ルカ11章1〜13節「主が教えてくださった祈り」

2006年8月13日

「主の祈り」は、マタイ6:9-13を教会の礼拝で用いられるのが普通ですが、イエスはここでそれを、より簡略化し、強調点を変えた祈りも教えてくださっています。私は昔、マタイでの主の祈りの直前に、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(6:8)と記されていることを誤解し、自分にとっての必要を必死に願うことの意味がよく分らなくなったことがあります。ルカはまるでそのような誤解を正すかのように、「主の祈り」の直後に、あつかましく頼み続けるような祈りの姿勢の重要性を教えています。一見、正反対のことを語っているようでありながら、私たちの目を、この地上のすべてを支配する「天の父」(11:13)に向けさせるという点で一致します。ここでは、マタイによる「主の祈り」と比べながら、イエスが教えてくださった祈りの本質に迫ってみましょう。

マタイでの「主の祈り」は、ユダヤ人の宗教指導者の偽善の祈りや異邦人のご利益宗教の祈りとの対比で、みこころにかなった祈りを弟子たちに教えるのが趣旨でした。ここでは、「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子たちのひとりが・・・『私たちにも祈りを教えてください』」と言った、という背景が記されています。それは、ヨハネが弟子たちに教えたのと同じように、イエスが私たちと同じ人間として天の父に祈られた一端を垣間見せていただくものでした。イエスはここで私たちにとっての「兄」のようになりながら、「祈るときには、こう言いなさい」(11:2)と手取り足取り教えてくださいました。

「父よ」とは、イエスがアラム語で父なる神を「アバ」と呼ばれたギリシャ語訳です。この書でのゲッセマネの祈りでは、「父よ。みこころならば、この杯を・・取りのけてください・・・わたしの願いではなく、みこころのとおりに・・」(22:42)と記されているものが、マルコでは「アバ、父よ・・」(14:36)と原文の響きを残しています。「アバ」とは、当時の幼児が「パパ!」と抱きつくときばかりか、父の権威に服従するときの呼びかけでもありました。日本語で、「お父ちゃん」と、「父上」の両方のニュアンスが込められたことばです。

この簡潔さに、福音の核心が込められています。私たちはイエスの父なる神、この世界の究極の支配者に向って、イエスが呼びかけたと同じ「アバ!」と呼びかけることが許されています。そこには信頼に満ちた自由な服従が生まれます。パウロは、かつて神の律法を誤解し、恐怖に駆り立てられながら不自由だったことを振り返り、福音の喜びを、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」(ローマ8:15)と述べました。私たちも、主の祈りを、「アバ!」というひとことで始めてはいかがでしょう。

「御名があがめられますように」とは、厳密には「あなたのお名前が聖とされますように」という祈りです。罪の根本は、「神を神としてあがめず、感謝もせず・・神を侮る」ことです(ローマ1:21、2:23)。人がエデンの園の祝福を失った原因は、神の愛に満ちた命令を、意地悪と受け止めたことに始まります。続くイスラエルも自分たちの神を聖とする代わりに、富と快楽を約束するバアルにすがって破滅しました。それに対し、主は預言者エゼキエルを通し、「わたしが事を行なうのは・・・あなたがたが汚したわたしの聖なる名のためである」と、ご自身の救いの「動機」を示しつつ、またその目的も、「わたしの偉大な名の聖なることを示す」ためであると語ります(36:22,23)。そして、それを可能にするために、主は「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたに新しい霊を授ける」と約束されました(同36:26)。この世の苦しみは、神の御名が汚されたことから始まりました。そしてこの世界の救いとは、主の御名が私たちひとりひとりの心の中で、またこの私たちの交わりの中で「聖」とされることの中に実現します。そのために御霊が与えられました。

「御国が来ますように」とは、この世界が神の平和(シャローム)に満たされる完成を望むばかりか、「神の国(ご支配)」が今ここに現されるための祈りでもあります。イエスは、弟子たちに「神の国が、あなたがたに近づいた」(10:9)と言いなさいと命じました。イエスが悪霊を追い出し、病気を直されたのは、神の国が到来したというしるしでした。そればかりか、イエスは弟子たちを用いて同じことを行わせ、神の国を広げておられました。ですから、この祈りには、私たちがこの世界に「地の塩」「世の光」として遣わされることも込められています。マタイでは、これを補足するように、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈るように命じられています。神がこの世界の真の王として認められるなら、その御意思は王のしもべによってそのまま実現することでしょう。それをもとに、イエスは後で、「神の国はいつ来るのか」と尋ねられたとき、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」と言われたのです(17:20,21)。

続く祈りは原文で、「パンを、私たちの日毎の必要を、毎日与え続けてください」というものです。マタイでは「今日もください」という切実さを強調する一方で、ここでは、「毎日与え続けてください」という継続性が強調されています。それはルカでは、「あきらめないで祈り続ける」ことがテーマだからです。共通するのは、自分ひとりのあり余る食物ではなく、「私たち」という共同体に目を留めた上で、その今日の必要が、日々、主によって満たされるようにとの願いです。貪欲こそあらゆる争いの原因だからです。

「私たちの罪をお赦しください」とは、マタイで「負い目」と記されたことばが、「罪」と表現されます。両者とも、神との関係を隔てさせてしまうもので、意味に違いはありません。マタイでは、その直後に、「私たちも私たちに負い目ある人を赦すのと同じように・・」という付加があり、それは他人を赦した程度に応じて赦しを受けることができるという意味であると誤解されることがあります。しかし、ルカではそのような誤解を避けるように、「私たちも私たちに負い目ある人を赦し続けます」という告白として述べられます。

人の心の現実では、「赦してください」という嘆願と、「赦します」という告白は、切り離せません。「あんな人は赦せません!でも、私の罪は赦してください!」というのは祈りにならないからです。しかも、私たちが赦すのは、人の「罪」ではなく、「負い目」です。罪を赦すことができるのは神だけであり、私たちができるのは、人が負い目を感じて心を閉ざすことがないように、和解の手を差し伸べ続けることです。あなたのまわりには、「もっと負い目を感じてくれるなら可愛いのに・・」と言いたくなるような人がいるかもしれません。しかし、それは私たちが無意識にせよ、「人を従わせたい・・」と願うことであり、愛に真っ向から反します。そして、その隣人への愛は、「神から負い目を赦された」という感動から生まれるものです。ですから、「人を赦すことができますように・・・」という祈りの形になっていません。それは傲慢です。自分の罪深さを心の底から自覚し、その赦しを願うなら、必然的に、「赦します」という告白が生まれるものです。

祈りの最後は、厳密には、「私たちを誘惑に陥らせないでください」と訳すべきでしょう。「誘惑」と「試練(試み)」は、両方ともギリシャ語で「ペイラスモス」だからです。「試練」は私たちをキリストの似姿に変えるための神からの贈り物とも見られます。しかし、「誘惑」は私たちが「自分の欲に引かれ、おびき寄せられ」た結果です(ヤコブ1:15)。そして、その背後には、サタンの策略があります。それでマタイでは「悪(悪い者)からお救いください」と付加されます。エバは自分の知恵を過信して蛇の誘惑に負けました。ペテロは、「たとい全部の者がつまづいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)と自分の信仰を過信して、三度イエスを否むことになりました。私たちは誰一人、自分の力によって誘惑に勝つことはできません。それを謙遜に認めて、自分自身のため、またあなたの兄弟のために日々、この祈りを祈るべきでしょう。

ここでイエスは、「主の祈り」を教えた後で、不思議なたとえを話されます。それは、真夜中に隣人の家族をたたき起こしてでもパンをせがむ「あつかましさ」(11:8脚注)を描きながら、そのように主に向って祈るべきことを、「求め続けなさい・・捜し続けなさい・・たたき続けなさい・・・」と表現します(9-12節)。そして、あなたが悪い父であったとしても、子供には良いものを与えようとするという比較から、「なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう」(11:13)と約束します。つまり、聖霊こそ、父なる神が与えてくださる究極の贈り物なのです。実際、イエスの弟子たちが無一文のまま伝道旅行に出かけながら喜んで帰ってくることができたのは、「すべての悪霊(デーモン)」を従える「力と権威」(9:1)を授けていただていたからですが、それこそ聖霊のみわざでした。このとき彼らはイエスから聖霊を預けられることで、「神の国(神のご支配)が近づいた」(10:9)ことを人々に証しすることができたのです。

ところが、私たちの内側にある思いは、神の名よりも自分の名を、神のご支配よりも自分の思いが実現することを、日ごとの私たちの必要よりも、個人的な富を求めます。そして、自分の罪の赦しよりも人の罪に腹を立て続け、サタンの誘惑の恐ろしさなど忘れて自分の力で生きてしまいます。そこから、この世界のすべての悲惨が生まれています。ですから、神からの聖霊を受けることなしに、本当の意味で、まごころからイエスから教えられた祈りを自分のものとすることはできません。つまり、主の祈りを真剣に祈り続ける中でこそ、私たちの中に聖霊への渇きが生まれ、そして聖霊によってのみ、この祈りを自分のものとして祈ることができるのです。教えられたこの祈りを、心から味わい、祈る者とさせていただきましょう。