを主と告白するとは、強がりを捨て、自分の愚かさや偏りを謙虚に認め、他の人を尊重できるようになることだからです。謙遜と柔和こそ、人と人との平和の鍵です。まわりの反対を押し切ってでもイエスに従い続けることは、真の家族の平和を生み出す力になるのです。

3.「自分の十字架を負ってわたしについてこないものは、わたしの弟子になることはできません」

「自分の十字架を負ってわたしについてこないものは、わたしの弟子になることはできません」(27節)とは、イエスに従うことが、中途半端ではなく、まさに命をかけた覚悟が必要だということです。「十字架を負う」ということばは、今は、「課せられた重い責任を担う」という、人々から賞賛されるような行為を指すように誤解されますが、当時の意味はまったく正反対でした。それは、死刑囚が、自分が吊るされようとしている重たい木を背負い、つまずき倒れるたびに鞭打たれながら、死刑場に黙々と歩くことでした。その目的は何よりも見せしめでしたから、それを見る群集は、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせるように煽動されています。これほどの辱めはありません。そこにおいては、肉体のいのちを失う覚悟と合わせて、あらゆる名誉を奪われ、誤解されるという孤独の苦しみがありました。

しかも、このみことばは、「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(33節)とセットになっています。これはもちろん、危ない宗教のように、財産を全部売り払って、それを携えて共同生活に入るという意味ではありません。それは財産を捨てることではなく、「財産を共有」するという別の所有方法に過ぎないからです。ここで、「財産全部」ということばは、原文では、「すべての持ち物」となっており、これは、お金に変えることができるような財産ばかりか、名誉、家族、友人、権力など、自分に属するすべてをイエスのものにするという意味です。これに一番近いのは、兵役に着くということで、上官の命令ならば、死の危険を覚悟して敵の前に飛び込まなければなりません。それでなければ軍隊の規律は保たれません。おのおのが自分の命を守ることばかり考えているような軍隊は、どんなに数が多くても、最初から負けることが決まっています。たとえば、キリスト教会の用語で、「献身する」ということばがあります。それは、「私はこれから自分の人生の主導権をイエスにお任せします。私の財産ばかりか、私の手も足も、イエスのためにささげます」という意味です。その献身は、特定の人に当てはまることではなく、すべてのキリスト者に命じられていることだというのです。

それにしても、もっと身近なこととしては、人が結婚の誓約をするとき、これを相手のために誓っているのではないでしょうか。自分の幸せのためには相手を踏み台にしても構わないと公言するような人と、だれが結婚したいと思うでしょう。相手に何が起ころうとも寄り添い、愛し続けるという公の約束がなければ結婚は出発できないのです。それを欠けだらけの人間に対してするのですから、結婚の誓約ほど無謀な賭けはありません。人は結婚のとき、相手を守るためには、自分の地位も名誉も財産も、すべてを賭けることを約束しているはずなのです。そして、どちらか片方は、アイデンティティーの根本に触れる自分の名前まで変えるということを平気でやっています。それにもかかわらず、これほど多くの人が結婚を望むのは、現実を離れた夢にあこがれているからかもしれません。

しかしイエスは、幻想を見せたり、誇大な宣伝をしません。イエスはこれから偽預言者の汚名を着せられ、自分が吊るされる木を背負って、嘲られながらゴルゴタに向かおうとしています。イエスは弟子たちがそれを見ながら、ショックを受け、信仰を捨てようとするのを知っていました。しかし、この信仰の世界においては、途中であきらめるほどむなしいことはありません。それは永遠の喜びというゴールの手前で、間違った入り口を選ぶことと同じです。

イエスは、まず、「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しないものが、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか・・」(14:28)というたとえを話します。「基礎を築いただけで完成できなかったら」、塔を建てようとした試み自体が嘲りの対象となるというのです。信仰は幻想を追うことではなく、しっかりと地に足をつけた歩みをすることです。信仰の名のもとに無謀が正当化させるようなことがあってはなりません。お金の計算は、きわめて霊的なことです。そして、イエスはこのたとえを通して、イエスの弟子となるためには、「まずすわって」そのコストを「計算」する必要があると言っておられます。つまり、イエスとの交わりという信仰生活を全うするために、自分の全財産ばかりかこの肉体の命をも賭ける覚悟を決める必要があるというのです。

次のたとえは、敵が攻めてくる中で、勝利の見込みのない戦いを避けるということです。ここでも、「まずすわって、考えずにいられましょうか」(31節)と、落ち着くことの大切さが語られます。この趣旨は、負けるとわかっている戦をするより、「講和を求める」ことの大切さを語っていますから、攻めてくるの「敵」をサタンの勢力と仮定することはできません。サタンとの妥協はありえないからです。しかも、ここでは「そういうわけで」または、「同じように、だから」という接続詞とともに、「自分の持ち物を捨てなければ・・・」という次のことばに結びついています。当時の講和は、自分の持ち物を捨て、相手の奴隷のような立場になる覚悟がなければかなわないことでした。「命を助けてもらえるだけで有難いと思う」というのが講和の条件でした。ですから、ここの意味は、イエスの招きを拒絶すると、真の「いのち」を失うことになる、無条件降伏以外に「神との和解」はありえないという意味だと思われます。

イエスに従うことは、盲目的な生き方になることでも、ばら色の夢を抱くことでもなく、肉体の命を捨てる覚悟を冷静に決めることだというのです。「そんな厳しいことを迫られて、誰が従う覚悟ができようか・・」と言いたくなるのも当然です。しかし、これは犠牲をかけるに値するほどの豊かな「いのち」があるというしるしでもあります。事実、西暦二百年ごろ、迫害のただ中にあって教会を導いた教父テルトゥリアヌスは、権力者に向かって、「殉教者の血は、福音の種である」と弁護しました。なぜなら、多くの人々は、キリスト者が肉体の命を賭けてイエスへの忠誠を守っている姿を見て、「ここには、苦しみも、退屈も超えた、真のいのちの輝きがある」と感動したからです。人が心の底で求めているのは、苦しみがなくなること以上に、「死の恐怖さえも凌駕するほどのいのちの輝き」だからです。

もちろん、私も含めて、ほとんどの人は、殉教の覚悟などできないことでしょう。私は昔、殉教の歴史を学んで、怖くなり、「クリスチャンにだけはなるまい・・・」と思っていました。しかし、そのような仮定の話を先取りして心配させるのがサタンのわざです。それに負けると、苦しみと退屈の繰り返しの人生しかありません。私たちがなすべき応答は、イエスに、「できるものなら・・・」と願い、その不信仰を指摘された父親に習って、「信じます。不信仰な私をお助けください」と祈ることです(マルコ9:23,24)。信仰は、人間のわざではなく、神のみわざです。「イエスは私の主です」と告白させてくださるのは聖霊様です。「私は大丈夫・・」と豪語したペテロは、三度にわたって力を込めて、自分のイエスへの信仰を否認しました。聖霊のみわざの前提は、自分の無力さを認めることです。使徒パウロは、ピリピの教会に向けて、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)と言いました。同じように、私が信じているのは、いつも揺れてばかりいる自分の信仰の力ではなく、私のうちに信仰を与えてくださった神のみわざなのです。

イエスは弟子たちに、ある意味で、とうてい無理な覚悟を求められました。それでも、弟子たちがイエスに従い続けたのは、イエスの魅力の前に、その招きに応じざるを得ない気持ちになったからです。これも結婚の誓約に似ています。その誓約の意味を心から吟味したら、誰がそんな永遠の愛を約束できるでしょう。ある若い牧師が、なれない結婚式の司式の際に、緊張のあまり、結婚するふたりを前に、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と祈ってしまったそうです。でも、それこそ真実な祈りかもしれません。多くの人は、結婚の恐ろしさを知らないからこそ結婚できるのでしょう。しかし、不思議に、そこで自分の中にある愛の貧しさを心から自覚できた人は、結果的に、互いを赦しあい、幸せな結婚生活へと導かれます。

どの宗教でも、都合の良いことを並べ立てて、信仰を持つことのご利益を約束します。しかし、イエスは、その正反対のことを語られました。しかし、不思議にそれでも人々はイエスのもとへと導かれたのです。殉教者の血を見て、人々はかえって、真のいのちの力に触れたのです。それはイエスのもとにあるいのちの輝きが真実だからです。それにしても、私たちのほとんどは、イエスから命を賭けた忠誠を求めてたじろぎます。「そんな覚悟はできない・・」と思います。しかし、そこで、不信仰な者に、信仰を与え、成長させてくださる神のみわざが始まるのです。

その上で、イエスは、「塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら・・・外に投げ捨てられてしまいます」(14:34,35)と厳しく語ります。これはイエスと自分の財産を天秤にかけるような生き方を指します。つまり、名前だけのクリスチャンとしての生き方をすることのむなしさを語っています。イエスよりも家族を大切にすること、また、イエスよりも名誉を大切にすること、また、イエスよりも自分の持ち物を自分で管理しようとすることは、この世的にはすべて賞賛に値することです。しかし、この世の価値観と同化している者をイエスはご自身の働きのために役立てることはできません。それは、「土地にも肥やしにも役立たない」ような塩と同じ意味しか持たないというのです。

イエスにあっては、「捨てることは得ること、憎むことは愛すること、死ぬことは生きること」です。たとえば夫婦の愛の交わりを保つためには、捨てなければならない異性関係があることでしょう。親不幸と言われても、伴侶を守る必要があります。また自分の身を犠牲にして強盗と戦う必要もあるかもしれません。人と人との結婚関係でもそれだけのことが求められるなら、私たちに永遠のいのちを与えてくださる方に、惜しむべき犠牲などあるでしょうか。たとえば、人は、いのちを賭けるに値する恋愛に憧れています。それが純愛物語として人気を博します。イエスこそ、まさにそのような愛の対象なのです。そのようにイエスを愛することは、苦しみに耐えるというより、やはり幸せな生き方ではないでしょうか。イエスは、驚くほど厳しい献身を命じておられます。しかし、そこには、そのようにご自分に命をあずける者の人生を決して無駄にすることはない、決して後悔をすることがない永遠の喜びの中に招き入れるという断固たる意思が見られます。イエスほどに断固たる決心と覚悟を迫ることができるのは、真にすべてを持っておられる方であるか、ペテン師であるかのどちらかです。イエスを優しく柔和な魅力あふれた人間と言うような人は、聖書の全体を見てはいません。イエスは、ご自身のためにいのちを差し出すことを命じておられます。彼が神でなくて、どうしてそのような法外な要求ができるでしょう。私は昔、イエスのこの厳しいことばを自分に都合よく解釈しようとし、あまり向き合わないようにしていました。しかし、今、イエスのこの断固たることばのなかに、イエスの権威と力と燃えるような愛を見ることができるようになりました。いわゆる、「良い人」をはるかに超えた魅力がこのことばの背後に見られます。この世のすべての宝にまさる永遠の喜びの世界への招きが見られます。だからこそ、この招きには、有無を言わさぬ断固さがあるのです。命を賭けるに値する何かが隠されているのです。