2006年12月3日
身体を、健康に、美しく保つための施設が注目を集めています。しかし、「たましい」への気遣いが忘れられてはいないでしょうか?ダビデはサウルから逃げ回り、荒野にいながら、「私のたましいは、あなたに渇き・・・こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています・・・私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように・・・喜びにあふれて賛美します」(詩篇63:1,2,5)と歌っています。あなたの「たましい」はどのように養われ、装われているのでしょうか?
1.「その人のいのちは財産にあるのではない」
ある人がイエスに遺産相続のことで仲裁を頼んできました。これはイスラエルで神の幕屋に仕える祭司たちに期待されていた働きでもありました(申命記17:8-13)。ですから、この依頼は決してぶしつけなものではなく、イエスを神の代理として認めるという意味を持っていました。意外なのは、イエスがそのような役割を、きっぱりと拒絶したことの方にあります。それによってイエスは、ご自分の働きの方向性を明らかにされたのです。それは、「貧しい者・・いま飢えている者・・いま泣く者は幸いです」(ルカ6:20、21)、「富む者・・いま食べ飽きている・・いま笑うあなたがたは哀れです」(6:24,25)という逆説と切り離せない関係にあります。ですからイエスはここで、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(12:15)と言いながら、「その人のいのちは、財産の豊かさのうちにあるのではないからです」(15節私訳)と説明しました。そこには、「神の前に富む」(21節)者となって欲しい、つまり、神との交わりの「豊かさ」をこそ求めて欲しいとのイエスの切なる思いがありました。よく誤解されますが、「永遠のいのち」とは、「死んでも天国に行ける」ということ以上に、創造主との生きた豊かな交わりが永遠に続くということを意味します。
その上で、イエスは非常に分り易いたとえを話されました。それは、「ある金持ちの畑が豊作」な中で、作物を蓄える大きな倉を建てて、その豊かさを長持ちさせようと考えたということでした。これは現代的に言えば、莫大な収入を手にした後で、資産運用に知恵を使い、働かなくても豊かな生活を楽しめる計画を考えるようなものです。それ自体は決して悪いことではありませんが、この金持ちの問題は、彼が「自分のたましい」に語りかけていることばの中に見られます。彼は、「たましいよ。お前は多くの財産を持っている」(19節私訳)と励まし、たましいの豊かさを財産に結びつけています。しかも、「さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と、たましいに言い聞かせますが、ここで用いられている、「安心し」とは、イエスが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)での「休ませる」と同じ言葉であり、また「楽しむ」とは、ペテロがイエスの復活を証明するために詩篇16篇を引用しつつ、「主は、私が動かされないように、私の右におられる・・それゆえ私の心は楽しみ」(使徒2:25,26)と言ったのと同じ言葉です。つまり、私たちのたましいの「やすらぎ」と「楽しみ」が、主との交わりからではなく、財産から生まれると錯覚していることこそが問題なのです。
それに対し、神は彼に、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」(20節)と言います。このことが伝道者の書では、「神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ」(伝道者6:2)と記されています。目に見える豊かさの背後におられる目に見えない神こそがすべての人の幸せの鍵を握っています。神の御許しがなければ、彼のたましいは豊かさを味わうことができないのです。
2.「烏のことを考えてみなさい。」「ゆりの花のことを考えてみなさい。」
イエスはこのたとえの後で、特にご自分の弟子たちに向けて、「いのち(原文は「たましい」)のことで何を食べようかと心配するのはやめなさい」(22節)と言いました。これは、愚かな金持ちが、「たましいよ・・・」と自分に言い聞かせたこととの対比であり、たましいを生かしているのは、食べ物以前に神であることを思い起こさせるものです。これに加えてイエスは、「からだのことで何を着ようかと心配するのはやめなさい」と、たましいとからだをセットにして語ります。仏教やギリシャ哲学では、たましいがからだの束縛から解放されることを「救い」と理解する傾向がありますが、聖書は両者を切り離せないものとして考えます。「いのち(たましい)は食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです」(23節)とは、食べ物や着物のことを心配し過ぎて、たましいやからだが損なわれることがあるからです。イエスは、そのことで、ふたつの生き物のことを「考える」ように命じられました。
マタイによる福音書では、「空の鳥を見なさい」(マタイ6:26)と勧められていましたが、ここでは、「カラスのことを考えてみなさい」(24節)と述べられます。烏は預言者エリヤに食物を運ぶためにも用いられたようなたくましく賢い鳥ですが、食べてはならない忌むべき鳥の代表でもあります(レビ11:15)。つまり、神はこのように、たくましいと同時に忌み嫌われる生き物をも「養っておられる」のです。それよりはるかにすぐれた「あなたがた」を、神が養うことができないわけはありません。同時に主は、「心配したからといって、自分のいのち(寿命)を少しでも延ばすことができますか」(25節)とアイロニーを語ります。寿命を延ばす心配をし過ぎることは、皮肉にも、寿命を縮める方向に作用します。まさに「こんな小さいことさえできないで・・・」とあるように、私たちは自分の人生さえ持て余しているという面があることを忘れてはなりません。「たましい」を養ってくださる方を忘れて、安心も楽しみも永続はしません。
またイエスは、「ゆりのことを考えてみなさい」(27節)と勧め、その美しさを「栄華を窮めたソロモン」と比較します。彼はイスラエルの歴代の王の中で最も豊かさを享受できた人で、すべてが派手好きでしたが、ゆりの美しさにはかないませんでした。そのことを踏まえて、イエスは、「あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたにはどんなによくしてくださるでしょう」(28節)と言われました。からだを装うことは、栄誉を大切にすることにつながりますが、私たちを真の栄誉で包んでくださるのは私たちの努力以前に、神の恵みです。事実、この肉体は死とともに朽ちますが、神は朽ちたからだをも復活させ、栄光のからだへと造りかえてくださいます。その意味で、このからだを美しく装ってくださるのも、神のみわざなのです。しかし、神に背いた者たちのしかばねに関しては、「そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に忌みきらわれる」という状態が待っています(イザヤ66:22)。つまり、いのちとからだの源である神を忘れてしまっては、すべてを失うのです。
その上で、イエスは、「ああ、信仰の薄い人たち」と述べます。多くの人々は、「信仰」を、「将来の可能性を信じる」という意味で使うことが多いかも知れませんが、「今、ここ (here&now)」で働いておられる神に目を向けさせることこそが、「信仰」の本質なのです。つまり、私たちは「信仰」によって、今、自分が生きていること自体、この世界が保たれていること自体が神のみわざであると認めるのです。信仰こそが、たましいを養い、美しく保つ秘訣です。
そして、「何を食べたらよいか、何を飲んだら良いか、と捜し求めること」(29節)が、「気をもむ」というひとことでまとめられます。それは、地に足がついてない「希望と恐れの間で揺れている」ような心の状態です。私たちの心も、誉められると舞い上がり、けなされると落ち込むということがあります。それは、「風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようで・・・すべてに安定を欠いた」(ヤコブ1:6,8)状態とも言われます。そのような心は、「この世の異邦人」(30節)、つまり、神を知らない人の心の状態と同じであり、「何のために信じているか分らない・・」とさえ言えましょう。
ただし、「信仰を強くすれば、より多くの恵みを受け取ることができる。」という発想は、自分の頭を自分で引っ張って身長を伸ばそうとするような空回りの原因にもなります。あなたの信仰を成長させるためにイエスがここで命じておられることは、力を抜いて野原を歩きながら「カラスのこと、ゆりの花のことを考えてみる」ことです。神のさばきは、あなたの欠点や数々の人間的な過ちに向けられるものではなく、神の恵みを忘れた恩知らずな生き方に下されるものです。信仰の出発点は、神からの一方的な恵みを、ただ思い起こすという受身の姿勢にあります。
3.「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」
「しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい」(30,31節)とは、既にイエスの弟子とされた者への語りかけです。彼らはイエスの父を、信頼を込めて「父」(アバ)と呼ぶことが許され、神の愛に満ちた保護の中に入れられています。「神の国」とはすでに実現し、完成に向っている「神のご支配」を意味します。それを「求める」とは、「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求める」というときと同じ言葉で、基本的な意味は、「見つけるために捜す」です。つまり、「神の国を(捜し)求める」とは、「神から課せられた義務を果たすことに心を集中せよ」というような意味ではなく、すでにある神のみわざに思いを向け、また同時に、これから実現する神の救いのご計画に思いを馳せることでもあります。そして、「そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」(31節)とは、食べ物や飲み物は、神の国の付属品として与えられるという約束です。世の多くの人は、「富や名誉を手にする手段として神を信仰する・・」と思いますが、それは本末転倒です。地上の宝は、あくまで付録であって、本体は、神との生きた交わりを体験することです。ただ、「私のような信仰の薄い者は・・・」と心配する人を励ますために、イエスは、「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたに御国をお与えになる・・」(32節)と保証してくださいました。
その上で、イエスは、「持ち物を売って、施しをしなさい・・・朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」(33節)と言われました。これは、施しや献金によって神の国に入れていただけるという意味では決してなく、愚かな金持ちが自分のたましいを目に見える財産で養おうとしたような落とし穴にはまらないための知恵です。つまり、地上に財産を蓄えようとすることに心が向えば向かうほど、天の父からの恵みが見えなくなるという心の現実を教えたものです。「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」(34節)とは、極めて現実的な教えです。たとえば、多くの人々は、「ゆとりができたら、人を助けたい・・」などと思いますが、そのように考える人は、いつまでたっても「ゆとりのない自分」にばかり目が向きます。そして、心の目が自分に向えば向かうほど、かえって、「気をもみ、悩む」ということが多くなります。そして、そうなるとますます、余裕がなくなるという悪循環に陥ります。
「神の国」に入れていただくために献金をし、また人助けをするという発想は間違っています。しかし、献金もせず、また誰かの役にたつ行いをすることもないままで、神の国の豊かさを味わうことができる人がいないことも事実ではないでしょうか。ですから、献金は「恵みのわざ」(Ⅱコリント8:7)と呼ばれています。それによって私たちの目は、天に向けられるからです。どこかで心を決め、自分の持ち物を手放すという一歩を踏み込む必要があります。
あなたは自分のたましいを何で装うのでしょうか。それは富でも名誉でもなく、神ご自身の愛を味わうことによってです。昔の聖餐式の賛美歌に、「装いせよ。いとしきたましいよ」というのがあります。それは私たちのたましいは、この世の財産や成功によってではなく、目に見えない神によって初めて美しくされるからです。聖餐式はたましいを飾っていただく機会です。そして、神の前でなされるすべての良い行いは、「神の恵み」を獲得する手段ではなく、味わうための道です。神に生かされているという感謝は、神に仕える中でこそ味わうことができるからです。
ルカ6章20-26節 「平地の説教」 イエスは 目を上げて 弟子たちを見つめながら、話しだされた。 「貧しい者は 幸いです。 神の国はあなたがたのものだから。 いま 飢えている者は 幸いです。 やがてあなたがたは満ち足りるから。 いま 泣く者は 幸いです。 やがてあなたがたは笑うから。 人の子のため、 人々があなたがたを憎むとき、 あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、 あなたがたは 幸いです。 その日には 喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。 天では あなたがたの報いは大きいから。 彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。 しかし、あなたがた富む者は 哀れです。 慰めをすでに受けているから。 いま 食べ飽きているあなたがたは 哀れです。 やがて飢えるようになるから。 いま 笑うあなたがたは 哀れです。 やがて悲しみ泣くようになるから。 みなの人が ほめるとき、 あなたがたは 哀れです。 彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに 同じことをしたのです。
「からっぽ」 マザー・テレサ 神は いっぱいのものを 満たすことはできません。 神は 空っぽのものだけを 満たすことができるのです。 本当の貧しさを、 神は 満たすことができるのです。 イエスの呼びかけに 「はい」と 答えることは、 空っぽであること、あるいは 空っぽになることの 始まりです。 与えるために どれだけ持っているかではなく、どれだけ空っぽかが 問題なのです。 そうすることで、私たちは人生において 十分に受け取ることができ、 私たちの中で イエスがご自分の人生を 生きられるようになるのです。 今日イエスは、あなたを通して 御父への完全な従順を もう一度生きたいのです。 そうさせてあげてください。 あなたがどう感じるかではなく、あなたの中で イエスがどう感じているかが 問題なのです。 自我から目を離し、あなたが 何も持っていないことを 喜びなさい。 あなたが何者でもないことを、そして 何もできないことを 喜びなさい。