2007年9月2日
私たちの憲法では、ひとりひとりが幸せを追求する権利が尊重されるべきことが保証されています。不思議に、幸せになる権利ではなく、幸福を「追求する」権利と記されます。そこには、人が常に、幸せに憧れながら、渇きを覚え続けるという地上の現実が前提とされているのではないでしょうか。だからこそ個人の自由が保障され、自分の意思で自分なりの幸福を追求することが尊重されるべきなのです。そして、それこそ、こころの世界です。それに対し聖書は単純明快な答えを提示します。それは、知恵を愛すること、イエスを愛することによるというのです。
1.「わたし(知恵)を愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす」
8:12に「知恵であるわたし」とあるように、ここでは知恵が「わたし」として擬人化されています。そして、「知恵」とは百科事典に書いてあるようなことを数多く知っているということよりは、私たちの日々の生き方に関することです。ですから、「知恵……は分別を住みかとする」と言われます。「分別」とは、「巧みさ」とか「慎重さ」とも訳されますが、そこには物事の本質を見抜いて、成し遂げる能力という意味があります。また「そこには知識と思慮がある」とありますが、「思慮」は「目的」とも訳されることばです。その反対に、「何をやっても中途半端……」というのは「知恵」が足りなししるしです。ただし、この知恵は本来、神に属するものです。ですから、知恵を求めることが、「高ぶり」や「おごり」と反対の、「主 (ヤハウェ) を恐れる」ことといつも並べて記されます。最近は少し分からないことでもインターネットですぐに調べることができますが、そのように知識の宝庫へのアクセスを持つことは大変便利なことです。
私たちは、しかし、この聖書とその著者である神との祈りの交わりを通して、人生にとって最も大切な知恵へのアクセスを持っています。それを励ます意味で、「知恵」が、「わたしを愛する者をわたしは愛する。わたしを熱心に捜す者はわたしを見つける」(8:17) と語っています。そればかりか、「富と誉れ」「尊い宝物と義」は「知恵」とともにあるので (8:18)、神の知恵を求め続けるものは、この世においてもすべての必要が満たされるというのです。それにしても、「わたし(知恵)を愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす」(8:21) と断言されていることに、何かご利益宗教の宣伝のような感じを味わい多くの人は戸惑いを覚えることでしょう。
しかし、たとえば、あなたが人に何らかの大切な仕事をお任せるとき、何を重視するでしょうか。血筋や学歴、パソコンや語学能力よりも明らかに重視する基準があることでしょう。そして、人の信頼を得ることができる人は、黙っていても仕事が回ってきて、結果的に豊かさを手にすることができます。それは少し立ち止まれば分ることです。
多くの人は、目先のことに心を奪われて、最も大切なことを忘れてはいないでしょうか。たとえば、人はだれしも幸せを味わうことを求めています。しかし、自分のことしか考えないような人が幸せを感じることができないのは明らかです。「幸せ」は、富や権力に比例して増えるわけでもありません。そのことをソロモンは、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(17:1) と語っています。幸せは、何よりも神と人、人と人との交わりから生まれるものではないでしょうか。そして、この世の仕事においても何よりも信頼関係こそが大切です。驚くほど豊かな能力や感性を持っていながら、信頼されない人もいます。それどころか、分っていないことを分ったつもりになっている人は一番始末が悪いのではないでしょうか。聖書が語るところの「知恵」を求めるものは、しかし、「良いものに何一つ欠けることがなく」(詩篇34:10)、今ここで幸せを味わうことができます。
2.「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」
8:22–31節では、何と、「知恵」が世界の始まる前から存在していたと記されています。パウロは、「キリストは神の力、神の知恵なのです」「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」と語っています (Ⅰコリント1:24、30)。つまり、「知恵であるわたし」とは、イエス・キリストを指し示しているのです。
使徒ヨハネは、マリヤを通して人となる前のイエスを、「ことば」と呼びながら、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は初めに神とともにおられた。すべてのものは。この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている」(ヨハネ1:1–5) と描きましたが、「ことば」を「知恵」と呼びかえると、この箴言の箇所にもほとんど同じことが記されていることが分ります。ソロモンが千年後のイエスを知ることはなかったはずなのに、聖霊に導かれて、「知恵」ということばを用いながら、救い主のことを描いたのだと思われます。
「知恵」は世界が造られる前から存在したというのは驚くべきことです。たとえば科学的な知識は、世界が現実にどのように動いているかを分析するところから生まれます。つまり、科学は、世界が造られた後で生まれたものです。しかし、「わたし(知恵)は神のかたわらで、これを組み立てるものであった」(8:30) とあるように、「知恵」を持つ者は、世界の成り立ちを知ることができるというのです。つまり私たちはキリストを知ることによって、世界がどのように始まり、どのように保たれ、どのように終わるかのすべてを知ることができます。ところで、この聖書が記された時代の人々は、ほぼ例外なく、太陽が地球の周りを回っていると信じていたことでしょう。それは、現代人の目からは、「無知」と称されるかもしれません。しかし、地球が太陽の周りを回っているということを悟ったことが、その人の人生にどのような影響を及ぼしているというのでしょう。地球の法則を知るよりも、自分の感情に振り回されることなく、隣人を愛してゆくことの方が、はるかに大切なことではないでしょうか。時代と共に変わってゆく科学的知識よりも、世界の始まる前から存在し、三千数百年前に啓示され、それに従う信仰者によってその真実さが確認された「知恵」こそが私たちの人生の基盤になります。
しかも、「わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ」(8:30、31) とありますが、神が喜びをもって世界を創造し、人をご自身のかたちに創造して喜んでおられるということ、この世界と私たちが神の喜びの対象であるというのはなんという慰めでしょうか。それと対照的なのがギリシャ神話です。そこではゼウスが人間を懲らしめるためにひとつの箱をパンドラに与え、彼女が好奇心に負けてその蓋を開けるとありとあらゆる災いが世界に広がった。そして最後に箱の底に「希望」だけが残り、それだけは手元に残った。それ以来、人間は、諸悪に満ちた世界にありながら希望のみを頼りに生きていると記されます。希望が人にとっての最後に守るべき宝であるというのは、聖書に通じる話ではありますが、世界の背後に神の悪意を見るのか善意を見るのかということは人生の構えを決定的に変えるものです。聖書によるとこの世界の悲惨は、人が自分を神のようにして、自分を中心に善悪を判断するようになった結果です。しかし、人々の忘恩の罪にも関わらず、神は人を愛し続け、ご自身の御子を送って罪の悪循環を断ち切り、世界を平和に満ちた歓喜に向って導いておられます。このように、世界の始まりと終わりが喜びに満ちているということは、私たちの悲しみは永遠のものではなく束の間の間奏曲にすぎないということを指し示しています。私たちは何の根拠もない淡い希望を抱いてこの世の苦しみを生きるのではありません。既に天上には御使いたちの歓喜の歌声が響き渡っています。私たちはそれを霊の耳で聴きながらこの地上の生涯を送るのです。そのことを覚えながら、「わたし(知恵)を見いだす者は、いのちを見いだす」(8:35) と記されます。キリストを見いだす者は、まさにいのちの喜びを見いだすのです。反対に、この神の知恵を「見失う者」は、結果的に「死を愛する」状態にあります (8:36)。
3.「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」
そして知恵は、「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」(9:4) と招きます。つまり、私たちが知恵を受けるための何よりの前提は、自分の無知を悟ることにあるのです。たとえば哲学は、「知恵を愛する」(フィロ・ソフィア)という言葉から生まれていますが、この箴言が記された六百年後に生まれた哲学の父ソクラテスは、自分の無知を知ることこそが何よりの知恵の出発点だと言いました。そればかり彼は、多くの自称知者たちの無知をあばいて死刑になってしまいました。まさに、「あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう」(9:7、8) と記される通りのことが起きたのです。
私たちも、聞く耳のない人に福音を語ろうとしても無駄です。確かにそれでも語るべきときはありますが、自分がそうすることによって、当座は人の憎しみを買うことになってしまうということも自覚している必要があります。
しかし、「知恵のある者」、つまり、「知恵を愛する」(8:17) 者(真の哲学者)を、「責める」なら、「彼はあなたを愛するだろう」と言われ、「知恵のある者は……ますます知恵を得よう」と記されます (9:8、9)。
その上で、「主 (ヤハウェ) を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(9:10) とこの箴言のテーマが繰り返されます。自分の無知を自覚し、知恵の源である方にすがり、その方が啓示してくださった聖書に親しむことこそ、「あなたの日は多くなり……いのちの年は増す」(9:11) という幸せな人生の鍵なのです。
ところで、ここでは続けて、「愚かな女」も「騒がしく」しながら、往来の人々を、「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と誘っているというのです (10:16)。それはたとえば、細木数子の占いに似ているかもしれません。しかし、「そこに死者の霊がいる……彼女の客がよみの深みにいる」ということを私たちは知らなければなりません。子の世界では、「知恵」と同時に、「愚かな女」も人を招いているということを知り、声を聞き分ける必要があります。
イエスはこの箴言のことばを思い浮かべながら、「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7章37節) と人々を招いておられました。そして、イエスのことばが、真のいのちへの招きであることは、主ご自身の生き方を通して明らかにされています。知恵はその人の生き方を通して明らかにされるからです。
キリストを持つ者は、すべてを持つということを覚えたいと思います。パウロは、「私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています」(ピリピ3:8) と言っているほどです。
「主よ、人の望みの喜びよ」というバッハの名曲は、その60年前のドイツの牧師マルティン・ヤーンの詩を基に生まれました。ヤーンは反宗教改革の嵐の中で、信仰のゆえにすべての富も名誉も失いながら、イエスを心に持つ身の幸せを歌いました。そこにはまさに、「神の知恵」であるイエスを持つことの幸いが美しく歌われています。
イエスを持つこの私は 何と しあわせ!
何と固く彼を抱きしめることでしょう。
主は、病のときも、悲しみのときにも、私の心を活かしてくださる。
いのちを賭けてこの私を愛されたイエスご自身が私のうちにおられる!
ああ、だから私にイエスを忘れさせないで!
たといこの心が破れることがあっても
イエスはどんなときにも私の喜び。
この心の慰め、生命のみなもと。
イエスは全ての苦しみの中での守り手。
主こそが私に生きる力を与える。
彼は私の目の太陽、また楽しみ。
このたましいの宝、無上の喜び。
ああ、だから私に、いつもイエスをこころの目の前から離れさせないで!
- さいわいなるかな 主イエスを持つ身は
悩みのときにも 慰めたまえり
イエスはわがために いのちを捨てられ
破れしこころに ひかりともせり - 主はわがよろこび いのちのみなもと
恐れのときこそ ちからをたまわる
主こそわが ひかり 望みぞ、宝ぞ
いかなるときにも イエスを仰ぎ見ん