2006年11月26日
詩篇18篇
指揮者のために。主(ヤハウェ)のしもべダビデが、主 (ヤハウェ) に向ってこの歌のことばを語った。主が彼のすべての敵の手とサウルの手から彼を救い出された日に、彼はこう言った。
主 (ヤハウェ) 、私の力よ。あなたを私は慕う。 (1)
主 (ヤハウェ) は、私の大岩、砦(とりで)、救い主、 (2)
私の神、身を避ける岩、盾、救いの角、砦の塔(とう)。
このように誉むべき方、主 (ヤハウェ) を呼び求めると、私は敵から救われる。 (3)
死の綱が私にからみつき、滅びの川は恐怖をもたらし、 (4)
よみの綱は取り囲み、死のわなが迫ってきた。 (5)
その苦しみの中で、主 (ヤハウェ) を、私の神を呼び、助けを求めた。 (6)
主はその宮でこの声を聞かれ、叫びは御前に、御(おん)耳に届いた。
すると地は揺れ動き、山々の基(もとい)も震え揺れた。主がお怒りになったのだ。 (7)
煙は鼻から立ち上り、御口からの火が焼き尽くし、炭火が燃え上がった。 (8)
主は、天を曲げ、降りて来られた。 (9)
暗やみを足台として。
ケルブに乗って飛び、 (10)
風の翼に乗って飛びかけられ、
やみを隠れ家としてめぐらし、 (11)
暗い雨雲、濃い雲を仮住まいとされる。
御前の(栄光の)輝きから、
蜜雲が雹(ひょう)と火の炭を伴って突き進む。 (12)
主 (ヤハウェ) は天に雷鳴を響かせ、 (13)
いと高き方は、雹(ひょう)と火の炭を伴い御声を発せられた。
主は、矢を放ち、彼らを激しい稲妻でかき乱された。 (14)
主 (ヤハウェ) の叱責、鼻の激しい息吹で、水の底が現れ、地の基があらわにされた。 (15)
主は、はるかに高い所から御手を伸べて私をつかみ、 (16)
深い大水の中から引き上げ、
強い敵と私を憎む者から、救い出してくださった。 (17)
彼らは、私には強過ぎたから。
彼らは、災いの日に私に立ち向かって来た。 (18)
しかし、主 (ヤハウェ) は、私の支えであった。
主は私を広い所に連れ出し、助けてくださった。 (19)
それは、主が私を喜びとされたから。
主 (ヤハウェ) は、私の義に応じて報い、 (20)
手のきよさに応じて返してくださった。
それは、私が主 (ヤハウェ) の道を守り、 (21)
私の神に対し悪を行わなかったから。
主のすべてのさばきは私の前にあり、 (22)
主のおきてを私は遠ざけなかった。
私は主の前に完全であり、 (23)
罪から身を守った。
主 (ヤハウェ) は、私の義に応じて、 (24)
御(おん)目の前の私の手のきよさに応じて、返してくださった。
あなたは、真実な者には真実であられ、完全な者には完全であられ、 (25)
きよい者にはきよく、ひねた者にはご自身を隠される。 (26)
あなたは、貧しい民を救ってくださるが、 (27)
高ぶる目は、低くされる。
あなたは私の灯火(ともしび)を灯され、 (28)
主 (ヤハウェ) 、私の神は、私のやみを光とされる。
あなたによって私は軍勢に立ち向って走り、 (29)
私の神によって城壁を飛び越える。
神の道は完全、主 (ヤハウェ) のみことばは純粋。 (30)
主は、主に身を避けるすべての者の盾。
まことに、主 (ヤハウェ) のほかに、だれが神であろうか。 (31)
私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
神こそ、私に力を帯びさせ、私の道を完全にし、 (32)
私の足を雌鹿(めじか)のようにして高い所に立たせ、 (33)
戦いのために私の手を鍛(きた)え、 (34)
私の腕を青銅の弓をも引けるようにしてくださる。
あなたは救いの盾を私に授け、右の御手で私を支え、 (35)
私を大きくするために低くなってくださった。
あなたは私の歩幅を広くしてくださった。 (36)
私のくるぶしはよろけず、
私は敵を追って捕らえ、絶ち滅ぼすまでは引き返さず、 (37)
彼らが立てないほどに打ち砕き、足もとに倒れさせた。 (38)
あなたは私に戦いのための力を帯びさせ、立ち向かう者をひれ伏させ、 (39)
敵が私に背を向けるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼした。 (40)
彼らが叫んでも救う者はなく、 (41)
主 (ヤハウェ) に叫んでも、答えはなかった。
私は、彼らを風の前のちりのように打ち、 (42)
道のどろのように除き去った。
あなたは、民の攻撃から私を助け出し、国々のかしらに任じてくださった。 (43)
私の知らなかった民が私に仕える。
彼らは耳で聞くとすぐ私に聞き従い、外国人らは私にへつらう。 (44)
外国人らは気力を失い、砦から震えて出て来る。 (45)
主 (ヤハウェ) は、生きておられる。 (46)
私の岩が誉められ、私の救いの神があがめられるように。
神は、私のために復讐し、諸国の民を私のもとに従わせ、 (47)
敵から助け出し、攻め来る者より高く上げ、暴虐から私を救い出してくださる。 (48)
それゆえ、国々の中で私はあなたをほめたたえ、 (49)
主 (ヤハウェ) よ、御名を、ほめ歌う。
主は、王の勝利を大きくし、 (50)
油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに真実を示してくださる。
2006年 高橋秀典訳
注:
23,25節の「完全」は、この世的な完全さとは異なるが、原文のもっとも直接的な訳語として採用した。
25節の「真実」とはヘブル語の「ヘセッド」に対応し、「恵み」とか「慈しみ」とも訳されるが、本来持っている契約を守り続ける愛を表現するためにこのように訳した。
26節の原文は、「ひねた(曲がった)者は、曲がりくねらせる」だが、その前の三つの対応と異なり、似た意味の異なったことばを対応させている。それで、ここでは「ご自身を隠される」と意訳してみた。
私たちは聖書の教えをこの世を超越したきれいごとにしてしまうことがないでしょうか。天国への希望を語り合うことは何よりも大切ですが、それがこの世へのあきらめとなり、人から不当な仕打ちを受けながらも、その痛みを心から神に訴えることができなくなるとしたら残念です。主はあなたの現実の中に降りてきてくださったのですから。
1.「主は、天を曲げ、降りて来られた」
この詩篇の標題は異例に長いもので、同じ歌はⅡサムエル22章にもあり、ダビデの生涯の総まとめ的な意味があることが分ります。彼はサウル王に命を狙われ、同胞のユダ族からも裏切られ、明日の命が分らない緊張の中に長い間、放置されました。そのような中で彼は最初に、「あなたを私は慕う。主 (ヤハウェ) 、私の力よ。(英語ではしばしば、I love You, O Lord, my strength と訳される」(1節) と歌います。そして、主こそが自分を強力な敵の攻撃から守ってくださることを様々なことばで表現します (2、3節)。そこには、彼が岩山や洞窟などに身を隠し続けてきた体験を垣間見ることができます。あなたの生活の中では、主の守りは、どのようなことばで表現できるでしょうか。
ダビデは死と隣り合わせに生きる恐怖の中で、主 (ヤハウェ) の救いを必死に求めます (6節)。そして、その叫びが天の主の宮に届いたとき、主はダビデの敵に対して地と山々を震わせるほどの「怒り」を発せられます (7節)。その激しさが擬人的に、鼻からの煙、口からの火と表現されます (8節)。このとき主は、「わたしの愛するダビデに向って、何ということをするのか!」と怒っておられるかのようです。それは、主がダビデの味方となっておられるからです。
そればかりか、天の上に座しておられる主が、この世界のただ中に、「降りて来られた」(9節) というのです。主の栄光は「真っ黒な雲」(出エジプト14:20) で現され、主がシナイ山に降りてこられたときには全山が火山になったように激しく震えましたが、主が近づいてこられるとき、人間の理解を超えた暗黒と輝き、雹と火の炭という相反する現象が同時に迫ってきます (11、12節)。そして、矢と稲妻による攻撃は、ダビデの敵の側に向けられます (14節)。そこには、主が、イスラエルのためにエジプト軍を海の底に沈めたことを思い起こさせる表現が用いられます (15節)。
多くの人々は、「神のさばき」を自分に向けられるものと考えがちです。しかし、イエスが不正な裁判官のたとえで教えておられることは (ルカ18:1-7)、社会的弱者であるひとりのやもめが、「私の相手をさばいて、私を守ってください」とひっきりなしに訴えるなら、「人を人とも思わない裁判官」であっても彼女を守るためにさばきを下すということでした。そして、それをもとイエスは、「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」と、祈る者への神の救いを保証されたのです。
私たちの住む世界には、今も昔も、権力者の横暴があり、様々な理不尽が蔓延してはいないでしょうか。そして、あなたが切羽詰ったとき、初めに誰に助けを求めるのでしょう?昔、私が会社を辞めようとしたとき同じ大学の出世頭の先輩が私を心配して訪ね、「誰か君に理不尽なことをする上司がいるのか?」と私から聞きだそうとしてくれました。伝道者になりたいなどということが理解できなかったからです。それにしても、私はそのとき、嬉しさと同時に恐ろしさを感じました。私の先輩はさばきをつける力を持っていましたが、それを通して親分子分の関係が強められることが分かっていたからです。私の先輩は公正な人でしたが、とんでもない親分に従って不正の片棒を担がされてしまう人がいるかも知れません。全能の神にまず訴え、神が遣わしてくださる人を見定めるべきでしょう。
私たちも、「苦しみの中で、主 (ヤハウェ) を、私の神を呼び、助けを求め」(6節) ます。すると、「主は、天を曲げ、降りて来られる」のです (9節)。私たちの救い主イエスこそは、この世界の人々の叫びに応えて、天を曲げて降りてこられた方でした。しかし、そのとき救い主は、栄光の雲に包まれて降りてこられたのではなく、ひ弱な赤ちゃんとして処女マリヤから生まれてくださいました。それは罪人たちに対するさばきを遅らせるためでした。そればかりか、イエス・キリストご自身がこの世の権力者による不当なさばきを受け、父なる神に助けを求める立場になってくださいました。そして、イエスの十字架の死の苦しみからの叫びは父なる神に届き、彼は死の中から三日目によみがえったのです。イエスの復活こそは、この世のすべての理不尽な苦しみへの出口を指し示すものです。
2.「主は私を広いところに連れ出し……」
主の救いは、「はるかに高い所から御手を伸べて私をつかみ、深い大水の中から引き上げる」(16節) と表現されます。「大水」とは、敵対するこの世の力の比喩ですが、「彼らは私には強すぎ」るからこそ (17節)、主は無力な私たちを引き上げ、激しい迫害の中でも支えてくださいます (18節)。そしてそれらをまとめて、「主は私を広い所に連れ出し、助けてくださった」(19節) と表現されます。それはダビデにとって、洞窟に隠れる生活から、広い緑の野を自由に歩き回ることができるようになることでした。同じように私たちも、敵の攻撃から身を隠す必要のない自由の中に置いていただけます。そして、そのように主が私を特別に扱ってくださる理由が、「それは、主が私を喜びとされたから」(19節) と表現されます。これは「気に入る」とも訳されることばです。確かにダビデには驚くほどの心の素直さがありましたから気に入られて当然かもしれません。しかし、キリストにつながる私たちに対しても、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5) と言われています。神の御霊によってイエスを主と告白している人はすべて、「神のお気に入り」なのです。そのことを前提にパウロはローマ人への手紙で、「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31) と大胆に語っています。
それにしても「主は、私の義に応じて報い、手のきよさに応じて返してくださった……私は主の前に完全であり、罪から身を守った」(20-24節) という告白は大胆です。これは特に、ダビデが二回もサウルの命を奪うことができる好機をつかみながら、彼を「主に油注がれた方」と呼んで、手を下さなかったことを指すと思われます (Ⅰサムエル24章、26章)。そのときダビデは、「主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます」(同26:23) と言って、主のさばきに委ねました。ただ、この後、彼がペリシテにまで逃亡せざるを得なかったことを考えると、これは損な選択でしたが、神はそれをあり余る形で「返してくださった」のです (24節)。それを前提に彼は、「あなたは真実な者には、真実あられ、完全な者には完全であられ」(25節) と告白します。とにかく彼は、神の前に何よりも真実であろうとしました。しかも主は、「ひねた者にはご自身を隠される」(26節) のですから、正直さこそ祝福の鍵でした。
ところで、「完全」とは、いけにえとして神に受け入れられるような状態を指し、この世が期待する完全とは異なります。「神へのいけにえは、砕かれた霊、砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17) とあるように、自分が神の助けなしには生きてゆけないという「弱さ」を自覚する心こそが「完全」です。ダビデは数々の過ちも犯しました。しかし、神に対する彼のまっすぐさを、神は喜んでくださったのです。そして、今、あなたも自分はイエスの十字架の赦しなしには受け入れられない罪人であるということを意識しているという意味で、「神のお気に入り」になっているのです。
今あなたに問われていることは、「主が私を喜びとされた」という「愛」に応答して生きることです。あなたは、愛する人のために贈り物を選ぼうとするとき、愛する人の笑顔を思い浮かべながら、いろいろと迷いつつ思いを巡らすことでしょう。パウロは、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれること」(Ⅱコリント5:9) と言いました。「神のお気に入り」とされているという誇りを持ちながら、何をすることが主に喜ばれることかを思い巡らすべきでしょう。
3.「あなたは、私を大きくするために、低くなってくださいました」
神は私たちを造り変え、「私の灯火を灯し、私の闇を光と」(28節) され、「世界の光」としてくださいます。そればかりか、「私の足を雌鹿のようにして高い所に立たせ」、「戦いのために私の手を鍛えて」くださいます (33、34節)。それで、私たちは、敵の前から軽やかに逃げることも、また反対に、愛する人を守るために命を賭けて戦うこともできます。パウロは、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなこともできるのです」(ピリピ4:13) と告白しました。
「あなたは……私を大きくするために低くなってくださいました」(35節)、または「あなたの謙遜は、私を大きくされます」(同新改訳) とは、「主は、天を曲げ、降りて来られた」(9節) ことを指します。誤った謙遜によって、主があなたを「大きく」用いてくださることを忘れてはなりません。神の御子が、ご自身を貧しくしてこの地に降りて来られたことの目的は、あなたをご自身の代理大使として整えて世に遣わし、神の平和をこの地に実現するためです。そして、「あなたは私の歩幅を広くされました」(36節) での「広く」とは、19節の「広い所」と同じ語源の言葉です。神があなたを「広い所」に連れ出されるのは、「広い歩幅」で歩かせ、働きを全うさせるためです。37-40節の残酷な表現は、キリストが罪人のためいのちを捨てられた現在には適用できませんが、中心的な意味は、神から与えられた使命を中途半端に終わらせないということです。また、サタンとの戦いにおける妥協を戒めたものとも理解できます。神はあなたの「歩幅を広くして」くださったのですから、「私なんかどうせ……」という発想から自由になりたいものです。
「彼らが叫んでも救う者はなく、主 (ヤハウェ) に叫んでも答えはなかった」(41節) とは、サウルの悲劇を表わしています。彼は主の沈黙に耐えられなくなって霊媒師の助けまで求めて、自滅して行きました。一方、神に助けを求め続けたダビデは「国々のかしらに任ぜられ」(43節)、異教徒をもひざまずかせる権威を授けられました。そして主は私たちそれぞれをダビデの子孫とし、キリストとともにこの地を支配する王と定め、「御使いたちをもさばくべき者」(Ⅰコリント6:3) としての権威を約束してくださいました。あなたはそれを理解しているでしょうか。自分を小さく見すぎることは、あなたを選び、あなたをこの世に派遣しておられるイエス・キリストに失礼な態度でもあるのです。
「主 (ヤハウェ) は生きておられる」(46節) という告白を、ダビデがもっとも印象的に語っているのは、サウルを槍でひとさしにしようとしたアビシャイをとどめたときです (Ⅰサムエル26:10)。このときダビデはこのことばに続いて、「主 (ヤハウェ) は、必ず彼を打たれる」と、自分が手を下さなくても、主が彼をさばいてくださると言いました。そして、これはあなたがこの世界で様々な矛盾の中に生かされ、神のご支配を疑わざるをえないようなときに、必死に神に向かって祈るなら、あなたが生かされている場で、生きて働いておられる神を体験することができるという約束でもあります。
この詩篇18篇は、出エジプト記からサムエル記に至る神の救いのストーリーを劇的に要約したものです。神の救いとは、あなたの日常生活のただ中で体験できるものです。あなたの目の前には、様々な不条理が横たわっているかもしれません。そのとき、「神がおられるなら、どうして……」と問うのではなく、「全能の神に呼び求めることを知らないで、どうして私はこの世の悪に染まらずに生きることができようか?」と問い直してみてはいかがでしょう。