「信仰によって歩む」という中に、確かに、「不可能を可能としてくださる全能の神に信頼して、積極的に歩む……」という意味が込められています。ただそれが、「最悪の事態にも備える」ということを否定する思いになると危険です。実際、少し前まで、保険への加入を「不信仰!」と否定する宣教団体があったとも聞いています。
誤った積極志向の信仰心ほど危険なものはありません。たとえば、第二次大戦中、もっとも愚かで悲惨な作戦の代表例はインパール作戦だと言われます。家内の父はそこからかろうじて帰還しました。それはビルマからインド東北部のインパール占領を目指した戦いでした。補給路も空輸力もない中、兵隊ひとりひとりに四十キロの弾薬と食料を携行させ、イラワジ支流のチンドウィン川を越え、標高二千メートルが連なるアラカン山系に踏み入らせ、一ヶ月で敵地を占領し、食糧は敵から奪うという無謀な作戦でした。牟田口司令官は、「本作戦は普通一般の考え方では、初めから成立しない作戦である。食料は敵によることが本旨であるから、各軍団はその覚悟で奮闘せよ」と、慎重論を押さえ込みました。ところが奇襲攻撃のはずが、すべてのことが英軍に事前に知られ、大敗北を喫し、撤収作戦が作られます。それは、自決用の手榴弾と米半合を持たせて、各自の判断で生き延びさせるというものでした。その間、作戦参加の85,600人中7万人以上が、ほとんど餓死や病で命を落とし、日本軍の撤退路は白骨街道と後に呼ばれることになりました。
信仰は可能性にかけて無謀な冒険をすることとは違います。そのような信仰はギャンブルと同じではないでしょうか。イエスも、「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な費用があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちひとりでもあるでしょうか……」(ルカ14:28) と問われました。むしろ、「信仰」とは、報いが期待できないような中でなお、日々の勤めを誠実に果たす気力を与えるものです。それは、「主に信頼して善を行え、地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:3、4) とある通りです。
1.「あなたの終わりに……あなたは嘆くだろう」
箴言5章と6章20節から7章までは、若者が性的誘惑に負けて身を持ち崩すという危険が警告されます。最初に、「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりなめらかだ」(5:3) という魅力に負けて、家を滅ぼす悲劇が記されます。「他国の女」とは、厳密には「よその女」と記されていますから、異教徒の女を妻としたソロモンの思いと矛盾するわけではないのでしょうが、広い意味では、彼はここにある失敗をそのまま犯しました。彼は、多くの外国の女たちを「愛して、離れなかった」ために、その心が他の神々に向けられました。しかも神から二度も警告を受けながら、妻たちの神々から離れなかったため、さばきを受け、ダビデから受け継いだ王国を分裂させることになったからです (Ⅰ列王記11:1-8)。彼は分かっていながら止められませんでした。
ソロモンはここで、「あなたの終わりに、あなたの肉とからだが滅びるとき、あなたは嘆くだろう。そのときあなたは言おう。『ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える者に耳を傾けなかった。私は、集会、会衆のただ中で、ほとんど最悪の状態であった』と」(5:11–14) と言っていますが、この嘆きは彼の生涯の終わりに、彼自身のものとなったのではないでしょうか。彼は聖書に精通していましたから、自分の心に警告を受け続けていたはずです。しかし、彼は心の中で、「私は大丈夫だ!外国の女を召し抱えても、その神々に心を奪われるほど愚かではない……」と自負していたことでしょう。
すべての依存症は、「私はいざとなったら、自分の欲求を制御できる」と自負することから始まります。それに対し、依存症の癒しは、「私には自分の欲求を制御する力がない……」と認め、神と人との助けを求めることから始まります。それはあの使徒パウロが、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行なっています……私は本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう」と自分の無力さを嘆きながら、しかし同時に、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と、主の救いを喜んだことと同じです (ローマ7:19–25)。
6章20節からは人妻の誘惑に負ける若者のことが描かれます。「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな」と記され、「これはあなたを悪い女から守り、見知らぬ女のなめらかな舌から守る」と言われます。私は北海道の大雪山のふもとの貧しい農家に生まれましたが、母はよく私に、「町の女に騙されないように気をつけなさい」と言っていました。そのことばが思い出されます。ただ、その町とは旭川市のことですが……。
7章7節からは、「思慮に欠けたひとりの若い者」が、人妻に誘惑される様子が描かれます。それは、「この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う……『夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから……満月になるまで帰ってきません』と……彼はほふり場に引かれる牛のように……ただちに女につき従い……自分のいのちがかかっているのを知らない」という生々しい情景です (7:13–22)。そして、「彼女の家はよみへの道、死の部屋に下ってゆく」(7:27) と結論付けられます。彼は、ほんの一瞬だけ、はめをはずして楽しんでみようと思ったところから、完全な破滅に至ったのです。こんなとき、人は、「私は途中で引き返すことができる!」と自信を持っています。しかし、一度、誘惑に負けてしまったら、死に至るまで戻ることができないという道もあるのです。これは女性の誘惑に限りません。私たちは誰でも、何らかの誘惑に「はまってしまう」傾向を持っています。ソロモンのように豊かな知恵があっても、戻ることができませんでした。「私は大丈夫……」という思いは、自分を過信するギャンブル的信仰でしょう。
2.「あなたの泉を祝福されたものとせよ」
誘惑への対策として、「あなたの水ためから、水を飲め。豊かな水をあなたの井戸から」(5:15) と勧められます。具体的には、「あなたの若いときの妻と喜び楽しめ……いつも彼女の愛に夢中になれ」(5:18、19) ということです。それは、よその女の中に「新たな喜びを求める」のではなく、今ある妻との関係の中で、「喜びを深める」ことを意味します。「夫婦の幸せは、組み合わせがよければ自動的に生まれる……」というのは幻想に過ぎません。そう思う人は、次々と新たな伴侶を求めたくなることでしょう。そればかりか、「自分の幸せは相手次第……」という発想の人は、自分で次々と関係を切って行きますから、やがて誰からも相手にされなくなります。「幸せ」は、永遠の愛を誓った伴侶を、愛し、尊敬する結果として、与えられるものです。これはすべてに適用できる原則です。自分の責任から逃れて幸せになれる人はいません。それが、「あなたの泉を祝福されたものとせよ!」という命令です (5:18)。
「あなたの泉」とは、今ある家族であり、友人であり、職場であり、教会ではないでしょうか。ある方がマザー・テレサに、「イエスが教会の代表者であるなら、教会は違った顔を見せ、もっと模範的になるべきではないでしょうか?」と尋ねたところ、マザーは、「それではお尋ねしますが、教会とは誰のことなのでしょうか?あなたたちや私なのです……教会とはイエスに従う人たちなのです……私たちは愛に飢えた人たちに囲まれて暮らしています。私たちは彼らに愛を与えなければならないのです」と答えたとのことです。あなた自身に、「祝福されたものとせよ!」と命じられています。幸福の青い鳥は、遠い所ではなく身近な所にあるとの童話がありますが、私たちは、今ここで、幸せになることができます。与えられた泉を軽蔑し、よその泉から祝福を求めることはギャンブル的な信仰です。
3.「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」
「わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによってあなた自身がわなにかかり……捕らえられたなら……」(6:1、2) とありますが、箴言では繰り返し、軽はずみに他人の保証人となることが戒められています。それは、「他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ」(11:15) とか、「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」(17:18)、「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない」(22:26) などと記されている通りです。
しかし一方で、「良きサマリヤ人」のたとえでは、他国人である彼が、強盗に襲われたユダヤ人を助け、宿屋に連れて行って介抱し、出がけに、十分な手当ての費用を宿屋の主人に払ったばかりか、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」と保証した姿が、模範として記されます (ルカ10:35)。また、創世記では12部族の中でユダが主導権を持ったきっかけが記されています。エジプトの宰相となっていたヨセフは、正体を隠しながら、兄たちに弟のベニヤミンを連れて来なければ人質のシメオンを返さないし、食糧も与えないと脅します。しかし、父のヤコブはベニヤミンを連れて行かせることを渋りました。そのときユダは、「私自身が彼の保証となります」(43:9) と言ったばかりか、ベニヤミンが捕らえられたとき、「このしもべをあの子の代わりに奴隷としてください」と身代わりを願い出ました。つまり、ユダ族繁栄は、ユダがベニヤミンの保証人、身代わりとなったことから始まったのです。
聖書は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました……ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっていることでしょう」(Ⅰヨハネ3:16) と記します。しかし、この場合の「愛」とは、見返りを期待せずに援助するということを意味しています。ところが、私たちが保証人となる場合、「いのちを捨てる」までの覚悟を決めて人を助けるというよりは、「この人は大丈夫……」という希望的観測があると思われます。ですから、裏切られたと思うときそれが恨みに転じます。
私たちは人との関係を築く際に、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない(心は何よりも欺くもので、癒しがたい)」(エレミヤ17:9) というみことばをも、同時に覚えるべきでしょう。私たちはそれぞれ、「私の中には、いざとなったら何をしでかすか分らない罪の性質が宿っている……」と自覚するからこそイエスにすがっています。それなのに、人を安易に信頼できるのでしょうか。覚悟を決めずに保証人となるのは、ギャンブルと同じでしょう。
4.「なまけ者よ。蟻のところに行き、そのやり方を見て知恵を得よ」
「なまけ者よ。蟻のところに行き、そのやり方を見て知恵を得よ」(6:6) とありますが、蟻は、「夏のうちに食物を確保し」という準備を怠りません。蟻とキリギリスなどの童話にもあるように、蟻は暑い最中に働いて冬の分までの食料を確保するので、昔から「勤勉」の代名詞とされています。一方、「なまけ者」の行動については、26章13–16節にも記されています。そこで、怠け者は「道に獅子がいる」などと言い訳がすぐに口から出るとか、「なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも自分を知恵ある者と思う」と記されているのは見事な描写です。本当に、彼らの中では、「自分は働かなくても大丈夫……」というそれなりの理由が成り立っているというのです。
ところで、「蟻には首領もつかさも支配者もいない」(6:7) という記述が疑問視されることがあります。蟻の社会には、女王蟻、働き蟻、兵隊蟻などのカースト制と呼ばれるような区分があり、一致して戦争もするからです。しかし、やはり、蟻の社会では統一行動のための命令系統があるわけではなく、それぞれが自分の役割を果たしながら自然に統制がとれているという不思議が確認されています。しかも、働き蟻の中にも、一定割合で働かない蟻がいて、それを除いてもまた次の働かない蟻が一定割合出てくるという不思議もあるようです。日本の集団性はしばしば、例外を認めない強制力がありますが、蟻は決して強制されて働いているわけではありません。ひょっとしたら、交代で休暇を取っているのでしょうか?とにかく、強制されることも脅されることもないのに準備を怠らない、それが蟻の不思議です。
「なまけ者よ。いつまで寝ているのか」と言われますが、働かない「働き蟻」も、寝てはいません。そして、「しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む」という者に、「あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る」と警告されます。パウロも、キリストの再臨に関しての様々な空想的な議論をしている人々に対し、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身をいれ、自分の手で働きなさい」(Ⅰテサロニケ4:11) と命じ、また、「働きたくない者は食べるな」と戒めています (Ⅱテサロニケ3:10)。また、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7) と語っています。
この世界では、いいかげんな生き方をしている人が豊かになり、まじめに働いても労苦が実を結ばないという不条理があります。それを見て、汗を流して地道に働くことを馬鹿らしく思う人や、働かずに暮らして行ける道を夢見る人も生まれます。しかし、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」(Ⅱコリント5:10) とあるように、私たちのためにいのちを捨ててくださった方は、それぞれの働きを正当に評価してくださいます。そして、それと同時に、「堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と約束されています。ギャンブル的な信仰に別れを告げましょう。自分の弱さを自覚し、人に幻想的な期待も抱かず、蟻のように勤勉に生きて、「あなたの泉を祝福されたものとする」、それこそが、神から喜ばれる信仰生活です。