2006年11月19日
原文から再翻訳した詩篇です。リズムと訳語の組みあわせ、並行法に気をつけました。本来このふたつの詩篇はセットになったものだったと思われます。詩篇2篇はヘンデル作オラトリオ「メサイア」のハレルヤコーラスの前の四曲で歌われています。まさに聖書の核心を歌ったものです。
詩篇1篇、2篇
幸いな人よ! (1:1)
悪者の勧めを歩まず
罪人の道に立たず
おごる者の座に着かず
むしろ 主 (ヤハウェ) の教え (トーラー) を 喜びとし (2)
昼も夜もその教え (トーラー) を 思い巡らす
その人は 流れのほとりに植わった木のように (3)
時が来ると実を結び
その葉は枯れない
行なうすべてが 繁栄をもたらす
悪者はそうではない (4)
彼らは 風が飛ばす もみがら
悪者は さばきの前に 立ちおおせない (5)
罪人も 正しい者の 集いには
主 (ヤハウェ) は 正しい者の道を 知っておられる (6)
しかし、悪者の道は滅びる
なぜ国々は たくらみ (2:1)
人々は むなしく 思い巡らし
地の王たちは 立ち構え (2)
支配者たちは 結束して
主 (ヤハウェ) と 油注がれた者(メシヤ)に逆らうのか?
「さあ かせを砕き 縄を 切り捨てよう!」と (3)
天に座す方はそれを笑う (4)
主 (アドナイ) は彼らをあざけり
燃える怒りでおののかせ (5)
怒りをもって 彼らに語る
「わたしは わたしの王を聖なる山シオンに 立てた」 (6)
主 (ヤハウェ) の制定(布告)を 宣べよう (7)
主(彼)は私に言われた
「あなたは わたしの子
わたしは きょう あなたを(新しく)生んだ
わたしに求めよ (8)
国々を あなたに受け継がせ
地の果てまで あなたのものとする
あなたは鉄の杖で彼らを打ち (9)
焼き物のように粉々にする」
それゆえ今 王たちよ 悟れ (10)
地の支配者は 教えを受けよ
恐れつつ 主 (ヤハウェ) に仕え (11)
おののきつつ 喜べ
御子に口づけせよ (12)
怒りを招き その道で 滅びないために
怒りは 今にも燃えようとしている
幸いなことよ すべて彼に身を避ける者は
2006年 高橋訳
サラリーマン時代、「主の教えを喜ぶ人は……何をしても栄える」というみことばが、仕事の成功と結びついて嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、その詩篇1篇があまりにも楽天的に見えてきました。ところが、2篇とセットで読むようになったとき、その意味が納得できました。ここに聖書の初めと終わりの要約があります。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。
1.「主 (ヤハウェ) は正しい者の道を知っておられる」
この詩篇は突然、「幸いな人よ」ということばから始まり、その生き方が2節までひとまとまりに描かれます。人間とは人の間で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。ですから、まず三つの否定形で、「幸いな人」は、神に敵対する者との交わりと一線を画していると描かれます。それとの対比で、「その人は、主 (ヤハウェ) の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを、思い巡らしている(口ずさむ)」と、何よりも、聖書を神のみことばと信じるこの神の民の交わりの中に生きる人こそが幸いであると言われます。なお、「教え」とは原文では「トーラー」ですが、これは新約では「律法」と訳され、狭い意味ではモーセ五書を指しています。ある先輩の牧師が、今回の私の本に関し、「僕は以前、主の教え(律法)は蜂蜜のように甘く、それを喜ぶことができるという表現に違和感を覚えていたことがあった。だから、このような本が出版されたことを本当に嬉しく思う」と励ましてくださいました。なおこれに関し、主 (ヤハウェ) はモーセの後継者ヨシュアに、「この律法 (トーラ) の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」(ヨシュア1:8) と語られました。
その同じ「繁栄」ということばを用い、「その人は……行うすべてが繁栄をもたらす」(3節) と断言され、その様子が、「流れのほとりに植わった木」にたとえられます。後の預言者エレミヤは、「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる」(エレミヤ17:7、8) と表現しています。
しかし、彼は同時に、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる」(17:9、10) とも記しています。つまり、人はそれぞれの心の内側を見るなら、自分で自分を変えようとしても変えられない絶望的な状態にあり、神の最終的なさばきに耐えられないというのです。そのことが、ここでは、「悪者はそうではない……」(4節) と表現されます。「悪者」とは「創造主を恐れず、礼拝しない者」という意味で、反対に、「正しい者」とは、この世で尊敬されている人というより、「創造主を恐れる者」、また自分の罪深さを自覚し主にすがるすべてのキリスト者を指しています。確かにこの世の中には、本当に人間として尊敬できる「悪者」が多くいます。しかし、自分の力、自分の正しさにより頼んだ生き方は、「風がとばすもみがら」のように、はかないものだというのです。そして、「主の教えを喜びとし、思い巡らす」者は、心の内側から変えられ、さばきの日に、その違いは歴然として表されます。
ところで、「滅びる」でひとつの詩が終わるのは異例です。著者が強調したいのは何よりも、「主 (ヤハウェ) は、正しい者の道を知っておられる」という点で、それこそが詩篇2篇に展開されていると考えられます。この世の人生のむなしさは何より、「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きする」(伝道者7:15) という不条理にあります。そこにサタンがつけこみ不敬虔な生き方を刺激します。しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれるのです。 がナイアガラの滝を見ていると、あるアメリカ人が「このような偉大な滝があなたの国にあるか」と聞いたので、彼はすかさず、「これは私の父のものです」と答えたとのことです。私たちの幸いは、そのような創造主を「私の父」と呼ぶことができること自体の中にあります。
2.「わたしは、わたしの王を……立てた」
2篇の初めの、「なぜ、国々はたくらみ……主 (ヤハウェ) とメシヤに逆らうのか」は、使徒4:25ではダビデが千年後の救い主とその教会に対する迫害のことを預言的に記したものとして描かれます。また1-4節と9節はヘンデル作のオラトリオ「メサイア」で美しく歌われ、終わりの時代に生きるすべての者への力に満ちた慰めとなっています。
この世では、「神の民」は少数派に過ぎず、神に逆らう者たちの力の方が圧倒的に強く感じられます。そのような現実の中で、「人々は、むなしく思い巡らす」(2:1) というのです。これは「つぶやく」とも訳され、原文では「主の教えを思い巡らす」(2節) というときのことばと同じです。私たちは聖書にある神の救いのストーリーを思い巡らす代わりに、この世の不条理ばかりに目を留めて、「神がおられるなら、なぜ……」とつぶやいてしまいます。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」は、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあります。しかし、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほどノー天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのか、実はそれこそが私たちが問うべき「なぜ?」でしょう。
聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神のご計画であったと知ることができ、また私たちの人生も、この世にあっては様々な試練に満ちていると知ることができます。神の敵は、サタンに踊らされているだけです。彼らは隠された霊的な現実を見ることができないからこそ神に反抗できるのです。
なおこの世の弱者が陥る過ちもあります。それは、「神の国(支配)」の民として生きることを、単に束縛ととらえ、創造主を否定した生き方に自由があると思い込むことです。しかし、彼らは自分の欲望の奴隷になっているだけです。人はみな視野が狭く、自己中心的ですから、互いの利害が対立し、ある人の成功が、ある人の失敗につながるということがあり、それを調整する権威がなければ争いに満ちた無政府状態に陥ります。ですから、使徒パウロも、あの悪名高いローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ13:1) と言っています。つまり、この世の権威を尊重することでこの地の平和が保たれますから、権威のみなもとに立ち返る必要があります。そして、神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです (2:4)。ですからここでは、「ヤハウェ」という御名の代わりに、「主人」を意味する「アドナイ」と呼びかえられています。
そして主は、ご自身のときに新しい権力者を立てられます。それは、直接的にはダビデの戴冠の時として、主 (ヤハウェ) が、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(2:6) と言われます。ダビデはサウルに命を狙われ、逃亡していたことを思い起こしながら、このみことばを喜んでいたのではないでしょうか。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者が誰なのかを忘れてはなりません。
3.「御子に口づけせよ」
そして、主 (ヤハウェ) はこの世界に対し「布告」を発せられます。それは、ダビデ王国の支配が全世界に広がることを意味しました。ただ現実には、彼の支配地は約束の地カナンに限られていましたから、その完全な成就は、「ダビデの子」としての救い主の出現を待つ必要がありました。イエスのバプテスマのとき、天からの声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と響いたのは、この預言の成就でした。また、「わたしは、きょう、あなたを生んだ」とは、「神はイエスをよみがえらせた」ことを指しますが (使徒13:33)、私たちも、イエスに結びついていることで、「あなたは、わたしの愛する子」と呼ばれ、「新しく生まれ」ているのです。そして、これはイエスが父なる神の右の座に着かれたことをも指しています (ヘブル1:3、5:5)。また、イエスが十字架にかけられるのが決定的になったのは、ご自分が全世界を治める王として、「天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになる」(マタイ26:64) と言われたからでしたが、そのことがここでは「地の果てまであなたのものとする」(8節)と歌われています。
また、「鉄の杖で……」(9節) は、黙示録で三回にも渡って (2:27、12:5、19:15)、再臨のキリストが力を持ってこの地を治めることとして引用されています。救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣をもって神の敵を滅ぼすために来られるからです。つまり、ここにはキリストの誕生から再臨までが合わさって預言されています。そしてここには、今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるという霊的な現実があります (黙示11:15、19:16)。ですから、ヘンデルのハレルヤコーラスは、この詩篇2篇から導かれる必然的な帰結です。私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった 先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤコーラスを歌って欲しいと切に願われ、今から11年前の最も悲しいときに、私たちは、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。
「御子に口づけせよ」(12節) とは、キリストに臣下としての礼をとることを意味します。そうでないと私たちは悪者どもとともに神の怒りを受け、滅ぼされます。そして、最後に、「幸いなことよ」と繰り返され、御子に身を避ける者の幸いが強調されます。イエスは、あなたの罪を担って十字架にかかってくださったからです。
私たちキリストにつながる者は、「キリストとともに……王となり」(黙示20:4) また「永遠に王となり」(同22:5)、そして「世界をさばく」(Ⅰコリント6:2) と保証されています。ですから、私たちはあらゆる「苦しみ、迫害、飢え、危険」に囲まれながらも、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ8:37) とされているのです。
私たちの人生がどんなに厚い雲に覆われているように思えても、その上には太陽が輝いています。キリストに従う者は、この世界を平面的にではなく立体的に見ることができます。人は、自分の過去の苦しみをまったく違った観点から見られることがあります。それと同じように、私たちは、キリストの復活と再臨という霊的な枠からこの世界の現実を見るときに、「自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っている」(Ⅰコリント15:58) と言うことができます。そして、その意味で、「主の教えを喜びとする」者は確かに、「行なうすべてが繁栄をもたらす」と断言することができ、「主の教えを喜びとし……思い巡らす」者は、永遠に「幸いな人」と呼ぶことができるのです。