2007年1月28日
失敗をした言い訳に、「ストレスを受けていたから……」と言われることがありますが、人が道を踏み外すのは順調であるときの方が多いかもしれません。だからこそダビデは詩篇19篇で「このしもべの高慢を抑え、支配させないでください。それで私は完全にされ、重い罪からきよめられます」と祈っています。それは彼の反省から生まれているのでしょうが、不思議にも、ここでは彼が犯した恐ろしい罪の動機はほとんど分析されていないかのようです。
1.ダビデが犯した罪の重大性(姦淫、偽証、殺人……)
ダビデはヨルダン川東のアモン人に真実を尽くそうとしましたが、彼らはダビデの使者を辱めた上で、北のアラム(現在のシリア)に助けを求めました。しかし、「主(ヤハウェ)は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」(Ⅱサムエル8:6)とあるように、彼はこの強国アラムをたちどころに打ち破り、その結果、主がアブラハムに約束されたユーフラテス川に至る広大な土地がダビデに服従しました(10:19)。ですから11章にあるアモン人との戦いは勝利が保証されたようなものでした。ダビデはヨアブとイスラエル全軍を戦いに出しながら、自分はエルサレムにとどまり、昼寝を貪るような生活をしていました。彼にとってすべてが順風満帆と思え、心の中から「恐れ」が消えていました。
不思議にここでは、ダビデに何の心の葛藤もなかったかのように、「ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが見えた。その女は非常に美しかった」(11:2)と描かれます。そして、彼はこの女が家来の妻であることを承知の上で、「使いの者をやって、その女を召し入れた」(11:3)と簡単に記されます。彼をこの姦淫の罪に駆り立てた唯一の動機は、彼女の「美しさ」にあったようです。しかも、彼女が水浴びをしていたのは、七日間の月のさわりの状態からのきよめの儀式であり(レビ15:19)、男を誘惑する意図などはなかったと思われます。そして、彼女には王の命令に逆らう余地はありません。ダビデも王としての権力を使うことの緊張感を失っていたかのようです。彼はこれがどのような結果を生むかを何も考えなかったかのようですが、この時期に彼女が妊娠することになるのは当然の帰結と言えましょう。彼女の名はバテ・シェバで、その夫は異邦人であるヘテ人ウリヤでした。彼はヨアブにしたがってアモン人掃討作戦に出征していました。
彼女の知らせを聞いたダビデは慌てて、偽装工作を思いつきます。なぜなら、彼は、神を恐れ、家来を大切にするということで人々から信頼されていたからです。それで、ウリヤを呼び寄せ、彼を妻のもとに帰らせて夜をともに過ごさせ、生まれた子がウリヤの子であるかのように見せようとしました。ところが彼は極めて律儀な性格で、戦友たちが戦場で野営しているのに自分だけ良い思いをすることはできないと思い、妻のもとには帰りませんでした。その際、彼は「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み……」(11:11)という表現を使います。まるでこの外国人の方が、神の箱と国の行く末を案じているかのようで、安逸を貪っていたダビデとの対比が際立って描かれます。
ダビデはそれでも諦めずに、ウリヤを食事に招いて酔わせますが、彼は妻のもとに行こうとしませんでした。それでダビデはヨアブへの手紙をしたため彼に持たせます。そこには「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」(11:15)と記されていました。ウリヤは国のことを思い、妻と一夜を過したい思いを抑えて、王の書状を自分の主君ヨアブに命がけで届けたのでしょうが、そこには自分を死に至らしめる策略が記されているのです。何という裏切り、何という不条理でしょう。ヨアブも、ダビデに恭順を示したアブネルを欺いて殺したような人間ですから、王の命令をひそかに実行に移し、使者を通して知らせます。ダビデもウリヤの死は戦争の常であるかのように言って、家来の未亡人にあわれみを施す王であるかのように、バテ・シェバを自分の多くの妻のひとりとして迎えます。そして彼女は男の子を産みます(11:27)。つまりダビデは約一年近くの間、家来を大切にする敬虔な王であるかのように振舞っていたのです。しかし、裏では、あのヨアブなどよりもはるかに非道なことを行なっていました。ヨアブは復讐心からから行動しましたが、ダビデは自分の評判を守るだけのために、何の恨みもない人の、その誠実さを逆手に利用して殺してしまったのです。これほどの偽善があるでしょうか。
「人間は、天使でもけだものでもない。そして不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、けだものになってしまう」(パスカル・パンセ359)と言われますが、これは明らかな悪人よりも、善良に見える人の方が、恐ろしい罪を犯し得ることの実例ともいえましょう。歴史上、ダビデほどに神を恐れ、人に誠実を尽くし続けた王はいません。しかし、彼でさえ、こうも簡単に罪の罠に落ちました。それはすべての人の心にある闇の深さを示す代表例と言えましょう。
2.主はダビデを立ち返らせるために預言者ナタンを遣わされた。
主(ヤハウェ)は一年近くもの間、ダビデが自分の罪を告白してくるのを待っておられたのだと思われます。しかし、ついに預言者ナタンを遣わして、彼を悔い改めに導こうとされました。主ご自身が交わりの回復を計られたのです。自分を神のようにしたアダム以来、人の何よりの問題とは、自分の罪を認められなくなったということです。よく「あなたが謝罪したら赦してあげるのに……」と迫る人がいますが、それは人の心を分っていない人かもしれません。
ナタンは神からの知恵によって、他の人のことを相談するような雰囲気でたとえを話します(12:1-4)。それは、ある貧しい人が娘のように大切にしていた子羊を、金持ちが取り上げて旅人にご馳走するという話です。その金持ちは、「自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ」(12:4)と描かれます。それなら肉をご馳走しなければ良いはずですが、自分の体面を保つために貧しい人の宝物を力ずくで取り上げたのでしょう。しかし、ダビデは自分のことを棚にあげ、「主(ヤハウェ)は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ」(12:5)と怒りを燃やします。
それを聞いてナタンは、「あなたがその男です」と断言し(12:7)、ダビデこそウリヤを殺した真犯人であると指摘しました。その際、主はナタンを通して、ダビデに対してどれだけ多くのものを与えたかを思い起こさせながらも、「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう」(12:8)と言います。主は、不思議にも、ここでダビデの心の中にある欲望ではなく、「主(ヤハウェ)のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なった」(12:9)ことを問題にしています。彼はそのとき言葉を発するだけで必要が満たされるという立場にありました。権力は人を酔わせます。しかも、一度手にすると離せなくなります。だからこそダビデは評判を気にしたのでしょう。彼はこのとき情欲に負けたという罪の出発点よりも、ウリヤに対する横暴をこそ責められており、その根本は、「主を恐れる」代わりに、「主をさげんすだ」(12:10)こととして描かれています。彼は、「主(ヤハウェ)は王である」(詩篇96:10)という自分の王権の原点を忘れていたのです。このように見ると、ダビデの罪は特殊なことというより、私たちに極めて身近な問題です。私たちも自分こそが王であるかのように自分の基準で人をはかり、心の中で人を殺しているようなことがあるからです。これに対して、王なる主は、「今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない……わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす」(12:10、11)というさばきを宣告されます。
ダビデが、「私は主(ヤハウェ)に対して罪を犯した」(12:13)と告白したとき、ナタンはすぐに、「主(ヤハウェ)もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」(12:13)と宣言しました。それは、主がダビデを赦すために彼の罪を指摘していたということが明らかだったからです。ただ続いて、「あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主(ヤハウェ)の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる(た)子は必ず死ぬ」(12:13,14)と、「死なない」と「必ず死ぬ」という表現をセットに、生まれて間もない子がダビデの身代わりになると宣告されます。そして、主はその子を打たれ、病気にしますが、ダビデは、「主(ヤハウェ)が自分をあわれみ、子供が生きるかもしれない」(12:22)と、七日間断食して祈ります。その後、「ダビデは妻バテ・シェバを慰め……彼女が男の子を産んだとき……その子をソロモンと名づけた」(12:24)のですが、不思議にも、「主はその子を愛されたので……その名をエディデヤ(主に愛される者)と名づけさせた」(12:25)と記されます。主はダビデの深い悲しみを見て、この関係から生まれた次の子を、豊かに祝福されたからです。主は不倫から始まった関係を正式な結婚として認めたばかりか、それを救い主の系図に入れました。それは主が、どんな忌まわしい罪さえ、恵みのきっかけに変えることができることを意味します。
3.ダビデの罪の結果が息子たちの姦淫と殺人に現れる。
ところがこの間に、戦いの方は予想通りに勝利をおさめようとしていました。そのとき将軍ヨアブは、最終的な勝利の栄誉を自分が受け取ってしまってはまずいと、ダビデに気を使い、彼に最終的な詰めを委ねます。この点では、ダビデの支配権は順調に強化されており、彼の罪の結果はどこにも現れていないかのようです。しかし、一方で、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)という現実もあります。そして、家庭の罪は、家庭に問題を起こします。彼の長男アムノンは、腹違いの妹のタマルに恋い焦がれます。彼はそのことで悩んだあげく、悪い友人の勧めにしたがって、ダビデとタマルをだまし、「力づくで、彼女をはずかしめ」(13:14)ました。そればかりか、目的を果たした彼は、「ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった」(13:15)というのです。それは先の罪よりもなおひどく彼女を傷つけました。処女を奪った者は、その責任を一生取り続けるというのがみこころだからです(出エジ22:16)。父の姦淫の罪を長男は真似ましたが、父とは違い犯した相手の責任を取ろうとはしませんでした。そして今度は、タマルの実の兄アブシャロムがアムノンに復讐を果たします。父の姦淫と殺人の罪を、ふたりの息子がそれぞれ受け継ぎ、さらに罪深い方法で実行してしまいました。それは主がダビデに、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす」(12:11)と言われた通りでした。ただ、これは何よりも、ダビデが蒔いた種です。
私たちは「罪の赦し」を、過去を消し去り、忘れ去ることだと誤解してはいないでしょうか。ダビデの罪は確かに赦されましたが、その罪の結果は、子供たちに現れ、彼がそれによって悩むばかりか、やがては自分がエルサレムから一時的に逃げ出さざるを得ないというところまで追いやられるのです。ですから、「罪を犯しても、赦してもらえる……」とか、「罪を犯した人の方が赦しの恵みが分る……」などと安易に言ってはなりません。ある人が、つくづく「確かに私は自分の罪が赦されたことの恵みを深く味わっているけれど、誰にも決して、自分と同じような歩みをして欲しいとは思わない。自分が蒔いた種を刈り取ることは、本当に大変だから……」と言っておられました。
では、罪の赦しには、どんな力があるのでしょうか。それは罪の結果を刈り取る過程で、神がいつもともにいて、ひとつひとつのことを益に変えてくださるということです。神が自分に向って微笑んでおられると感じられることは、明日に向って歩む何よりの力となります。どちらにしても、この世の人生には試練がつきものです。それを神とともに乗り越えることができるのと、ひとりで立ち向かわざるを得ないのとでは天地の差があるのではないでしょうか。
ダビデは神の前に正直でまっすぐな人でしたが、その彼でさえ、目を覆いたくなるような恐ろしい罪を犯し、その結果を刈り取ることに苦しみました。ただし、ダビデは、そのあまりにも偽善に満ちた罪を後代のすべての人が知ることができるように公表し、多くの歌まで記したというのは驚くべきことです。それは自分の罪深さに嘆く私たちにとっての慰めとなっています。その点で、主はダビデの罪までも私たちのとっての益と変えてくださったのです。しかも、ダビデの悔い改めは自分からしたものではなく神から導かれたものでした。罪は恐ろしい連鎖を生みます。しかし、だれも失望する必要はありません。神の御子が十字架によってすべてを新しくしてくださったからです。