ローマ7章7〜8章11節「罪の律法?と生かす御霊」

2007年8月26日

約25年ほど前、ドイツが東と西に分かれていた頃、私は車で西ドイツの国境を抜け東ドイツに入りました。国境を越えてすぐの東ドイツの道路は広くまっすぐでした。でもすぐに警察に止められ、速度違反で罰金を払わされました。スピードを出しても安全な道路に、ほとんど見えないほどの速度制限の標識をつけながら、彼らは外貨を稼いでいました。それと同時に、自由に慣れた西側の人間を萎縮させ、従順にさせようとしたのでしょう。

同じような解釈を神の律法に当てはめる人がいないでしょうか。神は最初から守ることができない命令を与え、罰によって人間を萎縮させ、従順にさせようとしている、神は意地悪な方であると・・・私はかつて旧約聖書に対して同じような矛盾した気持ちを抱いていました。

たとえば、創世記2,3章の記事を読んで最初に疑問に感じたのは、「なぜ神は、人が食べたくなるような善悪の知識の木の実を園の中央に置いて、人をつまずかせたのだろう・・・」、「それとも神は、これによって人間を脅し、萎縮させようとしているのだろうか・・・。それにしても、神はなぜ、そのように、すぐに罪を犯したくなるような人間を造ったのだろう・・・神は人を欠陥品として造ったのだろうか・・」というような一連のことでした。

実は、それは私だけの疑問ではないようです。パウロがローマ人への手紙7章7節から25節を記した背景には、彼に投げかけられた二つの疑問があったと思われます。その第一は、「律法は罪なのでしょうか?」(7:7)というものであり、第二は、「人間は、生まれながら善ではなく悪ばかりを望んでいるのだろうか・・・」(7:18,19)というものです。つまり、「教えが悪いのか、人間が悪いのか」という疑問ですが、パウロはその両者を否定しています。

1.律法は罪なのでしょうか?

キリストは私たちを律法の束縛から解放してくださいました。でも、そのように言われると、律法は何か悪いもののように聞こえます。それでパウロは、「律法は罪なのでしょうか?」と問いかけた後で、すぐに、「絶対にそんなことはありません」と強く否定し、律法を擁護します(7:7)。その上で、「私」ということばを敢えて用いながら、アダム以来の人間に共通する傾向を、読者への批判にならないように優しく語ります。

律法の核心は、十戒ですが、その第十番目は、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」とまとめることができます。それがここでは、「むさぼってはならない・・」です。しかし、彼は、「罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」と不思議なことを言っています。

これは、善悪の知識の木の実の場合を考えると良く分かります。神は、「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と豊かな祝福を与えながら、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、ひとつの例外を設けることで、かえって、神の恵みを意識させようとされました。これは、空気がなくなるということを前提にして初めて、空気のありがたさが分るようなもので、この限界設定は、神のことばに従う中での自由と喜びを教える意味がありました。しかし、そこで蛇は、「この戒めによって機会をとらえ」て女を誘惑し、女の心に、その木の実を欲しくてたまらないという「むさぼりを引き起こし」たのでした。

そのことが、「罪が私を欺き、戒めによって私を殺した」(7:12)と言われます。蛇は、神が「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われた聖なる「戒め」を逆手に取って、人を死の力に服させてしまったのです。

同じことがイスラエルの歴史の中で起こりました。神はイスラエルを周りの国々の罪に染まらない理想的な国に育てようとし、そのために愛に満ちた「御教え」としての「律法」を、モーセを通して授けました。そして、最後にモーセは、「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)と、分り易い二者択一を迫りました。ところが、身近な異教の女たちはイスラエルの男たちを次々に堕落させ、ダビデの子ソロモンまで堕落させました。つまり、アダムもイスラエルも誘惑に負けて、死を選び取ってしまったのです。

パウロは、改めて、「この良いものが、私に死をもたらしたのですか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって極度に罪深いものになりました」(7:13)という論理を展開します。それは、「神の御教え」、つまり「律法」が人間に死をもたらしたのではなく、罪が人間に死をもたらしたということを敢えて強調するためです。私はモーセ五書、つまり、律法の解説の書のタイトルを、「主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って」としました。それは申命記7章7節のみことばであり、律法の要約は、主がイスラエルを恋い慕って与えた愛の教えであるという意味です。しかし、それと同時に、神はかつて弟アベルに嫉妬しているカインに向って、「罪は戸口であなたを待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(4:7)と言われました。つまり、神が私たちを恋い慕っておられることが明らかになればなるほど、罪が私たちを恋い慕って、私たちを殺そうとする力が働くというのです。

よく、私たちが新しい地に教会を建てると、必ずサタンも隣に悪霊の基地を建てると言われます。光は常に闇を浮かび上がらせる力があるように、模範的な親のもとでかえって不良が育つという現実さえあるのです。

2.「それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」

その上でパウロは、「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」と言います。つまり、律法が悪いのではなく、人間にその力がないのです(7:14)。

それでは次に出てくる疑問が、神がイスラエルに律法を与えたのは、「豚に真珠」というような無駄なことだったのだろうか・・ということです。それではイスラエルが悪いのではなく、選んだ神が悪いということになるからです。

しかし、イスラエルは豚のように、最初から律法を軽蔑したのではなく、神の愛のことばとして喜んでいました。そのイスラエルの現実をパウロは、「私」と合わせて覚えながら、「律法を良いものであることを認め」ながら、「私のうちに住みついている罪」が、私を、「したくない悪を行なう」ように駆り立てていると分析しています(7:16-19)。

たとえばあなたは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と聞いて良い気持ちになり、「あなたの罪がイエスを十字架にかけたのです」と言われて落ち込むということがないでしょうか。それは、聖書のメッセージが矛盾しているのではなく、あなたの心の中にある相矛盾する気持ちが反応を起こすのです。私は昔、仕事が思い通りにならなくて自己嫌悪に陥ると、ホテルのスカイラウンジなどに上って食事をしたくなりました。そこで束の間、世界が自分を中心に回っているような気持ちに浸りたかったのです。それは、「僕って、何て駄目なんだろう」と自分を卑下する気持ちと向き合うのが厭だったからでしょう。しかし、パウロはここで驚くほど冷静に、アダムの子孫としての「私」の現実に向き合っており、自分を救いがたい人間だと卑下しているわけではありません。

人によっては、「お前は生きている価値がない・・」という声を心の中に聴き続け、それを誤魔化すために幻想的な成功の夢へと駆り立てられ、失敗し、さらにひどく落ち込むということを繰り返す人がいます。自分を強がって見せる人は、内側に自己嫌悪の思いを隠しているものです。そのような人は、自分ばかりか周りの人を傷つけてしまいます。自己卑下や自己嫌悪は健全な信仰と相容れないものです。何か大きな失敗をしたとき、自分を責める代わりに、自分がアダムから受け継いでいる固有の罪の性質は何なのかを、距離を置いて分析してみると良いでしょう。ある人にとって簡単に自制できることが、あなたにはできないということがあるでしょう。また反対に、ある人にはとてもできない愛の小さな行為を、あなたはごく自然にできるかもしれません。あなたの中には、少なくとも聖書の教えを喜ぶ心が宿っています。しかし、あなたの中には同時に自分でどんなに頑張っても克服できない罪の性質が宿っているのです。あなたが悪いというより、アダム以来の罪の蓄積があなたのうちにあるのです。

なお、ここでパウロは、律法は「聖なるもの・・・霊的なもの」であると言っていながら、「罪の律法のとりこ」などと、別の律法があるかのような表現を用いています。それは、良い教えがかえってその人の絶望感を深めることにしか作用しないという逆説があるからです。あなたも人から正論を言われて、かえって落ち込むということがないでしょうか。教えが正しければ正しいほど、あなたの絶望感が深くなるということがあります。そして、絶望感はかえって、あなたを「罪のとりこ」にします。その意味で、「聖なる律法」が同時に「罪の律法」となっているというのです。

それはすべての人に適用できる原則でもあります。あなた自身が愛されるに価しないのではなく、あなたのうちに住んでいる「罪」が悪いのだと納得することがすべての始まりになります。そして、それがアダム以来から積もっている罪の性質であるならば、人間の力によって勝つことができないのはあまりにも明らかなことです。

「もし私が自分でしたくないことを行なっているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住み着く罪です」(7:20)というみことばを心から味わって見ましょう。そこにあるのは、自分の責任を否定する思いではありません。また自分は救いがたい愚か者だという自己卑下や敗北主義でもありません。それは祈りの始まりです。自分で罪に勝つことができないからこそ、神の助けを求め、神にすがるのです。

実際、パウロはここで、「私はほんとうにみじめな人間です」と言いつつ、自分も他の人も、自分を罪の支配から解放することができないことを認めた上で、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」とキリストにある救いを喜び賛美しています(7:24,25)。

3.「あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません!」(1節)とは、何という大胆な宣言でしょう。私たちは自分の肉の力によっては、罪の誘惑に打ち勝つことはできません。だからこそ、キリストは私たちを「ご自身のもの」として引き受けてくださいました。そのように私たちは自分を何よりも「キリスト・イエスにある者」として見る必要があります。そして、その者は、もうさばきを恐れる必要はないのです。

8章2節は、「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法(御教え)が、罪と死の律法(御教え)から、あなたを解放したからです」と訳すことができます。新改訳で「原理」と訳されていることばは、原文では「律法」と同じで、ここだけ別に訳すのは不自然だと思われます。この意味は、私たちが古いアダムの性質に縛られていたときに、「律法」は本来「聖なるもの」なのに、かえって「罪を引き起こし、死をもたらした」(7:8-13)という意味で「罪と死の律法」(2節)になったということです。しかし、キリストはご自身の十字架と復活によって、「罪と死」の力に打ち勝ち、「律法」を「罪と死」の力から解放し、それを「いのちの御霊の律法(御教え)」に変えてくださいました。

たとえば、私にとって、聖書の最初の五つの書、つまり、モーセ五書は無味乾燥なばかりか自分を落ち込ませるだけの教えでした。しかし、今、それは、「主が私を恋い慕って」おられるという愛の教えに変わりました。同じ教えなのに、その意味が自分にとって百八十度変わったのです。同じことがあなたにも起きていることでしょう。

それは、神が私たちに御霊を遣わし、私たちを内側から造り変えてくださったからです。私たちは、今、御霊に導かれることによって、神の律法を喜び、それを行い、生きる者とされたのです。7章14節で、「律法が霊的なもの」とありましたが、それゆえ律法は神の霊によってしか全うすることができないのです。それは、申命記30:6、エレミヤ31:32,33、エゼキエル36:26,27などに、特に明確に預言されていた通りです。

そのために、神はまずご自身のほうから私たちに近づいてくださいました。それが、ご自分の御子を「罪深い肉と同じような形でお遣わしになり」(3節)ということです。神は私たちの罪をさばく代わりに、罪の根元にある不安や孤独、渇きなどをともに味わう所まで降りてくださいました。そればかりか、私たちのすべての罪を御子に負わせ、「肉において罪を処罰され」、私たちを「罪の奴隷」状態から解放してくださいました。愛は、愛によってしか生まれないからこそ、神はご自身の愛を私たちに溢れるばかりに注ぎ、私たちの内側に神と人への愛を生まれさせて下さったのです。私たちに今、求められていることは、何よりも、この神の恵みのみわざを思い起こすことです。

ところで、「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む・・・・」(4-8節)という教えは、「自分の肉の欲求と戦い、それを殺さなければ・・」という戒めとして読まれがちです。しかし、「御霊による思い」とは、「イエスは主です」(Ⅰコリント12:3)と告白させ、私たちのうちに神のみわざへの感謝と、神への愛を起こさせるものです。それに対し、「肉の思い」とは、心の目を自分に向けさせ、欠乏感を刺激するものです。「聖さ」への渇望感と、富や名誉や快楽への渇望感は、「空虚な自分を満たしたい」という自我の欲求という点では同じものかも知れません。

自分を見る前に、あなたを恋い慕ってくださったイエスを見上げ、イエスへの愛の告白を歌うことこそが御霊に満たされた歩みです。「イエスは私の喜び」という曲を記したヨハン・フランクは雅歌を読みながら、イエスとの愛の交わりに思いを潜めました。世が与えてくれる何かではなく、イエスご自身が「私の喜び」だというのです。私は物事が期待通り運ばず、暗い気持ちになるたびにこの歌を口ずさみます。すると世界が変わって見えるのです。

ですから、何よりも大切なのは、自分の欠けを見る代わりに、すでに「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」(9節)という事実を、感謝をもって受けとめることです。なお、9-11節に「もし・・」が続きますが、日本語では「あり得ないことを仮定する」という意味があるため、「もし、あなたが御霊を受けられたとしたなら・・」と読まれることがあります。しかし、この原文は「・・であれば・・である」という事実関係を述べているだけなのです。ここは、敢えてパウロの本来の意図を明確にするなら、次ぎのように訳すことができます。

「あなたがたは、肉の中にではなく、御霊の中にいます。確かに、神の御霊はあなたがたのうちに住んでおられるからです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではあり得ません。ところが、キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのです。それゆえ、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます」(9-11節)

私たちは「クリスチャンになる!」などと、信仰を自分の働きかのように表現しますが、聖書は、私たちの状態を「御霊の中にいる」「神の御霊が住んでいる」「キリストの御霊を持つ」「キリストがうちにいる」と表現します。

これは、キリストに起こったのと同じことが私たちにも実現することを意味します。私たちの目に見える肉体は滅びに向かっていたとしても、私たちの内側には、すでに新しい御霊のいのちが始まっています。私たちはもう、自分に失望する必要はありません。すでに始まった新しいことに、この身を委ねさえすれば良いのです。

「イエスは私の喜び」  曲はJohann Crueger 1653  による

朗読  

「私の愛する方。あなたはなんと美しく慕わしい方でしょう」(雅歌1:16) 
「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う」(7:10)  

会衆賛美

1.わが喜び わが慰め わが主 イエス      
   この地にあり 思い焦がれつ 主を求む
   神の小羊 いとしの花婿 わがすべてよ    

朗読

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が、
罪に定められることはありません。
その人は、肉に従ってではなく、御霊によって歩んでいます。
なぜなら、キリスト・イエスにあって生かす御霊の律法が、
罪と死の律法から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2別訳) 

会衆賛美 

2.御手のもとに やすらぐわれに 敵はなし   
   たとい悪魔 力を尽くし 脅すとも        
   罪と地獄が われを脅すとも 主はわが盾       

3.悪しき力 たけり狂いて 迫るとも       
   われは立ちて こころ静かに 主に歌
   神の御腕は 確かに伸ばされ われを包む    

朗読 

あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいます。
神の御霊は、確かに、あなたがたのうちに住んでおられるからです。
キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。           
キリストは、あなたがたのうちにおられるのですから、
からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。            
今や、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるのです。
それゆえ、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに住んでおられるその御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださいます。」(ローマ8:9-11私訳)                         

会衆賛美

4.別れ告げよ 世の誉れや 世の栄          
   主イエスこそは すべてにまさる わが誉れ     
   恥も悩みも われを主イエスより 引き離さじ   

5.とわに眠れ! この身駆り立つ 世の力     
   死からイエスを よみがえらせし 主の御霊   
   わが内に住み、死ぬべき身体を 生かしたもう。

6.去れ!悲しみ。喜びの主 イエス来ます   
   主を思わば 悩みのうちに 安きあり
   わが苦しみを ともに担う主は わが喜び。

 “Jesu meine Freude” Johann Franck 1653 からの翻訳 
 みことばはJ.S.Bachのモテットを参照 高橋秀典