詩篇1篇1〜6節「何をしても栄える」
以前、営業の仕事をしていたとき、「主の教えを喜びとする人は……何をしても栄える」という約束が嬉しく思えました。しかし、様々な悩みを抱えた方に接しているうちに、それがあまりにも楽天的に見えてきました。ところがこれを詩篇全体の要約として見た時、その意味が納得できました。ここに聖書全体の要約があります。ノー天気な信仰も危険ですが、暗いことばかりを見る信仰はもっと始末が悪いかもしれません。
この詩は、「幸いな人よ」から始まり、その生き方が2節まで描かれます。人間とは人の間で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。ですから、まず三つの否定形で、「幸いな人」は、神に敵対する者との交わりと一線を画していると描かれます。それとの対比で、「その人は、主 (ヤハウェ) の教えを喜びとし、昼も夜もその教え口ずさむ(思い巡らしている)」と、何よりも、聖書を神のみことばと信じるこの神の民の交わりの中に生きる人こそが幸いであると言われます。
残念ながら「主の教え(律法。トーラー)」を神のさばきの基準としてしか見ることができず、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる……」という人がいます。しかし、「主の教え(律法)」は何よりも喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも思い巡らすことで幸せになることができる教えなのです。
そして、「その人」には、確かに、「(神の)時が来ると実を結び、その葉は枯れない」という「繁栄」が約束されています。なお「繁栄」の実現には「時が来るの」を「待つ」という忍耐が必要です。それは、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36) とある通りです。一時的にうまく運んでいないように思えても失望する必要はありません。多くの信仰者が、「忍耐」によって、確かに繁栄を体験して来ました。
主よ、あなたが私たちの人生に最終的な祝福を約束してくださっていることを感謝します。いつでもどこでも主の教えを喜ぶ者とならせてください。
詩篇2篇1〜12節「主にある勝利」
福音の核心とは、神の国(ご支配)がキリストによってこの地につぼみとして始まり、世界が平和(シャローム)の完成に向かっているという神の救いのご計画です。私たちが味わう悲しみは、その永遠の観点からしたら、束の間の間奏曲にすぎません。
ヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」第二部では、ハレルヤ・コーラスの前でこの箇所から四曲も歌われます。そこではまず、この世の権力者が、神に逆らうばかりか、「油注がれた者」、つまり「メシヤ(キリスト)」に逆らうのは「なぜ」なのかと問われます。それは、彼らが「天の御座」におられる方を知らないからです。
5節では、主は彼らを、「燃える怒りで恐れおのかせる」と記されます。そのために、主は、「わたしは、わたしの王を、聖なる山シオンに立てた」(6節) と宣言されます。これは目に見えない神が、目に見える地上の王をエルサレム神殿に立てたという意味で、その「王」こそ、ダビデの子であるイエス・キリストであるという意味です。これこそ目に見える神の国の始まりです。7節では、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」と記されますが、これは神がご自身の子を、王として即位させられるという意味です。不思議にも、十字架こそは、イエスの玉座でした。
9節では、父なる神が御子に、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち、焼き物のように粉々にする」と約束されますが、それをもとにヨハネの黙示録では (2:27、12:5、19:15)、再臨のキリストの勝利の支配が描かれます。それを前提にハレルヤ・コーラスでは、今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王たちの王、主たちの主」としてこの地を治めておられると歌われます (黙示11:15、19:16)。それは、目に見える不条理に中にすでに始まっているキリストの支配を歌ったものなのです。私たちはこの地上の生涯を、その天上の勝利の歌を霊の耳で聴きながら過ごすのです。
私たちの目には、主のご支配が見えないことが多いですが、すでにイエスはこの世界を統べ治めておられるということを、この心の目を開いて見させてください。
詩篇3篇「救いは主 (ヤハウェ) にある」
標題にはこの詩の背景が描かれています。ダビデが家来ウリヤの妻を奪い取った後、家庭が乱れに乱れます。遂には息子のアブシャロムがクーデターを起こします。エルサレムは天然の要害ですから、ダビデはそこに留まって戦うこともできたはずですが、アブシャロムが「剣でこの町を打つといけないから」(Ⅱサムエル15:14) と言って町の安全を第一にし、自分は逃げます。そこに王座にしがみつこうとしない潔さが見られます。
ただその結果、ダビデから離れてアブシャロムに着く者が急増します。エルサレムには神の臨在のしるしの契約の箱があったのですが、それを置いて逃げたダビデに「神の救いはない」と見るのが、当時の常識でした。しかもこのとき、彼が信頼していたアヒトフェルまでもがアブシャロムの謀反に荷担しているという知らせを受けます。
そのような絶望的な中で、「主 (ヤハウェ) よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光……私は声を上げて、主 (ヤハウェ) に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる」と告白します (3、4節)。これは自分がエルサレムを離れても、主ご自身が自分の所に近づいて来てくださるという意味です。ですからダビデは「幾万の民」に敵対されながら、慌てふためくことなく、ゆっくりと「眠る」ことができました。
ダビデは、富と力を持っているとき、神を忘れて罪を犯し、家族を混乱に陥れました。しかし、この危機的な状況の中で、敢えて、人間的な意味での守りを自分から捨て去りました。その結果、神を身近に感じることができたのです。私自身も自分は営業マンとしてある程度の結果を出してきたと密かに自分を誇っていた時、伝道者としては失敗ばかりを繰り返しました。しかし、そこで自分の無力さを徹底的に知らされたとき、神を身近に感じることができるようになりました。「救い」は、人間的な能力ではなく、主 (ヤハウェ) にあります」その基本を、私たちは孤独の中で味わうことができます。
主よ。私たちはいつも人間的な安心を求め、困難から身を避けようとしてしまいがちです。どうか、改めて、自分の救いが主ご自身にあることを覚えさせてください。
詩篇4篇「苦しみのときのゆとり」
ここにも3篇同様、困難の中での「平安」な「眠り」が描かれます。最初に、「私が呼ぶとき、答えてください」と切羽詰った訴えとともに、「私の義なる神」と呼びかけます。これは「私を義としてくださる神」とも解釈できます。だからこそ、すぐに「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとりを与えてくださいました」と告白されます。
3節で、ダビデは自分に敵対する人々のことを覚えながら、「知れ、主 (ヤハウェ) は、ご自分の聖徒を特別に扱われる」と告曰します。それは、「私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」ことを通して明らかにされます。神はダビデを特別に愛しておられました。そしてダビデの子イエスにつながる私たちをも、神は特別に扱ってくださいます。
4節の「恐れおののけ……」は、多くの英語訳では、「Be angry、 and do not sin(怒りなさい。そして、罪を犯すな)」と訳されます。使徒パウロがエペソ人への手紙4章26節に記したことばは、これをそのまま引用したものだと思われます。神は私たちの心が混乱し、怒りに身を震わすようなことがあっても、優しく受け止めてくださいます。私たちが、自分の気持ちを正直に神に訴えるとき、神は混乱した心に平安を与えてくださり、結果として、「罪を犯す」ことがないように守ってくださるのです。
5節で、「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」と訴えられますが、同じダビデが詩篇51篇において、自分の罪の告白の後に、「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(17節) と告白しています。神は何よりも、必死にすがる気持ち自体を喜んでくださいます。「義のいけにえ」とは、神の前に自分の正義を訴えることではなく、子供のように混乱したままの心を主にささげることです。主がそれを受け入れ、「平安(シャローム)」を与えてくださいます。自分で自分を落ち着かせようとする代わりに、主に正直に打ち明ければよいのです。
主よ。あなたの御前に自分の正義を訴える代わりに、「砕かれた霊」、「悔いた心」をささげさせてください。そして、平安な眠りを私にお与えください。
詩篇5篇「あなたの義によって……」
この詩の主題も、「私のうめき……私の叫びの声」という苦しみの中から救いを求める祈りですが、そこでは、「私の王、私の神」という、親密さの表現が際立っています (1、2節)。著者自身は敵の攻撃によって苦しんでいるのですが、そのような中で、「あなたは悪を喜ぶ神ではなく、わざわいはあなたとともに住まない」(4節) と告白します。
そのときふと、「そう断言できるなら、必死に祈る必要がどこにあるのか……」とも思うかもしれませんが、それは人間的な論理です。祈りの交わりの現実では、神が私にとっての「王」であると信頼するからこそ、目に見える不条理な現実のただ中で、諦めることなく、神に向かって祈ることができるのです。そのことを著者は、「私は、豊かな恵みによって……聖なる宮に向かってひれ伏します」(7節) と述べます。
「主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください」(8節) という祈りこそ、この詩の核心でしょう。「あなたの義」とは、「私の王」となってくださった方の「真実」を意味します。ダビデは自分の失敗等を通して、「真実な王」となることの大切さを誰よりも理解していたからこそ、そう祈ったのだと思われます。主に愛され、選ばれている私たちも、そのように祈ることができます。
9節後半は、パウロがローマ人への手紙3章13節で引用する人間の罪の現実を描いたものです。また10節は詩篇全体の中で最初に出て来る、自分の敵に対する神のさばきを求める祈りです。イエスは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44) と言われましたが、それは神のさばきを求める祈りと矛盾するものではありません。信仰の現実では、子供のように自分の気持ちを正直に訴えることができる結果として、全能の神のご支配を信じ、自分の敵の祝福を祈るという思いが湧いてくるのではないでしょうか。それは、「神の義」が自分を守ってくれると信じられるからです。
主よ。理屈ではなく、祈りの中で、神の義、神の真実を体験させてください。そして迫害する者のために祈る心を私のうちに生み出してください。
詩篇6篇「帰って来てください。主 (ヤハウェ) よ」
これは聖書における六つの悔い改めの詩篇と呼ばれるものの最初です(他は、32、38、51、102、130、143篇)。これは、ダビデが自分の罪にゆえに、神の御怒りを受けていると感じている、そのただ中で記された祈りだと思われます。彼はここで何よりも、ただ、「私を責めないでください……懲らしめないでください」と、主にすがりついています。興味深いのは、自分の過ちを謝罪し続ける代わりに、「いつまで怒っておられるのでしょう」とも解釈できる、何とも図々しい訴えをしていることです (3節)。
その上で、ダビデはさらに、「帰って来てください。主 (ヤハウェ) よ」と祈りますが、これは多くの場合、罪人に「主のもとに立ち返りなさい」と悔い改めを迫るときのことばです。ダビデは当然の神の怒り、憤りを受けていながら、神ご自身が自分のもとに「立ち返ってくださる」ように願っているのです。しかも、「あなたの恵みのゆえに……お救いください」という祈るときの「恵み」とは、神がご自身の契約を守ってくださるという「誠実さ」(ヘセド)を意味することばです。つまり、ダビデは自分の不真実を棚に上げるかのようにして、神の真実にすがっているのです。そして、その理由は、「よみ」に落とされてしまうなら、神をほめたたえることができないからというのです。
6節からは「私の嘆きで疲れ果て、私の涙で……ふしどを押し流します」と、まるで涙の洪水を起こしているかのように訴えます。7–9節ではダビデの試練をあざ笑う者を見返すように、「主 (ヤハウェ) は私の泣く声を聞かれた……主 (ヤハウェ) は私の切なる願いを聞かれた。主 (ヤハウェ) は、私の祈りを受け入れられる」と告白します。
私たちはどこかで、自分の悔い改めの程度に応じて、神のあわれみを受けられると感じがちですが、神は何よりも、私たちが子供のように泣いてすがること自体を喜んでくださいます。大胆に、主にすがることの大切さを改めて覚えるべきでしょう。
主よ。私たちはしばしば、自業自得で、苦しみの中に置かれることがありますが、ダビデのように大胆に主にすがる祈りを教えてください。
詩篇7篇6〜11節「主よ。私を弁護してください」
この詩がどのような背景のもとで記されたについては諸説があり、断言はできません。ベニヤミン人とはサウルの部族ですから、サウルから追われているときのことと考えた方が、意味が通じると思われます。ここでダビデは、自分の身に覚えのない理由で一方的に責められ、攻撃を受けていると感じています。その危機的な状況下で、ダビデは必死に主にすがります。6節では、主に三つの訴えが立て続けに叫ばれます。第一は、「御怒りを持って立ち上がってください」。第二は、「私の敵の激しい怒りに向かって」立ってください。第三は、「私のために目をさましてください」ですが、それは「さばき」をすみやかに執行してくださるようにという切なる願いと結びついています。
7、8節は、主がさばきの座に「お帰り」くださって、公正に「諸国の民をさばかれる」ことへの期待を述べたものです。8節の二番目の文章は、「私を弁護してください」から始まりますが、これは厳密には、「私をさばいてください。主 (ヤハウェ) よ。私の義と、私にある誠実さに従って」とも訳すことができます。ダビデは自分が不当な理由で攻撃を受けているので、主のさばきは自分にとっての救いになると固く信じています。「正しい神は、心と思いを調べられます」(9節) と言いながら、神のさばきは自分の救いになると信じ、重ねて、「神は心の直ぐな人を救われる」(10節) と告白します。
ダビデの祈りを見ながら、現代の私たちは内省的になりすぎているのではないかと考えさせられました。私自身もそのような者のひとりですが、それでも、自分が不当な批判を受けていると思うときには、過去の様々な失敗を棚に上げて、必死に自分の正しさを訴えたくなるものです。しかし、そのように自分の気持ちを正直に訴えることこそが、「心の直ぐな人」と言えるのかもしれません。そして、意外にも、そのように訴えることができて初めて、自分の罪が示されるものです。それこそ祈りの不思議です。
不当な苦しみに会っていると思えるとき、主の公正なさばきを信じて、大胆に祈る者とさせてください。そして、その後で、私の罪をお知らせください。
詩篇8篇「人とは何者なのでしょう」
「万軍の主」は、ダビデを「羊の群れを追う牧場からとり……イスラエルの君主とし」(Ⅰ歴代誌17:7) たばかりか、その王家は永遠に続くと約束されました。それを聞いた彼は、神に向かい、「私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので……ここまで私を導いてくださったのですか……この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに……あなたは私を、高い者として見ておられます」(Ⅰ歴代誌17:16、17) と感謝の祈りをささげました。これこそ、詩篇8篇が記された背景です。
そして今、神は、キリストのうちにある私たちひとりひとりを、何と、ダビデのように「高い者」として見てくださいます。ですから、自分を高めてくださる神を求めるという発想を捨て、神が私を何のために創造し、何を期待しておられるかを常に考える必要があります。そのとき、真の意味で健全な自己認識を持つことができます。
全宇宙の広さとの比較で見ると、人は、蟻よりもはるかに小さく、吹けば飛ぶようなひ弱な存在に過ぎません。しかし、神はそのひとり一人を「心に留め」、また「顧み」ていてくださいます。パスカルは人の弱さと尊厳の関係を、「人間はひとくきの葦に過ぎない。自然の中で最も弱いものである。だがそれは考える葦である。……蒸気や一滴の水でも彼を殺すには十分である。だがたとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては考えることの中にある……」(パンセ347、1978年中央公論社、前田陽一訳) と言いました。
私たちは本能的に、自分の頼りなさを知り、孤独を、また見捨てられることを恐れています。しかし、それがゆえに、自分の知恵や能力を示し、「私は愛されるに値する存在です」とアピールしたくなります。そこから人と人との比較や競争が始まり、心の中で、「確かに私は弱く愚かだとしても、あの人よりはましだ……」と思うことで慰めを得ます。しかし、パスカルの言うように、自分の絶対的な頼りなさと真正面から向き合うことができることこそが、人間の尊厳である「考えること」の本質なのです。そして、その弱さを腹の底から感じるそのただ中で、直感的に神の愛を体験するのです。
「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし」(5節) とは、ひとりひとりが「神のかたち」に創造され、神と対話できることを指し示します。「栄光と誉れの冠をかぶらせ」とは、人の知恵とか力などのような、生産能力への報酬ではなく、神と顔と顔とを合わせて語り合うことが許されるという誇りに満ちた関係を表わします。私たちの栄光は、自分から生まれるものではなく、神の栄光を映し出すことの中に現されます。
人は本来、神との対話の中で、この地のすべてのものを治めることができるように創造されました。しかし、人が神に逆らい、自分を神のようにして以来、人と自然との間には分裂が生じました。人が自然を破壊すると同時に、自然界が人を傷つけるようになります。ですから、私たちが創造主 (ヤハウェ) を、「私たちの主(主人)」として認め、自分の弱さと向き合い、主を心から賛美することによって、この世界の調和は回復されることになるのです。この詩は、神の創造の目的を思い起こさせるものです。
ヘブル人への手紙2章5–10節では、イエスご自身がこの詩に描かれた人としての生き方を全うされ、私たちを「栄光に導く」と約束されています。そして、キリスト者とは、本来、ご自分を低くされたイエスの生き方に習いたいと願う者のことを意味します。そして、そう願うことができることこそ、聖霊のみわざです。そのとき「幼子や乳飲み子たちの口によって、力を打ち建て」(2節) られる神が、私たちを通して、ご自身の栄光を表わしてくださるのです。強がりを捨て、幼子のように主にすがりましょう。
以前のことですが、「こんな不信仰な自分が、牧師をやっていて良いのか」と悩んだことがあります。今も、ときにそう思いますが……。そのとき、ふと、すべての自分の歩みが、全能の主がこんな私を「心に留め」また「顧み」てくださったことから始まったと振り返ることで、安心できます。神の「全能さ」は、何よりも、小さなひとり一人に「注目し」、ご自身の目的のために用いることができることに現されるのです。
主よ、人との比較ではなく、あなたの視点から自分自身を見ることができるように、私の霊の目を開いてください。そして、あなたの栄光のために私を用いてください。
詩篇9篇1〜12節「義の審判者」
1、2節は、主への賛美から始まりますが、「あなたの奇しいわざを余すところなく語り継げます」と記されていることばは、「あなたのすべての不思議なみわざを数え直します」とも訳すことができます。それは、ひとつひとつのみわざを丁寧に思い起した結果として、黙っていることができなくなるというプロセスを現しています。
4節の「支持し」「審判者」、8節の二回の「さばき」は同じヘブル語の語根から生まれた言葉です。多くの人は、「主のさばき」と聞くと、自分の隠された罪が顕にされる恐怖を抱きますが、多くの聖書の箇所では、実際に神の民がこの世の権力者から「しいたげられ」「苦しみ」に会っているという現実を前提として (9節)、神が私たちのために正義を実現してくださるという趣旨で描かれています。そのことが「あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれる」(4節) と記されているのです。
ルカによる福音書18章で、イエスは、不当な仕打ちを受けているひとりのやもめが不正な裁判官に必死に訴えた結果、彼女を守るためのさばきが下されるというたとえで、私たちが「いつでも祈るべき」ことを教えておられます。そのことがこの詩篇では「血に報いる方は……貧しい者の叫びをお忘れにならない」(12節) と記されます。
民主主義社会では、「公正なさばき」が保障されるはずという前提で、訴訟合戦がなされることがあります。訴訟もときに大切なことがありますが、信仰者は誰よりも、天におられる「義の審判者」に訴え、委ねつつ、今ここで、主から期待されていることに日々目を向けるべきでしょう。この世の裁判の背後にある天の審判者に期待することを忘れた争いが、自分の正義を盾にした泥沼の争いに発展することが多々あるからです。もちろん、社会的弱者を守るためにこの世の裁判制度を機能させることは大切ですが、それが、神の最終的なさばきを忘れさせるような力の論理になることは危険です。
私たちはこの世で様々な不条理に直面しますが、それを正そうとして別の争いを作ることがないように、いつでも「義の審判者」に信頼させてください。
詩篇10篇1〜6、14〜17節「害毒と苦痛を見られる神」
この詩は伝統的に9篇とセットで読まれてきました。ただ、ここでは、「主 (ヤハウェ) 」が「遠く離れて」、「苦しみのときに……身をかくされ」ているようにしか思えないという現実に、作者は圧倒されています (1節)。そして、「神はいない」と公言する「悪者」の「道はいつも栄え」「敵という敵を……吹き飛ば」しているように見えます (4、5節)。残念なのは、神を否定する者の心の方が平安に満たされているという皮肉が見られることです (6節)。それはしばしば、私たちの現実でもあります。神に従おうとする者が次々と苦しみに会い、「神はいない」と言う者の方が、繁栄し、平安に暮らしているという中で、信仰生活が空しく感じられることが、あなたにもあるかもしれません。
そのような中で、14節で突然、神に向かっての賛美が、「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました」と記されます。これは、主ご自身が、ご自分の民がこの地で体験する「害毒と苦痛」をみこころを痛めながら、見つめておられたという意味です。それは私たちにとって、神の御子の主イエスご自身が十字架で苦しんでくださったことに現されています。
それを前提に、「不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした……あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます」と告白されます (14、17節)。これは、たとい「主 (ヤハウェ) のさばき」は多くの人々にとって「遅すぎる」と思えたとしても、歴史を振り返ってみると、その時々に、神の御手の中で守られてきたという現実がありました。ときに、不条理な死を遂げる人があっても、キリストの復活を見るならば、神の真実なご支配の中で私たちが守られ続けるという確信を持つことができます。この世の不条理を十字架と復活で正される神は、私たちの想像をはるかに超えた救いを実現されます。
世に不条理が満ちているように思える時、イエスの十字架と復活の意味を思い起こさせてください。人ではなく、神の視点から、この世界を見させてください。
詩篇11篇「主はその王座が天にある」
作者ダビデは、羊を救い出すため、一人でライオンや熊とも戦い、巨人ゴリヤテを打ち倒した力強い戦士でしたが、その彼が、自分の力に頼る代わりに、「主 (ヤハウェ) に私は身を避ける」と告白します。これは彼が多くの詩で繰り返す言葉です。
なお、1–3節は、敵がダビデをあざけることばです。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け」とは、「シオンの山にある神の幕屋に助けを求めてみよ、悪者どもが弓で矢を射るときに、何の助けにもならない」という趣旨の中傷です。
しかしそこで、「主 (ヤハウェ) は、その聖座が宮にあり、主 (ヤハウェ) は、その王座が天にある」と宣言されます。当時の人々には、敬虔なダビデは、目に見える神の幕屋に頼っているように見えましたが、主の王座は、この三次元空間を超えた天にあるというのです。しかも、天地万物の創造主は、どんな小さな隠されたことも見分けるという意味で、「その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる」と言われます。
しかも、「王座が天にある」とは、同時に、主はいつでもこの地をさばくために降りて来ることができるという意味で、そのことがミカ1章3、4節では、「主はその聖なる宮から……御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように」と描かれます。
そして、すべてを見通し、地をさばくことがセットで、5、6節で述べられます。最後に、7節では、「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る」と告白されますが、「直ぐな人」とは、完全無欠な人という意味ではなく、ダビデのように罪を犯しても、いつでもどこでも、心をまっすぐに主に向けて、主にすがり、祈りながら生きる人を指します。
私たちがイエスの御名で、天の父なる神に祈るとき、そこで天の御座とこの矛盾に満ちた地は、重なり合うように互いに近づいています。それこそ霊的現実です。
イエスの父なる神に向かって「お父様!」と呼びかけられることを感謝します。天の御座におられる方の御守りを、いつでもどこでも、覚えさせてください。
詩篇12篇「主のみことばの真実によって」
この詩では11篇に引き続き、ダビデを嘲る者たちの言葉との戦いが記されます。1、2節では、「誠実な人……は消え去り……人は互いにうそを話し」と、ダビデが置かれた状況が描かれます。そして、「うそ」が「へつらいのくちびると、二心で」表現されるというのです。両方とも、心のうちの思いと、口から出る言葉が分離しています。
「うそ」を言う者は、自分の無力さや頼りなさを認める代わりに、自分が全ての状況を支配している神であるかのように振る舞い (4節)、社会的弱者を騙して味方につけ、ダビデのように謙遜で正直な指導者を追い落とそうとします。そして、弱い人々は利用されたあげく見捨てられます。世の政治で同じことが繰り返されてきました。真の指導者は、目の前の問題の解決が、別の問題を引き起こすという矛盾と葛藤を語るはずですが、しばしば大衆は、安易な解決を約束する指導者に従い、そして裏切られます。
それに対し、主は、「悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる」(5節) と約束され、私たちを導くみことばの真実を「主 (ヤハウェ) のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀」(6節) と描いてくださいました。主イエスは、安易な解決を退け、私たちに、「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」と言われました (ルカ9:23)。そしてその逆説こそが、主が私たちを「お守り」くださる道でした (7節)。
この世界の問題の解決は、天地万物の創造主が、ご自身の御子を十字架にかけなければならないほどに、複雑に込み入っています。政治はとても大切ですが、どの政党もあまりにも問題を単純化して、人々を誤りに導く傾向があります。誰かを悪者に仕立てて互いを非難しあうこと自体から、戦争の種が生まれるのではないでしょうか。イエスに倣い、人々の誤解と中傷に耐えながら、誠実を尽くす道を歩みたいものです。
主よ、この世界には、誇大広告と偽りの約束が満ち満ちています。どうか、主の真実な約束を見分ける知恵と、それに従う勇気を私にお与えください。
詩篇13篇「いつまでですか?」
ダビデは、1、2節で「主 (ヤハウェ) 」の御名を呼びながらも、何と四回にもわたって、「いつまで、救ってくださらないのか」という趣旨で、「いつまで……私を永久にお忘れになるのですか」「いつまで御顔を……お隠しになる」「いつまで私は……思い計らなかればならない」「いつまで敵が……勝ちおごる」と大胆に訴えます。そして3節では、立て続けに、「私に目を注ぎ、私に答えてください……私の目を輝かせてください」と訴えます。そして、その理由がさらに、「私の敵が」勝ち誇って喜ぶことがないようにと、極めて個人的な視点から訴える様子が描かれています。これから見ると、しばしば私たちの祈りは、あまりにもお行儀が良すぎるのかもしれません。主は、幼い子供が親に泣いてすがるように、自分の気持ちを正直に訴えることを喜んでくださいます。
ただ、そのように泣きじゃくった結果として、5節では突然、すべてをわきまえた大人になったような気持ちになって、まず「私は」と強調しながら、「あなたの恵みにより頼みました」と告白します。「恵み」とは、英語では、「unfailing love(尽きることのない愛)」とか、「steadfast love(不動の愛)と訳され、神の真実の愛を表現する特別なことばです。これこそ聖書のテーマとも言えます。後に、使徒ヨハネは、「全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4:18) と記しますが、ダビデは、まさに主の懐に飛び込んだ結果として、恐れることなく大胆に、主に訴えることができたのです。
そして、最後にダビデは、主の救いを「喜び」、主のみわざを思い起しながら、真心から「主に……歌い」ます。この詩は、最初の「いつまでですか」と言う繰り返しの訴えと、この終わりの、主への喜びに満ちた賛美の対照が、何とも不思議です。しかし、嘆きの訴えから、喜びへの転換こそ、詩篇全体に流れる神の民の物語です。私たちも、詩篇に合わせて自分の心を表現するとき、同じ恵みにあずかることができます。
主よ、様々な不条理に直面する中で、主に大胆にすがり、祈ることができるように導いてください。それを通して、主の真実の愛を喜ぶ者とさせてください。
詩篇14篇「愚か者は、『神はいない』と言う」
最初に、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている」と記されますが、「愚か者」とはヘブル語でナバルと記されます (Ⅰサムエル25:25参照)。後にダビデの妻となったアビガイルは、愚かさのため自滅した夫のナバルに関して「あのよこしまな者」と呼びました。家来もナバルを避けていました。彼は自分の羊の群れがダビデによって守られていたことを知ろうともせずに、ダビデの怒りを買いました。「愚か者」とは、「知性が足りない」ことではなく、世界を自分の尺度で計り、見るべきものを見ようとしない「傲慢さ」を意味します。
使徒パウロはローマ人への手紙3章10–12節で、1–3節を引用しながら、「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(同3:23) と結論付けています。「神はいない」と宣言すること自体が、神の怒りを買う罪であると描かれます。パウロが、「彼らが神を知ろうとしたがらない」(同1:28) と記しているように、「神を尋ね求め」ようと「意志しない」こと自体が、罪の始まりとされているのです (2節)。
そして、主は、「不法を行う者ら」は、「パンを食らうように、わたしの民を食らい、主 (ヤハウェ) を呼び求めようとはしない」とその罪を指摘されます (4節)。しかし、彼らは、主が「正しい者の一族とともにおられる」ことを知って、主を心から「恐れる」ようになります (5節)。たとい彼らが、「悩む者のはかりごとをはずかしめようとする」ことがあても、主は「悩む者」の「避け所」となってくださいます。主の民が苦難にあってもそれは一時的なことに過ぎず、主の救いはやがて明らかにされます (7節)。
私たちの目は、ときに、自分の見たいものしか見ることができませんが、それこそ「愚か者」のしるしです。「神はいない」と思える現実があったとしても、そこで「神を尋ね求める」なら、神のみわざを認め、神の救いを楽しみ喜ぶことができます。
主よ、私は身勝手な基準で世界を見ることがあります。「愚か者」にならずに、みわざを、いつでもどこでも見られるように、霊の目を開いてください。
詩篇15篇「だれが、聖なる山に住むのか」
この詩は、主の御前に出る者が、自分がそれにふさわしい者であるかを主に問いかけ、主からの答えを得て、自分をきよく保とうとするために歌われたと思われます。これとほとんど同じものが詩篇24:3–6、イザヤ33:14–17に記されます。
ダビデはまず、「主 (ヤハウェ) よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか」(1節) と問いかけ、主からの答えを、「正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人」(2節) と受けます。そこでは日々の歩み方、行動、ことばが、主の前に問われています。そして3節では特に、「その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない」と、その人の隣人に対する言動が問われています。ただし、そこで自分に「罪はないというなら、私たちは自分を欺いており」とも言われることを覚えるべきでしょう (Ⅰヨハネ1:8)。そこでは「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(同9節) と断言されます。大切なのは、主に問いかけ、主からの答えを聞き、主の赦しを願うという、主との対話に生きることです。
4節の、「神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主 (ヤハウェ) を恐れる者を尊ぶ」とは、主が見るように人を見るということで、苦しんでいる人を、「主のさばきを受けた……」と軽蔑することではありません。イエスの視点を思い浮かべるべきです。
そして最後に、その人が自分の損得勘定を超えて生きる者の祝福が、「損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行う人は、決してゆるがされない」と言われます。私たちは、ときに、不安な思いに苛まれて、主のご支配を忘れて、自分の身を守ることに汲々とすることがあります。しかし、主はあなたの心の真実をこそ評価してくださいます。
主よ、あなたは、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(マタイ5:8) と言われました。聖霊によって私のこころをきよく保ってください。
詩篇16篇「私の幸いは、あなたのほかにはありません」
イスラエル王国の栄光を体験したダビデは主 (ヤハウェ) に向かって、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(2節) と真心から告白しました。私たちはときに、主ご自身との交わり自体よりも、目に見える富や権力、栄光を求めてしまいがちではないでしょうか。この告白の意味を心から味わってみましょう。
人はすべて目に見える人との交わりに生きていますが、3、4節は、私たちが同じ神を礼拝する者たちとの交わりを最優先することを告白したものです。
そして、5、6節では改めて、主が与えてくださる「何か」ではなく、主ご自身が「私へのゆずりの地所」であり、また喜びの「杯」であると告白されます。同時に、著者は、「測り綱は、私の好む所に落ちた」と、実際に、主が私に割り当ててくださった生活の場を、「すばらしいゆずりの地」として感謝して受け止めています。それは、「置かれた場所で咲きなさい」というタイトルの本の通りとも言えましょう。
8節では、天地万物の創造主を覚えながら、「私はいつも、私の前に主 (ヤハウェ) を置いた」と言われますが、それは、私たちにとっては、御子イエスが、「私の右におられ」、私のために執り成してくださることを前提としての告白になります。
そこには、「私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう (9節) という安心感が伴います。また10節の「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」とは、ペテロとパウロがそろって、イエスの復活を、聖書の成就として論証する際に引用したものです (使徒2:27、13:35)。またそれは「イエスを主」と告白する私たち自身にとっての約束となっています。ですから私たちも。主に向かって、「御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と真心から告白することができます。
主よ。あなたがお与えくださる何かではなく、あなたご自身との交わりの中に「いのちの喜び」を体験し続けることができるように、私の心を守ってください。
詩篇17篇「正しい訴えを聞いてください」
1–6節でダビデは、繰り返し自分の正義や純粋さを訴えながら、主の救いを求めています。私たちはときに、「罪深さを知れば知るほど、キリストの十字架の赦しの恵みが分かる」という論理で、主の御前で過度に謙遜ぶることがあるかもしれません。しかし、パウロが、「私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるわけではありません」(Ⅰコリント4:3) と記すように、内省的になり過ぎるのも危険です。それは、主の御前に正直になることに反します。実際、私たちは他の人と争うとき、自分の正義ばかりを主張したがる傾向があるのですから、それと同じ気持ちで、主に訴えることが許されているのです。
7節の「あなたの奇しい恵みをお示しください」の「恵み」とは先の13篇で解説した「真実の愛」です。主は私たちをご自身の「右の手」で守ってくださいます。8節では、「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください」と訴えます。それは主が、一方的な愛でイスラエルの民を選び、守り通してくださったことを思い起こさせる表現です (申命記32:10)。それは、イスラエルの功績ではなく、その存在自体が、主ご自身の目の「ひとみ」のように「高価で尊い」ものであったからです。
9–13節では、ダビデは自分を襲う「悪者」の罪を訴えながら、主の救いを求めています。14節は、「相続分がこの世のいのちであるこの世の人々」が体験する祝福の空しさを描いたものでしょう。15節はその対比で、「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」と告白されます。それは、詩篇16篇にもあったように、主ご自身との交わりこそが。ダビデにとっての最高の満足をもたらす真の「宝」であるからです。主は私たちのどんな過ちをも見過ごさない減点主義者ではなく、私たちの正直な気持ちを、喜び評価してくださる方です。
主よ。私の罪ではなく、私の内側にある真実に目を留めてくださることを感謝します。いつでもどこでも、大胆に主に祈ることができるように導いてください。
詩篇18篇6〜19節「主は、天を押し曲げて降りて来られた」
この詩はⅡサムエル22章にも記され、ダビデの生涯の総まとめ的な意味があります。彼は長い間、イスラエル王国の初代の王サウルから命を狙われ、同胞もからも裏切られ、絶体絶命の危機に何度も追いやられました。そのような中でダビデは、「主 (ヤハウェ) を呼び求め」ますが、すると「私の叫びは、御耳に届いた」(6節) と記します。そして、主が彼を助けてくださるために、不思議にも「天を押し曲げて降りて来られた」というのです。しかもその際、「暗やみをその足の下にして」と描かれます。
ルターは「空が明るいとき、雲は高いところにある。しかし、地が暗く、暗い雲が低く空を覆っているとき、私たちの神は近くにおられる。主は暗闇を足台としておられるのだから。もちろん私たちは雲の中に神を見出すことはできない。かえって、雷鳴を聞きながら、神が私たちに怒っているようにしか感じられないが……」と、暗闇の中で主が近づいてくださる神秘を描いています(ルターの詩篇注解からの私訳)。つまり、神が私たちの心の奥底からの叫びを聞いてくださるとき、かえって目の前の状況はさらに暗く、悪くなり、神が怒っているようにしか感じられないことがあるのです。
10–15節には、主が私たちに近づいてくださるときの神秘が描かれます。そこでは、「暗やみ」と「御前の輝き」、また「雹」と「火の炭」のように、自然では相反する現象が同時に迫ると記されます。主の臨在は、人の想像をはるかに超えているからです。
なおここで、この地に近づく主の怒りは、私たちの敵に向けられています。一方で、「主は、いと高き所から御手を伸べて……私を大水から引き上げられた」(16節) と記されます。そして、そこから生まれた余裕が、「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された」と描かれ、その理由が、「主が私を喜びとされたから」と記されます (19節)。そして、主は、今、主の前に静まっておられるあなたを「喜び」としておられます。
主が私を喜びとされ、私の叫びに耳を傾け、天を押し曲げて降りて来られる方であることを感謝します。主が近づいてくださる不思議を覚えさせてください。
詩篇19篇「天は神の栄光を語り、御教えは心を生かす」
この詩の美しさは比類ないものです。ここには天からのことばにならない語りかけと、ことばを用いた神の語りかけの二つが記され、「こころ」を創造主に向けさせます。
宇宙は、無言のことばで「神の栄光」を語っています。私たちは「自然」と呼びますが、宇宙が自然に生まれるでしょうか。ところが、聖書は、大空に広がる広大な世界を、神の「御手のわざ」と呼びます。この世界では、愛する人がいなくなったり、会社が倒産したりなどということが日常茶飯事で、明日への不安を抱かざるを得ません。ところが、神の御手のわざは、変わることなく存在し続けています。聖書によると、昼と夜の繰り返しは、自然ではなく、神が、ご自身の契約を真実に守り通しておられることのしるしだというのです (創世記8:22)。世界は、ことばや理屈が多すぎるのかもしれません。自分が世界を把握しようとするのではなく、これらの被造物を通して、神が発しておられる「声も聞かれない……ことば」を味わって見るべきではないでしょうか。
7–9節では、「主のみことば」が六種類の表現で、「主 (ヤハウェ) の……」と描かれ、それらをまとめて、「金にまさり……慕わしく、蜜よりも……甘い」(10節)と言われます。聖書こそ、私たちにとっての最高の宝、こころの最高の栄養、また活力なのです。
私たちは自分が生まれながら、神の世界に包まれ、生かされていることを意識し、また、神のみことばなしには、生きる意味も目的も理解できないと分かるなら、そのときこそ、神が願われる「全き者」に達したことになるのではないでしょうか。
この詩の最後に添って、「私の口のことばと、心の思いとが、御前に受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主 (ヤハウェ) よ」と祈らせてください。
詩篇20篇「主よ、王をお救いください」
詩篇20、21篇は「王の詩篇」としてセットになっています。20篇は王の勝利を祈ったもので、21篇はその祈りをかなえてくださった主に感謝するという内容です。
1–5節の「あなた」とは、王であるダビデとその子たちを指し、会衆がそろって王を「あなた」と呼びながら、執り成しの祈りを献げるものです。最初に、「苦難の日に」王の願いがかなえられ、王が高くあげられるように、続けて、王の「全焼のいけにえ」が受け入れられるようにと祈られます。そして、4、5節では、王のはかりごとが遂げられ、敵との戦いで勝利が与えられるようにと祈られます。これらは、出陣の際の祈りと考えられます。そして、私たちも、指導者たちのために祈る必要があります。
6–8節では、会衆が王のことを覚えながら、主の救いを確信すると告白します。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主 (ヤハウェ) の御名を誇ろう」(7節) とは、私たちが暗唱すべき信仰告白と言えましょう。私たちは小さい時から、この世の教育で、「より速く」「より強く」「より賢く」なるための訓練を受けています。確かに、神が私たちひとりひとりに預けてくださったタラントを磨いて生かし、主の働きのためには用いていただくことは大切です。しかし、そこで、「自分の力を自分の神とする者は、罪に定められる」(ハバクク1:11私訳)という霊的な現実を決して忘れてはなりません。私たちは主 (ヤハウェ) の御名をこそ誇るのです。
「彼らは、ひざをつき、そして倒れた」(8節) とあるのは、まさに「自分の力を自分の神とする者」の結末です。一方で、「主を誇る」「私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った」と告白できるようになります。そして、最後に、そのことを覚えながら、「主 (ヤハウェ) よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに……答えてください」と祈りが締めくくられます。私たちも指導者のために、このように祈りたいものです。
主よ。私たちの回りに様々な指導者が立てられていることを感謝します。そのひとりひとりのために、このように祈る者とさせてください。
詩篇21篇「ダビデの子の支配が全地に」
1–6節で会衆は、神に向かって「あなた」と呼びかけながら、「王」に与えられた「御救い」と「祝福」を喜び楽しみます。20篇1節で「苦難の日」から始まった祈りが、「彼のかしらに純金の冠を置かれます」(3節) という驚くべき展開になっています。
「彼(王)はあなたに、いのちを請い求めました。あなたは彼に、とこしえまでの長い日々を与えられました」という告白は、神がダビデの祈りに応え、ダビデ王家を永遠に立てると約束してくださったことを思い起こさせます。そして、これは、ダビデの子であるキリストにつながる私たちにおいても成就し、「永遠のいのち」が保障されています。そして、5節の「栄光」「尊厳」「威光」も、私たちに同じように約束されています。
7節では、「王は主 (ヤハウェ) に信頼し……ゆるがない」と述べられますが、その上で、8–12節において「あなた」の「あなたを憎む者ども」に対する勝利が描かれます。ですから、「あなた」とは、主ご自身であるとも「王」であるとも受け止めることができます。9節で「主 (ヤハウェ) は御怒りによって」と記されているので、後者の解釈が正しいと思われます。ですから、10節で「あなたは、地の上から、彼らのすえを滅ぼされましょう」というのは、ダビデの子である理想的な王、メシヤ(救い主)の支配を意味すると考えられます。それは詩篇2篇8、9節で、神の御子が地の果てまでを支配し、「鉄の杖」で敵を打ち砕くと預言されているのと同じです。
ふたつの「王の詩篇」の結論が、ダビデの肉の子である地上の「王」ではなく、救い主としてのダビデの子の「王」の支配の完成に向かうということは何と興味深いことでしょう。黙示録19章15、16節では、「この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される……その着物に……『王の王、主の主』という名が書かれていた」と記されています。私たちの主イエスは、この地を完全に支配する力強い「王」であられます。ハレルヤ!
王のための祈りが、理想的な王であるキリスト預言に通じていることを感謝します。キリストの支配が全地に広がるように、私たちをもお用いください。
詩篇22篇1、2、19〜24節「わが神、わが神……」
マタイもマルコも、イエスの十字架上のことばを一つしか記していません。それがこの冒頭の「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びです。福音書だけを読んで、これに出会った時、愚かにも、「何と往生際の悪いことか……」と失望してしまいました。しかし、今は、「神の御子が私たちと同じ気持ちを味わってくださった……」と、心から感謝できます。私はずっと、人から見捨てられることを恐れて生きて来ましたが、それは全ての人間の根本的な恐れでもありました。そこで多くの人々は、この世と調子を合わせながら、創造主から離れて生きてしまいます。
イエスは十字架で、確かに私たち全人類の罪を負って、神から見捨てられた者となられたのですが、そのどん底の苦しみの中で、「わたしの神」と呼びかけています。父なる神が沈黙しておられてもあきらめてはいません。6–8、11–18節では、イエスが十字架で人々から嘲られ、見捨てられた様子が生々しく描かれています。この苦しみはイエスの千年も前にダビデが描いたものですが、それは全人類が心の底で恐れているものでもあります。そしてイエスは、その人間の根源的な不安をともに味わいながら、「遠く離れないでください……私を救ってください」(19–21節) と、主を呼び求め続けます。
そして、21節三行目から、主が「答えてくださる」様子が描かれます。22節は、イエスの復活の後の告白としてヘブル人への手紙2章12節で引用されます。そして、主への賛美が初代教会から現代の「地の果て」まで伝わる様子が22節以降に描かれます。
24節では、「主は……御顔を隠されもしなかった」と、冒頭のことばと正反対のことが記されています。つまり、主が遠く離れておられるように思える主の沈黙は、主の圧倒的な救いを体験するための舞台であったのです。これを心から味わう時、私たちはどんなときにも、人の顔色を見る代わりに、主に信頼し続けることができます。
主よ、私たちは人から見捨てられることばかりを恐れて、あなたの眼差しを忘れることがあります。あなたの沈黙を、祈りを深める機会とさせてください。
詩篇23篇「主 (ヤハウェ) は私の羊飼い」
この詩は主の御名(「ヤハウェ」と発音したかと思われる)を呼び、自分を羊にたとえて、主を「私の飼い主」と告白することから始まります。作者ダビデは、ライオンや熊の口から羊を救い出したほどの勇敢な羊飼いでしたが、ここでは自分を愚かで臆病な羊にたとえています。羊は極度の近視で、わけもわからず進んで崖から落ちたり、道を踏み外して転んだり、良い飲み水さえ区別することもできません。まさに羊は、羊飼いがいなければ、どんなに環境が良い所でも、緑の牧場に伏すことも、いこいの水のほとりに行くことも、正しい「義の道」に戻ることもできない愚かで臆病な動物です。
ダビデは世界中で最も尊敬されている王でありながら、自分と神との関係を、羊と羊飼いにたとえました。ダビデは、自分の愚かな罪が家族の争いを引き起こし、息子アブシャロムから一時的に王座を奪われる中で、徹底的に謙遜にされ、主の守りなしには自分は一瞬たりとも生きて行けないことを悟り、このように告白したのでしょう。「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても……私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え」という表現にはその時の体験が生々しく描かれているのだと思われます。
アルコール依存や薬物依存など、様々な依存症に陥る人は、「私は偉大だ!」という幻想を追い求めずにはいられない心の弱さがあると言われます。しかし、ダビデの強さは、何よりも、自分の弱さや愚かさを徹底的に直視できたことにあったのです。
天地万物の創造主ご自身が、「私の飼い主」であると心から告白できるなら、何があっても、「私は、乏しいことがありません」と告白することができるようになります。良い羊飼いに導かれた羊は、雑草を消化しそれを肥料に変え、荒れ地をも緑に野に変えることができます。同じようにあなたも、主に従い続けるなら、自分の生きた後に、美しい緑の牧場を残すことができます。その感動が最後の6節に描かれています。
天地万物の創造主ご自身が「私の飼い主」になってくださったことを感謝します。愚かな強がりを捨てて、主に信頼できる平安を心から味わうことができますように。
詩篇24篇「栄光の王が入って来られる」
この詩はダビデが、主の契約の箱をエルサレムに運び入れた際に歌われたものと言われています。彼は最初、律法の規定に無知だったためか、契約の箱を牛車に載せて運んでしまいます。それがひっくり返りそうになった時、ウザが神の箱に手を伸ばし、「不敬の罪」のためにその場で死ぬというような悲劇が起きます (Ⅱサムエル6:7)。
「だれが、主 (ヤハウェ) の山に登りえようか……」という問いかけは、主に近づくことの恐ろしさを前提としたものです。「手がきよく、心がきよらかな者」とは、自分で「私はきよい」と言えるような人のことではありません。それは主ご自身に任命され、雄牛の血によってきよめられた祭司を指すような表現でした。そこでは、主ご自身が示された手続きに従うことが何よりも大切でした。それは、私たちの場合は、自分の汚れを認め、イエスの十字架の贖いなしには、神に近づくことができないと信じることを指します。「きよさ」は、神ご自身が与えてくださる一方的な恵みです。ウザのように自分が神の箱を守るかのような行動は、傲慢な「不敬の罪」と言われます。
ダビデはその後、主の御教えに従って、契約の箱をレビ人に担がせ、いけにえをささげつつ、喜び踊りながら、主の契約の箱をエルサレムの城内に迎え入れます。その際に、エルサレムの門に向かって、「かしらを上げよ」と命じつつ、契約の箱の入城を、「栄光の王」の入城として迎え入れます。契約の箱こそ、主がイスラエルの民の真ん中に住んでくださるというしるしだったからです。イエスの時代に契約の箱はエルサレム神殿の中にはありませんでした。人々は、「主の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た」という預言が成就するのを待ち焦がれていました (エゼキエル43:4)。そして、イエスのエルサレム入城こそ、その預言の成就だったのです。私たちは、そのことを覚えて、「栄光の王」であるイエスを私たちの交わりの真ん中に迎え入れるのです。
イエスが、「栄光の王」として、私たちを罪と死の支配から解放するために来られたことを感謝します。神の一方的な恵みに謙遜に応答できますように。
詩篇25篇4〜7、16〜18節「あなたの小道を私に教えてください」
これは、一部不完全ながらも、各節の初めが基本的にヘブル語のアルファベットの順番に並んでいる単体の詩としては最初のものです。それは暗記を容易にするための工夫かもしれませんが、その内容は極めて個人的な訴えです。極めて個人的な内容に、すべての人の心の葛藤に通じる、普遍の祈りが込められるからとも言えましょう。
最初に、主への信頼が歌われますが、4節の祈り、「主(ヤハウェ)よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に知らせてください」こそ、中心的な祈りと言えましょう。
そして、6、7節では、主の「あわれみ」と「恵み(ヘセド:契約の愛)」ということばが繰り返されますが、これこそ、「あなたの栄光を私に見せてください」と大胆に願ったモーセに明らかにされた神の本質であり、そこでは「咎とそむきと罪を赦す者」とご自身を紹介しておられます (出エジプト33:18、34:6、7)。それを前提にここでは、主に「あわれみと恵み」を「覚えてください」と願う一方で、「罪やそむきを覚えていないでください」と願うことになります。同時に、それが「あなたの恵みによって私を覚えてください」という訴えに変わります。「覚えるべき」内容を神に率直に願ったのです。
そして、8節から15節では基本的に、主に信頼する者の幸いが描かれ、その真ん中に、「主 (ヤハウェ) よ。御名のために私の咎をお赦しください。大きな咎を」という訴えがなされます。これは著者が、自分の大きな咎のゆえに、苦しみを招いてしまっていると認識しているからでしょう。そして、16、17節では、自分の切羽詰まった状況を訴えながら、「苦悩のうちから私を引き出してください」と訴えられます。何よりも興味深いのは、「私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください」(18節) と訴えられていることです。そこに「私は既に十分に罰を受けているのですから……」という気持ちが込められます。私たちも、自業自得の苦しみの中で同じように祈ることができます。
主よ、あなたのあわれみと恵みに心より感謝します。私が自業自得で苦しむときにも、どうか、私の罪ではなく、恵みによって、私を覚えてください。
詩篇26篇1〜12節「私を弁護してください」
この詩は、「私を弁護してください」という訴えから始まります。これは多くの英語訳では、Vindicate meと訳され、「私のために裁きを下し、私の正義を明らかにしてください」というニュアンスが込められています。ダビデはサウル王のもとで誠実に仕えましたが、サウルはダビデの評判をねたみ、理由もなく殺そうとしました。そのように、神の公平なさばきが隠されているように思える中で、この訴えがなされています。
自分が受けている苦しみが不当なものと思えるとき、自分の正義を訴えたくなるのは当然の人情です。ただここでは、「私は誠実に歩み……主に信頼したこと」が神によって明らかにされること、また、「私を調べ、私を試みてください」と、神ご自身の公平なさばきに謙遜に委ねようとしているという点にこそ注目すべきでしょう。
しかも、ダビデは、「あなたの恵み(ヘセド:契約の愛)が私の目の前にあり」(3節) と告白しつつ、自分があくまでも、神の恵みと真理(真実)に、謙遜に応答しながら生きてきたと訴えています。ただこれは、「自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった」(ローマ10:3) という、イエスを十字架にかけたユダヤ人の自己義認とは異なります。ダビデは単に、悪者が繁栄し、正しい者が虐げられているという現実に対して、神のさばきが明らかにされることを望んでいるだけなのです。
6–8節でダビデは、神の家における真心からの礼拝の姿勢を大切にすることを宣言します。これは、悪者に対するさばきがまだ明確には見えない中で、なお、主の前に誠実を尽くすと約束することです。「正直者がバカを見るのなら、自分の気ままに生きる方が良いのでは……」などという居直りとは正反対の生き方です。私たちの中には確かに、いろんな醜い思いや不誠実がありますが、神の霊が私たちのうちに働く時、このような告白を真心からできるように導かれます。聖霊のみわざに期待しましょう。
主よ、あなたに敵対する者が栄え、信仰者が虐げられる現実を見ると、心が痛みますが、あなたの公平なさばきが明らかになることにいつも信頼させてください。
詩篇27篇1、4〜8節「私は一つのことを主に願った」
「主 (ヤハウェ) は。私の光、私の救い……」という告白は、私たちが人生の暗闇に囲まれ、神の救いが見えなくなっているときこそ、真実になります。「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」というバッハ編曲のオルガン曲は、街中のBGMでも聞こえることがあるほどポピュラーですが、原曲は1597年に、ドイツの片田舎の牧師フィリップ・ニコライがペストが蔓延し毎日十人もの葬式を出すという苦難の中で、朝早く起きて全精神をキリストに向けたときに生まれたものです。彼はこの4節にあるように、「主 (ヤハウェ) の麗しさを仰ぎ見……思いにふける」中で、イエスの救いの光にとらえられました。そして、キリストが天から降りてきて私たちを祝宴に招くというビジョンが見え、深い感動に満たされました。毎日が地獄のような現実の中で、その意味も分からず、解決の見通しも立たないままなのですが、そのただ中で、神の光に包まれるという救いを体験したのです。そこから生まれたこの曲には心の奥底に希望を生み出すような不思議な力があります。
7節では、著者は必死に神に訴えているのですが、そのただ中で8節では不思議に、もうひとつの自分の心が、神ご自身のみこころ、「わたしの顔を、慕い求めよ」という声を聞かせてくれたというのです。私たちは苦難のただ中で、慌てふためき、周りに混乱をさらに広げるような行動を取ることがあります。しかし、そのときに必要なことは、「今、混乱のただ中で、何ができるか……」に気づかせていただくことなのです。
教会の伝統に、観想の祈り (contemplative prayer) というのがあります。それは、主の御前に自分のたましいを落ち着かせ、思い浮かぶ様々な思いを主に差し出しながら、主の御前に心を透明にして行く祈りです。自分の理性で状況を把握しようとする代わりに、主のみわざに心を開いて行くのです。そこでは、人間の理性では把握しきれない主の御顔にある救いが示され、苦難のただ中に生きる力が生まれることがあります。
主よ、私たちにはすべてのことを把握していたいという思いがあります。私が被造物に過ぎないという現実を受け入れ、神のみわざに心を開かせてください。
詩篇28篇1〜9節「主のさばきを待ちつつ、平和を作る」
1節は差別用語を意識し過ぎると翻訳が難しいですが、神を聾唖者にたとえて、「耳の聞こえない者」「話ができない者」のようにならないでくださいと願った祈りです。
2、3節では、ダビデは自分の祈りの真剣さを訴えながら、自分を悪者たちと区別してくださるようにと願っています。そして、その本質を、「彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪がある」と描きますが、「彼ら」とはダビデの身近な人を指します。
残念ながら、今も昔も、口では「平和」を語っている仲間と思われた人々が、自分にとっての最も恐ろしい敵となることがあります。歴史を振り返ると、ときに教会が和解の福音を語りながら、争いと分裂を引き起こしてきたという悲しい現実も見えます。私たちはそのような時、自分の正義を訴え、相手の間違いを正したいという誘惑に駆られますが、多くの場合、それはかえって争いを加速することになります。
たとえばダビデの生涯の前半ではサウル王が、後半は将軍ヨアブが彼の前に立ち塞がりました (Ⅱサムエル3:39参照)。しかし、この二人がいなければダビデは王になる道も開かれることはなかったはずです。それでダビデは自分が彼らと正面から戦う代わりに、4節の祈りにあるように、すべてのさばきを主にゆだねました。大切なのは、「私の心は主に拠り頼み」(7節) とあるように、すべての心配を主に祈り続けることです。
私たちの人生にも、最高の味方と思えた人が、最大の敵となるということがあり得ます。そのようなときに、自分の知恵と力で対抗しようとするなら、神の民全体を傷つけることになりかねません。すべてを見ておられる神が、ご自身の時に、彼らの悪に報いてくださるようにと祈りながら、9節のように神の民の祝福を祈るべきでしょう。
人は自分の望む「平和」の状態を実現しようと焦り、争いを生み出します。しかし、主ご自身が「羊飼い」として神の民の群れを導いてくださるように祈りましょう。
主よ、多くの人は「平和を語りながら」、争いを引き起こします。どうか、主のさばきが現されることを信じながら、平和を作る者とならせてください。
詩篇29篇1〜11節「主はとこしえの王」
1、2節では三回にわたる「主 (ヤハウェ) に帰せよ」という表現ですべての「栄光と力」を人間ではなく、主に帰することが訴えられます。そして3–9節では六回にわたって「主 (ヤハウェ) の声」ということばが繰り返されます。それは、雷を伴った嵐を象徴したものです。当時のカナンではバアル神が嵐の神としてあがめられていましたが、ここでは主 (ヤハウェ) こそが、雷を伴った嵐を支配しておられることが強調されています。
牧師としての働きを始めてまもなく、働きがまったく実を結ばず、「こんなはずではなかった……」と焦り落ち込みました。証券営業をしていたときには、それなりに労苦が結果に結びつくということがあったので、自分のやり方の何が悪いのかと、いろいろ考えてしまいました。そんなとき、ある大学教授が、葉書にたったひとこと「主 (ヤハウェ) の声は、水の上にあり……」と書いて送ってくださいました。そのとき改めて、「主の声」としての聖書のことばに込められた創造の力に目が開かれました。自分は、「主のことば」を分かりやすく解説することばかりに力が入っていたのではないかと反省させられました。「主 (ヤハウエ) の声は、力強く、主 (ヤハウェ) の声は、威厳がある」(4節) とあるように、主のことばご自身に働いていただくのが自分の使命だと思わされました。
そして今、改めて、「主 (ヤハウェ) の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ」(9節) というみことばが迫ってきました。神の民を生み出す働きは、主のことば自身にあるのです。
「主 (ヤハウェ) は大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主 (ヤハウェ) は、とこしえに王として御座についておられる」(10節) という主の圧倒的なご支配の現実に目が向かいます。私たちに「力」を与え、「祝福」してくださるのは主ご自身のみわざです。海の上のヨットは、大きな風を受けることによって驚くべきスピードで走ることができます。私たちに求められるのは、主の風(霊)を作ることではなく、身を任せることです。
主よ。あなたのみことばで世界が生まれ、保たれています。主の声の力と威厳に働いていただけるように、私たちの心を砕き、整えてください。
詩篇30篇1〜12節「いのちは恩寵のうちにある」
この詩は、主の「家」である神殿奉献の歌です。ダビデは神殿建設を後継者に委ねましたが、その準備には万全を期していたからです。彼は1–3節、自分の個人的な体験を繰り返しながら、それが会衆全体の信仰告白につながるように願っています。そのことが「聖徒たちよ。主 (ヤハウェ) をほめ歌え」という呼びかけにつながります。
5節は、「御怒りはつかの間」なのに対して、「恩寵のうちに一生がある」と訳すことができます。振り返ってみると、神の御怒りを受けて苦しんだと思われる記憶があっても、それを一生涯という期間から見直すと、すべて神の恩寵のうちにあったと思えるようになっています。それが、夕暮れの涙と朝明けの喜びの叫びにつながります。
そして7節では再び、「ご恩寵のうちに」と繰り返され、その中で、「私の山」と呼ばれる「安心の基盤」を「強く立たせてくださいました」と感謝しています。それと対照的に、主が「御顔を隠され」ると、自分がおじ惑うしかないと告白します。
10、11節の「聞いてください……あわれんでください」という祈りと、「嘆きを踊りに変えてくださいました」という感謝の告白を見ると、ダビデが今も苦難の中にあるのか、平安の中にあるかが分からないように思われがちです。しかし、ヘブル語の動詞には英語のような明確な時制の区別はなく、起こっていることを内側から見るか、外側から全体として見るかという観点の違いがあるだけとも言われます。つまり、「嘆きを踊りに……荒布を解き、喜びを私に着せ」というご恩寵は、「私をあわれんでください」という叫びと同時並行的に進んでいるとも言えましょう。私たちも自分の人生を振り返ると、主への叫びと、主への感謝は、同時並行的に進み、全体を振り返ると、「恩寵のうちに」私の生涯は守られていたと告白できるのではないでしょうか。なぜなら、「何でこんな目に……」と悲劇も、すべて神の愛の御手の中で益に変えられているからです。
主よ、私の生涯のいのちが、ご恩寵のうちにあることを感謝します。一時的に涙が宿るときがあっても、あなたの真実な導きを信じられるように助けてください。
詩篇31篇1〜8節「あなたの義によって……」
1節の「あなたの義によって、私を助け出してください」というみことばに真剣に向き合ったときのショックを、宗教改革者マルティン・ルターは次のように記しています。
「神の義、神の法廷、神のわざというみことばに、かつて私は恐怖を覚え、敵意を抱くほどであった。なぜなら、ここでの神の義とは、神の厳しいさばきであるとしか思えなかったからだ。どのようにして、神はご自身の厳しいさばきによって、私を救うことができようか?それでは、私は永遠に滅びるしかない。このことばが、『神のあわれみ』とか『神の助け』であったら、どれほど良かったことかと思った。しかし、神に感謝すべきことに、物事をよく調べると次のように理解できた。『神の義とは、それによって私たちを義とするための義であり、それはキリスト・イエスによって与えられる義である。私はようやく詩篇の文法を理解できた。そして初めて詩篇を心から味わうことができた』」(1540年9月の文章、Luthers Psalmenauslegung(詩篇注解)からの私訳)。
今年は宗教改革500周年記念の年です。そして、プロテスタント教会の基本教理とも言われる「信仰義認」は、ルターが1513年から15年にかけて詩篇講義を続けていた中で生まれたと言われます。ここに、みことばを読みながら、その意味に納得できないときに、真剣に、神に問いかける真摯な姿勢が見られます。そして、そのように自分のうちにあるマイナスの感情を神に訴えられることこそが、詩篇の最大の魅力です。
そのことが、ここでは、ダビデが最初に、「主 (ヤハウェ) よ。私はあなたに身を避けています」と告白しながらも、「私が決して恥を見ないようにしてください……私に耳を傾け、早く私を助け出してください……私をねらってひそかに張られた網から、私を引き出してください」(1、2、4節) と、たたみかけるように訴えることに現されます。
そのような中で、突然、「私の霊を御手にゆだねます。真実の神、主 (ヤハウェ) よ。」(5節) という深い信頼の告白が記されます。この前半は、イエスが十字架上で最後の息を引き取られる直前に、大声で叫んで言われたことばでもあります (ルカ23:46)。それは、人としてのイエスご自身も、想像を絶する苦しみの中で、この詩篇を祈っておられたことを示唆します。そして、その信頼の理由が、「あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました」(7節) と記されています。このように見ると、1節の「あなたの義」とは、明らかに、「私に対する神の真実」と理解することができます。
「神の義」を「神の真実」と受け止められることは、何と幸いなことでしょう。そこにこそ、宗教改革の原点があります。全宇宙の創造主が、あなたひとりの悩みをご覧になり、苦しみを知っておられます。「神の義」が、神の厳しいさばきの基準ではなく、ひとりのあなたに深いあわれみを示してくださる神の真実の愛なのです。
イエスの復活は、「私の霊を御手にゆだねます」と叫ばれたことへの御父からの真実の応答と見ることができます。ですから、あなたの苦しみには必ず出口があるのです。それは、「神は真実な方ですから……試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13) と記されている通りです。神の義、神の真実に心を向けましょう。
「あなたの義によって、私を助け出してください」と、怖じることなく祈ることができる幸いを感謝します。真実の祈りへと私を導いてください。
詩篇32篇1〜11節「私のそむきの罪を、主に告白しよう」
1、2節には罪に関する三つの類語が記されます。「そむき(ペシャー)」とは、支配者に対する反抗、「罪(ハター)」とは、的を外すこと、「とが(アボン)」とは、ねじまげることですが、「とがめ」(5節) とも訳され、誤った行為への処罰の意味を含みます。
この世界で罪人として裁かれながら、神の赦しを体験していることがあります。反対に、この世で「罪」でなくても、神の目に「罪」となることがあります。
「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7) と記されているように、ダビデがウリヤの妻バテ・シェバを奪い、彼を計略にかけて死に至らしめた罪は、その後の家族の争いに見られるように、大きな影を落としました。それでもダビデは「その霊に欺きのない人」と見られています。パリサイ人は自分を義人であると自任することで罪あるものとされ、取税人は「こんな罪びとの私をあわれんでください」(ルカ18:13) と祈ることによって、神の前に義とされたということを忘れてはなりません。
ところで、ダビデは、神の前に自分の罪を認めていなかったときの痛みを、「私の骨々は疲れ果て……骨髄は、夏のひでりでかわききった」(3、4節) と描写します。当時の地獄の苦しみは、炎の中で身体中の水分がすべてなくなってしまう状態で表されます。つまり、彼が味わった苦しみは、神の来るべきさばきを事前に心に知らされたものでした。私たちの心の中には、神の怒りを感じさせる受信機のような機能があり、それは「良心の呵責」と呼ばれます。良心は英語でconscienceと記され、それはラテン語に由来することばです。それは語源的には「共に (con) 知る (science) ことを意味し、自分の中のもう一人の自分、または神の声が自分を非難しているような状態を指します。そして、何よりも注意しなければならないのは「良心」が「麻痺」してしまうことです。
ダビデは、5節で自分から罪を告白したかのように記していますが、彼の告白は、神が預言者ナタンを遣わした後でした。アダム以来の「神のようになった」人間は、罪を素直に認められない現実があるからです。イエスの十字架は、神の側から罪人との和解を望まれたことの現われです (Ⅱコリント5:20)。主はご自身の側からダビデとの交わりを回復したいと思われ、預言者ナタンを遣わしました。しかも、ダビデがナタンの指摘を素直に受け入れることができたのは、彼自身が自分の罪を隠していることの苦しさに耐えられなくなっていたからでした。5節でダビデが主体的に自分の罪を告白できたかのように記される背景には、神ご自身の側から彼をあわれんでくださったことと、神が彼の心の中に良心の呵責という苦しみを与えられたことの両方が作用しています。
6節で、「聖徒は……祈ります。あなたにお会いできる間に」と記されるのは、罪に居直り続けると、良心が麻痺してしまい、神にお会いする道を自分で閉じるからです。ダビデの誠実さは、叱られ、さばきを宣告されても、子供が父親のふところに飛び込むように、神から目をそむけず、神のふところに飛び込み続けたことに現されます。
そして、罪の赦しを体験できた安心感と喜びが、「大水の濁流も……届きません・……救いの歓声で、私を取り囲まれます」(6、7節) と劇的な表現で描かれます。
主よ、どうか、私の罪を示し、それを告白できるように助けてください。あなたのあわれみのふところに、いつでも飛び込めますように。
詩篇33篇1〜12節「正しい者たち、主にあって喜び歌え」
1節で「正しい者たち」「心の直ぐな人たち」と呼ばれるのは、主 (ヤハウェ) にあって喜び歌い、賛美をささげる人のことです。私たちは、しばしば、自分が何らかの良い働きができること自体によって、神から評価され、受け入れてもらえるような気持ちになることがあります。たしかに、この社会では、より大きな貢献ができた人が評価されますが、神の前ではそうとは限りません。それは、私たちの知性も体力も情熱も、すべてのものが創造主ご自身から与えられたものだからです。成功も神のみわざに他なりません。
初代教会の時代、コリントの教会では、互いが自分たちの霊的な賜物や霊性の高さを競い合っていました。そればかりか、指導者たちを自分たちの基準で評価し合い、使徒パウロの宣教によって教会が始まったのに、彼の教えを軽んじて、見せかけの霊性を追い求める傾向がありました。それに対しパウロは、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」(Ⅰコリント4:7) と叱責しました。人と人との関係でも、「恩知らず」は恥ずべきことです。まして、万物の創造主の前で「恩知らず」になることこそが、主を最も悲しませることであることを忘れてはなりません。全身全霊で主に感謝し、音楽を含めたあらゆる賜物を用いて主を賛美することこそが、主に喜ばれることなのです。
6節では、「主 (ヤハウェ) のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」と歌われますが、「ことば」とは神の御子を、「いぶき」とは聖霊を示唆します。しばしば、この箇所は、創世記1章と並んで、天地創造のみわざが、御父、御子、御霊の三位一体の神のみわざであることを説明するために引用されます。それはこの詩が、この地のすべてが創造主のご支配の中にあるということを歌っているということからも大切な視点と言えましょう。御子も聖霊も、創造主として描かれます。
10、11節では、人間の国々の「はかりごと」や「計画」が、主 (ヤハウェ) の 「はかりごと」や「計画」と対比されます。私たちはすべてに先立って、主のみこころを慕い求める必要があります。そうでなければ私たちの計画はむなしく終わってしまうからです。ただし、その際、主のご計画の最終ゴールから目を離してはなりません。それは聖書全体からしたら、明らかに、この世界が神の平和(シャローム)で満たされることです (イザヤ11:1–10、65:17–25、ミカ4:1–5等)。残念ながら、今も、自分の理想を神のみこころと混同し、正義のための「戦い」を繰り広げる人が後を絶たないからです。
平和(シャローム)は全世界の民が、イスラエルの神、ヤハウェを礼拝し、そのご支配に服するようになったときに実現します。「幸いなことよ……神が、ご自分のものとしてお選びになった、その民は」(12節) とあるのは、当時は肉のイスラエルを指していましたが、イエスの十字架と復活以降は、そこに異邦人も加えられた霊のイスラエルを指しています。すべてのクリスチャンは、神によって選ばれた者ですが、そこには使命が伴います。それは、世界の人々を主 (ヤハウェ) を礼拝する民へと招くことです。そのためには、今、私たち自身がまごころから三位一体の創造主を賛美することが必要です。
主よ、私たちがあなたに向けて創造されていることを感謝します。御霊に導かれ、御子の名によって、父なる神を喜び歌うことができますように。
詩篇34篇1〜10節「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」
この詩篇には背景の説明があります (Ⅰサムエル21:10ー15)。ダビデはサウルからの逃亡途中、ペリシテ王の前で正体が知れるのを恐れ、ひげによだれをたらした狂気を装い、命からがら洞穴に逃げこみました。彼はそこで受けた慰めを一つの歌の形にまとめました。各節の始まりはヘブル語のアルファベットの頭文字の順番に並んでいます。彼は、自分が受けた慰めが、すべての子孫の慰めともなることを願っているのでしょう。
「あらゆる時」「いつも」(1節) という繰り返しで、ダビデは、順境ばかりか、逆境の時にも主を賛美すると告白します。キリストの十字架を覚えるとき「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」(Ⅰコリント10:13) という告白に導かれ、同時に、主の復活を覚えるとき、「脱出の道」が常に備えられていると告白できるようになります。ですから「貧しい者は、それを聞いて喜ぶ」(2節) ことができます。
「主を呼び求めると、主は答え、……救い出してくださった」(4節) とは、すべての「救い」のパターンです。しかもそれは、「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」(イザヤ49:23) などのように、日本人に馴染み深い「恥」ということばでも表現されます。ダビデが狂気を装ったことは「恥」でしたが、それを振り返りながら、「主を仰ぎ見る者たちは輝き、その顔は恥を見ることがない」(5節私訳) と告白したのではないでしょうか。
多くの人は「苦しみ」や「人の目」を恐れますが、聖書は繰り返し「主を恐れる」(7、9節) ことを教えます。主はご自分に背を向ける者を厳しく裁かれますが、ご自分にすがろうとする者には豊かなあわれみを示されます。そして、「主の使いは、主を恐れる者のまわりに陣を張り」(7節) とは、たとえば、預言者エリシャがアラムの軍に包囲されたとき、彼の弟子はパニックに陥りましたが、そのとき「主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」というような情景を指します (Ⅱ列王記6:17)。主の使いが、あなたをも守ってくださいます。
「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」(8節) は、古来、聖餐式でよく用いられてことばですが、同時に、日常生活の現実の中で味わうことができる現実です。
「若い獅子」(10節) は、自分の力に頼る者の象徴であり、この世の常識は、人が「若いライオン」のようになることで幸せになれると教えます。しかし、「主を恐れる者」また「主を尋ね求める者」こそが、どんな時にも「良いものに何一つ欠けることはない」という恵みを味わうことが許されるというのです。ここで、「恐れる」と「尋ね求める」が、並行法で同じ現実を表しているのは興味深いことです。「恐れる」は、単に「恐がる」というより、親密さを伴った畏敬の念を含むからです。
苦しみによって人は謙遜を学ぶことができます。もし、神が悪を直接的に滅ぼそうとなさるなら、私は今どこにいるのでしょう?キリストは悪に耐えることによって、私たちを救おうとされました。主のすばらしさを味わい、見つめましょう!そこには悪に対する神のさばきに対する恐れ以上に、罪人を赦す神の愛への畏敬の思いが生まれます。
主よ、キリストの十字架と復活のゆえに、私たちはどんなときにも、主をほめたたえることができます。主のすばらしさを日々の生活で味わう者とさせてください。
詩篇35篇1〜10節「私と戦う者と戦ってください」
私たちはこの世界で、ときに不当な攻撃を受けることがあります。とくに人々の役に立つような良い働きをするときに限って、ねたみによる非難を受けるばかりか、ときに身に覚えのない権力闘争をしかけられることがあります。そのようなときに、「出る杭は打たれる」という諺が心に浮かび、なすべき良いことができなくなります。
そのようなときに、「主 (ヤハウェ) よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください」(1節) と、大胆に祈ることができるなら、謂れのない攻撃に怯えることなく、「これは、今、私がなすべきことだ。主の御守りを信じて、大胆に行動しよう!」と、踏ん切る勇気をいただくことができます。人の目ではなく、神の目を意識して前進するのです。
多くのクリスチャンは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」とか、「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」というイエスのことば (マタイ5:44、39) の意味を誤解しています。そこには、「あなたが自分の敵と戦い、その人を排除しようとしなくても、神がご自身の時に、あなたの敵を黙らせてくださる。報復の連鎖になるような行動を取る代わりに、あなたの敵の必要に応えてあげることで、かえって相手を慌てさせることができるのだから・・・」(ローマ12:19–21参照) という前提があります。
私たちの信仰の父はアブラハムです (ローマ4:16)。そしてアブラハムに対する約束が私たちの約束となっています。そこで神は、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」(創世記12:3) と語っておられます。それは、神がいつでも、私の味方となってくださるという意味です(ローマ8:31参照)それを前提に、この詩での2–6節の祈りがあります。それは、まるで幼い子供がたくましい父親に、「あのいじめっこたちが僕にひどいことをしようとしているんだよ。お父ちゃん、早く助けに来てよ!」とすがっているような、父なる神への信頼の表現と理解すべきでしょう。
「敵のために祈る」とは、神の復讐によって彼らが激しく苦しむのを思い浮かべながら、「神様、そこまでしなくても……」と、執り成すようなものと言えましょう。
7、8節では、まず、私の敵が、ひそかに罠を仕掛け、私を破滅させようとしていると神に訴えますが、それを前提に、「思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕らえ、滅びの中に落ち込みますように」と祈られています。これは、敵たちが私に仕掛けた罠が、彼ら自身を破滅させるという趣旨の祈りです。神のさばきは、彼らを神が攻撃するというよりも、自業自得で苦しむのを見守るということに現されています。それを思い浮かべる時に、神の公平なさばきに信頼して、安心することができます。そのことが、「こうして、私のたましいは、主 (ヤハウェ) にあって喜び、御救いの中にあって、楽しむことでしょう」(9節) と表現されます。主のさばきは、人の目から隠れている私の誠実さや、純粋な動機が正しく評価されるときです。
そして、10節では、私たちの父なる神が、「悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方」と、「私のすべての骨」が感謝する様子が描かれます。私はもう、人の評価や、ねたみ、妨害、罠などを恐れることなく、神のみこころを生きることができます。
主よ、この世界には様々な不条理がありますが、あなたがご自身のときにそれを正してくださることを信じます。どうか、私が、今なすべきことに集中できますように。
詩篇36篇1〜12節「人の罪と神の恵み」
1、2節は翻訳が困難ですが、次のように訳す方が、後の文脈に沿うと思われます。
「そむきは悪者の心の奥底にささやく。その目の前には、神への恐れがない。なぜなら、彼は自分の目で、自分にへつらっているので、自分の咎を見つけて、それを憎もうともしないから」
最初のことばは、「的外れ」を意味する「罪(ハター)」ではなく、神に逆らう「そむき(ペシャー)」と訳されているものの擬人化です。それはエデンの園で蛇が、エバの心の中に神の命令に背く思いを起こさせたことを示唆します。その後、神がアダムに、善悪の知識の木から食べたかどうかを聞いただけなのに、アダムは、その責任は女と、その女を自分の傍に置いた神にあるという趣旨の答えをして、自分の罪を見ようとはしませんでした。自分を神のようにしたアダムの子孫は、自分に関する限りあらゆる言い訳をしてしまいます。そしてそのことが、「彼の目の前には、神に対する恐れがない」(1節) と評されます。使徒パウロは、このことばをローマ人への手紙3章18節で引用しながら、「すべての人が罪の下にある」(同3:9) ということの実例として示しています。
そしてこの3、4節では、彼が不法と欺きを語り、知恵も善も求めず、ひそかに不法を図り、「よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようともしない」と描かれます。
不思議なのは、そのように人の罪を描いた後で、地獄のさばきを描くのとは反対に、神のご支配のもとにある繁栄と楽しみが描かれ (8節)、その原因として、神の「恵み」「真実」「義」「さばき」の素晴らしさが述べられています (5–7節)。「恵み」のヘブル語は「ヘセド」で「変わることのない神の愛」を意味し、「真実」は「エムナー」で「アーメン(それは本当です)」と同じ語根のことば、「義」は「ツェデク」で「正義」またはご自身の契約を守り通す正しさを意味します。そして、「さばき」は「ミシュパート」で裁判というよりも、「正しく治める」ことを意味します。ですから、この四つのことばは、アダムの罪によって「のろわれてしまった」(創世記3:17) と呼ばれる「土地」を、ご自身の測り知れない愛をもって守り通してくださっている神の熱い思いを描いたものです。
ローマ人への手紙3章でも、先の罪の指摘の直後に、神の救いのみわざが語られます。それは、自分を神としたアダムの子孫が、徹底的に自分を偽り、正当化し、神の前にへりくだることができないからです。日本人は、小さい頃から、過ちを指摘してもらって、それを直すことが美徳とされ、欠点を指摘することが親切とされる面があるかもしれません。しかし、反省して、自分を変えることができるぐらいなら、神の御子が十字架にかかる必要などありませんでした。罪の自覚を深めることよりも、神の「変わらない愛」「真実」「正しさ(義)」「ご支配(さばき)」に目を向けることが大切です。もちろん、最後の審判は忘れてはなりませんが、それは神がこの世界を平和に満ちた世界へと変えるために必要なことであり、そこには恐怖よりも、希望を見るべきでしょう。
最後に、「私たちは、あなたの光のうちに光を見る」(9節) とは、私たちの罪を明らかにする神の光は、同時に、私たちをいやす神の光でもあると解釈できます。
主よ、人の罪が世界を壊している中で、あなたの愛に満ちたご支配を感謝します。あなたの愛の光の中で、自分の罪を素直に認め、あなたにあるいやしを望ませてください。
詩篇37篇1〜11節「地に住み、誠実を養え」
私たちはときに、「怒りで夜も眠られない」などということがあるかもしれません。そのようなとき、「仕返しをしてやりたい」と思うのは自然な人間の感情であり、その答えがこの詩に記されています。この全体は一部の例外を除き、四行の組み合わせから成り立ち、段落ごとに意味のまとまりがあります。全体として精巧な組み合わせになっていますから、できたらその全体の流れを見たうえで、最初を深く味わうべきでしょう。
1節は、「悪を行う者に対して熱くなるな」と訳すこともできます。狡猾な人の行動に「腹を立て」なくなったら、「神のかたち」としての人間をやめてしまうことになるかもしれません。これは、「自分を燃やす」ことを諌めたもので、自分で怒りの炎に油をかけ続けることを避ける勧めです。怒りの感情をため込むと、自分の身体を壊し、自分の顔を暗くし、まわりに不機嫌をばらまくことになりかねません。怒りは、自分で抑えるべき悪い感情ではなく、主に訴えてゆくべき人間としての自然な感情です。
そのことが8節では、「怒りを手放し、憤りを捨てよ。熱くなるな」(私訳) と勧められます。詩篇の中には、怒りの感情を、主にストレートに訴えるものが数多くあります (代表例は詩篇94篇、109篇)。それこそが、「怒りを手放し、憤りを捨てる」道です。あなたの感情を優しく受け止めてくれる真の友、カウンセラーこそ、主イエスです。
私たちが悪人に腹を立てるのは、彼らが目的のためには手段を選ばない強引さによって、富を増し加え、権力を握ることがあるからです。「正直者がバカを見る」世の中はあってはなりません。それに対しここでは、「彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」(2節) と断言されます。彼らの繁栄は一時的なものに過ぎません。そのことは10節、20節、35、36節でも同じように繰り返されます。「あのように邪悪な人間をのさばらせては、世の中のためにならない……」などと計画を練っているうちに、悪人は自滅します。そのことが、「悪者はいなくなる」(10節)、「彼らは消えうせる」(20節) 、「彼はもういない」(36節) などという表現で何度も繰り返されています。
3節では、それと正反対の行動が、「主 (ヤハウェ) に信頼し、善を行なえ。地に住み、誠実を養え」と勧められます。「地に住み」とは、ここでの生活を、主が与えてくださった場として積極的に受け止めることです。「誠実を養え」の「養う」とは羊を守り、世話をして育てるという意味の言葉です。「誠実」とは「真実」とも訳され、周りの状況に関係なく、主の前に正しいと思えることを黙々と実行する心の在り方です。私たちはそのような誠実さを自分で見守り、羊を飼うようにはぐくみ育てる必要があります。
4節では、「主 (ヤハウェ) をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」とありますが、私たちは主ご自身ではなく、主がもたらしてくれる成果を喜んではいないでしょうか。そして、「愛」こそ心の奥底にある真の願いです。7節では、「主 (ヤハウェ) の前に静まり、忍んで主を待て」と勧められますが、神は最終的に「誠実」に豊かに報いてくださいます。その報いは、天国でというよりも、この地での祝福として現されます (11節) 。それは、神との豊かな交わり自体から生まれるものです。
主よ、「正直者がバカを見る」という現実があるときに、私たちは腹が立ってたまりません。どうか、その正当な怒りを受け止め、あなたの真実を見させてください。
詩篇38篇1〜14節「私の嘆きはあなたから隠されていません」
この詩は七つ悔い改めの詩篇 (6、32、38、51、102、130、143) のひとつで、「病者の祈り」とも呼ばれます。これはキリストの受難の「記念」と理解され、伝統的に、受難節の始まりの聖灰水曜日に朗読されてきました。これはダビデの最も暗い時代の祈りだと思われます。詩篇32篇で解説したダビデの罪の後、長男アムノンは腹違いの妹タマルを強姦し、その復讐として彼女の実の兄アブシャロムがアムノンを殺し、アブシャロムはダビデから憎まれていると思い込んでクーデターを実行するという一連の悲劇が11年間の間に起こりました。この間、ダビデはただ手をこまねいて、引き篭もっていたかのようです。彼はそのクライマックスでこの詩篇を記したのではないかと思われます。
ダビデは、神の「大きな怒り」、「激しい憤り」、「憤り」という類語を用い、苦しみが神の「怒り」によってもたらされたと嘆いています (1、3節)。それがストレスになって身体全体が病み、自分の骨から「健全(平安、シャローム)」が去ったと言います (3節)。その悲劇の引き金は、「私の罪」(3節)、また「私の愚かさ」(5節) にあると認めています。これは、父親に激しく叱られながら、なお、すがりつこうとする子供の姿に似ています。
ダビデは「私の傷が、うみただれ、悪臭を放ち」(5節) と言います。ほんの一瞬の罪の傷が化膿してしまい、家族全体にまで広がり、彼は打ちのめされ、一日中、嘆いて歩くことしかできません (6節)。「腰は焼けるような痛みに満ち」(7節) とは、感情の座が「腰」にあると見られたからで、自尊心を失った様子を示しています。そして「私の肉には完全なところがありません」(3、7節) という繰り返しで、自分の罪が、身体全体を重い病気に陥らせていると言っています。彼は今、生きる気力さえ失い、心は乱れ、判断力を失い、うめくことしかできません (8節) 。そのような落ち込みのため、ダビデは子供たちが起こした問題に、父親としての責任を果たすことができませんでした。
そのような中でダビデは主を呼び求め、「私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません」(9節) と告白します。彼は今、神の前でためいきをつくことしかできません。しかも、彼の心はさらに動転するばかりで (10節)、目の光も失われ、まさに生ける屍のようになっています。不思議なのは、彼はその自分の状況をこれほど多様なことばで言い表していることです。これは神の霊が、彼の心のうちに働き、ことばにならない絶望感を言い表すように助けてくださった結果です。それこそ、神の御前での呼吸、つまり祈りの本質と言えるのではないでしょうか。
マルティン・ルターは、「この詩篇を、キリストは、ご自身の御苦しみと嘆きの中で祈られた。それは私たちの罪のためであった。」と簡潔に表現しました (Luthers Psalmenauslegungからの私訳)。それこそ福音の神秘です。まったく罪のない方が、私たちすべての罪をその身に担い、罪まみれの罪人の代表者となって祈られたのです。
神の御前に祈るとは、答えが見えないまま、ただ、心の奥底の絶望感を正直に受け止め、それを神の御前に注ぎだすことです。そこでこそ、「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)。
主よ、私が自分の願望をあなたに訴える前に、私が自分の絶望感、心の底のうめきを、祈りとして表現できるように助け、御霊のとりなしを起こしてください。
詩篇39篇1〜13節「私の望み、それはあなたです」
この詩には何の背景も記されていませんので、解釈が非常に困難ですが、10、11節を見ると、著者ダビデは、神からの懲らしめを受け、非常に困惑しています。しかも、その原因は、彼自身の「そむきの罪(ペシャー)」(8節) があったと自覚しています。
1節の訳は、リビングバイブルの訳が原文の意味をよく表しています。彼は神に不平を言いたくてたまらないのですが、神を信じない者が近くにいるので、神の御名を汚す罪になることを恐れて沈黙せざるを得ませんでした。2節の「よいことにさえ、黙っていた」という訳は、英語のESV、NRSでは「I held my peace to no avail(平静を保とうとしても無駄だった)」と訳されていますが、その方が文脈に合っています。2、3節はリビングバイブルの意訳がここの葛藤を最もよく表していると言えましょう。
4節では突然、「お知らせください。主 (ヤハウェ) よ」(私訳) という訴えと共に、自分の終わりについて問いかけながら、再び、「私が、どんなに、はかないかを知ることができるように」と繰り返しています。5節では、「私の日を手幅ほどに」短くされたのは、神ご自身のみわざであると訴えながら、同時に、すべての人に適用できる現実として、「まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです」と告白されます。
6節の最後は、「だれがそれを集めて自分のものにするのかを知りません」という意味で、リビングバイブルによる意訳の方が印象的かと思われます。伝道者の書5章11–14節では、「財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない……富む者は満腹しても、眠りを妨げられる……蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない」と記されています(「正しすぎてはならない―伝道者の書の翻訳と解説」からの訳)。
ダビデはイスラエル王国を安定させた途端、高慢になって罪を犯し、それが子供たちの罪につながり、彼も一時、エルサレムから逃げ出さざるを得なくなりました。その子のソロモンも上記のような真理を分かっていながら、高慢になって民を苦しめ、後の王国分裂の原因を作りました。私たちはこの世的な成功の下に隠れている罠にいつも目を見張る必要があります。ダビデは、神の懲らしめを受けた結果として、「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」(7節) という心からの告白が生まれました。ダビデは、神ご自身との交わり自体を喜んでいるのです。
ただ、彼にとって、今の状況は、あまりにも苦しいものなので、この詩の終わりにかけて、なお大胆に神の救いを求めて、必死に祈っています。そこでは、神に対する不平のようなことばではなく、子供のような気持ちで、「助け出してください」、「愚か者のそしりとしないでください」(8節)、「あなたのむちを私から取り除いてください」(10節) 、「私の祈りを聞いてください……叫びを耳に入れてください……黙っていないでください」(12節) と、泣きすがっています。ダビデは苦しみのただ中で、神の永遠のご支配の現実と自分の人生のむなしさを知りました。ただそこで、自分で自分を納得させようとするのではなく、必死になお、主にすがっています。これこそ神との対話です。
主よ、この世的な成功のむなしさをお知らせくださり感謝します。しかし、私は目の前の苦難が恐ろしいです。どうか、引き続き、愛の眼差しを注いでください。
詩篇40篇1〜11節「巻物の書に私のことが書いてあります」
この詩の6–8節は、意外にも、キリストの贖いのみわざとしてヘブル人への手紙10章5–7節で引用されていますが、その前後を含め次のように記されています。
「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。『あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました……さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』……このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです」(ヘブル10:4–7、10)。
この詩の「あなたは私の耳を開いてくださいました」が、ヘブル書では「あなたは……わたしのために、からだを造ってくださいました」と、キリストの受肉を示唆する表現に変えられています。それは、イザヤ50章5、6節にある苦難のしもべとして生きるためでした。そこでは、「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」と記されています。それは、永遠の神の御子が私たちと同じ「血と肉」を持つ身体となったことで可能になりました (ヘブル2:14)。イエスは貴い血を流し、死んで復活し、天に上り、大祭司となられて、私たちが「大胆にまことに聖所に入ることができる」ようにしてくださいました (ヘブル10:19)。
イエスは十字架に向かいながらこの詩のことばを心から味わっておられました。1–3節の「主は……私の叫びを聞き、私を滅びの穴から……引き上げてくださった……私の口に……われらの神への賛美を授けられた」とは、父なる神がイエスの十字架上の叫びを聞かれて、復活させてくださったことを示唆します。まさに、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに……十字架を忍び、神の右の座に着座された」(ヘブル12:2) と記されている通り、イエスは「喜び」を見ながら、苦難に向かって行かれたのです。
9節の「私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました」とは、復活のイエスが弟子たちに現れ、そこから全世界に神への賛美が広がったことを意味します。ここでの「義の良い知らせ」とは、「主に信頼」(4節) する歩みに、主はご自身の義をもって報いてくださるということです。10節では、私たちを救ってくださる主のご性質が、「あなたの義」「真実」「恵み(契約の愛)」「まこと(偽りのないこと」と描かれます。イエスの信頼に豊かに報いてくださった神が、あなたの信頼の歩みに報いてくださいます。
ただし、私たちはこの詩を、キリスト預言としてと同時に、キリストの御跡に従うための励ましとして読むべきでしょう。イエスはこの詩にご自身の使命を見出されました。そして、私たちもここに自分の使命と望みを見出して前進することができます。
巻物の書であるこの詩やイザヤ50章は、イエスのことであると同時に「私のこと」でもあります。ですからヘブル書の著者は、それを前提に、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(12:2) と私たちに勧めています。
イエス様、あなたがこの祈りをご自身の祈りとされて十字架に向かわれたことを感謝します。同じ「巻物の書」に記されている私自身の歩みを豊かに導いてください。
詩篇41篇1〜13節「弱った者に心を配る幸い」
この詩は4節から9節にダビデの苦悩の中での「うめき」が記されながら、最初と最後で主への賛美と、信頼が歌われています。苦難の中にも確かな望みがあります。
1、2節は私たちがそのまま暗唱すべきことばです。多くの人々が生きがいを求めていますが、それは単純に、「弱っている者に心を配る」ことから生まれます。そのような人を主は「見守り……生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる」と約束されています。ただ、同時に、そのようにあわれみに生きる人を、「病の床」においても、主は「ささえ」てくださると言われます。3節の後半は、「嘆願」ではなく、「彼が病むときにも、あなたは全くいやしてくださいます」という約束として解釈するのが一般的です。
4節は、「私は」ということばが強調されながら、語ったことばが、「主 (ヤハウェ) よ、あわれんでください……私はあなたに罪を犯しかからです」と、主の御前にへりくだって、すがる祈りが記されています。それは、「私の敵」が私を「見舞いに来た」ふりをしながら、外では「悪口」を「言いふら」しているからです (5、6節)。そればかりか、「私を憎む者」は、私の死を喜び期待するようなうわさ話をしています (7、8節)。
9節の「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとをあげた」という表現は、裏切られることの痛みを率直に描いたものです。ヨハネによる福音書13章18節では、イエスは最後の晩餐の席で、このみことばを引用しながら、ユダの裏切りが、聖書の「成就」であると言われます。ただそれは、ユダの裏切りが、神によって動かされたものであるというような意味ではなく、それは聖書に記された人間の罪深さの現われであり、起こるべくして起きたことと受け止めるという意味です。
10節は「親しい友」の裏切りに悲しみながらも、「しかし、あなたは、主 (ヤハウェ) よ」と呼びかけながら、「あわれんでください」と、視点を変えて、訴える姿勢です。悲惨を嘆く代わりに、主の助けに期待するように変わっています。続く言葉は、「そうすれば私は、彼らに思い知らせることができます」と訳した方が良いでしょう。新改訳での「仕返す」という動詞の語源は、シャローム(平和)と同じことばで、「帳尻を合わせる」というようなニュアンスであり、具体的な復讐の行為をすることではないからです。その結果が、「このことによって……私の敵が私に勝鬨をあげない」(11節) と記されます。そして、12節の原文は、4節と同じように「私」ということばの強調から始まり、「誠実を尽くしている」自分の姿勢に主が豊かに報いてくださるように祈っています。
イエスは、山上の説教で、弟子たちに向かって、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」(マタイ5:7) と言われましたが、それこそこの詩の要約とも言えましょう。私たちは、罪が支配するこの世の中で、病気の中で陰口をたたかれ、不幸を「いい気味だと」あざけられ、親しい友の裏切りまで体験することがあるかもしれません。しかし、自分が体験した痛みを通して、人の痛みを理解できるようになり、その分だけ、人に優しくなることができるというのが、主のみこころです。自分が味わった痛みを、人の痛みに寄り添うための契機とする者を、主は喜んでくださいます。
主よ、人の中傷や裏切りに痛むことがあっても、その中で、あなたに向かって祈る者とさせてください。そして、苦難を通して、人の苦難を理解させてください。
詩篇42篇1〜11節「神を待ち望め」
作者は、自分の心の中に、「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」ような、激しい「渇き」があると告白します (1節私訳)。当地での日照りでは、「青草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる」(エレミヤ14:5) ほどに、鹿の渇きは切実でした。そして、その水は深い谷底にあり、鹿はそれを遠くに見て、「慕いあえぐ」ことしかできません。同じように作者は、「生ける神」を遠く感じて、「渇いて」います (2節)。
2、3節の、「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」という嘆きは、彼がエルサレム神殿とその礼拝の交わりから遠ざけられ、異教徒たちの間に住み、一日中「おまえの神はどこにいるのか」とあざけられていたことを前提に記されています。
その中で、かつて自分がエルサレム神殿での礼拝をリードし、「喜びと感謝の」賛美の中を先頭に立って歩んでいた体験を、遠い昔のことのように感じ、たましいを注ぎだして祈っています (4節)。その際、著者は、「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか(新改訳第二版では「絶望しているのか」)」(5節) と、自分のたましいの現実を正面から受けとめようとしています。多くの人々は、絶望を意識化できないからこそ、無意識に閉じ込められた絶望感に駆立てられ、目標もなく走り回り、この世の成功や快楽によって心を満たそうとしているのかも知れません。
この詩篇の第二部は、「私のたましいはうなだれています」(6節) との告白から始まります。彼は、神の神殿があるエルサレムから遠く離れた当地の北の果て、ヘルモン山のふもとに置かれているのですが、そのような絶望の中だからこそ、「それゆえ……私はあなたを思い起こします」と敢えて表現します。その際、かつて水のない渇きを感じた彼は、反対に、水が多すぎること、大滝に呑み込まれる恐怖を味わいながら、それを「あなたの波」と呼び、神のさばきと受け止めています (7節)。
そこで突然、「昼には、主 (ヤハウェ) が「恵み(変わらぬ愛)を施し、夜には、その歌が私とともにあります」(8節) と不思議な感謝へと百八十度転換します。そして、「私のいのち」はこの神との交わり自体、「祈り」にあると告白しています。つまり、「もう駄目だ!」と思ったその時、神を身近に体験できたというのです。それは、絶望と神の臨在の体験は、しばしば隣り合わせにあることを示しています。
さらに、その時こそ、「なぜ……私をお忘れになったのですか。なぜ、私は敵のしいたげに嘆いて歩くのですか」(9節) と自分の気持ちを正直に訴えることができます。私たちもこの詩に自分の思いを潜め、心の底にある絶望感に耳を傾け、それを告白するとき、不思議が起こります。イエスがこれを祈られ、十字架でその気持ちを味わい尽くされたからです。そのとき、あなたはイエスと一体化しているのです。
そして、暗闇の中でイエスに出会うとき、そこには反対に喜びと希望があふれてきます。その結果、「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を」(11節) という告白が生まれます。ですから私たちは、この世の悲惨に目を閉じることなく、絶望的な状況にも立ち向かって向かって行くことができます。
主よ、あなたが私たちの心の奥底にある絶望感をやさしく受け止めてくださることを感謝します。自分の気持ちを正直に受け止め、それを祈りに変えられますように。
詩篇43篇「神よ、私のためにさばいてください」
この詩は、先の42篇と明らかにセットになっています。ここで著者は、まず最初に、まわりの現実に再び目を向けながら、「神よ、私のためにさばいてください」(1節) と必死に祈ります。聖書の中では、「さばき」ということばはしばしば、神の敵、また信仰者の敵に対して用いられていますが、ここでも「私の訴えを取り上げ……欺きと不正の人から私を助け出してください」と訴えています。
そして、「あなたこそ、私の神、私の隠れ場です」(2節私訳) と告白しながら、再び「なぜ……私を拒まれたのですか」と自分の絶望感を訴え続けます。それはイエスが十字架上で感じておられたお気持ちでもあります (マタイ27:45、46)。また、それは自分が敵の前にいかに無力なものであるかを謙遜に認めることです。ですから著者は続いて、「あなたの光と、あなたのまことを遣わしてください」(3節) と願いました。私たちにとっては、イエスこそ、「光」であり、「まこと」です。そしてこれは、イエスと同じ助け主である聖霊が遣わされるようにとの祈りでもあります。
何と多くの人々が、表面的な笑顔の奥底に、底知れぬ絶望感を抱えながら生きていることでしょう。その意味で、自分の無力さを真正面から受け止め、絶望感を深く味わいながら、主に必死に叫ぶことこそ、いのちの始まりです。それこそ、サタンの敗北、神の勝利なのです。私たちの真の敵は、人間ではなくサタンです。十字架はサタンの勝利と見えましたが、復活ですべてが逆転しました。この地に見えるのは、サタンの最後の悪あがきに過ぎません。神の正義の実現は目前です。
作者は、神の「光」と「まこと」によって、神の神殿に戻され、喜びと感謝に満ちて礼拝することを願います (3、4節)。同様に、私たちにとっての真の希望は天のエルサレムです。私たちはこの地にいる限り、旅人であり寄留者として、神との交わりへの「渇き」を持ちつづけます。しかし、神の御顔を直接に仰ぎ見るという「救い」は、既に保証されています。ですから、偽りの「新しい時代」(ニューエイジ)、「うお座」に続く「水瓶座の時代」が提供する霊的な恍惚感に惑わされる必要はありません。「渇き」を覚えたまま「絶望」を味わうことが祈りの始まりであれば良いのです。
しかも、神が造られたこの世界に関心を持ち、人の痛みに耳を傾け、ともに「うめく」ことから「愛」が始まります。ローマ人への手紙8章22–26節には、「被造物」、「私たちの心」、「御霊」による「うめき」の三重奏とも言える状態が描かれていますが、それは、世界に愛が広がり、世界に平和が実現するという過程でもあります。
私たちは、矛盾に満ちた地に遣わされるのですから、ときに落ち込み、絶望感を味わうことがあるのは当然です。しかし、それに呑み込まれて、自己憐憫や被害者意識の中に閉じこもる必要はありません。自分の気持ちを優しく受けとめつつ、「なぜ、……うなだれているのか」と、自分のたましいに語りかけ、その気持ちを神にゆだねることができます。イエスご自身がこの詩篇を生きてくださいました。私たちもその御跡に従います。暗闇は、光を輝かせる舞台に過ぎないのです。
主よ、私たちは世界の不条理を見ながら、それに怒り、同時に無力感を覚えることがあります。そのようなときに、あなたの「さばき」を求められることを感謝します。
詩篇44篇20〜26節「起きてください。主よ。」
ある人がユダヤ人のラビに、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じることができるのですか」と聞いたところ、ラビは長い沈黙の後、聞き取れないほど小さな声で、「アウシュビッツを経験した後で、なぜあなたは神を信じないでいられるのですか」と反対に聞いたとのことです。それこそ祈りの神秘です。この詩の著者は最初に、先祖の時代には神が圧倒的な救いのみわざを示してくださったことを思い起こしながらも、今は、神ご自身が自分たちを苦しめていると訴え、「あなたは私たちを拒み、卑しめました……私たちを食用の羊のようにし、国々の中に私たちを散らされました。あなたはご自分の民を安値で売り、その代価で何の得もなさいませんでした」(9–12節)と、神を責めるかのように表現します。ただ、それでも、著者は、「神の名を忘れ」ることも、「ほかの神に手を指し伸ば」すことも自分たちはしなかったと告白します (20節)。著者はその上で、神に従うことの苦しみを、「だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。私たちは、ほふられる羊とみなされています」と表現します。
使徒パウロはそれを引用しながら、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです」と記しています (ローマ8:3、36)。
そしてこの詩では、それに続いて、「起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。いつまでも拒まないでください」と、神がご自身の御顔を隠し、「私たちの悩みとしいたげを」忘れておられることに抗議しています。
私は、昔、遠藤周作の「沈黙」という小説に不安を掻き立てられました。そこには江戸時代初期、巧妙な迫害に耐えられなくなって自分の信仰を否認した宣教師の姿が描かれています。しかし、そのような神の沈黙に抗議する祈りがここには記されているのです。多くの人々は、パウロのような偉大な信仰者は、苦しみのただ中でも、「ハレルヤ!」と神を賛美し続けていたと思うでしょうが、実際は、「起きてください。主よ……いつまでも拒まないでください」と、泣きながら神に訴えていたのではないでしょうか。
しかし、そこには不思議な展開が見られます。パウロは先の手紙ではその直後に、「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者とされています」と告白しているからです(ローマ8:37下線部私訳)。これは、既にパウロが体験していた霊的な事実です。なぜなら、苦しみのただ中で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ十字架のイエス (マタイ27:46) を身近に感じることができた者は、死に打ち勝った復活のイエスとも一体とされていることを確信できるからです。神の沈黙に直面することは、神の民にとっての常とさえ言えるかもしれません。しかし、私たちはそこで、「起きてください。主よ」と自分の気持ちを正直に訴えることが許されています。そして、それが霊感された祈りであるからこそ、そこでキリストの十字架と復活にある勝利を確信できるのです。
主よ。あなたが私たちの悩みを受け入れ、それを祈りに変えてくださる方であることを感謝します。どうか私たちの心の底の不信感を、信頼へと変えてください。
詩篇45篇1〜9節「あなたの王座は限りなく」
この詩の標題の最後には「愛の歌」と記され、1節では著者が「王」のためにこの歌を作ったと、その背景が説明され、9節では「王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ」と記されていることから、「王の結婚式」の歌とも呼ばれます。
ただ、不思議にもヘブル人への手紙1章8、9節においては、この詩の6、7節が引用されながら、御子が神の栄光に輝き、御使いたちよりもさらにすぐれた、御使いにとっての礼拝の対象であることの証拠として引用されます。つまり、この歌は、直接的には、王の結婚式のために作られたものでありながら、ダビデの子としての救い主のご支配を預言したものとして、初代教会の人々には理解されていたのです。そして、この歌が神への不満を祈った44篇に続くものとして配列されていることは興味深いことです。「神よ、どうして……」と祈った後に、理想的な王の出現が歌われているからです。
2–5節には、王の「麗しさ」「尊厳」「義の勝利」が歌われています。そして5節の「国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う」という表現は、先の詩篇44篇10–14節で、神の民が敵からかすめ奪われ、食い物にされ、物笑いの種とされていると描かれていることと驚くほど対照的です。イスラエルの民がそのような悲劇にあったのは、何よりも、ダビデに続く王たちが、神によって立てられた王としての自覚に生きていなかったからです。その意味で、詩篇45篇は、イスラエルの民が苦難の中で、本来の王の姿に憧れながら歌われたもので、その意味で、真のダビデの子としてのキリスト預言として理解されるのは、極めてこの詩篇の文脈に合っていると言えましょう。
6節の「神よ」という呼びかけは、「王」に向けてのものと思われます。なぜなら、7節では、「神よ、あなたの神は喜びの油を……あなたに注がれた」と、王が「神」と呼ばれ、その王の神が、王に油を注いだと記されているからです。イエスご自身も、聖書が「神のことばを受けた人々を、神々と呼んだ」と言っておられます (ヨハネ10:35) 。なお「神」も「神々」もヘブル語にするとエロヒームという全く同じ単語になります。
6節では「あなたの王座は世々限りなく」と歌われますが、これはダビデが神の住まいとしての神殿を建てると申し出たときに、反対に、神ご自身がダビデのために「一つの家を造る……あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:11、16) と約束してくださったことを思い起こさせます。そして、ここでダビデの王座の支配が「公正の杖」と呼ばれるのは、詩篇2篇9節で、「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き」とあるように王の力ある支配を意味します。そのことが7節では、「あなたは義を愛し、悪を憎んだ」と記されます。そして「救い主」このような理想的な王として登場されたのです。
8–15節には喜びと栄華に満ちた結婚式の情景が描かれます。それは黙示録19章6–9節では、「小羊の婚宴」として実現すると約束されています。そこでは、「われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう……花嫁は、光輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」と記されています。これこそ、すべてのクリスチャンに約束された栄光のゴールです。
主よ、私たちの救い主イエスが、ダビデの子として現れ、愛の支配をこの地に実現してくださる王であることを感謝します。私たちをその支配の完成のためにお用いください。
詩篇46篇1〜11節「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」
この詩は、エルサレムが死海の東側にある国々の連合軍からの攻撃にさらされ、絶体絶命になった時に生まれたと推測されます(BC850年頃)。Ⅱ歴代誌20章にはその時の様子が記されます。ユダの王「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主 (ヤハウェ) に求め」(3節)、「このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません……どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」(12節) と祈りました。私たちも恐れを感じる時、これらの姿勢に習いつつ、ただ神に目を注ぐべきでしょう。そしてこの時、主 (ヤハウェ) の霊が預言者に臨み、「この戦いは……神の戦いである……主 (ヤハウエ) の救いを見よ」(14–17節) と告げられます。「それで……コラ族のレビ人たちが……大声を張り上げてイスラエルの神、主 (ヤハウェ) を賛美した」(18、19節) というのです。
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(1節) とありますが、その後の、「それゆえ……」(2節) ということばが大切です。危機に直面すると身体が反応しますが、自分で恐れを鎮めようとせず、神に目を向けます。その結果、「われらは恐れない」と告白できるのです。「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも……山々が揺れ動いても」(2、3節) とは足元が崩れ去ることの象徴的表現です。起こり得る最大の悲劇を想定しながら、それらすべてを支配する創造主に目を向けるのです。
4節の初めは、「あっ。川だ!」という驚きです。エルサレムは山の上にあり、攻撃されると水が生命線です。終わりの日に、神殿から水が湧き出て、四方の地をエデンの園のように潤すと預言されているように (エゼキエル47章) 、神こそが生命の水の源です。
しかも、神が「そのまなか」におられる都は揺らぐことがありません。「神は夜明け前にこれを助けられる」(5節) とありますが、それは二度も起きました。ヨシャパテ王の時、主は伏兵を設けて敵の連合軍を同士討ちにさせ、全滅させました。その約150年後のヒゼキヤ王は、アッシリヤ帝国に包囲され、「祈りをささげ、天に叫び求めた。すると、主 (ヤハウェ) はひとりの御使いを遣わし・・アッシリヤの王の陣営を・・全滅させ」(Ⅱ歴代32:20、21) ました。それを前提に、「国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ……神が御声を発せられると、地は溶けた」(6節) と神の救いが描かれ、世の不安定さが「山々が海のま中に移る(原文:揺らぐ)」(2節) と描かれ、その対比で「その都は揺るがない」(5節) と記されます。それこそ「万軍の主」が「まなか」におられることの意味です。
「やめよ」(10節) とは、「そのままにしておく」という意味で、新共同訳は「力を捨てよ」、英語は「Be still(静まれ)の訳が一般的です。水中で、もがけば沈み、力を抜くと浮き上がります。私も自己弁護に一生懸命だった時、ふと「神の支えは、沈むに任せると体験できる!」と示されました。そして、原文では、「知れ」という命令が続き、その内容が、「わたしこそ神。国々の間であがめられ、地の上であがめられる」と述べられます。「あがめる」とは、「高い」の派生語で、神が万物の創造主として、今もすべての政治、地の出来事の上におられ、すべてを支配しておられるという意味があります。不安に圧倒されるようなとき、何よりも大切なのは、「やめよ!」との御声を味わうことです。
主よ、自分にとって「世界の終わり」と思えるような危機にあっても、右往左往するのではなく、「やめよ、そして知れ、わたしこそ神」との声を聞かせてください。
詩篇47篇1〜10節「神は喜びの叫びの中を……上って行かれた」
多くの人々は、神がおられる「天」と、人が住む「地」は隔絶していているかのような世界観を抱いています。そこでは、神が天から地を見下ろし、必要と思われる時に、手を差し伸べ、私たちを助けてくださると理解されます。そして、人の住む世界に神の御手が差し伸べられることを「奇跡」と呼びます。そして、そのような不思議を体験できるために、私たちは熱心に神に仕え、また神に祈る必要があると考えられます。
ところが、この詩では、「神は喜びの叫びの中を、主 (ヤハウェ) は角笛の音の中を、上って行かれた」(5節) と不思議な表現があります。これは、イスラエルの王となったダビデが、エルサレムを都と定め、そこに主の契約の箱を運び入れたことを指しています (Ⅱサムエル6章)。その際のことが、「ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主 (ヤハウェ) の箱を運び上った」(同15節) と記されています。つまり、聖書の描く神は、ある特定の場をご自身の住まいとされ、そこから世界を治めておられるのです。そのことが。ここでは、「神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる」(8節) と記されます。そして、その王座はエルサレムにあると思われていました。
先の詩篇46篇では、「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」(5節) と告白され、エルサレムが敵の圧倒的な攻撃の中で守られたことが思い起こされました。しかしその後、イスラエルの民は、周辺の強い国々の神々を拝むことで自分たちの安全を図ろうとしました。そのような中で、主 (ヤハウェ) の栄光は神殿を去って行かれます (エゼキエル10:18、11:23)。なぜなら、「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22:3) と記されるように、神は偶像礼拝者の中に住むことはできないからです。ですからこの詩では、「喜びの声をあげて神に叫べ……神にほめ歌を歌え……われらの王にほめ歌を歌え……神は全地の王、巧みな歌でほめ歌を歌え」と、心からの賛美が勧められています。主の契約の箱は、ダビデが「はねたりおどったり」(Ⅱサムエル6:16) する中でエルサレムに上り、それがイスラエルの繁栄の礎になったのでした。
しかし、イスラエルの民は、主の栄光が去って行かれたことに気づかず、主のみこころを慕い求めようともせずに、「主 (ヤハウェ) が私たちの真ん中におられるから、バビロン帝国など恐れる必要はない!」などと強がっていました。心が神から離れているのに、同胞の手前では、神に信頼するふりをして、エレミヤのように神のさばきを告げ知らせる預言者を、不信仰な売国奴かのように非難していました。しかし、神が求めていたのは、見せかけの信仰ではなく、徹底的にへりくだって、主を慕い求めることでした。
今の神の神殿とは、キリスト者の交わりそのものです (Ⅰコリント3:16)。イエスご自身も、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20) と保証してくださいました。イエスに名によって集まるとは、強がりを捨て、自分の罪と弱さを認め、主の贖いのみわざに感謝することに他なりません。そして、主は私たちの交わりのただ中に入って来られ、そこから周囲の世界を治めてくださいます。何より大切なのは、日々、主の御前にへりくだって、主を賛美することです。
イスラエルの賛美と私たちの交わりを住まいとされる神に感謝します。いつでもどこでも、イエスの御名によって集まり、互いと世界のために祈る者とさせてください。
詩篇48篇「シオンの山は大王の都」
詩篇には六つの「シオンの歌」と分類されるものがあり (46、48、76、84、87、122)、この詩はその中で最長で、「神の都」(1節)、「大王の都」(2節) と呼ばれるものの「麗しさ」を最も印象的に描いています。現代人にとっては、「シオンを巡り、その回りを歩け……その宮殿を巡り歩け」(12、13節) と言われても、「それに、何の意味が……」と言われそうに思われます。しかし、これを聖書全体から見ると、違った視点が与えられます。
主がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、シナイ山のふもとに導き、地に降りて来られる情景が、「シナイ山は全山が煙っていた。主 (ヤハウェ) が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた」(出エジプト19:18) と描かれていました。神は、それほどに聖なる、近づきがたい方なのです。そして、その神が、彼らの真ん中に住むために、幕屋を作るように命じられ、その完成したときの情景が、「雲は会見の天幕をおおい、主 (ヤハウェ) の栄光が幕屋に満ちた」(同40:34) と、再び近づきがたい栄光として描かれます。そして、彼らは幕屋の心臓部である「契約の箱」を先頭に約束の地へと旅を続けますが、その際、モーセは、「主 (ヤハウェ) よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように」(民数記10:35) と述べます。それが実現した結果、エルサレムが神の都になったのでした。主がエルサレムに住まわれるとは、そこが全宇宙の中心となって、世界に神の平和(シャローム)が広がることを意味します。
2節の「北の端なるシオンの山」とは、イザヤ14章13節で、「北の果てにある会合の山」と記されるように、地理的な北の端ではなく、天の神の座を指します。そして、その天の「宮殿」を地に現した「本物の模型」(ヘブル9:24) が、神の「宮殿」(3、13節) としてのエルサレム神殿でした。ですから、その前で神の敵たちは「おじ惑って急いで逃げた」(5節) というのは当然です。そして、神の「誉れ」は「地の果てにまで及んでいます」(10節) と告白され、「あなたのさばき」(11節) と呼ばれる神のご支配は、全世界に及ぶのです。それは、神が、この世界の不条理を上からただ眺めて、終わりの日にさばくというのではなく、民族の対立と腐敗に満ちた世界の中心に住んで、そこから世界を造り変えることを意味します。神はこの世を愛しておられるからこそ、ご自身の御子を、世をさばくためではなく、救うために遣わされたのです (ヨハネ3:16、17)。
そして今、聖徒の交わりとしての「教会は、キリストのからだ」と呼ばれ、「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり……ともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなる」と記されます (エペソ1:23、2:21、22)。ですから、「シオンを巡り」その「麗しさ」を賛美するとは、聖徒の交わりとしての教会を喜ぶことにつながります。ただ、地上のエルサレムが世界の矛盾の中心になるように、教会にも問題が満ちるでしょう。しかし、私たちはそれを、神がこの世界の矛盾のただ中に住まおうとされたという観点から見て、そこに希望を見出すことができます。罪人のただ中に聖なる神が住まわれ、愛の交わりを世界に広げて行かれるのですから。
主よ。太陽の創造主であるあなたが、この地を溶かすことなく、ここに住まわれるという不思議に感謝します。そこに、矛盾に満ちた世界の救いの希望を見させてください。
詩篇49篇5〜20節「人は……滅びうせる獣に等しい」
この詩は知恵の詩篇の代表で、詩篇37篇、73篇と同じテーマを扱っています。それは、創造主を無視して生きながら、この世の栄華を誇る者の結末の空しさです。この詩の12節と20節は、「とどまれない」「悟りがない」というヘブル語で似た発音のことばを挟みながら、「人はその栄華の中にあっても、(とどまれなければ)(悟りがなければ)、滅び失せる獣に等しい」と繰り返されます。そして、その真ん中に15節のこの詩篇作者の感謝のことば、「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ」が記されています。この構成を何よりも味わいたいものです。
この5–9節では、この作者は何らかのわざわいに会いながら、かえってまわりの人々から中傷されます。彼らは自分の富を誇りながら安心しています。しかし、そのような中で、作者は、すべての人を支配する「死」の現実の前に、富は何の役にも立たないことを改めて解き明かします。そして、10、11節では、多くの人が、その死の空しさを、自分の家や土地を後の世代に受け継がせることで、乗り越えようとすると描かれ、12、13節で、そのようなことは何の役にも立たないばかりか、その栄華がやがて消え失せるという現実の中では、人は「滅び失せる獣」と何も変わりはしないと告白します。
そのような現実を前に、16、17節では、富や栄誉に囚われがちな私たちに対する警告のことばが、「恐れるな。人が富を得ても、その人の栄誉が増し加わっても、人は死ぬとき、何一つ持って行くことはできず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ」と記されます。私たちは、競争社会の中で、この永遠の真理を心に刻むべきです。
人は誰でも、葬儀になると急に宗教的になるような気がします。それは、人はみな心の奥底で死を意識しながらも、それを忘れるようにしているからではないでしょうか。しかし、自分の人生が、暗闇に向かっているのか、光に満ちた世界に向かっているのか、その方向性がどちらかを知ることで、現在の生き方が大きく変わってくるはずです。
義人ヨブは、不条理な苦しみの中で、「私の生まれた日は滅びうせよ」と自分のいのちをのろってしまいますが (ヨブ3:1–3)、不思議にも、そのどん底で、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る」(ヨブ19:25–27) と告白するように導かれ、さらに神との対話を続けます。そして、主は、ヨブがその三人の友人のように自分の悟りに頼らず、神に必死に訴え続けたということ自体を喜んでくださいました。その結果、彼は復活のいのちを生きて味わったのです。
この詩篇作者もヨブも、苦しみのただ中で、自分のたましいを死の支配の奴隷状態から贖い出してくださる方に出会うことができました。私たちの場合は、イエスを自分の人生の主と告白させていただけたことによって、すでにキリストにある復活のいのちを生き始めることができました。これこそ、私たちが何よりも感謝すべき「さとり」(20節) です。キリストのうちに生かされている者の人生は、すでに、「やみ」から「光」へと移されています。私たちは恐れることなく、神の御顔を拝させていただけるのです。
主よ、この世界は、富と栄誉を獲得するための競争に明け暮れています。その空しさを知らせていただき感謝します。神の御顔を拝することを日々、意識させてください。
詩篇50篇1〜15節「わたしの聖徒たちを……集めよ」
神を礼拝する際、人はときに神へのささげ物を、神の特別な恵みを受け取るための取引かのように考えることがあります。特に「全焼のいけにえ」の場合は、主の前ですべてを焼き尽くすので、礼拝者には大きな犠牲が伴います。当時の礼拝の中心は、何よりも、いけにえを献げる儀式にありました。しかし、今も昔も、礼拝とは、天地万物の創造主が、私たちを「聖徒」と呼んで、集めてくださることから始まるのです。
冒頭のことばは原文の順番では、「神々の神ヤハウェは語り、呼び寄せられた。地を、日の上る所から沈む所まで」と記されています。そこには、イスラエルの神が、地のすべての神々を超越する方であるとの意味が込められます。そして、「麗しさの極み、シオンから、神は光を放たれた」(2節) と、シオンが神の住まいとなっていること、また、神の現れが「食い尽くす火」「激しいあらし」という恐れに満ちたものとして描かれます。そして4節では主はシオンにおいて、証人として「上なる天と、地とを呼び寄られ」ながら、「ご自分の民をさばく」というのです。そこで主は、「十のことば」を中心とした御教え(律法)を与え、「いけにえ」をささげることによってシナイで契約したこと (出エジプト記24章) を思い起こさせながら、「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ」と言われます。そして6節では、「天は神の義を知らせる。まことに神こそは審判者である」と描かれます。「神の義」とは、神がその契約を真実に守られることを意味します。そして「審判者」であるとは、イスラエルの民と結んだ契約に従って、「祝福とのろい」を与えようとしておられることを指します。彼らは契約の原点に立ち返るのです。
そこで命じられた「いけにえ」の規定とは、本来、罪人の中に住むことなどできないはずの「聖」なる神が、イスラエルの民の真ん中の幕屋に住み続けることができるための手続きでした。決して、神は「全焼のいけにえ」の不足を訴えて、「若い雄牛」や「雄やぎ」を取り上げようとしているわけではありません(8、9節)。「森のすべての獣」も「千の丘の家畜」らもすべて創造主ご自身のものだからです (10、11節)。まして、主は、「飢えて」いるため「雄牛の肉を食べ、雄やぎの血」を飲むわけではありません (12、13節)。その最初から、「いけにえ」、神の側の必要から生まれたわけではないのです。
「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」(14節) とは、聖なる神がイスラエルの真ん中に住んでくださるという途方もない恵みの原点に立ち返って、民が「聖徒」(5節) として整えられるために必要なことを、ただ感謝の気持ちと共に実行することの勧めです。そして、神が彼らのただ中に住んでくださるということを前提に、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」(15節) という、神と聖徒の健全な関係が成立すると言われます。
天地万物の創造主が罪人の真ん中に住んでくださるという神秘を私たちはあまりにも安易に考えてはいないでしょうか。私たちにとってはイエスの十字架の血があって初めてそれが可能になりました。私たちはその神秘を、聖餐式を通して覚えることができます。すべては神のあわれみから始まっています。私たちの信仰はそれへの応答です。
主よ。あなたが義なる審判者として私たちのただ中に住んでくださることを感謝します。その神秘をいつでも意識しながら、あなたの愛に応答する生き方をさせてください。
詩篇51篇1〜13節「雪よりも白くなりましょう」
「この人は何という卑怯なことをしたのか。その子供たちが堕落し、自滅したのも無理がない……」と言われるような人、それこそダビデに他なりません。しかし同時に、彼ほど神に愛され、喜ばれている人もいません。その神秘の鍵がこの詩にあります。
標題の背景は、サムエル記第二11、12章に記されていますが、この事件は、神がダビデ王国を安定させ、「その王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(同7:13) との契約を結ばれて間もなくの頃です。主はダビデの子の誕生まで、彼が自分から悔い改めるのを待った上で、預言者ナタンを遣わします。彼はそこで初めて自分の罪を認めます。
この初めは原文で、「あわれんでください」(お情けを!)との叫びです。しかも、「御恵み(ヘセド)によって」とは、先の契約に訴えることです。その上で彼は「そむきの罪」、「とが」、「罪」という類語を用いながら、それらから自由にされ、再出発することを願っています。ただし彼は、すべてがリセットされることを願ったのではなく、「私の罪は、いつも私の目の前にあります」(3節) と告白し、世界中にそれを知らせています。彼の願いは、神との交わりを以前と同じような親密なものに回復することでした。
彼は、自分の罪を何よりも、創造主に対する反抗と認め、主のさばきに服しようとしています (4節)。主はダビデの罪を指摘した際、「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす……」(Ⅱサムエル12:11) と宣告されましたが、彼は息子アブシャロムによって都を追われるときにも、それを謙遜に受け止めました。
「信仰」とは何よりも、「自分の罪を言い表す」(Ⅰヨハネ1:9) ことです。人が、自分の罪を誰かに告白できるとしたら、それこそ信頼の証しです。それは神への信頼の行為に他なりません。ダビデでさえ自分から罪を告白できませんでした。教会は常に罪を告白した人を暖かく迎えるべきです。もちろんその際、「人は種を蒔けば、その刈り取りもする」(ガラテヤ6:7) という原則も忘れてはなりませんが、その人を追い詰めるようなことをせずに、その人が罪の実を刈り取ってゆく過程を支え励ます姿勢が必要でしょう。
その上でダビデは、自分の中には根深い罪の性質が生まれながら宿っていることを認め、「心のうち」「心の奥」から造り変えられることを願います (5、6節)。「ヒソプ」(7節) は、過越しのいけにえの血を、かもいと門柱に塗る際に用いられた植物で、ここでは神の主導で「私」がきよめられることが願われます。これはキリストの十字架を指し示します (Ⅰヨハネ1:7)。「そうすれば……雪よりも白くなりましょう」(7節) とは、そのみわざが徹底していることです。神は、どんな人をも、内側から造り変えることができます。
10–12節では、それを成し遂げる聖霊のみわざが、「ゆるがない霊」「聖霊」「喜んで仕える霊」と三つの側面から描かれます。旧約聖書の中で、これほど明確に聖霊のみわざが語られているところはありません。しかも、ダビデが「救いの喜び」の回復を願うのは (12節)、「罪人」たちの回復のため (13節) でもあります。ダビデは自分の罪を公にすることによって、後の人々が神の御前に立ち返られるようにしました。そこに彼の心の真実が見られます。ただし、それもすべて神のあわれみの中で起きたことでした。
主よ、私があなたの御前で自分の罪を告白できるように助けてください。そして、あなたの聖霊によって、日々、私を「雪よりも白く」してください。
詩篇52篇1–9節「見よ。彼こそは、神を力とせず……」
この標題の内容はサムエル記第一21、22章に記されています。ダビデは一人でサウル王から逃げる途中、祭司アビメレクを頼ります。ダビデは自分がサウル王から追われていることを隠しながら、「聖別されたパン」を受け取るとともに、彼が以前に撃ち殺したゴリヤテ所有の剣を手にします。ただ、それをサウルの忠実な家来のエドム人ドエグが見ていました。ドエグはそこで「サウルの牧者たちの中のつわものであった」(同21:7) と描かれていました。それが1節の「勇士よ」(1節) という呼びかけの背景にあります。
ドエグは、ダビデがアヒメレクから援助を受けたという事実をサウルに伝えますが、そのとき、サウルは息子ヨナタンがダビデと契約を結んでいたことを耳にして、深い孤独感に襲われ、「だれも私のことを思って心を痛めない」(Ⅰサムエル22:8)とまで嘆きながら自己憐憫に浸っていました。ドエグの伝え方はその屈折した感情を刺激し、火に油を注ぐかのような形になっていました。そのことが、「お前の舌は破滅を図っている……おまえは……義を語るよりも偽りを愛している」(2、3節) と非難されます。
事実、ドエグはダビデの逃亡に関し、「アヒメレクは彼のために主 (ヤハウェ) に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました」(同22:10) と報告しています。これはサウルの心に、まるで、主とその祭司までもがダビデの味方となったかのような印象を与えかねない表現です。しかも、「ペリシテ人ゴリヤテの剣」をダビデが再び手にするということは、ユダヤ人ばかりかペリシテ人までもが、ダビデの勇気をたたえていることを思い起こさせます。それは、人がときに、他人の悪口を敢えて伝えることで、「私だけがあなたの味方ですよ」とアピールするような効果を狙ったものです。
その結果、祭司アヒメレクに罪が帰せられ、サウルは彼を殺すように命じます。サウルの近衛兵たちが、主の祭司たちに手をかけることを躊躇している中で、ドエグは85人もの祭司を立ちどころに殺しました。そればかりか、ドエグは祭司の町ノブの子供を含めたすべての人を全員殺します。エサウの子孫のエドム人であるドエグとしては、主の民イスラエルの仲間と認められるために必死に王に仕えているつもりなのでしょう。それは、見捨てられ不安を持つ人が、人の歓心を得るために頑張るようなものです。
それに対しダビデは、ドエグがそれによって全能の神ご自身を敵に回し、ドエグ自身が、「生ける者の地から……根こぎにされる」(5節) と述べ、それは、「神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる」(7節) 者たちへの裁きであると語ります。ドエグはサウル王の歓心を「豊かな富」とすることで、滅亡するのです。
一方、ダビデは、「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ」と、神に守られている者として豊かな実を結ぶ者とされていることを確信しています。それは、「神の恵み(ヘセド)」という「契約の愛」が「いつも、ある」(1節) ことを思い起させます。またそれは、「私は、世々限りなく、神の恵み(ヘセド)に拠り頼む」(8節、カッコ内筆者) という告白を生みます。人の歓心は変わりますが、主の恵みは永遠だからです。人を動かすことより、主の恵みに拠り頼む中にこそ真の自由があります。
主よ、私たちはときに、人の歓心を得ようと、誤った方向に情熱を傾けることがあります。どうか、いつでもどこでも、主の眼差しを意識して生きさせてください。
詩篇53篇1〜6節「恐れのないところで、いかに恐れたかを」
この詩は詩篇14篇とほとんど同じことが記されています。ただ、14篇では主 (ヤハウェ) という神の名が四度記されているのに対して、ここではすべて神(エロヒーム)という普通名詞が用いられていることです。それは42篇から83篇にほぼ共通します。
最初に、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている」と記されます。14篇とは違い、ここでは「不正」ということばが「忌まわしい」に付け加えられています。なお、「愚か者」とはヘブル語でナバルと記されます (Ⅰサムエル25:25参照)。後にダビデの妻となったアビガイルは、愚かさのため自滅した夫のナバルに関して「あのよこしまな者」と呼びました。家来もナバルを避けていました。彼は自分の羊の群れがダビデによって守られていたことを知ろうともせずに、ダビデの怒りを買いました。「愚か者」とは、「知性が足りない」ことではなく、世界を自分の尺度で計り、見るべきものを見ようとしない「傲慢さ」を意味します。
使徒パウロはローマ人への手紙3章10–12節で、この1–3節を引用するようにしながら、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」と記しています。そこでの「義人はいない」という表現は、この詩の1節全体の要約とも言えましょう。「神はいない」と宣言すること自体が、神の怒りを買う罪であるからです。なお、この2節では、「神は天から人の子らを見おろして……いるかどうかをご覧になった」と、神の観察の様子が描かれます。それをパウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらない」(同1:28) ということの結果として予め記したのではないでしょうか。つまり、この2節にあるように、「神を尋ね求め」ようと「意志しない」こと自体が、罪の始まりとされているのです。
そして、「不法を行う者ら」は、「パンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない」とその罪が指摘されます (4節)。彼らは民を搾取して、食い物にしている罪と、神を呼び求めないという罪が、並行しているという事実を「知らない」のです。そして、この5節は14篇と決定的に違い、「彼らは恐れのないところで恐れる」と記されますが、それはレビ記26章36節では、神のさばきとして、「彼らの心の中におくびょうを送り込む、吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる」と記されていることの成就とも言えましょう。そして、その理由が、「それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らしたらだ」と記されます。ここでの「あなた」とは、神を恐れるこの詩の読者と言えましょう。神は、ご自身を恐れ、礼拝する者の味方となり、敵に復讐をしてくださいます。その上で、「あなたは彼らをはずかしめた」と記されているのは、神を恐れる者の「幸い」を見る神の敵自身が、自分たちの「愚かさ」を認めざるを得なくなるということだと思われます。
多くの人々は自分を神とし、自分の尺度で現実を判断し、自分の力で問題を克服しようとします。しかし、神はそのような人に、「恐れ」の心を与えることによって、神を恐れるように招いておられます。私たちも神を恐れることの幸いを証ししましょう。
主よ、「神はいない」という愚かさから私たちを救い出してくださり感謝します。様々な「恐れ」に囚われている人々に、神を恐れることの幸いを証しさせてください。
詩篇54篇1〜7節「私のためにさばいてください」
標題はサムエル記第一23章19節のことを指していると思われます。同26章1節でも似たようなことが記されています。「ジフ」とはヘブロンの少し南、ダビデの生まれ故郷のベツレヘムから約30㎞南にあるユダ部族の町です。その住民はダビデと同族にも関わらず、少なくとも二度、彼をサウルに売り渡そうとしています。彼らは同族であるからこそ、サウルから敵視されるのを恐れたのでしょう。孤独だったサウルは (Ⅰサムエル22:8)、ジフ人の報告を聞き、「私のことを思ってくれた」と心から喜びます (同23:21)。
ダビデは、「神よ。御名によって、私をお救いください」(1節) と、主の御名に込められた「真実」(5節) に信頼して祈っています。そして続けて、「あなたの権威によって、私を弁護してください」と祈りますが、「弁護する」は多くの英語訳で Vindicate と記され、自分の立場や名誉が決定的に守られるようにという訴えです。ここは、「私のためにさばいてください」と訳した方が良いかもしれません。ある意味で、ジフ人にとってダビデは、ユダ族全体のわざわいの種と思えたことでしょう。しかし、そのような評価は、ダビデにとって耐えがたい屈辱と思えたに違いありません。もし、あなたが自分の仲間から、疫病神(やくびょうがみ)かのように見られたら、どれほど寂しく辛いことでしょう。
3節では「見知らぬ者たちが、私に立ち向かい」と記されますが、ヘブル語では、「見知らぬ者たち」と「ジフの人たち」ということばは、近い響きがありますから、これは同族のジフ人を皮肉った表現とも言えましょう。そして、彼らがそのように自分の都合を優先して生きるのは、「自分の前に神を置いていないからです」と記されます。彼らは神の守りを信じられないからこそ、同族を売り渡すようなことを平気でします。
それに対し、ダビデは、「神は私を助ける方」(4節) と告白し、「神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます」と語ります。不思議なのは、二度に渡るジフ人の裏切りと、ダビデに二度にわたってサウルを殺す好機が訪れたことが並行するかのようにサムエル記では描かれていることです。ダビデは、自分の手で「主に油注がれた」サウル王を殺すことは、主の前に罪とされると言いながら、「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる」(同26:10) と言って、主が自分の敵に「わざわいを報いられ」ることを信じました。そのことが、ここでは、「あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください」という祈りとして記されます。それは1節の「私のためにさばいてください」(私訳) と同じ訴えです。神の真実は、誰が「自分の前に神を置いている」かの区別を明確にしてくださることでもあります。ダビデはサウルと戦う代わりに、必死に逃げながら、さばきを神にゆだねました。そして、サウルはペリシテ人との戦いで滅んだのです。
筆者は以前、何度も自分の正義を訴えることで、問題をこじらせたことがあります。相手に正義を訴えると、向こうも自分の正義を訴えますから、敵対関係を増幅させるだけです。自分の立場を必死に守ろうとする代わりに、「すべての苦難から私を救い出し」(7節) てくださる神にゆだねることによって、かえって安心して、「私の目が私の敵をながめる」ような状況が生まれるのです。神のさばきに訴えることがすべての始まりです。
主よ、私たちはしばしば自分の正義を訴えることで争いを加速させてしまいます。主の公正なさばきに信頼して、今ここで、誠実を尽くす歩みへと導いてください。
詩篇55篇1〜8、22節「あなたの重荷を主にゆだねよ」
著者は、親しい友から裏切られ、胸も張り裂けるほどに悩み苦しんでいます。1–5節のような気持ちは無縁と思う人もいるでしょう。しかし、感情は説明し難いものです。ヘンリ・ナウエンは、50代半ばの頃、心の奥底を分かち合える友に出会い、急速に依存して行きました。しかし、あまりにも多くを求め過ぎたため友情は破綻しました。彼は、世界が崩れたと感じ、眠られず、食欲もなく、生きる気力を失いました。私たちも、失恋でも、失業でも、夫婦喧嘩や約束の時間に遅れた時でさえ、「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています」(2節)という感情を味わうかもしれません。私たちは、その混乱したままの気持ちを、この詩篇を用いて神に訴えることが許されています。
心の内側に湧き起こった感情を、自分で制御しようとして、混乱を深めたことがないでしょうか?不安こそ、怒りの第一次感情と言われますが、怒りで周りの人を傷つけたり、自分を責めて鬱状態になることさえあります。この著者は、自分の心の状態を、分析することも、言い訳することもなく、そのまま言葉にしています。それは感情に振り回されないためのステップです。彼は、「私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました」(4、5節) という四つの並行文で、自分の恐怖心を認め、その気持ちを静かに味わい尽くそうとしています。
ナウエンは、繊細さのゆえに生き難さを抱えましたが、同時に、多くの人々への慰めを語ることができました。自分の気持ちを受けとめられない人は、人の気持ちをも受けとめることができません。私たちは、自分の気持ちを自分で整理しようとする代わりに、それをそのまま神に差し出すことができます。それこそ御霊に導かれた祈りです。
しかも、この人は「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら飛び去って、休むものを」(6節) と、逃げ出したい気持ちにも優しく寄り添っています。ただしそこでは、「荒野」を「私ののがれ場」と描いています。それは誰の保護も受けられない、孤独で不毛な場所だからこそ「神だけが頼り」となるのです。つまり、彼は白昼夢の世界に逃げているようでありながら、神との対話に安らぎを見出そうとしているのです。
この詩篇には、「敵を愛する」代わりに「のろっている」ように思える表現があります。しかしそれは、自分の気持ちを正直に神に述べ、神の公正な裁きを訴えたものです。そして、このような「私」を中心とした祈りの後に、22節では突然、「あなたの重荷を主 (ヤハウェ) にゆだねよ」という勧めが入ってきます。そこには体験に裏打ちされた説得力があります。「ゆだねる」とは「放り投げる」という意味で、自分の思い煩いや恐怖感を、そのまま主 (ヤハウェ) の御前に差し出すことです。しかも、「主は、あなたのことを心配してくださる」とは、何と優しい表現でしょう。これは「あなたを支える」とも訳されますが、神の救いは、あなたの重荷を取り去ることではなく、重荷や思い患いを抱えたままのあなたを支えることです。主の目に「正しい者」とは、主に向かって叫び続ける者のことです。その人を、主は「ゆるがされるようには、なさらない」で試練の中で立たせ続けてくださいます。神の御前に心を注ぎ出せる幸いを味わってみましょう。
主よ、私がこの霊感された祈りを用いて、自分の感情を表現できることを感謝します。どうか、自分の心を自分で制御する代わりに、あなたにゆだねさせてください。
詩篇56篇1〜13節「神に (in God) 信頼しています」
標題はサムエル記第一21章10–15節のことを指しています。これはダビデがサウルの前から一人で逃げ出して間もなくの頃ですが、彼が自分の身を隠そうとしたガテとは、ペリシテの町であるばかりか、ゴリヤテの出身地です。当時の誰も、まさかダビデがその町に忍び込むなどとは思いもよりません。だからこそ、彼はそこを選んだのかもしれません。しかし、彼は自分の正体が明らかになりそうになったとき、「捕らえられて狂ったふりをし」(同13節)、どうにか逃げ延びます。それは詩篇34篇の背景でもあります。
1節は原文の語順では、「あわれんでください(私を)、神よ」という嘆願から始まり、ダビデは自分の孤立無援の切羽詰った状況を訴えます。その上で、「私」を強調しながら、「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します」(3節) と告白します。ヘブル語は動詞の中に主語を含めることができますから、ここでの「私」という代名詞は大きな意味を持っています。そして、これ以降、原文では「私」という代名詞は登場しません。
そして、4節の原文では、「神にあって、(神の)ことばを(私は)ほめたたえます。神に(私は)信頼し、恐れません」と記され、10、11節でも、「神にあって、みことばを(私は)ほめたたえます。主 (ヤハウェ) にあって、みことばを(私は)ほめたたえます。神に(私は)信頼し、恐れません」と記されています(括弧内のことばは原文では明記されていない)。
つまり、ここでは、「神にあって」「神に」という神の約束や神のご支配の現実こそが強調され、信じる「私」の主体性は隠されているのです。なお、英語では両者ともヘブル語に従って「In God」と記されています。アメリカ合衆国の建国のモットーは、「In God we trust」(神に私たちは信頼する)であると言われ、このことばは同国のすべてのコインや紙幣に刻印されています。紙幣自体には何の価値もありませんから、そこに神への信頼を書き込むことによって、互いに価値を認め合えるのかもしれません。
ダビデはこのときは追われる身で、孤立無援ですが、自分に王としての任職の油を注いでくださった神ご自身とその「みことば」に信頼して逃げ続けています。
8節では「あなた」という代名詞を強調しながら、ダビデは神に向かって、「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください」と、自分が逃亡しながら流した涙が、神の記憶の中にしっかりと留められることを願っています。彼は、不安定な自分の歩みが、神の御手に包まれていることを信じています。また、自分が戦わなくても、祈りに答えて神が敵を退けてくださると告白します (9節)。そして10節では、「神にあって」「主 (ヤハウェ) にあって」と繰り返し、ダビデを公に王とするという主 (ヤハウェ) の「みことば」を「ほめたたえ」(10節) ています。
ダビデは神に向かって自分の涙が「あなたの皮袋にたくわえ……あなたの書」に記録されることを願い、それがこの聖書に成就しています。同じように私たちの名は、神の「いのちの書」に記されています (黙示3:5、17:8)。信仰の歩みは、「私は、あなたに信頼します」という主体的な告白から始まりますが、その後は、自分の歩みすべてが神の中に (in God) 守られていることを覚え、「私」を忘れて生きることができるのです。
主よ、私の名が「あなたの書」に記されていることを感謝します。自分の信仰ではなく、あなたの約束、あなたのご支配の中で、自分の生涯を見させてください。
詩篇57篇1〜11節「私は暁を呼びさましたい」
標題はサムエル記第一22章1節または24章3節に記されているように、ダビデがサウルの手から逃れながら、「ほら穴」に身を隠したときを指しています。第一の場合は、そこに「困窮している者、負債のある者、不満のある者たち」が集まってきて四百人の集団になったことが描かれています(同22:2)。これは、ダビデが自分の軍隊を持つ契機になりました。また、第二の場合では、ダビデはほら穴の奥に隠れていて、用をたしにきた「サウルの上着のすそを、こっそり切り取った」(同24:4) という中で、敢えてサウルに手を下さなかったという記事に結びつきます。どちらの場合も、ダビデは「獅子の中にいます」(4節) と描かれる危機的な状況の中に置かれながら、「私は暁を呼びさましたい」(8節) と表現される「夜明けのしるし」を見ようとしていました。
ダビデは、自分が「ほら穴」の中に身を隠している切羽詰った状況を「滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます」(1節) と告白しています。ときに、様々な形での人の攻撃を恐れながら、臆病な姿で身を隠すようなことがあっても、その状況を「御翼の陰に身を避けます」と、美しく表現できるなら、その現実を神の視点から優しく見られます。そして2節では、自分が呼ばわっている神を「私のために、すべてを成し遂げてくださる神」と描きます。そこに自分の将来への安心感が告白されています。
3節は原文で、その神のみわざが、「天から送って、私を救われます」(私訳) とまず描かれます。そこでは何が送られるかが分かりません。その上で、神が私の敵を「責めておられる」ことが記され、「神は恵みとまことを送られる」と記されています。「恵み」とはヘブル語のヘセドの訳で、神がご自身の「契約を全うする愛」という意味、「まこと」はアーメンと同じヘブル語の語源のことばで、神の真実さを現します。つまり、神が天から送られるのは、ダビデの回りが敵だらけと見える中で、ダビデに対しての神の約束が必ず成就されるという「希望」に他なりません。危機的な状況は変わらなくても、そこから新しいことが始まろうとしているという「しるし」を見ることができます。
6節では、「彼らは私の足をねらって網を仕掛け……私の前に穴を掘り……自分で、その中に落ちました」という、敵の自滅の兆候が描かれています。また7節では「私の心は揺るぎません」(または「準備されています」)と繰り返されます。そして8節でダビデは、二度「目をさませ」と繰り返し、三度目は同じ動詞を用いて、「私は暁を呼びさましたい」(または「暁を目覚めさせたい」)と自分の願望を歌います。最後に9–10節で、賛美が小さな「ほら穴」から全世界に広がって行く様子が大胆に記されます。彼は自分の危険を訴えながらも、全世界に対する神のご計画に目が向かっています。
現代の私たちにとって、キリストの十字架と復活によって、「暁」はすでに「呼びさま」されています。パウロは、「割礼」のような目に見える信仰のしるしにこだわっている人に対し、たったひとこと「大事なのは新しい創造です」(ガラテヤ6:12)と断言しました。創造主なる聖霊が私をとらえ、混沌とした私と世界のうちにすでに「新しい創造」を始めてくださいました。その「しるし」に目を留め、神を賛美しましょう。
主よ、あなたは私が危機的な状況の中にあるとき、そこに既に「夜明けのしるし」(暁)を見させてくださいます。「新しい創造」を日々、覚えることができますように。
詩篇58篇1〜11節「まことに、さばく神が、地におられる」
この詩は、この世の不正な権力者たちに対する神の公正なさばきを祈っているものです。いつの時代にも、どこにおいても、権力者たちは自分たちの身近にいる貴族や裕福な者たちの特権を守る方に目が向かいます。一方、貧しい人々には厳しい目が向けられます。マザー・テレサはある研修会で、「あなたは物を無償で与えて、貧しい人たちを甘やかしています。彼らは人間の尊厳を失っています」という批判を受けたことがあります。それに対してマザーは、「お金持ちを甘やかしている修道会はたくさんあります。貧しい人びとの名において、その人たちを甘やかす修道会が一つぐらいあってもいいでしょう」と答えました。すると、会場は水を打ったように静まり返ったとのことです(マザー・テレサ「愛のこころ、最後の祈り」奥谷俊介訳1999年「主婦の友社」P69、70)。
この詩ではまず、「力ある者よ。ほんとうにおまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか」と問いかけられます。それは権力者のさばきが、貧しい人々に厳しく、お金持ちには甘くなるからこそ、神の目による「義」と「公正」を求めさせたと言えましょう。そして2節からは、現実にみられる権力者たちの問題が、「いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐をはびこらせている」と描かれます。「心では」とあるのは、神は何よりも私たちの心の動機を問われるからです。また3節では「悪者ども」と「偽りを言う者ども」が並列されていますが、神に逆らう者はいつも、表面的には正しいことを言っているようで、そのことばは偽善に満ち、信用できません。しかも彼らは「生まれたときからさまよっている」ので、正すこともできません。
4、5節では彼らが「耳の聞こえないコブラ」にたとえられます。蛇には、空気の振動を感じる内耳のような器官はありますが、哺乳類のような耳はありません。「蛇使い」は笛の音ではなく、笛の動きで蛇を動かすと言われます。権力者たちの最大の問題は、神のみことばも、また一般の人々の声も、その両方が聞こえなくなることにあります。
6節では、権力者たちが貧しい人々を食い物にしていることへの裁きが訴えられます。7–10節では、彼らに対する神のさばきが切々と祈られ、それが成就することが描かれます。多くの人々は、このような表現に違和感を覚えますが、イエスご自身はマタイによる福音書5章3–12節で9回にわたっての「幸い」を語りながら、23章13–36節では「律法学者、パリサイ人」に向かって、七回にわたって「わざわいだ」という「のろい」を宣告され、その描写は「幸い」よりもはるかに徹底しています。そして、マルコやルカでは彼らの問題が、見せかけの敬虔さと並んで、「やもめの家を食いつぶし」と描かれています (マルコ12:40、ルカ20:47)。つまり、敵を愛するように勧めたイエスご自身が、貧しい人々を食い物にする当時の宗教指導者を、驚くほど激しく非難しているのです。
11節にすべての結論が簡潔に記されます。それは、「正しい者には報いがある……さばく神が、地におられる」という真理です。神は最終的に、この地の横暴な権力者をさばいてくださいます。だからこそ、私たちに求められることは、彼らと力で戦うことではなく、置かれた所で誠実を尽くし、さばきを神にゆだねることなのです。
主よ、あなたこそがこの地の真の支配者であられることを感謝します。あなたの公正なさばきを信じ、力に力で対抗せず、愛のわざを行なえるようにさせてください。
詩篇59篇1〜9節「私の力、あなたを私は、見守ります」
標題はサムエル記第一19章11節を指しています。これはサウルがダビデの家を見張らせ、朝になって彼を殺そうとしたときのことです。このとき、サウルの娘でダビデの妻となっていたミカルが、ダビデを逃がしました。彼の逃避行はこのときから始まりました。彼はラマにいるサムエルを頼りますが、そこもサウルが攻撃しようとします。
1節は原文の語順では、「救い出してください(私を)、敵の手から、(私の)神よ。(私に向かって)立ち上がる者たちから、高く上げてください(私を)」と記されています(確固内は語尾変化で判断されることばで「私」という代名詞は記されていない)。そして2節でも同じように、「救い出してください(私を)……救ってください(私を)」と繰り返されます。ダビデは、自分が敵の手の届かないところに「高く上げ」られることを願い、ひたすら神に「救い出してください」「救ってください」と嘆願しています。
そして3節では、自分が攻撃の対象とされていることの不条理が、「それは私のそむき(ペシャー)のためでもなく、私の罪(ハター)のためでもありません。ヤハウェよ。こちら側には、とが(アボン)がないのに……」と訴えられています(私訳、括弧内はヘブル語)。ここには罪に関する類語が三つ重ねられながら、「自分の側には、攻撃される理由がない」と訴えています。ある意味で、ダビデがサウルから命を狙われるのは、神の側の選びから始まっています。サウルには隠されてはいましたが、神は確かにダビデに目を留め、王としての任職の油をサムエルを通して注いだのです。その結果として、ダビデは巨人ゴリヤテを打ち、ペリシテ人たちに対し数々の勝利を挙げました。女たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサムエル18:7) と歌うようになったのは、神ご自身がサウルに代えてダビデを王に立てられたことが、目に見える形で現れたに過ぎません。その兆候を見て、サウルが脅威を抱いたのも当然とも言えましょう。
それに対しダビデは、神の選びを論じることなく、ただ、神のみわざが現されることを願います。4節では「目を覚ましてください」「見てください」と訴え、5節では先の「目を覚まして」とは異なった原文で、「すべての国々を罰するために起き上がってください」(私訳) という嘆願が記されます。それに挟まれるように、「あなたこそはヤハウェ、万軍の神、イスラエルの神」(私訳) と、神の御名が様々な表現で呼ばれています。
6節ではダビデのいのちを狙う者たちが、町をうろつき回る、嫌われ者の野生の「犬」にたとえられます。ただ同時に、7節では、「彼らのくちびるには、剣がある」と記されながら、「だれが聞くものか」という彼らのあざけりが記されています。これは神に従う者たちの信仰を揺るがす「剣」です。多くの人は、「神は私の訴えに耳を傾けて下さらない」と失望しているからです。しかし、そのような不信仰なことばこそ、最終的には神のあざけりの対象になります (8節) 。そのような中でダビデは、「私の力、あなたを私は、見守ります。神は私のとりでです」(9節) と告白します。ダビデは神の守りが見えない状況で、霊の目を開きながら、神がすべてを支配しているとの信頼を告白します。私たちも同じように、神の救いを求めて祈る中で、神のご支配を知ることができます。
主よ、私たちも自分に落ち度がない中で、責められることがあるかもしれません。そのとき、ただ、あなたの御名を呼び求め、あなたの助けに期待させてください。
詩篇60篇1〜12節「あなたの愛する者が助け出されるために」
標題はサムエル記第二8章13、14節、また歴代誌第一18章12、13節を指しているように思われます。その両方で、「このように主 (ヤハウェ) は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」と記されています。その直前のサムエル記第二7章では、「王が自分の家に住み、主 (ヤハウェ) が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき」、ダビデが神殿を建てたい願ったことに対し、主はダビデの王国は「とこしえに続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と約束されています (同16節)。つまり、この時期はダビデの絶頂期なのです。それに対しこの詩の内容は悲惨に満ちています。標題の最後の「ときに」というヘブル語は多様な解釈が可能ですから、この詩がこの時期に記されたはずと考える必要はありません。そのときの栄光を思い出しながら、それと対照的な現在の苦しみを、神の御約束を思い起しながら歌ったと考えるべきでしょう。
「神よ。あなたは私たちを拒み……怒って、私たちから顔をそむけられました……御民に苦難をなめさせられ……よろめかす酒を……飲ませられました」(1–3節) という表現は、主が「憤りのぶどう酒の杯」を、周辺の国々ばかりかエルサレムにも飲ませたことを指していると理解すべきでしょう。著者は、エルサレムがバビロン帝国に滅ぼされた中で、ダビデへの約束がどこに行ってしまったのかと問いかけているのだと思われます。
ただ、5節で著者は自分たちのことを、「あなたの愛する者」(複数形)と呼び、「あなたの右の手で救ってください」と祈っています。その上で6–8節は、「神は聖所から告げられた」という表現でエルサレム神殿の再建が示唆され、同時にかつてのダビデ王国の支配地全体を思い起しつつ、それらが神によって回復されることが約束されます。
9節では特に、「だれが私をエドムにまで導くのでしょう」と、エドムに対する勝利が課題になっています。たとえば詩篇137篇では、捕囚の民がバビロン川のほとりでシオンを思い出して泣きながら、「主よ、エルサレムに日に、『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』と言ったエドムの子らを思い出してください」(同7節) と歌われていますが、エルサレムの回復と、エドム(ヤコブの兄エサウの子孫)に対する神の復讐を求める嘆願は切り離せない関係にあります。そして、この10節では、「神よ。あなたご自身が私たちを拒まれなのではありませんか」と、エルサレムの破壊は神がご自分の民を拒まれたしるしであると訴えます。そして、11節では改めて、「どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです」と記されます。著者は、神の超自然的な救いを求め、12節では最後に、神にある最終的な勝利が歌われています。
なお上記の5–12節は、108篇6–13節でも同じように繰り返されますが、両者ともに、主がダビデへの約束を守ってくださることが歌われています。それはたとえばエゼキエル36–48章全体を貫くテーマでもあります。そしてイエスこそはご自身の十字架と復活によって真の神殿を再建し (ヨハネ2:19)、目に見える約束の地を越えた全世界に広がる神の支配を完成してくださる真の「ダビデの子」です。ダビデに対する約束が成就することが、全世界が復活のイエスのご支配に服することにつながるのです (詩篇2:8)。
主よ、あなたのダビデに対する約束がイエスにおいて成就することを感謝します。どうかあなたの救いのご計画の大きさを理解できるよう、私の霊の目を開いてください。
詩篇61篇「及びがたいほど高い岩の上に」
この詩の背景は確定できませんが、2節の「私は地の果てから あなたを呼び求めます」との表現から想定できることがあります。詩篇42篇6節では、はるか北の「ヘルモンの地から……あなたを思い起します」と主の民と共に礼拝することへの憧れが記されていましたが、著者ダビデはそれと同じような切羽詰った状況に置かれていると思われます。それはエルサレムでの「幕屋」(4節) 礼拝が守られるようになった後でしょうから、息子アブシャロムのクーデターで都を離れざるを得なかったときかも知れません。
1節の原文は、「聴いてください!」という叫びから始まり、後半も「耳を傾けてください!」という別の文章に分けられています。2節の原文の語順は、「地の果てから、あなたを私は呼び求めます、私の心が衰え果てるとき。及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください」と記されています。つまり、「地の果て」で心が萎えているときに、安全な「高い岩の上」へと移されることを願っているのです。私たちの心は周りの状況によって揺り動かされ衰え果てることがあるからです。それを前提に3節では「あなたは私の避け所(シェルター)、敵に対して強いやぐら(砦の塔)」と告白されます。それは、必死に救いを求める中で、神ご自身が彼を敵の攻撃が及ばない所に隠し、守ってくださるとの確信を得られたからです。それは、試練のただ中で与えられた平安でしょう。
その上でダビデは、「あなたの幕屋にいつまでも住み、御翼の陰に身を避けます」と告白します (4節) 。それは神が彼に現実的な救いを見させてくださったからです (5節)。
6、7節で、「王のいのちを延ばし……」と王権の安定を神に願っていますが、その根拠を、神ご自身の「めぐみ」(原語は「ヘセド」)という「契約を守る永遠の愛」と、「まこと」(エメット)というアーメンと同じ語源に基づく真実に求めています。ダビデは危機的状況の中で、神の御約束の原点に立ち返って訴えています。それは王権の安定が、民全体の平安につながっているからです。そして最後に、自分も神の「永遠の愛」と「真実」に応答する生き方をすると改めて「誓い」ます。イスラエルの真の王は、「ヤハウェは王である」(詩篇97:1私訳) と言われるように、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14) とご自身を紹介された方だからです。地上の王は、天の王の御許しの中でのみ王権を保つことができます。ダビデは誰よりもそれをよく理解していました。その彼を、主ご自身が敵の手の届かない高みで守ってくださったのです。
ダビデが息子アブシャロムによってエルサレムから一時的に追い出されたのは、自業自得の罪から始まった家庭の混乱と、その負い目で父親として毅然と対処できなかった優柔不断さのゆえです。しかし、神は自分の罪を認めたダビデの王権を回復させてくださいました。ダビデはその後も民の人口調査をして神の怒りを買いますが、彼が反省し、主のためにいけにえをささげると、その場が後のエルサレム神殿になります。ダビデの王座は、不思議にも、過ちに対する真実な対応でかえって強化されて行くのです。
私たちも過ちを繰り返でしょうが、そこで神に立ち返るなら、失敗さえ益とされます。失敗のたびに「高い岩の上に」導かれ、神との交わりを深めることができるからです。
主よ、私が自業自得の罪で苦しむようなときにも、この私を敵の攻撃の及ばない高い岩の上に守ってください。私はあなたの永遠の愛と真実に信頼して歩みます。
詩篇62篇1〜8節「神の御前での沈黙」
1節の原文の直訳は、「ただ神に向かって、私のたましいは沈黙している」です。この「沈黙」が「黙って……待ち望む」と訳されるのは、信頼のないところに沈黙は生まれないからです。預言者イザヤは「悪しき者は荒れ狂う海のようだ。まことに、それは鎮まることができず、その水は海草と泥を吐き出す。悪しき者には平安がない」(57:20、21) と言いました。私たちはときに、口先では「信頼」を告白しながら、行動では、人を恐れ、力や富を頼りにしています。その心の分裂状態が、沈黙の中で顕わにされます。
筆者の場合は以前、沈黙すると、心の底に押し殺していた不安や憎しみ、欲望が吹き出て、収集がつかなくなるように感じられました。それを避けるため、心と身体を休みなく動かし続けてきた面があります。しかし、マイナスの感情は、押し殺しても、腹の底に確かにあり、私を動かし続けていました。その結果、さして重要ではないことにエネルギーを傾け、周りの人々までも振り回してきたことがあるような気がします。
しかし、黙想の訓練を通して、幸いにも徐々に沈黙することが苦痛ではなくなりました。それは一時的な混乱を通り越しさえするなら、心は落ち着いて来るとわかったからです。その際、「ただ神に向かって」という沈黙の方向性こそが鍵になります。羅針盤の針が常に北極を指すように、「私はいつも、主を前にしています」(16:8) と告白するのです。心の目を、世の富や権力、人の評価などにではなく、ただ創造主に集中します。なぜなら「私の救い」は世のすべての背後におられる「この方から……来る」からです。
ところが、私たちは「神こそ……わが救い……私は決して揺るがされない」(2節) と告白しても、すぐに周りの状況に心が揺すぶられます。それでダビデは、自分の「たましい」に、「沈黙せよ」と命じる必要がありました (5節私訳)。1節の「沈黙」は名詞でしたが、ここは動詞形で、今回の翻訳改定でも命令形へと変えられています。たましいはいつも何かに固着しようとしますから、穏やかに優しく語りかけることが大切です。
そして5節では、1節にあった「私の救い」の代わりに「私の望みは神から来る」と告白されます。それは沈黙を通して、「たましい」が自分の願望からしだいに自由になり、神から与えられる「望み」を、「私の望み」とするように変えられるからです。筆者も自分の願望に縛られ続けてきたように思います。世的に何かをやり遂げたという誇りがその構えを強化させることになるからです。しかし、期待が強過ぎると、現実の中で失望し、疲れることも多くなり、感謝の代わりに不満が鬱積するという悪循環に陥ります。
しかしダビデは徐々に力を抜いて、「私は揺るがされることがない」(6節) と告白できるようになりました。これは2節の繰り返しのようでも、嵐をくぐり抜けたことで、「決して」という「力み」が抜けています。彼は、心が大きく揺るがされることを体験した後に、そんな自分が神によって支えられていると実感することができたのでしょう。
なお、「あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ」(8節) とあるのは、沈黙に至るプロセスとして理解できます。自分の不安や葛藤を正直に認め、それを神の御前に「私はこう感じています」と「注ぎ出す」のです。神はそれをすべて受け止めてくださいます。
主よ、あなたが私の混乱した心を受け入れてくださることを感謝します。混乱を経て、あなたにある平安を体験させてください。柔軟に落ち着く心へと導いてください。
詩篇63篇1〜8節「私のたましいは あなたに渇きます」
標題には、「ダビデがユダの荒野にいたとき」とあります。これは彼がサウル王に追われ、ユダの荒野をさ迷っていたときを思い起して作られたのでしょう。私たちの人生にも、いわれのない非難を受けて、荒野をさ迷うようなときがあるかもしれません。
1節の「あなたは私の神。私はあなたを切に求めます」という告白に、創造主ご自身との親密な関係が告白されています。ただ、置かれている状況が、「水のない 衰え果てた乾いた地」なので、神しか頼りにできないという意味で、「私のたましいは あなたに渇き、私の身も あなたをあえぎ求めます」と言われます。私たちはあまりにも様々なものに囲まれ過ぎて、神に渇くことが少ないかもしれませんが、よく目を開くと、この世的な土台など、いつ崩れるか分からないような不安定なものに過ぎません。
興味深いのは、「私は……こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています」(2節) と言われる「聖所」が「荒野」であるということです。それは、神の「力と栄光」が見られる場所こそが「聖所」であり、それは私たちが試練のただ中で体験できる場だからです。
「あなたの恵みは いのちにもまさる」(3節) とありますが、ここでの「恵み」とは、神がご自身の契約を守り通してくださるという「真実の愛」(ヘセド)です。それが今ここにある現実の「いのち」よりもすばらしいというのは、その神の愛こそが人生の真の基礎となっているからです。私たちは目に見えるものの背後にある、神の真実に目を留める必要があります。大宇宙の中でのこの地球環境のすばらしさを思い巡らすだけで、すべてが当たり前ではなく、神の創造のみわざの不思議によることが分かります。
「それゆえ私は 生きるかぎりあなたをほめたたえ あなたの御名により 両手をあげて祈ります」(4節) とあるのは、神の「恵み」(真実の愛)を心から味わったことの結果です。ここには、神に渇き、神との交わりを「あえぎ求め」ていた者が、「私のたましいは満ち足りています。喜びにあふれた唇で……賛美します」(5節) と告白するという驚くべき変化が描かれています。それは、荒野のただ中で体験できた祝福です。
1200年前後に生きたカトリックの聖人フランシスコは、イタリアの豊かな商人の息子でしたが、財産権をすべて捨てて無一文になることで、驚くべき喜びと平安を体験したと言われます。ダビデが体験したのも、そのような貧しさの中にある自由だったのかもしれません。ダビデの愚かさが目に付くのは、王権が安定した後のことです。富と権力は人間を堕落させる誘惑に満ちています。もちろん、この社会の様々な不条理や貧困の問題を解決するために、富と権力は非常に有効な手段となります。基本的に政治はそれをいかに社会全体のために有効に用いるかを巡っての戦いの場とも言えます。しかし、人は、富と権力を手にしたとたん、それがすべて創造主から一時的にあずけられているものに過ぎないということを忘れてしまいがちです。そこに落とし穴があるのです。
「まことに あなたは私の助けでした。御翼の陰で 私は喜び歌います」(7節) という告白こそ、神の「恵み」(真実の愛)を体験した結論です。目に見える豊かさに「渇き」を覚えるのではなく、創造主との交わりに「渇き」持つことの中に心の自由があります。
主の、あなたの力と栄光を、目に見える富や権力ではなく、あなたとの交わりの中で見ることができるようにしてください。私のたましいは あなたに渇きます。
詩篇64篇1〜10節「彼らは自らの舌につまずきました」
この詩は63篇と同じように神との交わりへの渇きが歌われていますが、この前半では特に、敵の攻撃に悩む姿がさらに強調されています。1節は原文の順番では、「聴いてください!神よ」という叫びから始まり、「私の声を、私が嘆く時に」と続きます。そして、「敵の脅かしから守ってください。私のいのちを」と訴えられます。「脅かし」とは、ダビデの敵が彼に現実的な脅威を及ぼしている現実を示しています。そして、神に向かって、「私をかくまってください!」と訴えながら、「悪を行なう者どものはかりごと」「不法を行なう者どもの騒ぎ」という二つの脅威からかくまわれることを願っています。
そしてその脅威とは、敵たちが「その舌を剣のように研ぎ澄まし、苦いことばの矢を放っています」という言葉の暴力です。著者は自分を4節で「全き人」と呼んでいますが、それは何の罪もないという意味ではなく、責められる理由がないのに、「隠れた所から」「不意に」いわれのない攻撃を受けることを意味します。私たちの世界でも、自分にとって最も痛いところ、傷つきやすいところを狙い撃ちするように、言葉の暴力を浴びせる人がいるかもしれません。それほど、ことばは人を傷つける力を持っています。
5、6節は、敵たちが「悪事に凝って」「示し合わせて……罠をしかけ」「不正を企み」その「策略」を成し遂げるようすが描かれます。そして、それをまとめるように、「人の内なる思いと心とは 底が知れません」と告白されます。それは、人の悪意の深さを描いたもので、残念ながらそのような現実が人の心の奥底にはあります。箴言16章27節には、「よこしまな者は悪を企む。その唇の上にあるものは焼き尽くす火のようだ」と記されていますが、「よこしまな者」の直訳は「ベリヤアルの者」、つまりサタンの手下という意味です。私たちの最も傷つきやすい部分を見分けて、巧妙な弁舌で攻撃して来る者は、人間的には「賢い」ようでも、その現実はサタンに操られている者に過ぎません。サタンは「告発する者」とも訳すことができますが、「どのようなことばを投げかけると、相手が怯(ひる)むか……」などを研究している者は、闇の力の支配下にあります。
彼らの自滅の様子が7節から描かれます。それは「矢」を放とうとする敵に、神ご自身が「矢を射掛けられるので、彼らは不意に傷つきます」という、神ご自身の手による復讐です。そのことが、「彼らは自分の舌につまずきました」(8節) と描かれます。まさに、人を貶めた彼ら自身の言葉の暴力が、自分のところに帰って来るというのです。そして、「彼らを見る者はみな 頭を振って嘲ります」と、攻撃者自身が、衆目の嘲りの対象とされるという逆転が起きます。その結果が9節で、「こうして すべての人は恐れ 神のみわざを告げ知らせ そのなさったことを悟ります」と言われます。サタンに動かされて私たちを攻撃する人は、神の敵として自滅に向かっているのです。そのような霊的な現実を見ながら、私たちは彼らを憐れみ、彼らのために祈る必要がありましょう。
10節ではこの詩のまとめが、「正しい人は主 (ヤハウェ) にあって喜び 主に身を避けています。心の直ぐな人はみな 誇ることができます」と記されます。私たちには、「キリストのうちにある者」としての勝利が約束されています。それを忘れてはなりません。
主よ、私たちは人の悪意の深さに驚き、怯えることがあります。しかし、主がすべての状況を支配しておられることを感謝します。主の公正なさばきにゆだねます。
詩篇65篇「義のうちに答えられます」
1節の原文は「御前には静けさと賛美があります。神よ、シオンにおられる」という順で記され、「あなたに誓いが果たされますように」と続きます。そこには、聖なる神の前に軽々しく近づくことができないという思いが込められています。それでいながら2節では、「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります」と呼び掛けられます。それは、聖なる神が「肉なる者」を招いてくださるという逆説の不思議です。
3節にあるように、私たちは「数々の咎」が自分を圧倒するような中で、神の御「赦し」のゆえに神に近づくことができます。私たちにとっては、神の御子イエスの十字架こそが、神のあわれみに満ちた「赦し」のシンボルです。クリスチャンとは、イエスの十字架が自分の罪のためであったと信じ、咎を抱えたままの自分が、神の招きを受けていると信じる者です。ですから4節の「幸いなことよ あなたが選び 近寄せられた人」とはすべての信仰者に向けられたことばです。私たちは聖なる神の「大庭に住む」者とされ、神の「家の良いもの……聖なるもので満ち足りる」ことができるのです。
5節の原文の語順は、「恐るべきみわざで、義のうちにあなたは答えてくださいます。私たちの救いの神よ。あなたは信頼の的です。すべての地の果ての」と記されています。ここに記された神の「義」とは、神が私たちの咎に応じて厳しいさばきを下すという意味ではなく、2、3節にあったように、神が「祈りを聞かれる方」であり、「背きを……赦して」くださる方であるということを意味しています。私たちは「大波のとどろき」や「もろもろの国民の騒ぎ」におびえますが、私たちは神がすべてを「鎮め」てくださることを信じられ、「高らかに歌う」ことができるようにしてくださいます (7、8節)。
9–13節には、神が約束の地をありとあらゆる祝福で満たし、豊かな収穫をもたらしてくださることが、数々の美しい描写で記されています。「あなたは地を訪れ、水を注ぎ これを大いに豊かにされます……広やかな平原は……喜び叫び 歌っています」(9–13節) という美しい約束を声に出して読むときに、私たちの心には、神への信頼が生まれることでしょう。私たちは、しばしば、「不信仰な私たちが神に信頼できるようになったら、神は私たちを豊かに祝福してくださる」というような、因果律で神の祝福を考えがちです。しかし、聖書は、疑い深く、狡猾で、自己中心なイスラエルを、神が「選び」「近寄らせて」くださった結果として、彼らが約束の地に導かれたと描いています。
すべてが、神のあわれみから始まっているのです。そして私たちの信仰とは、そのような神の真実、また「義」に対する私たちの応答に他ならないのです。たしかに、聖書には、民の不信仰や不従順に対する神のさばきが繰り返し記されますが、それはあくまでも、圧倒的な神のあわれみを繰り返し軽蔑した「恩知らず」に対するさばきとして描かれます。イエスの十字架は、私たちの罪に対する神の厳しいさばきを意味してはいますが、それ以前に、神の一方的な赦しと招きのメッセージなのです。神の「義」を、聖なる神が罪人を招いてくださるという、神の真実の物語から読むことができます。ルターの宗教改革は、そのような「神の義」の意味の再発見から始まった運動でした。
聖なる神よ、あなたが咎に圧倒される私たちを赦し、招いてくださることを心より感謝します。聖書を神のあわれみの計画から読む者とさせてください。
詩篇66篇1〜12節「異邦人による、神への賛美」
51篇から70篇までダビデが書いた詩篇が続きますが、この66篇と67篇は例外です。時代的背景は分かりませんが、10–12節を見ると国家的な危機から救われた直後のことで、ダビデよりもずっと後の時代に作られたと思われます。ただ、詩篇には時代を超え、また個人の体験を超えた神のみわざの普遍的な真実が描かれていますので、時代や作者にこだわり過ぎる必要もありません。12節までは「私たち」が主語になっています。
1、2節では三行に渡って、「喜び叫べ」「ほめ歌え」「栄光を帰せよ」という会衆に対する讃美の呼びかけが記されます。なお3、4節は、「神に申し上げよ」という促しから始まり、神の「みわざ」の「恐ろしさ」「偉大な御力」のゆえに、神の敵も含めた「全地」が、神を「伏し拝み」讃美すると言われます。私たちは1、4節の「全地」が「喜び叫び」、「全地」が神を「伏し拝」むという途方もない情景をまず思い浮かべる必要があります。人々が思い描く神は、ときに、限られた信仰者にとっての小さな神となりがちです。
ただ、5、6節では、「さあ、神のみわざを見よ」から始まり、神がイスラエルの民を、紅海を分けてエジプト軍から救い出し、またヨルダン川をせき止めて約束の地に導き入れたという具体的なみわざが思い起こされます。神が全世界を「統べ治め」ておられることは、イスラエルの上に現わされた具体的なみわざから明らかにされます。
8節で「国々の民」に向かって「私たちの神をほめたたえよ」という訴えがなされます。イエスの時代の多くのユダヤ人は、自分たちの信仰を守ることに熱心なあまり、異教徒たちを軽蔑していましたが、神がイスラエルの民を特別に選んで「契約」の民とされたことの目的は、彼らを神にとっての「祭司の王国」とするためでした。それは、全世界の民を唯一の創造主のもとに導き、全世界の人々がイスラエルの神を礼拝できるように祭司としての務めを果たすことでした。今その使命が、イエスを信じるユダヤ人を含む全世界のキリストの教会に受け継がれています (Ⅰペテロ2:9)。私たちの宣教の目的は、全世界の民が心からイスラエルの神を賛美できるようになることです。続けて、「神のほまれをたたえる声を響き渡らせよ」(8節) とありますが、現在の日本で、多くの未信者がゴスペル賛美に引き寄せられています。ときには未信者のグループの方が元気だったりします。信仰者はその現象を喜び、歌っている内容を積極的に紹介すべきでしょう。
その逆に10–12節では、イスラエルが異教徒たちの攻撃を受け、敗北し、途端の苦しみを受ける様子が歌われます。しかし、それはイスラエルの民の信仰を「銀を精錬するように」(10節) 練り直すためでした。異教徒たちに勝利を与えてイスラエルの民の「頭をまたがせ」たのは、イスラエルの神ご自身のみわざでした。そしてそこには、「豊かな所へ導き出す」(12節) という祝福の計画がありました。私たちの信仰も神によって「試され」「練られる」必要があります。私たちが会う様々な試練は、神が私たちを真の礼拝者、賛美の民として整えるためです。それは、神が私たちのために立てておられる計画は、「わざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11) と記されているとおりです。試練が真の賛美を生みます。
主よ、あなたが全地の人々をご自身への讃美に招いておられることを感謝します。様々な苦しみに会うことさえ、真の賛美を生み出す契機とされると理解させてください。
詩篇67篇1〜7節「主への讃美が全世界に満ちるため」
この標題は、「指揮者のために。弦楽器に合わせて。賛歌。歌」と音楽的な要素が四つも並列されています。竪琴に合わせて、レビ人たちが声を合わせて歌ったのでしょう。
1節は民数記6章24–26節のアロンの祝祷の要約とも言えます。そこでは、「主 (ヤハウェ) があなたを祝福し、あなたを守られますように。主 (ヤハウェ) が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように」と、イスラエルの民のための祝福が祈られていました。しかし、それとの決定的な違いは、「神が私たちをあわれみ、祝福し 御顔を私たちの上に 照り輝かせてくださいますように」と、「私たち」の祝福を願っていることで、その目的が、2節の「知られるように」へとつながります。それは、神の「道」が「地の上で」、神の「救い」が「すべての国々の間で知られる」という、神の祝福が「私たち」を通して、全世界に広げられることを意味します。神の祝福の広がりこそがテーマなのです。
神がひとりのアブラハムを召し出したとき、「あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい……地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2、3) と、アブラハムが祝福の基となると約束されました。使徒パウロはそれを前提に「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました……それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした」(ガラテヤ3:13、14) と記しています。つまり、この詩篇には、イスラエルへの祝福の歌が、全世界の祝福の歌とされるという壮大な計画が歌われているのです。
それを前提に、3節と5節では全く同じことばが、「神よ 諸国の民があなたをほめたたえ 諸国の民がみな あなたをほめたたえますように」と繰り返されます。たとえば、イスラエルの民から全世界に広がった有名なフォークダンスに、「マイム、マイム」がありますが、「マイム」とは「水」という意味で、その歌詞はイザヤ12章3節「あなたがたは喜びながら水を汲む。救いの泉から」のヘブル語をそのまま歌ったものです。しかもそこで「救い」のヘブル語はイェシュアで、それは主イエスを示唆しています。
それに続くイザヤ12章4節のことばは次のように訳すことができます(以下私訳)。
「その日、あなたがたは言う」『主 (ヤハウェ) に感謝し、御名を呼べ。 そのみわざが、国々の民の間で知られるようにせよ。御名があがめられるように語り告げよ。』」
つまり、水汲みのフォークダンスの歌詞は、全世界の民が主を讃美するようになるための宣教の勧めなのです。私たちの宣教の目的は、全世界の民が主を賛美することです。
そしてこの詩の6節でも、「大地はその実りを生み出しました」と、豊かな水から生まれる収穫のことが歌われます。それがさらに、「地の果てのすべての者が 神を恐れますように」(7節) という祈りにつながります。つまり、イスラエルの収穫感謝の歌が、全世界の民が主を礼拝することの始まりとなるというのです。なお、この詩の4節では、国々の民が主をほめたたえる理由は、主が「公平に諸国の民をさばき、地の国民を導かれるから」と歌われます。それは神の公平な支配が全世界に及ぶことを意味します。
主よ、あなたが私たちを祝福してくださることが、私たちの回りの人々があなたを賛美することにつながりますように。主への讃美が全世界を満たしますように。
詩篇68篇1〜4、15〜20節「日々、私たちの重荷を担われる方」
1節の表現は、民数記10章35節の「契約の箱が出発するとき」のことばとほとんど同じです。ですからこの詩は、ダビデが主の「契約の箱」をエルサレムに運び上げたときのことを歌っていると思われます (Ⅱサムエル6:12–19)。それはダビデが全イスラエルの王として、エルサレムを首都と定め、ペリシテ人を圧倒的に打ち破った直後のことです。
「神は立ち上がり……神を憎む者たちは御前から逃げ去る」(1節) とあるように神が契約の箱とともにエルサレムに住んでくださることによって、神の都は安泰になると歌われています。神の敵は「煙」のように「追い払われる」というのです (2節)。
神の箱の到来を「正しい者たちは、小躍りして喜ぶ」(3節) という表現に、「ダビデは。主 (ヤハウェ) の前で力の限り跳ね回った」ことを思い起こします (Ⅱサムエル6:14)。また、「雲に乗って来られる方のために道を備えよ」(4節) という表現に、主が決して「契約の箱」を住まいとしているわけではないことが明らかにされます。それは、何よりも、神の臨在を現わすしるしであって、それを偶像のように見ることも許されませんでした。
15節の「神々しい山 バシャンの山よ」とは標高2、800mのヘルモン山で、冬に積もる雪はイスラエル全体の水源ともなるかけがえのない山です。一方、「神がその住まいとして望まれたあの山」(16節) とは、エルサレムのあるシオンの山で標高約800m足らずに過ぎません。しかし、「主は とこしえにそこに住まわれる」と言われたのはヘルモン山ではなくシオンの山でした。それをヘルモンの山々が「ねたみ見る」というのです。
17節で「神の戦車は 幾千万と数知れず」とあるように、神に従う者の勝利はすでに確定していますが、それに続く18節は、キリストとその民の勝利を示唆したみことばとしてエペソ人への手紙4章8節で引用されます。ここでの「あなたは捕虜を引き連れて いと高き所に上り 人々に贈り物を与えられた」という記述は、前節の「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」という圧倒的な恵みをを証明するために引用されます。これは戦いに勝った将軍が、捕虜を引き連れて戦勝パレードを行い、配下の兵士に分捕り物を分ち合う様子を指しています。同じように神の御子は神の戦いの将軍として、すべてのクリスチャンに賜物を与えてくださるのです。
これが「契約の箱」のエルサレム入城と重ねられるのは、イエスがそこで十字架に架けられたことが、「悪魔の策略」「この暗闇の世界の支配者たち」(エペソ6:12) に対する勝利を意味するからです。エペソ書の文脈では、キリストは十字架の死にまで降られることによって、「もろもろの天よりも高く上げられた」(4:10) と記されます。十字架は忌まわしい敗北のシンボルでしたが、それがキリストにある勝利の記念碑となったのです。しかも、それはすべての信者にとっての勝利、圧倒的な恵みを受ける根拠とされました。
19節で、「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方……死を免れるのは 私の主 神による」と記されるのは、人々が「契約の箱」を運び入れたように見えても、事実は、主が私たちの真ん中に住まわれ、私たちのすべての重荷を担って、問題を解決してくださるからです。その象徴が、十字架が勝利の記念碑とされたことです。
主が「私たちの重荷を担われる」ために、私たちのただ中に住んでいてくださることを感謝します。その驚くべき恵みの豊かさをなお深く味わう者とさせてください。
詩篇69篇1〜4、16〜21節「わたしは渇く」
この詩は、22篇とともに、キリストの十字架と復活を預言的に描いたものと見られますが、どちらもその千年前のダビデのどん底の苦悩と勝利の中で生まれたものです。
筆者はカウンセリングの場で、来談者の悩みをお伺いした後に、「水が喉にまで入って来ました。私は深い泥沼に沈み 足がかりもありません。私は大水の底に陥り 奔流が私を押し流しています……私は 奪わなかった物さえ 返さなければならないのですか」(1、2節) という箇所をお読みすることがあります。すると、「それこそ、私の今の気持ちです」と、自分の絶望感が聖書に記されていることに感謝してくださいます。
神の御子が人となってくださったのは、私たちの絶望感をともに味わい、担ってくださるためでした。それは、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」(イザヤ53:4) と記されているとおりです。そして、イエスは十字架の上で、私たちすべての人間の代表として、神から御顔を背けられている絶望感を、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られました。それは詩篇22篇1節のことばそのものであるとともに、この詩の16–18節に描かれた祈りでもあります。
そして19、20節に描かれた「嘲りと 恥と恥辱」とは、イエスが十字架で体験されたものに他なりません。イエスの十字架の苦しみの描写では、肉体的な痛みを示唆する表現はほとんどなく、ローマ軍の兵士たちやユダヤ人の宗教指導者たちからどれだけひどい嘲りを受けたかばかりが描写されています。ある人が、「人間の基本的な苦しみは人間関係から生まれるものである」と言っていますが、私たちが日々の生活で味わう苦しみの基本も、人々から謂れのない中傷を受けることから生まれるとも言えましょう。
人に関わることが仕事であるような場合は、それが解決の糸口が見えないほどに悲惨になる場合があります。しかも、信仰者である場合は、そこで「人の理解を求めるのではなく、神の慰めを求めなさい!」などと、叱咤激励されることがあります。そのようなときに、「私が同情を求めても それはなく 慰める者たちを求めても 見つけられません」(20節) という表現を見ると、心がほっとします。同情者や慰める者を求めたくなる気持ちが決して否定されずに、孤独感がそのまま訴えられているからです。
そしてそこで受ける嘲りが、「私が渇いたときには酢を飲ませました」(21節) と描かれています。その渇きとは、この文脈からするなら、人の愛への「渇き」と言えましょう。イエスが十字架上で、「わたしは渇く」とおっしゃったことに関して、「聖書が成就するため」と記されていますが、それはこの詩篇の祈りを、イエスが味わい、祈られたことと理解できましょう。私たちがそれなりに誠実に、問題に向き合っているつもりなのに、謂れのない中傷を受けるとき、それはまさにイエスの十字架の歩みの御跡を従っていることを意味しているのです。残念ながら、イエスに誠実にお仕えしようと思えば思うほど、イエスと同じような「嘲りと 恥と恥辱」を受けるという現実があります。しかし、そこで自分の苦しみが、イエスの御跡に従っていることの結果であると感じられるなら、そこには同時に、「復活」の希望に満ちた喜びがあふれることになるのです。
イエス様、あなたは私が嘲りと恥と恥辱を受け、愛に渇いているとき、そこに真の慰めをお与えくださいます。さらに私を、主の御跡に従う者とさせてください。
詩篇70篇「神よ 私のところに急いでください」
この詩は非常に短いもののひとつで、しかも、詩篇40篇13–17節にほとんど同じ祈りが記されています。続く71篇には標題がないこともあって、もともと70篇と71篇は連続して読まれたことが確かであるとも言われ、それを証拠立てる写本もあります。章や節は、ずっと後代になって付け加えられたものなので、それにも一理ありましょう。
標題の、「記念のために」は38篇にも記されていますが、それはレビ記2章1、2節などで「穀物のささげ物」をささげる際に、「ひとつかみの小麦粉と油と乳香すべてを覚えの分として取り出し、祭壇の上で焼いて煙にする」と記される「覚えの分」を指します。神の助けを求める切羽詰った状況下で、まず神の恵みへの感謝をささげるという意味があるのかもしれません。71篇とつなげるなら、感謝への移行が明らかになります。
1節は原文で「神よ、救い出してください(私を)」「主よ、助けに来てください(私を)」と訴えながら、その両方にかかるように「急いで!」と記されます。しかも2、3節節でも「私のわざわいを喜ぶ者たち」へのさばきが、「恥を見 辱められますように」「退き卑しめられますように」「立ち去りますように、恥をかいて」と、日本人にも身近な表現で訴えられています。なお、「あはは」(3節) と訳されていることばは、ヘブル語では「ヘアッ、ヘアッ」という擬音語です。それは、神の民がわざわいにあっていることを「あざ笑う」様子を赤裸々に描いたもので、エゼキエル25章3節や26章3節ではユダ王国の捕囚やエルサレムが廃墟になったことをあざ笑う表現として用いられています。
4節ではそれまでと対照的に、「愉しみ 喜びますように」「いつも言いますように『神は大いなる方と』」という喜びへの転換が訴えられています。神のさばきと救いが、このような感情表現として描かれるのは非常に興味深いことです。私たちは神のさばきや救いをこのように身近な感覚で味わっているでしょうか。これこそ詩篇の醍醐味です。
5節では、「私は苦しむ者 貧しい者です」と感情を込めた表現がなされ、一節の「急いで」ということばを再び用いながら、「神よ。私のところに急いでください」と緊急な訴えがなされます。そして続く原文では、「私の助け」「私を救い出す方」「あなたは、ヤハウェよ」と神の御名が様々に呼ばれながら、「遅れないでください」と最後に訴えられます。なお、詩篇40篇の並行記事では、13節に「みこころによって」、また17節では「主が私を顧みてくださいますように」という、「神を恐れる」表現がありましたが、この詩では、「急いでください」という切羽詰った訴えが何よりも強調されています。
以前、日本は「恥の文化」で米国は「罪の文化」であり、福音の理解のためには「罪」の意識をより自覚する必要があるなどと言われた時期があります。しかし、先の69篇でもここでも、「嘲り」「恥」「恥辱(卑しめ)」「辱め」などという「恥」の類語が繰り返され、「あはは」とあざ笑うなどの描写などもあります。実は、聖書の表現は日本人の気持ちにずっと親和性の高いものなのです。人から侮辱され、恥の痛みに苦しむとき、「人の評価に傷つくのは、罪意識が未熟だからだ!」などと、自分の感情を抑圧することなく、このような聖書の表現を用いて、神のさばきと救いを、大胆に祈るべきでしょう。
主よ、あなたは私が恥を見、辱められ、卑しめられているとき、それをともに味わい、私の敵に報いられる方であることを覚え、自分に関しては愛を実践させてください。
詩篇71篇6〜9、15–20節「私は多くの人にとって奇跡と思われ」
この詩は先の70篇に続くダビデの作品と思われ、他の詩篇と重なる表現が多数登場します。6節はイエスの十字架預言の詩篇22篇に記された9、10節と重なります。筆者の母は、大雪山の麓の村で筆者を出産した際の危機的な状況を何度も語ってくれました。昔は助産師が各家を訪ね、出産を助けましたが、ここでは「あなたは私を母の胎から取り上げた方」と、神が助産師かのように描かれます。神は人の誕生を導く方なのです。
しかも7節では、「私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです」と続きます。母は八十台半ばまで未信者でしたが、筆者の誕生以来の奇跡とその後の歩みを見て、「聖書のことは良くわからないけれど、おまえが信じる神を、信じてみたい」と言って、洗礼を願うようになりました。このダビデの告白は、危機的な中で神に守られ続けた心からの感謝の現れであり、それが私たちと同じ肉の姿となられたイエスの告白であり、またすべてのイエスにつながる信仰者の告白となるのです。私たちそれぞれの出生もその後の歩みも、どれひとつとっても同じものはなく、すべてが創造主の「奇跡」とも言えます。それをどれだけ感謝できるかが問われています。
9節では「年老いたときも……私の力が衰え果てても」と、人々の世話にばかりならざるを得ない状況になっても、創造主にすがりながら生きて行くと改めて告白します。「私は生まれたときから」死の瞬間まで、神に「抱かれて」いるからです(6節)。
15節では、神の「義」と「救い」が並列されます。ときに神の義の法廷を思い浮かべ、それを「どんな些細な罪も見逃さないさばきの場」と説く場合があります。しかし、16節でも、「私はあなたの力とともに行きます……ただあなたの義だけを心に留めて」と記されるように、神の「義」とは、「多くの人々にとって奇跡と思われ」るほどに、神の「力強い」御手に守られ続けることを意味します。それは神の「真実」とも言いかえることができましょう。「義」または「正しさ」とは、神がアブラハムとその子孫への約束を守り通してくださるという聖書全体のテーマの中で理解されるきです。
さらに18節は、「年老いるまで……私を捨てないでください。あなたの大能のみわざを、後に来るすべての者に告げ知らせるまで」と訳すことができます。それは「年老い」て、神のみわざを後代の人々に「告げ知らせる」責任を果たすことができる「まで」、「私を捨てないで」と祈ることを意味します。それは神の真実を伝えるためです。
そして19節では「神よ あなたの義は天にまで届きます」と告白します。その「義」も神の「真実」と言い換えることができます。その神の真実が、「あなたは私を多くの苦難とわざわいとに あわせられましたが 私を再び生き返らせ 地の深みから 再び引き上げてくださいます」と、苦難のただ中での確信に満ちた希望として表現されます。
使徒パウロは、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と書き残しました。私たち一人ひとりが、不真実に陥ることがあっても、主はご自身の「義」によって私たちを立ち直らせ、生涯を全うさせてくださいます。それが「多くの人にとって奇跡と思われ」る人生です。
主よ、あなたの私に対する義、正しさ、真実に心より感謝します。自分の人生を通してあなたの義を深く味わい、それを後の世代に分かち合えるように助けてください。
詩篇72篇1〜11節「神のさばきと義による支配のために」
この詩は詩篇の第二巻の最後のものです。この20節では「エッサイの子ダビデの祈りは終わった」という記述で第二巻が閉じられます。ですから、この詩の標題は、旧版のように「ソロモンによる」ではなく、「ソロモンのために」ダビデが記したと解釈すべきでしょう。それは同時にソロモン以降のすべての王に期待される心構えでした。
1節では「神よ あなたのさばきを王に あなたの義を王の子に与えてください」と祈られます。「さばき」とは、裁判以前に「統治」という基本的な意味があり、神の統治の基準を王が実践できるようにという祈りです。また、「あなたの義」というのも神の正義の基準という意味で、基本的に「さばき」の場合と同じことが祈られています。
その同じ意味のことが2節で、「王」が「義をもって……公正をもって」、「民をさばき」、「苦しむ民を」守るようにと祈られます。それが4節で「王が 民の苦しむ者たちを弁護し 貧しい者の子らを救い 虐げる者どもを打ち砕きますように」と、王の具体的な「さばき(統治)」が、何よりも社会的弱者の保護に向かうべきだと記されます。
商業の発展は貧富の格差を必然的に広げます。たとえば昔から、土地の所有者は地代収入から年率平均5%程度の利回りが期待できる一方で、経済成長はゼロに近いというのが一般的なパターンでした。もしそのような中で地主が地代収入を次々に再投資して土地を広げることができるなら、三十年で資産は4.32倍に増えます(複利計算)。安定した社会では貧富の格差は世代を経るとともに拡大するのが常です(トマ・ピケティ著『21世紀の資本』から)。伝統的に権力者は大地主や資産家と結びつき易いので、貧しい者の立場は弱くなるばかりです。しかし、本来の政治の使命は何よりも、そのような貧富の格差の拡大の方向を正すことにあるはずなのです。レビ記25章のヨベルの年の規定では50年に一度、神から受け継いだ土地に戻ることが命じられ平等の実現が保証されていました。義による王の支配は、そのような平等化を目指すことにありました。
3節は様々な訳が可能ですが、ここでは「山も丘も 義によって 民に平和をもたらしますように」と訳されます。イスラエルの山や丘は、北のヘルモン山からの露によって潤い、作物を生み出し、地に繁栄(平和)をもたらします。それは自然現象以前に、この地が神のみこころに添った「義」によって治められているときに、神がそれを約束しておられるからです (レビ26:3、4)。イスラエルの地は夏の乾燥が激しいため、神の恵みは「時にかなった雨」に現わされますが、神のさばきは天からの雨を止めることで現わされました (レビ26:19)。それを前提に、神に従う王がもたらす祝福が、6節では「王は 牧草地に降る雨のように 地を潤す夕立のように下って来ます」と記されます。そして7節では、正しい王の「さばき」のもとにおける「豊かな平和」が祈られます。
8–11節では、ダビデから生まれる王が、全世界を「統べ治めますように」と祈られ、「すべての国々が彼に仕えるでしょう」とまとめられます。イエスこそがこの預言を成就する「ダビデの子」として生まれることになります。そして、今、全世界でイエスが「王たちの王、主たちの主」としてあがめられ、その「愛の国」が広がっています。
主よ、イエスが今、「王たちの王、主たちの主」としてこの地を治めておられることを感謝します。私たちがキリストともにこの世界に神の愛を広げられますように。
詩篇73篇1〜5、11、12、16〜19、23、24節「悪しき者が栄えるのを見て」
この詩は第三巻の初めで、「アサフの賛歌」はここから83篇まで続きます。アサフはダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた時の音楽家です (Ⅰ歴代誌15:17、16:5)。
1節では聖書の真理が描かれます。しかし2節では、「けれどもこの私は 足がつまずき……歩みは滑りかけた」と記され、その理由が、「私が悪しき者が栄えるのを見て 誇り高ぶるものをねたんだからだから」(3節) と描かれます。それは彼らが死においてさえ「苦痛がなく」「からだは肥え」「苦労」もなく、「打たれることもない」からです。そのような中で彼らは自己中心的で乱暴な生き方を押し通し、「どうして神が知るだろうか」(11節) と、神の公平なさばきを軽蔑するようなことを続けます。そして12節は皮肉な現実が、「見よ これが悪しき者。彼らはいつまでも安らかで 富を増している」と描かれます。まさに著者は、「正直者がバカを見る」という現実を見て、心を痛めています。
そのような一方で著者は、精一杯誠実に生きようとするのですが、かえって自分の立場は苦しくなるばかりでした。しかも、それを正直に語れば、人々をつまずかせるとしか思えませんでした。彼はこのような不条理をなぜ神が許しておられるのかを「理解しようと」しましたが、それは「私の目には苦役であった」というのです (16節)。
しかし、17–19節では、「ついに私は 神の聖所に入って 彼らの最期を悟った」と描かれ、その啓示された現実を神に向かって、「まことに あなたは彼らを滑りやすい所に置き 彼らを滅びに突き落とされます。ああ 彼らは瞬く間に滅ぼされ 突然の恐怖で 滅ぼし尽くされます」と告白します。著者はこの世の不条理を見ながら、「私の歩みは滑りかけた」(2節) と言っていましたが、実は「悪しき者」こそが「滑りやすい所に置」かれていたのです。イエスもルカの福音書16章19–31章で、「ある金持ちが……毎日ぜいたくに遊び暮らしていた……門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた」という話から初めて、死後、金持ちは炎の中で苦しみ、ラザロはアブラハムのふところで慰めを受けるという対比を示されました。金持ちはそこで初めて自分の愚かしさを悔い、自分の兄弟に警告がもたらされることを願いますが、それに対して、真理はすでにモーセと預言者たちを通して十分に知らされていると言われます。このイエスのたとえこそ、この詩への何よりも明確な解答です。実は、聖書を知らない「悪しき者」でさえ、どこかで超越者の存在とさばきを聞いています。しかし、それがなかなか実現しない中で、自分をますます危機的な状況の中に追い込んでいるだけなのです。
その一方で神に向かって著者は、「あなたは私の右の手を しっかりとつかんでくださいました。あなたは 私を諭して導き 後には栄光のうちに受け入れてくださいます」と告白します (23、24節)。そしてこの詩の終わりでは、「私にとって 神のみそばにいることが 幸せです」(28節) と告白します。それこそ、私たちがこの世の不条理の現実を越えて味わいつつけることができる「幸い」です。目に見える栄華は、すべての豊かさの源である創造主からの賜物ですが、それを自分の功績と誇る者には望みがありません。与えられている豊かさは、私たちの生き方を試す、神からの試験でもあるのです。
主よ、悪しき者の栄えを見て、彼らへの同情を抱く者とさせてください。まことに豊かさは神の恵みの招きによる試験です。その厳しさをも私たちが味わえますように。
詩篇74篇1〜4、9〜11、18〜21節「なぜ、いつまでも(永久に)拒み……」
これはアサフの子孫が、エルサレム神殿がバビロン帝国によって廃墟とされた後に記したものです。それは神がレビ記26章や申命記28、29章で警告しておられたことですから、詩篇作者は、わざわいの原因が自分たちの罪にあることは十分わかっています。
それにも関わらず著者は、「神よ なぜ いつまでも拒み 御怒りを……燃やされるのですか」(1節) と訴えます。それは、神の御怒りが「いつまでも(永遠に)」続くように思えるからです。そして2節では、「どうか思い起こしてください」と言いながらイスラエルの歴史と、神の「住まい」であった神殿の跡について述べ、3節ではさらに、「あなたの足を 永遠の廃墟に踏み入れてください」と訴えます。この「永遠の」とは原語で先の「いつまでも」と同じ単語が使われています。それは事実ではなく、作者の感想であり、早くこの状況を変えるために、神が動き出してくださるようにという訴えです。
その上で3節後半から8節まで、神の「敵」が神の聖所を汚している恐ろしく悲惨な状況が、また9節では神の民が希望を失っている状況が描かれます。そして10節では、「神よ いつまで はむかう者はそしるのですか。敵は 永久に 御名を侮るのですか」と訴えられます。ここでの「永久に」も先の「いつまでも」と同じ言葉です。そして11節では、「なぜ あなたは御手を 右の御手を引いておられるのですか。その手を懐から出して 彼らを滅ぼしてください」と大胆に祈られます。著者は、神がご自身のみこころを変えてくださるなら、この状況はたちどころに変えられると信じているからです。
18節では、主に向かい「心に留めてください。敵がそしり 愚かな民が御名を侮っていることを」と訴えられます。これは10節同様、神の御名が侮られていること自体を問題にしたものです。さらに19節では「あなたの悩む者たちのいのちを永久に忘れないでください」と訴えられますが、この「永久に」も先の「いつまでも」と同じ言葉です。
20節では「どうか 契約に目を留めてください」と訴えられます。それは、神の契約には、民の罪に対するさばきの警告と共に、そこから神が民に繁栄を回復してくださるという約束が記されているからです。人はときに、苦しみの時間は永久に続くように感じるものですが、神の「契約」の目的は、御名が永遠にあがめられることです。ですから21節では「苦しむ者 貧しい者が 御名をほめたたえますように」と祈られます。
神の「契約」には「永遠の」目的があります。それは、「主 (ヤハウェ) を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」(イザヤ11:9) ことです。そのときに、世界に完全な平和(シャローム)が実現します。著者は、主がいつまでも拒むこと、神殿が永久の廃墟になること、永久に御名が侮られること、民のいのちが永久に忘れられることを問題にしながら、神がご自身の民に、救いの御手を差し伸べることがご自身の御名の栄光につながると、まるで神を説得するかのように訴えています。私たちはときに、「自業自得の苦しみだから……」と悲惨を受け入れることが信仰だと思うことがあるかもしれません。しかし、それは運命論的な諦めと似ています。神は私たちが必死に訴えかけることを喜んでくださいます。ご自身の御名の栄光こそが、世界全体の祝福につながるからです。
主よ。私たちが苦しみに会うとき、運命的な諦めの気持ちに陥らないように、私たちの心のうちに祈りを起こしてください。あなたの御名が真実にあがめられますように。
詩篇75篇1〜10節「まことに 神こそさばき主」
標題の「『滅ぼすな』の調べ」がどのような「調べ」なのかは不明です。同じ標題が詩篇57–59にも用いられ、そこでは神の偉大な救いのみわざが歌われていますが (
申命記9章26節参照)、神の「公正なさばき」は「救い」と表裏一体のこととして描かれます。
1節では「感謝します」ということばが二度繰り返されますが、これは先の詩篇で御名が侮られ、神のみわざが見えなくなっていた状況とは対照的な状況を指します。
2節の原文では「定めの時を決め」「公正にさばく」ということばの真ん中に「わたしが」という宣言が入っています。つまり、神は「時」と「さばき」の支配者であると言われているのです。そして3節は「揺らぐとき」という言葉から始まり、「地とそこにすべての者」に危機的な状況が訪れる時に、神は「わたしが」と再び宣言しながら、「地の柱を堅く立てる」と約束してくださいます。これは日本列島が、しばしば地震や津波に襲われながら、その災害の広がりに限界が設定されるのが神のみわざであるという意味にも理解できます。考えてみれば火山活動で生まれた日本列島にそのような災いが起きることの方が自然で、その被害が限定されるということのほうが不思議とも言えます。
4、5節では「誇るな」「角を上げるな」「角を高く上げるな」「横柄な態度で語るな」と繰り返されます。「角」とは力のシンボルですが、これは人間たちが創造主を忘れて自分たちの働きを誇っていることへの警告です。東日本大震災の際の原発事故の悲劇はその現れとも言えます。私たちはそのような中で政治的な非難合戦に陥りがちですが、そこで何よりも問われるのは、この世界を支えているのはどなたかという世界観です。
6、7節は原文の順番では、「東からでも西からでもなく、荒野からでもない、高く上げることは。まことに神こそがさばき主。ある者を低くし、ある者を高く上げられる」と記されます。「さばき主」とは、裁判官というよりは真に治める方という意味で、「高く上げる」とは、治める地位に上げられるという意味です。つまり、イスラエルを真の意味で治めるのは、東西や荒野からの権力者ではなく、主ご自身であるというのです。
8節では「主 (ヤハウェ) の御手には杯があり 混ぜ合わせたぶどう酒が満ちている」と記されます。これは、イザヤ51章17節やエレミヤ25章15、27節以降では「憤りの杯」とも呼ばれるように、イスラエルを含むすべての神に敵対する勢力への厳しいさばきを示します。しかもここでは続けて、「主がこれを注ぎ出されると 実に すべての地の悪者どもは それを飲み かすまで飲み干す」と記されます。これは悪者どもが進んで自滅に向かうことを意味します。また、黙示録18章3、6節では悪徳の富の支配者「大淫婦」の「淫行のぶどう酒」に「倍のものが混ぜ合わさせ」られ、彼女自身がそれを飲んで滅びると記されます。それは株価のバブル崩壊で破産することに似ています。神のさばきこの世の富や権力に溺れるままに任せて自滅させることにも現されるのです。
大津波による原発事故も、株価のバブル崩壊による破産も、その根本的な問題は、人間がこの世界を治めることができると思う傲慢さが招いた悲劇です。「神こそさばき主」ということばは、恐怖であるよりは、神に信頼する者にとっての希望の表現です。
「神こそさばき主」ということばに、主の愛の招きが込められていることに感謝します。人間の知恵や力の限界を悟って、あなたのご支配にある平安を体験させてください。
詩篇76篇1〜12節「実にあなたは恐ろしい方」
ギリシャ語七十人訳では、この詩の標題の終わりに「アッシリアについて」と記されますが、この詩は、アッシリア帝国がヒゼキヤ王の導くエルサレムを紀元前701年に攻撃した時、ヒゼキヤ王の祈りに答えて、主の使いがアッシリア軍の十八万五千人を滅ぼし、彼らを奇跡的に退却させたことを思い起す歌とも理解できます (Ⅱ列王記19章)。
1、2節では神がご自分の「御名の偉大さ」をご自分の民に「示される」とまず記され、その理由が、ご自身の「住まい」が「サレム」(エルサレムの昔の名)またシオン(神殿の立つ丘)にある」からと述べられます。3節では「神はそこで 弓の火矢を砕かれる。盾も剣も 戦いも」とあるのは、まさに神が真夜中のうちにアッシリア軍を滅ぼされたからです。そのことが4、5節で、「あなたは輝かしく……どの勇士たちにも 手の施しようがありませんでした」と描かれます。神の前に彼らはあまりにも無力でした。
6、7節では、「ヤコブの神よ……あなたは 実にあなたは恐ろしい方 お怒りになれば だれが御前に立てるでしょう」と、「あなた」が強調されながら、神を嘲った者に対する激しい怒りが描かれます。それはアッシリア王がヒゼキヤに、「おまえが信頼するおまえの神にだまされてはいけない。エルサレムはアッシリアの王の手に渡されないと言っているが……私の先祖は、ゴザン、ハラン……の人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救い出したか」(Ⅱ列王記19:10–12) と言ったことへの神の応答でした。アッシリア王が、イスラエルの神を、周辺諸国の偶像の神々と同列に扱ったことに神は怒りを発せられたのです。神の恐ろしさの前に、凶暴な帝国は身を潜めざるを得ません。
8節では、「天からあなたの宣告が聞こえると 地は恐れて沈黙しました」とありますが、ここでの「地の恐れ」は、先の「あなたは恐ろしい方」への応答です。そしてその原因は「神が さばきのために……立ち上がられた」からですが、その「さばき」とは「地のすべての貧しい者たちを救う」(9節) ために他なりません。そして10節では、「まことに 人の憤りまでもがあなたをたたえ あなたはあふれ出た憤りを身に帯びられます」と記されます。これは先のアッシリアの王が自分の言うことを聞かないヒゼキヤとイスラエルの民に憤りを燃やしてエルサレムを滅ぼそうとしたことが、かえって神がいかに「恐ろしい方」であるかを明らかにし、神の御名をたたえる結果になったことを指します。神は、人の憤りまでもご自分の身に帯び、ご自身の敵に報復されるのです。
11、12節では「恐るべき方」ということばが繰り返されます。それはあくまでもこの地の王国が恐怖によって人々を支配することの対比で記されていることばです。アッシリア帝国は世界初めての他民族を支配する帝国でした。その支配は命令に逆らう者に容赦のない残酷な刑罰を行なうことによって成り立っていました。主はその恐怖の帝国との比較でご自身の方がはるかに「恐るべき方」であることを示すことによって、人間の奴隷になる必要がないことを示されたのです。今も、脅しや暴力で人を従えようとする野蛮な人がいますが、それに怯える必要はありません。神の怒りは、自分の力を誇り社会的弱者を虐げる人に向けられているからです。神の怒りは、神の愛の現れなのです。
主よ。人は何としばしばこの世の権力者の憤りにおびえて自分を偽って来たことでしょう。どうか真に恐るべき方を知ることによって、恐怖の奴隷状態からお救い下さい。
詩篇77篇1〜12節「慰めがないときの慰め」
最初の告白、「私は神に声をあげて 叫ぶ……神は聞いてくださる」(1節) とは、聖書を貫く信仰の公式のようなものです。信仰とは、神との対話だからです。キリストですら、「大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7) と記されているとおりです。ところが、ときに、私たちの叫び声がまったく神に届いていないように思え、この告白が心に虚(うつ)ろに響くことがあります。その混乱した気持ちを作者は、「苦難の日に 私は主を求め 夜もすがら たゆまず手を差し伸ばした。けれでも 私のたましいは慰めを拒んだ」(2節) と告白します。
以前、二人のお子さんを抱えて末期がんに苦む母親をお見舞いしたとき、彼女は「私は神に委ねることなどできません!」と言っていました。どんな慰めも虚ろに響くように思える中で、「慰めを拒んだ」というこの祈りをともに祈らせていただいたところ、「こんな祈りがあるのですね……」とその方の表情が変わりました。彼女は神に対して抱いている自分の怒りの気持ちを、神のみことばを用いて訴えることができたのです。その後、状況はかえって悪くなっているというのに、神との対話が豊かにされ、彼女の表情は不思議な平安に満たされてゆきます。これに関してあるドイツの宗教教育学者は、「このことばは、あまりにも素早く、あまりにも安易に与えられる慰めに、断固として抵抗する権利を容認してくれる」と興味深い表現で解説しています。「優しさ」という字が、「人」が「憂い」の傍らに立つと描かれるように、愛は痛みに共感することから始まります。慰めを拒絶したい気持ちさえ受け入れるのが「愛」の始まりです。
この著者は、「神を思い起こ」すことが、賛美ではなく、「嘆き」を生み出し (3節)、また、「思いを潜め」ることが、かえって「私の霊は衰え果てる」原因になると訴えます。実際、私たちも、主の御前に静まることで、葛藤が増し加わることがあります。しかし、そこに希望があります。それはその人の「嘆き」が、主に向っているからです。多くの人は、この詩篇を読み、「私の気持ちがここに記されている!」と不思議な感動を覚えます。それは、不安と悲しみで「息が詰まっている」たましいが、主に向って呼吸を始めるきっかけになります。祈りの基本は、主に向っての「呼吸」なのですから……。
しかも著者は、「昔の日々」(5節) の恵みや、心を震わせた「歌を思い起こす」(6節) ことが落ち込みの原因になると訴えます。それは、目の前の現実が、昔と比べてあまりにも悲惨だからです。ただ作者は、このように「自分の心のうちで思いを巡らし」たことを、飲み込む代わりに、その不敬虔とも言える気持ちを正直に表現します(7–9節)。
しかしそこで著者は突然、「私が弱り果てたのは いと高き方の右の手が変わったからだ」(10節) と言います。「右の手」とは神の民に祝福と勝利をもたらす神の力の象徴的表現ですが、自分の悲惨が神の御手の中で起こっているなら、神はこの悲惨な状況も簡単に変えられると期待できるからです。著者はそこから、はるか昔のイスラエルに対する神のあわれみにまで遡ったことで、神のみわざに期待できるようになります。かつて悲しみをもたらした「思い起こし」が、希望と賛美を生み出すようになるのです。
主よ、あなたは私たちの心の奥底に潜む、あなたへの怒りや不信すらも、優しく受け止めてくださる方であることを感謝します。私の祈りの呼吸をさらに導いてください。
詩篇78篇59〜72節「主はその聖所を 建てられた」
この詩の全体を通して、イスラエルの民がその最初の歩みから、いかに「神のあわれみ」を繰り返し軽んじ、神に逆らい続けたかが描かれています。それを前提に59節では、「神は 聞いて激しく怒り イスラエルを激しく退けられた」と記されます。つまり、イスラエルに対する「神の怒り」と「さばき」の背後には、神が深く「悲し」み、「心を痛め」ておられるという (40、41節)、神の熱い思いがあるのです。神は人の愚かさを上から見下ろして、ご自分に従わない者を冷たく滅ぼされるような方ではありません。
60–64節は、サムエルの登場前のイスラエルに対するさばきが描かれています。祭司エリの息子たちは、幕屋礼拝を自分たちの私腹を肥やす機会と捉え、人々が神を礼拝するためにささげるいけにえを、何と横取りしていたというのです(Ⅰサムエル2:12–17)。彼らはまさに、「敬虔を利得の手段と考える者たち」(Ⅰテモテ6:5) でした。残念ながら、宗教を金儲けの手段と考える者たちが後を絶ちませんが、彼らこそがその先駆けでした。
それに対し、主は、「シロの御住まい……その幕屋を見放して……御栄えを敵の手に渡された」(
60、61節) というのです。ペリシテ人がイスラエルを攻めてきたとき、祭司たちは契約の箱を戦いの前線に持ち出して、勝利を勝ち取ろうとしました。しかし、主は何と、ご自身の栄光を現わす「契約の箱」をペリシテ人に奪われるに任せ、それによって幕屋礼拝を停止させ、「ご自分の民を剣に引き渡」されたのです (62節)。それは、主の栄光がイスラエルを去ったことを意味しました。そして幕屋礼拝は停止されました。
65節では「そのとき主は 眠りから目を覚まされた」と不思議な表現がなされます。それは神がイスラエルの民の叫びに対し、まるで眠っておられるかのように沈黙していた状態からの驚くべき変化です。そして続けて、「主は敵を討って退け 彼らに永遠のそしりを与えられた」(66節) と記されます。ただ同時に、「主は ヨセフの天幕を捨て……ユダの部族を選ばれた」と記されながら、エルサレムのシオンの山が新たな礼拝の場として、「高い天のように」また「永遠に基を据えた地のように」建てられたと記されます。そして、それを主導する担い手としてユダ族のダビデが選ばれたというのです。
そして、羊飼いであったダビデは、イスラエル全体の牧者として召され、「全き心で彼らを牧し 英知の手で彼らを導いた」(72節) と高く評価されています。ダビデが王として様々な欠けを持っていたことは周知の事実です。しかしこの文脈では、シロにあった幕屋が捨てられ、エルサレムの礼拝の場が建てられたという展開が何よりも強調されています。そのようにダビデの最大の功績は、イスラエルを礼拝の民として整えたことにあります。彼は苦難に会うたびに、神への美しい祈りを記し、それがイスラエル全体の賛美の歌とされました。人はみな、政治的な意味での有能な王を求めます。しかし、神が選んだダビデは、イスラエルの民を礼拝者として整えるための牧者であったのです。
なお、このダビデの働きを真の意味で引き継いだのが「ダビデの子」としてのイエスでした。多くのユダヤ人は、政治的な意味でのダビデ王国の再興を願いましたが、ダビデの功績は何よりも、礼拝共同体を立て上げたことで、それは現代に通じることです。
主よ、私たちもダビデにように、様々な試練に会い、失敗を犯します。しかし、どうかその中で、ダビデのように真実にあなたにすがり、あなたを礼拝する者としてください。
詩篇79篇1〜10節a「御名の栄光のために」
「神よ 国々は……あなたの聖なる宮を汚し エルサレムを瓦礫の山としました」(1節) という訴えは、詩篇78篇69節で、エルサレム神殿が「永遠」のものとして「建てられた」と記されたことと矛盾するように思われます。ただし、詩篇46篇5節では、「神は そのただ中におられ その都は揺るがない」と記されていたのです。それにも関わらず、神の民はその神殿の中に偶像まで置いて、外国の神々を拝み、その聖なる場を汚してしまい、主が「そのただ中に」住むことができなくしてしまいました。そのため、「主の栄光が神殿の敷居から出て行った」と描かれます (エゼキエル10:18)。まさに神は「シロの……幕屋を見放し」(78:60) たように、エルサレム神殿を見捨てられたのです。
そのためバビロン帝国が、エルサレムを徹底的に破壊し、町は屍であふれ、住民の血が「エルサレムの周りに 水のように注ぎ出」されるようになりました (2、3節)。そしてエルサレムの民は「そしりの的となり 周りの者に嘲られ 笑いぐさとなりました」(4節) 。それは詩篇74篇の解説に記したように、さばきの預言の成就でもありました。
そしてここでも、「主よ いつまでですか。とこしえに あなたはお怒りになるのですか」(5節) という訴えがなされます。ただ不思議にも著者は、自分たちの罪の赦しを祈る前に、すぐに敵への復讐を願います。そして、エルサレムを滅ぼした神を知らない国々に「激しい憤りを注いでください」(6節) と祈ります。そればかりか、「先祖たちの咎を 私たちのものとして思い出さないでください」(8節) と訴えます。これはエルサレムの荒廃の責任は先祖に帰すべきであって、自分たちがそれに巻き込まれるのは不条理であると訴えているかのようです。そして、改めて自分たちの状況を、「私たちは ひどくおとしめられているのです」と言い表します。それはこの悲惨から、ただただ、速やかに救い出されたいという思いに他なりません。これは、幼児の訴えにも似ています。自分たちの罪を反省する前に、ただ助けてもらいたいだけなのです。しかし、これこそが祈りの基本なのかもしれません。祈りには神学的な瞑想以前の要素があるからです。お行儀のよい祈りよりも、まず自分の正直な気持ちを訴えることが何より大切です。
9節は原文では、「助けてください!」という訴えが冒頭に来ます。そして、そこに「御名の栄光のために」と付け加えられます。それは周辺の国々がイスラエルの神を侮るように、「彼らの神はどこにいるのか」(10節) と言って、神の御名が汚されているからです。著者は、神が何よりもご自身の栄光のために事をなされることを知っています。
さらに「救い出してください!」と訴えつつ、ここで初めて、「罪をお赦しください!」と嘆願します (9節私訳)。それは、「御名のゆえに」とあるように、「聖なる神」との交わりのためには、神ご自身の側からの赦しが大前提だからです。しかも、その際、「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」(詩編130:4) とあるように「神の赦し」こそが、御名の栄光を現わすことになります。主は御名が侮られることに対してさばきを下すとともに、御名の栄光のために救ってくださる方です。著者は、正直な気持ちを訴えるという過程を経て、神がどのような方かを告白するようになっています。
主よ、あなたはご自身の御名のために人の傲慢を砕き、ご自身の御名のために救ってくださる方であることを感謝します。いつでもどこでも御名をたたえさせてください。
詩篇80篇1〜3、8〜14節「このぶどうの木を顧みてください」
この詩では最初に神を、「イスラエルの牧者」「ヨセフを羊の群れのように導かれる方」と呼びながら、その方に「聞いてください」と訴えます。さらに神の栄光の御座を思いながら神を「ケルビムに座しておられる方」と呼びつつ、「光を放ってください」と訴えています。これは神に、本来の働き戻ってくださるようにと願うことでもあります。
さらに2節で、著者は特別にヤコブの最愛の妻ラケルの息子ヨセフの二人の子とベニヤミンの名をあげながら「エフライムとベニヤミンとマナセの前で 御力を呼び覚まし 私たちを救いに来てください」と訴えています。エレミヤ31章15節では「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに」と記されていますが、それはベニヤミンの中心都市ラマにイスラエルの民が集められ、バビロンの地に向かって強制連行されたからです (同40:1)。その捕囚の嘆きが、マタイ2章18節ではヘロデ大王によるベツレヘムの幼児殺しに結び付けられて引用されます。つまり、この三つの部族の名にはイスラエルの悲惨が凝縮されているのです。それを思いながら作者は、眠っている神に訴えるかのように、失礼なほどに大胆に、神にすがっています。
3節の三行詩は、7節と19節でも繰り返されます。ほぼ同じことばが三度も記されるのですから、まさにこの詩の核心を現わしたものです。「私たちを元に戻し」とは、「帰らせてください」とも訳されることばです。それは14節の「万軍の神よ どうか帰って来てください」とセットに理解される必要があります。バビロン捕囚は、神の栄光がケルビムの翼とともに神殿を離れてしまったことの結果ですが (エゼキエル10:18–22)、その神が神の民の真ん中に戻ってくださることで、民も約束の地に戻ることができます。
また、「御顔を照り輝かせてください」とは、神が再びイスラエルの民に微笑みかけてくださるようにという訴えです。その上で三度にわたって、「そうすれば 私たちは救われます」と告白されます。使徒パウロはこの祈りが成就したことを理解させるために、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16) と訴えています。それは神が私たちをキリストのうちにある者として微笑んで見て、交わりの真ん中に住んでくださったことを意味します。
8–11節は、イスラエルを「ぶどうの木」に見立てた神の救いの物語の要約です。神は「ぶどうの木」をエジプトの地から引き抜く一方で、約束の地から異邦の民を追い出し、そこに植えてくださいました。さらに神が「地を整えられた」ので、ぶどうの木は驚くほど豊かに成長し、地中海からユーフラテス川にいたるまで枝を伸ばしました。
ところが12、13節では、神はその木の豊かな実を、他の国々に奪い取られるままにされたと描かれます。それがバビロン捕囚です。それを前提に14節では、「万軍の主」がこの地に帰り、天から目を注いでこの「ぶどうの木を顧み」、繁栄を回復してくださるようにと願っています。そして新約の福音によると、主の栄光は神の御子イエスとともに約束の地に戻ってくださったのです。祝福がそこから世界に広がり続けています。栄光に満ちた神が私たちの交わりのただ中に住み、「光を放って」(1節) くださるのです。
主よ、イエスの十字架によって私たちの罪が赦され、神が私たちの真ん中に住むことができるようになられたことを感謝します。豊かなぶどうの実を生み出させてください。
詩篇81篇1〜4、9〜16節「あなたの口を大きく開けよ」
3節に「新月と満月に 角笛を吹き鳴らせ。私たちの祭りの日に」と記されていますが、それは現在の9月から10月の最大の祭りの期間を指しています。レビ記23章24節には新月の角笛のことが、「第七の月の一日は……角笛を吹き鳴らして記念する聖なる会合を開く」と記されます。また、満月に関しては、「この第七の月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる」(レビ23:34) と記されます。それはイスラエルの民が仮庵に住みながら荒野の生活を思い起こし、同時に、約束の地における豊かな収穫を感謝するときでした。そのことがこの詩の16節で、「主は 最良の小麦を御民に食べさせる。わたしは岩から滴る蜜で あなたを満ちたらせる」と記されています。
そのように記される背後には、イスラエルの民が「異国の神を拝んで」(9節)、「彼らの敵を征服」(14節) することに失敗し、様々な試練に会って、食べるものにも事欠くような事態に陥ったからと言えましょう。そのような中でこの詩では、イスラエルの民にとって何かの難しい悔い改めの実を結ぶことを命じる代わりに、まず最初に、「喜び歌え 私たちの力なる神に。喜び叫べ ヤコブの神に。ほめ歌を歌い タンバリンを打ち鳴らせ……」と、喜び祝うことが命じられています (1、2節)。彼らが何よりも覚えるべきことは、イスラエルの神ご自身が、「わたしは あなたの神 主 (ヤハウェ) である。わたしが あなたをエジプトの地から連れ上った」(10節) という原点だからです。
その上で、主ご自身が「あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう」と驚くべき命令を与えてくださいました。それは、人は困難のただ中で、目先の問題の解決ばかりを計り、神の救いのみわざの原点を忘れてしまうからです。私たちは神が既にどれほど偉大なことをなしてくださったかを覚え、喜び歌うべきなのですが、それと同時に、神が将来に、どれほど偉大なことができるかを心より期待する必要があります。
仮庵の祭りの前の第七の月の十日は「宥めの日」(レビ23:10、第三版までは「贖罪の日」)。それはイスラエルの民が年に一度、自分たちの罪を徹底的に思い起こし、「雄やぎを屠り、その血を垂れ幕の内側に持って入り、この血を」、契約の箱の上の「宥めの蓋」の「上と」「前に」かけるという厳かな罪の贖いの日でした (レビ16:15)。それは神との和解を新たにし、それによって神がイスラエルの民のただ中に住み続けることができるためでした。私たちのためにはイエスこそが「宥めのささげもの」または「宥めの蓋」となってくだいました (ローマ3章25節とその別訳)。かつて、主は「宥めの蓋」の上から、「二つのケルビムの間」からモーセに語られましたが (民数記7:89)、それがバビロン捕囚の際に失われました。しかし、十字架はイエスが新たな「宥めの蓋」となってくださったことを意味します。それは父なる神がイエスによって私たちの間に住み、イエスを通してお語りくださることを意味します。イエスこそが神殿の完成なのです。
キリストにある圧倒的な救いが、私たちのために新たにされ続けています。私たちも「口を大きく開け」ながら、主の十字架と復活において始まった「新しい創造」(ガラテヤ6:15) の恵みを心から感謝して受けつつ、その恵みを喜び歌うべきでしょう。
神がキリストにいてなしてくださった偉大なみわざを繰り返し思い起こし、喜び躍らせてください。そして、キリストのうちにある恵みを体験させてください。
詩篇82篇「おまえたちは神々だ」
「神は……神々のただ中でさばきを下す」(1節) とは不思議な表現ですが、文脈からすると、「神々」とはイスラエルの指導者たちを指しているのは明らかです。それゆえ2、3節では、「いつまで おまえたちは不正をもってさばき 悪しき者たちの味方をするのか。弱い者とみなしごのためにさばき 苦しむ者と乏しい者の正しさを認めよ」と、彼らに対する叱責と期待が記されます。その上で改めて神ご自身が、民の指導者たちに向かって、「おまえたちは神々だ。みな いと高き者の子らだ。にもかかわらず おまえたちは人のように死に、君主たちのひとりのように倒れるのだ」と言われます。エゼキエル34章でも、「イスラエルの牧者たち」(1節) と呼ばれた者たちが羊を踏みつけていることが非難されました。つまり、神はイスラエルの指導者をご自身の代理の「神々」と呼びながら、神のお気持ちに沿って、民を治めることを期待しておられたというのです。
イエスはご自身を、「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10:14) と紹介しながら、「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです」(同10:29、30) と言われました。それに対しユダヤ人たちは、イエスが「人間でありながら、自分を神としているから」(同10:33) と非難して、イエスを石打ちにしようとします。その時イエスはこの詩を引用して、「あなたがたの律法に、『わたしは言った、「おまえたちは神々だ」』と書かれてはいないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだなら……『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは……『神を冒涜している』と言うのですか」(同10:34–36) と言われます。
私たちは、主の前に謙遜になる必要がありますが、同時に、主から崇高な使命が与えられているということも忘れてはなりません。イエスが、「わたしと父は一つです」と言われたのは、ご自分を父なる神と等しくしたということではなく、神のみこころをご自分の「こころ」とされたという意味なのです。ユダヤ人たちは、神を口先では崇めながら、与えられた自分たちの使命にあまりに無頓着になっていました。彼らは神の「宝の民」として、世界に対して神の愛とあわれみを証しするという使命が与えられていたにも関わらず、他の世界の人々を偶像礼拝者と軽蔑し、敵視していたのです。
この詩の8節では、作者が、「神よ 立ち上がって 地をさばいてください。あなたが すべての国々を ご自分のものとしておられるからです」と歌われますが、それは主がイスラエルの指導者を退けて、ご自身で世界を治めるということを意味します。神はそのためにご自身のひとり子を世に遣わされました。そしてイエスは弟子たちに向かって、「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21) と言われました。私たちも「神のことばを受けた人々」として「神々」と呼ばれる存在です。イスラエルの指導者のように、自分の特権を悪用してはいけませんが、神から与えられた特権を忘れて、それを眠らせてもいけません。この神のことばを読んでいる私たちはみな「神々」と呼ばれる存在です。その自覚を持ってこの世に遣わされて生きるのです。イエスも、「平和を作る者は……神の子どもと呼ばれる」と言われました (マタイ5:9)。
主よ、あなたが一人ひとりをご自身の「かたち」として創造し、また私たちに「神のことば」を与えて「神々」とお呼びくださることを感謝します。それにふさわしく生きることができるように助けてください。
詩篇83篇1〜4、13〜18節「こうして彼らが知りますように」
この詩の初めは「沈黙」に関する三つの類語が用いられ、「沈黙しないでください」「耳を閉じないでください」「静まっていないでください」と立て続けに訴えてこととして訳すこともできます。その上で、神の「敵」が「騒ぎたち」、神を「憎む者どもが頭をもたげ」ている現実に目を向けるように訴えています (2節) 。彼らは神の民に対して計略をめぐらし、神に「かくまわれている者たち」を滅ぼそうとしています (3節)。彼らの目的はイスラエルの国を「消し去って」その名が「もはや覚えられないようにしよう」というところにありました (4節)。天地万物の創造主はご自身を「イスラエルの神」として紹介しておられましたから、その国と民が消え去ることは、その神である主 (ヤハウェ) ご自身の名すらも消し去られることになるというのが著者の訴えの核心です。
そして、5–8節ではイスラエルの親戚筋の民を中心に、無縁の周辺諸国も加わってイスラエルを包囲している様子が描かれます。そして9–12節では士師記で、神がデボラやギデオンを用いて神の民の敵を圧倒したことが思い起こされます。
そのような中で13節では信頼を込めて「私の神よ」という呼びかけがなされます。そして、イスラエルを包囲している敵を、主ご自身が「吹き転がされる藁のようにし」、「林を燃やす火のように」、「疾風で彼らを追い」、神の嵐で「恐れおののかせ」、「彼らの顔を恥で満たしてください」と、神ご自身による圧倒的なさばきを祈り求めています。
ただ、不思議なのは、そこで神のさばきを求める目的が、「主 (ヤハウェ) よ 彼らが御名を捜し回りますように」と記されていることです。著者は彼らが「消え去る」代わりに、イスラエルの神の御名を求めるようになることを願っています。確かに17節で「辱めを受けて 滅びますように」と記され、「滅び」の中心的な意味は「死ぬ」ことですが、ここでは異教徒の国の国家体制自体の滅亡を願っているのです。国は滅びてもその民は残ります。大切なのは、彼らが自分たちが頼っていた偶像の神の無力さや国家体制の危うさに気づくことです。それが「彼らが いつまでも 恥を見て 恐れおののき 辱めを受け」ることの核心です (17節)。大切なのは彼らの愚かなプライドが崩されることです。
そして最後に、「こうして彼らが知りますように。その名が主 (ヤハウェ) であるあなただけが 全地の上におられる いと高き方であることを」(18節) と記されます。出エジプト記19章6節では、神がイスラエルの民をエジプトから救い出し、「十のことば」を中心としたご自身の愛の教えを与え、民と契約を結ばれた目的が、イスラエルが神にとっての「祭司の王国 聖なる国民となる」ことであると記されていました。このとき彼らは神に背いた結果として懲らしめを受けていましたが、その悲惨を通してさえ、創造主の栄光と人知を超えた愛を全世界の民に証しすることができるはずでした。それゆえ著者は必死に、神が「沈黙」を破り、御力を現わしてくださることを待ち望んでいたのです。そして今、私たち異邦人も、「王である祭司、聖なる国民」(Ⅰペテロ2:9) として召され、全世界の人々がイスラエルの神を礼拝できるように、主のみわざを証しするのです。全世界が主を礼拝する時、神の平和と繁栄(シャローム)が全地に実現するからです。
主よ、あなたが私たちを「王である祭司、聖なる国民」として選んでくださったことを感謝します。あなたの御名が全世界で崇められるいために私たちをお用いください。
詩篇84篇1〜12節「主の大庭を恋い慕う」
この詩は神殿礼拝の喜びを大胆に歌ったもので、現代の礼拝でも頻繁に用いられる「讃歌」の一つです。1節の最初のことばは原文で、「なんと慕わしいことでしょう」という感動の叫びから始まり、その場が「あなたの住まいは 万軍の主よ」と描かれます。2節の原文も、「恋い慕って 絶え入るばかりです。私のたましいは 主 (ヤハウェ) の大庭に向かって」と、感情を込めた表現となっています。その上で、「雀さえも 住みかを 燕も ひなを入れる巣を あなたの祭壇のところに得ます」(3節) という表現は、一見、神殿が荒廃しているかのように思われるかもしれません。しかし、この文脈からすると、雀や燕でさえも、主の大庭に歓迎されているのだから、神の民とされている自分が歓迎されないわけがないという気持ちで、大胆に主の大庭を恋い慕っていると解釈できます。
4節は、「なんと幸いなことでしょう」という感動から始まりますが、これは5節、12節にも繰り返されるこの詩の鍵のことばです。そして、ここでは神の家に住む人たちの幸いを述べています。ただ、神殿の庭は住居にはなりませんから、奉仕のため、または礼拝のためにいつでもそこに入れるほどに近くに住む人の幸いを述べたと言えましょう。現代の私たちも身近に、主を礼拝できる場が与えられていることは何よりも幸いです。
5–9節は、エルサレム神殿のあるシオンの丘への巡礼者の幸いを描いたものです。ここで興味深いことは、目的地に到達する以前に、その人の「力が」神のうちにあり、「心の中に 大路のある人」の幸いが歌われていることです。私たちも「地上では旅人であり、寄留者であることを告白」せざるを得ませんが (ヘブル11:13)、今ここで、すぐに全能の神に祈って、神の力を受けることができます。私たちが「神の子」の立場にされる聖霊を受け、イエスに倣って、「アバ、父」と祈ることができるということ自体が、「心中に」、「天のエルサレム」に向けての「大路」を持っているということを意味します。私たちは「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所」としていただくことができるのです (6節)。そして、私たちは「力から力へと進み シオンで神の御前に現れます」という、人生の目的地に到達することが保証されています (7節)。私たちはときに、目の前の目標を達成することばかりに夢中になり、「旅人」としての人生を楽しむことができません。しかし、私たちは今ここで、「涙の谷」が「泉の湧く所」とされることを体験できるのです。神との交わりのうちに生きる結果が、目的地に結びついているのです。
10–12節は巡礼の目的地である「主の大庭」に到着した幸いを歌っているものとも解釈できます。現代の私たちにとっての「主の大庭」とは、自分たちが聖日ごとに集う礼拝堂とも言えるかもしれません。ですから、「あなたの大庭にいる一日は 千日にまさります」という告白は、主をともに礼拝できる時間を、何よりの恵みのときとして感動できるものとすることの勧めとも言えましょう。そこで、「悪の天幕に住むよりは 私の神の家の門口に立ちたい」(10節) とは、「この世の享楽のただ中に身を置くよりは、礼拝堂の最も心地悪い場に立っていたい」という意味にも解釈できます。そしてこの結論では、改めて、「万軍の主」に「信頼する人」の「幸い」が高らかに歌われています。
主よ、あなたを礼拝することを、毎週の生活の中心に置くことができる幸いを感謝します。いつでもどこでも、主との交わりを第一として生きることができますように。
詩篇85篇1〜13節「神への賛美と懇願との関係」
この詩では1–3節に描かれた神のあわれみへの賛美と、4–7節の切羽詰まった懇願の不安が対照的です。それを過去と現在の対比と見る翻訳も多くありますが、ヘブル語には英語のような時制の区別はなく、外側から見るか内側から体験するかの視点の違いとも解釈できます。ここでは、神の永遠のご性質とみわざを歌うことと、それに反しているように見える現実の内側からの民の心の叫びの対比が描かれていると思われます。
そして、神の永遠のあわれみの原則を知っているからこそ、今の気持ちを大胆に訴えることができるということこそ、詩篇の祈りの最大の魅力と言えましょう。その反対に、親の顔色をいつも窺っているような子供は、自分の願いを大胆に訴えることができません。自分の気持ちをダイレクトに訴えると、かえって親の反発を招くと恐れるからです。
それで真実の親子関係のように、この詩では、「あなたは 御民の咎を担い すべての罪を おおってくださいます……燃える御怒りから身を引かれます」(2、3節) と、人間の罪に対して神ご自身が解決を示してくださるという永遠のご計画がまず歌われます。これこそ、神がご自身の御子を私たちの咎を担わせるためにお送りくださった十字架の愛です。著者はそれを知りながら、敢えて現在の悲惨な状況下から、「私たちへの御怒りをやめてください あなたは とこしえに 私たちに怒られるのですか」と、子供のように訴えます (4、5節)。著者は神の怒りの原因が民の罪にあること、また、神の怒りが「とこしえ」ではないことを理屈の上では分かっていますが、正直な今の気持ちとしては、神が「代々に至るまで 御怒りを引き延ばされる」(5節) ように感じられているからです。
それでなお、「あなたは帰って来て 私たちを生かしてくださらないのですか」(6節) と問いかけます。神はかつて、民の偶像礼拝の罪のために、エルサレム神殿を立ち去り、その結果、バビロン帝国が神殿を滅ぼしました。その因果関係を知っているからこそ、著者は、神の帰還の可能性を尋ねます。そればかりか、なお大胆に、「お示しください。あなたの恵みを。お与えください。あなたの救いを」(7節) と訴えかけています。
8節からは、民に対する励ましが記されます。それは、「主は 御民に……平和を告げられ……御救いは主を恐れる者たちに近い」という主のご性質に希望を抱くからです。その上で、「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします」(10節) と印象的に歌われます。11節に「まことは地から生え出で 義は天から見下ろし」とあるように、天からは「恵み」と「義」が「見下ろし」ます。「恵み」とはヘブル語のヘセド「変わらない愛」であり、「義」は神のご自身の契約に対する真実さで、このふたつは同じような意味があります。それに対応するのが「まこと」と「平和」で、前者は「アーメン」と同根のことばで人に信頼を生み、後者は「平和」と同時に繁栄を意味し、それらが地から「生え出で」成長し、天と地が一つになるように「ともに会い」「口づけ」します。
祈りとは、主の永遠の愛を賛美しながらも、今感じて不安を、子供のように正直に、大胆に訴えることです。私たちはそのような神との対話を通して、主の「恵み(契約の愛)」と「義(真実)」に対応するこの地の「まこと」と「平和」の成長を期待できるのです。
主よ、あなたの恵みと義のみわざに感謝します。しばしばそれを忘れて心が騒ぎますが、あなたがそれを受け入れ、この地に、まことと平和を成長させてくださいますように。
詩篇86篇1、2、9〜17節「私は苦しみ 貧しいのです」
この詩は第三巻 (73–89) で唯一のダビデの作品です。この最初の原文は、「傾けてください。ヤハウェよ、あなたの耳を」という訴えから始まります。そして自分の状況を、「私は苦しみ 貧しいのです」と直接的に表現します。この部分は多くの英語訳では、I am poor and needy(私は貧しく乏しいのです)と訳しています。さらに2節では「お守りください、私のたましいを」ということばから始まりますが、続くことばは、「私は敬虔な者です」とか、「私は誠実な者です」と訳すことができます。これは15節で「恵み」と訳されているヘブル語のヘセド(変わらない愛)と同じ語源のことばです。著者は、自分の「誠実さ」が報われていない現実を訴えています。それは14節にあるように、「高ぶる者ども」「横暴な者の群れ」が、自分の「いのち」を奪おうと迫ってきている現実があるからです。それで改めて著者は、神を「あなた」と呼びながら「あなたは私の神」と告白し、さらに「私はあなたに信頼します」(2節) と自分の意思を明確にします。
9節では、主こそが世界のすべての国々の創造主であり、すべての国々が主の「御前に来て 伏し拝み……御名をあがめます」と告白されますが、これは黙示録15章4節で引用される、偶像礼拝の強要に屈しなかった人々の賛美になります。これこそ主がアブラハムを召し、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と約束されたことの成就であり、歴史のゴールです。そして、著者は、「主よ、あなたの道を私に教えてください……私の心を一つにしてください」と祈ります (11節)。それはこの地の様々な誘惑や人間的な知恵に惑わされずに、自分の心がまっすぐに神に向かうようにとの願いです。その結果が、「心を尽くしてあなたに感謝」するという賛美につながるのです (12節)。
15節の主への告白は、モーセが心の頑ななイスラエルの民を導く不安の中で、主に、「あなたの栄光を私に見せてください」と大胆に願った際に、主がご自身を現わしてくださったことばそのものです (出エジプト34:6)。その核心は、主が「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられる」ということです。そして、ヨハネ福音書が神の御子イエスを、「ことばが人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た……この方は恵みとまことに満ちておられた」(1:14) と描いたのは、これを引用したものです。たとえば、「父なる神」というときに、自分の父親のイメージを無意識に神に投影する人がいます。それはたとえば、子供の過ちをただ厳しく叱責する姿であったり、また心の動きに無関心に結果だけを評価する父であったります。そのイメージがこのみことばを通して正される必要があります。
16、17節では「御顔を私に向け 私をあわれんで……あなたのしもべに御力を与え……あなたのはしための子をお救いください。私に いつくしみのしるしを行ってください」と祈られます。これこそ、最初に自分の貧しさ、乏しさを告白したことに対する祈りの応答です。特に「はしための子」という表現は珍しいもので、著者の徹底的な謙遜を現わします。自分の将来は、神からの与えられる「力」と「いつくしみのしるし」にかかっているとの告白です。自分の能力や知恵ではなく、神に徹底的に拠り頼む信仰です。
主よ、私は貧しく乏しいものです。あなたの助けなしには、与えられた生涯を真の意味で生きることはできません。いつでも、あなたの恵みとまことに信頼させてください。
詩篇87篇1〜7節「この者もあの者も この都で生まれた」
先の詩では、「すべての国々」がイスラエルの神を礼拝しに来ると記されていました (86:9) が、この詩では、エルサレム神殿の立つシオンの山が、全世界の祝福の「泉」となると歌われます (7節)。これは、歴史が「エデンの園」から始まって、「聖なる都、新しいエルサレムが……天から降って来る」(黙示21:2) ことで完成することを示します。
最初に、「主の礎は聖なる山にある。主 (ヤハウェ) はシオンの門を愛される」(1、2節) と記されますが、これは歴史的に、エルサレム神殿がバビロン帝国によって滅ぼされ、その後、バビロンを滅ぼしたペルシャ帝国の理解によって、神殿が再建されるという希望の中で歌われたと考えられます。ただ、その第二神殿には、肝心の「契約の箱」も、主の栄光もありませんでした。それに対し、イエスがご自身の十字架と復活で、この神殿を完成すると語っておられました (ヨハネ2:19)。現代の目に見えるエルサレムは民族的な争いの象徴の町とも見られがちですが、人間的には、和解が絶望的に見えるところにこそ、神の人知を超えた解決を期待することができます。ただ、それは政治的な意味での互いの譲歩による和解ではなく、真の和解をもたらす神のみわざを期待することです。
4節にはイスラエルの敵となった国々の名が記されます。ラハブとはエジプトの別の呼び名、バビロンはエルサレムを滅びした国ですが、これらがシオンを「知る者」、つまり、シオンを愛する者として記憶されるというのです。またペリシテはイスラエルの仇敵、ツロはイスラエルの北にある地中海貿易で栄えた豊かな自由都市、クシュはエジプトの南のエチオピアを指す場合もありますが、当時は世界の南の端と思われていました。これらの多彩な国々の民が、「この者は この都で生まれた」と呼ばれるようになるというのです。それは、「いと高き方ご自身が シオンを堅く建てられる」ので、「この者もあの者もこの都で生まれた」と言われ、主ご自身がこれらの異邦人の民を、シオンで生まれた民として登録されるからです。イエスは「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3) と言われました。日本語を読み書きしてイエスを救い主と信じる私たちも、今、シオンで生まれた者として、神によって登録されています。
使徒パウロは、新約時代の「奥義(ミステリー)」として、「キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になる」(エペソ3:6) と記しています。それは当時の常識を覆すような「奥義」でした。当時は、異邦人が「神の民」となるためには、割礼を受け、食物律法等の様々な規定を守り、まずユダヤ人として受け入れられる必要があると思われていました。しかし、パウロは、異端者扱いされながら、「異邦人はイエスを主と告白することだけで神の民とされる」と主張し続けたのです。しかし、それはこの詩にも記されているように、神がアブラハムを世界中の民の祝福の源として選んだときからの神のご計画でした。キリストは、ユダヤ人と異邦人の間の「隔ての壁……を打ち壊し」「敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:15、16)。それは世界中のすべての民族の和解につながることです。世界に民族間、宗教間の争いがありますが、「キリストこそ私たちの平和です」(同2:14)。
主よ、エルサレムが今も、民族や宗教の争いの象徴と見られている現実に、心が痛みます。そのような中で、政治的な解決を議論する前に、キリストの十字架から生まれる真の和解を期待させてください。
詩篇88篇1〜9、13、14節「なぜ……御顔を隠されるのですか」
この詩の標題を見てもこのような祈りが記されている背景を理解することは困難です。著者は、原因不明のことで、神から懲らしめを受け、神の憤りを受けていると感じています。しかし、そのような中でも、神に「なぜ……」と食い下がっていることが、この詩の素晴らしさでしょう。残念ながら、筆者も、多くの方々の悩みを聞いてきましたが、どこかで神に問うことを諦めてしまって、「神に祈っても無駄だ」「相談したけれど、何も変わらなかった……」と言って、教会を去って行く方がおられるからです。
ここで著者は、主 (ヤハウェ) を「私の救いの神」と呼び、「私の叫びに耳を傾けてください」と訴え続けています (1、2節)。さらに自分の苦難を描きながら、それを神のみわざと解釈し、「あなたは私を最も深い穴に置かれました……あなたの憤りが私の上にとどまり……あなたは私を苦しめておられます」(6、7節) と訴えます。しかし、それでも著者は、神を「呼び求め」続け、神に「叫び求め」続けます (9、13節)。その上で、「主 (ヤハウェ) よ なぜあなたは私のたましいを退け、私に御顔を隠されるのですか」と問います (14節)。
これはヨブの祈りに似ています。ヨブは「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ1:1) のですが、神の許可を受けたサタンの攻撃を受け、子供も財産も失ったあげく、「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で」打たれ、死の苦しみを味わいます (同2:7)。そのときヨブは、「なぜ私は……胎を出たとき、息絶えなかったのか」(同3:11) と自分の「生まれた日を呪った」というのです (同3:1)。それに対しヨブの友人は、これを神の「叱責」、「訓戒」として謙遜に受け止めるようにと迫ります (同5:17)。
それを聞いたヨブは、今度は神に向かって、「私が罪ある者だとしても……どうしてあなたは、私を標的とされるのですか」(同7:20) と訴えます。ヨブは知らずに本質を言い当てました。サタンが義人ヨブを標的とすることを、神が許可されたからです。しかしヨブの訴えを聞いた友人は必死に神を弁護して、原因はヨブの側にあると反省を迫ります。それに対しヨブはさらに神に向かって、「私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません……あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻め立てられます」(同30:20、21) と食い下がってゆきます。ここに神との対話があります。
神は「嵐の中からヨブに答え」ますが、そこには、なぜヨブが標的とされたかの答えはありません (同38–41章)。最後に神を弁護してヨブに反省を迫った友人たちに神の燃える怒りが向けられます (同42:7)。神を非難したヨブに神は個人的に語りかけ、人間的な知恵で神を弁護した友人は神から責められます。神はヨブの傲慢とも見える訴えを表面的には非難されますが、神が彼との対話自体を喜んでおられたのは確かと言えましょう。
神が何よりも嫌われるのは、人が自分の知恵で神を判断することです。わざわいを原因結果ばかりで説明してはなりません。あなたの苦しみは、神の御手の中で起きています。ですから、その状況を神は変えることがおできになります。わざわいの理由が説明できることにどれだけの意味があるでしょう。苦しみの中で、神にすがり続けることこそが、聖徒の信仰です。この箇所をリビングバイブルの訳でも読まれるとよいでしょう。
主よ、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました」(ヨブ42:2)。主よ、私は自分の苦難の中で、その意味を勝手に解釈する代わりに、あなたにすがり続けます。
詩篇89篇1〜4、38〜42、49〜50節「真実をもってダビデに誓われた」
1、2節では主の「恵み」と「真実」が繰り返されて。喜び歌われています。「恵み」のヘブル語はヘセドで、ご自身の契約を守り通す「不動の愛」を、「真実」とはアーメンと同じ語源のことばで、主の契約の「確実さ」を意味します。それは具体的には3、4節で歌われているように、主がダビデとの契約を堅く守り通すという約束が、決して裏切られることなく、実現することを意味します。その約束の内容が4節で、ダビデの「裔をとこしえまでも堅く立て」、その「王座を代々限りなく打ち立てる」というものです。それはサムエル記第二7章で、ダビデが神の家を建てたいと言ったときに、神が反対にダビデの家を建て、ダビデの王座を堅く立てると言われたことに基づきます (11–16節)。
そこでは、ダビデとその子孫が不義を行うとき、神はむちをもって懲らしめると書かれながらも、サウルから王座を取り去ったようにはなさらず、ダビデの王座をとこしえまでも堅く立てると約束されていました。しかし、ダビデの子孫は時代とともに堕落する王が多くなり、最後にはエルサレム神殿の中に異教の偶像を置く王までが現れました。
その罪に対する「懲らしめ」として、神はバビロン帝国を用いてエルサレムの町とその神殿を滅びし、イスラエルの民を強制移住させ、奴隷にように扱いました。それがバビロン捕囚と呼ばれます。それは、彼らにとっては神が、イスラエルの民を「拒んでお捨てになり」、ダビデとの「契約を廃棄」したことのように感じられました (38、39節)。
エルサレムの城壁を打ち壊したのはバビロン帝国ですが、それを著者は、神のみわざであると訴えています (40節)。そのためこの町は近隣諸国からの略奪に苦しみ、近隣諸国の「そしりの的」となっています (41節)。そして彼はさらに、神ご自身がエルサレムの「仇の右手を高く上げ」、その「敵をみな喜ばせておられます」(42節) と、神が敵の側について、今はイスラエルの神こそがわざわいの原因となっていると訴えています。
著者はこの悲惨が、イスラエルが自業自得の罪のゆえに招いた神の「懲らしめ」の結果であると分かっています。しかしそれでも、神に向かって「あなたのかつての恵みはどこにあるのでしょうか。あなたは 真実をもってダビデに誓われたのです」(49節) と訴えます。ここでの「恵み」も「真実」も冒頭に記したとおりの意味です。祈りは、神への模範的な信仰告白以前に、自分が味わっている気持ちを訴えることです。それは、子供が親に訴えることに似ています。さらに著者は、「主よ みこころに留めてください。あなたのしもべの受ける恥辱を」と、自分たちの悲惨を見てくださるようにと訴えます。子供は親から受ける「懲らしめ」を、愛の訓練と感じることはなかなかできません。同じように私たちも、まるで神がご自身の契約を忘れ、私たちの痛みに無関心になっておられるかのように感じられます。その不安を正直に神に訴えることこそが祈りなのです。
なお、その後ダビデ王家は歴史の表舞台からは消えますが、その血筋は続いてヨセフに至り、その子イエスが「ダビデの子」として登場します。イエスこそがダビデ契約を成就してくださったのです。イエスはご自身の十字架と復活によって、罪と死の力に、またその背後にいるサタンに勝利され、すでに全世界を治め、完成に導いておられます。
主よ。あなたがご自身の契約を堅く守ってくださる方であることを感謝します。私たちがそれを忘れるとき、あなたの「恵みと真実」を、ダビデの子であるイエスにあって思い起こさせてください。
詩篇90篇1〜6、9〜14節「知恵の心を得させてください」
詩篇の第三巻は89篇のダビデ契約で終わりましたが、第四巻は時代がはるかにさかのぼり、「神の人モーセの祈り」という標題から始まります。イスラエルの民は、モーセに導かれてエジプトでの奴隷状態から解放され、シナイ山で神の臨在のしるしとしての「契約の板」を受け取り、それを入れる神の幕屋を、主の指示に従って作りました。それは神がイスラエルの民の真ん中に住んで、あらゆる敵の攻撃や様々なわざわいから民を守ってくださるという「しるし」でした。しかし、彼らはその意味を誤解しました。
「主よ 代々にわたって あなたは私たちの住まいです」(1節) とは、神が民の真ん中に住んでくださるという現実が、実は、私たちこそが神の神殿の中に生かされているという霊的な現実を指しているということを語ったものです。それは、「山々が生まれる前から」の、世界が創造されるときからの現実だというのです (2節)。すべての人間は、「神のかたち」、神の現わす「像」として創造されましたが (創世記1:26、27)、この世界全体が神の神殿であり、私たち一人ひとりがその中で神を現わす存在であったはずなのです。
私たちの肉体的な素材は、「土のちり」(創世記3:19) に過ぎません。私たちは神からの「いのちの息」を受けて「人」となりました。ですから、私たちの存在は徹底的に神に依存しています。神は「人をちりに帰らせ」ることによって、そのことを明らかにされます (3節)。神の時間の感覚からすれば、「千年も 昨日のように過ぎ去り」、私たちのいのちは、野の草のように「うつろい」、はかなく「枯れる」ものです (5、6節)。
ところが、イスラエルは自分たちの創造主、真の守り手である方を忘れ、約束の地に足を踏み入れることを躊躇しました。神よりも、目に見える人を恐れたのです。その結果、多くの人々が、神の「激しい怒りの中に消え去り……自分の齢を 一息のように終わらせま」ました (9節)。ただし、同時に彼らは四十年間の荒野の生活を通して天からのパンによって養われ、「主の御口から出るすべてのもの」によって生きることを分からせられました (申命記8:3直訳)。そして、私たちのこの地の生活も荒野の生活に似た面があり、日々の神からのことばを含む賜物が必要になります。なお、このときにイスラエルの二十歳以上の人々が荒野の四十年の生活の中で死に絶えたように、当時の人々の生涯は、七、八十年が限度であり、生涯の「ほとんどは 労苦とわざわい」でした (10節)。
私たちはみな「神のかたち」に創造された、「高価で尊い」存在ですが、同時に、そのすべてのいのちは神の神殿の中で、神のみこころひとつで飛び去るものです。私たちは一日一日の歩みが、創造主に依存しているという「知恵の心」を持つ必要があります。
「帰って来てください。主よ」という願いは、モーセがイスラエルの民を約束の地に送り出すに当たっての祈りと考えるべきでしょう。主が民をその地に導いてくださるなら、「朝ごとに」主の恵みに満ち足り、「すべての日に 喜び歌い 楽しむ」ことができます。私たちは新しいヨシュア(ギリシャ語では「イエス」)によって、すでに、「新しい天と新しい地」のいのちの一部を、荒野の生活のただ中で味わうことができます。そのために何よりも大切なのは、私たちの真の「住まい」である方に信頼し続けることです。
主よ、あなたこそが、「私たちの住まい」です。私たちに自分の日を数えることを教え、知恵の心を得させてください。そして、あなたのみことばで荒野の生活を生かし、朝ごとに、あなたの恵みで私たちを満ちたらせてください。
詩篇91篇1〜16節「御翼の下に身を避ける」
多くの信仰者はこの詩篇を、使命のために自分の生命を危険にさらすような中で心から味わっています。ある方は、何度も危険な場に出向きながら、「私は大丈夫です。神様が、『お前は、もう生きなくても良い……』と言われない限り、私は決して死ぬことはないのだから……」と言っておられました。私たちの地上の生命を神は守り通すことができるばかりか、永遠のいのちはすでに保証されています。「いのち」を守るのは神の責任で、あなたの責任は、神のみこころであるならば、生命の危険をも冒すことです。
1節での「隠れ場」は英語ではシェルターと訳され、自然災害ばかりか核攻撃から身を守る避難所を指します。私たちが聖書の神を自分の隠れ場とするときに、その人は不可能を可能にする「全能の神」(エル・シャダイ)の御守りの中に生きているのです。
4節の「翼の下」の描写は、親鳥が嵐や火災の中で自分の羽を広げてヒナを守っている姿を指します。モアブの女ルツはイスラエルの神の「翼の下に身を避け」て来て (ルツ2:12)、ダビデ王家の母になりました。主は、あなたがそうするのを待っておられます。
7節では6節の「疫病」や「滅び」の犠牲者となる人が回りに満ちたとしても「あなた」に関する限りは、それらの攻撃から守られているという意味です。それが続けて、あなた自身に対する攻撃に対して、神が盾となってくださることを、あなたがその目で見るという趣旨が記されています。攻撃は見えても、被害を受けることはないのです。なお、「悪者への報いを見る」(8節) とは、神に信頼することを知らず、神に守っていただけない人の悲劇を、悲しみつつ見るという意味合いとも考えられます。
「わざわいは あなたにふりかからず、疫病も あなたの天幕に迫りはしない」(10節) とは、6、7節を言い換えたものです。「疫病」「滅び」「わざわい」は人間のコントロールを超えたものですが、「そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」(マタイ10:29、30) とあるように、私たち一人ひとりは、神の前にかけがえのない存在です。
そのことが、「主が あなたのためには御使いたちに命じて……あなたの足が石に打ち当たらないようにする」(11、12節) と記されます。これはイエスが荒野の誘惑で、神殿の屋根の端から身を投げるように誘惑された際に、悪魔が用いたみことばです。イエスはそれに対し、「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてあると言われました。神の守りは、神のみこころに従って危険を冒さざるを得ないときに体験するものだからです。そのことを14節で主は、「彼がわたしを愛しているから……わたしは彼を高く上げる」と言われます。「神について知る」ことと、「神を知る」ことは決定的に違います。信仰の基本は、神との個人的な関係です。神がこの私一人に目を留めておられるということを知ることです。私たちは、神との祈りの交わりの中で、神に従い、神の御守りを個人的に体験して行きます。ここに記されていることは、私たちが神の召しにしたがって、人生の荒波に向かう人に必要な励ましと慰めです。様々な不条理が目の前に見えます。しかし、神はあなた一人に語りかけ、応答を求めておられます
主よ、サタンが、様々な不条理や悲劇を私たちの目の前に見せながら、神の「翼の下に身を避ける」ことが無益だと訴えて来るとき、どうかこの詩篇のことばを私個人への語りかけとして理解させ、あなたの招きに従えるように守ってください。
詩篇92篇1〜15節「御手のわざを喜び歌う」
ここには「安息日のための歌」という標題がついていますが、これはヘブル語詩篇の中で唯一のものです。ユダヤ人の伝承の中では、「ユダヤ人が安息日を守ったというよりは、安息日がユダヤ人を守ってくれたのである」と言われます。第二次大戦後にイスラエルという国家と現代ヘブル語が突然誕生したのはこのためとも言えましょう。
なお安息日の教えは出エジプト記20章では、「主が六日間で世界を造り、七日目に休んだから」という天地創造に目が向けられますが、申命記5章では、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放されたことを覚えて、奴隷を休ませるという面に目が向けられます。イエスが、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2:27、28) と言われ、生まれつき目の見えない方や、足のなえた方を、敢えて安息日に癒されたのは、この日を解放の日として喜ぶためでした。
原文での冒頭のことばは、「良い(麗しい)ことです」という描写から始まりますが、それは1–3節全体を指してのことです。神の目に何よりも「麗しい」ことは、「主 (ヤハウェ) に感謝」し、主の「御名をほめ歌う」こと、また主のご性質である「恵み(ヘセド:契約の愛)」と「真実(エメット)」を、「十弦の琴」や「竪琴の妙なる調べにのせて」歌いながら」、「朝に」また「夜ごとに」、「告げる」ことであるというのです。その理由が4節で「私を喜ばせてくださいました」と描かれます。これは出エジプトの救いから始まるすべての主の働きが、私の喜びとなったという意味です。それがさらに、「あなたの御手のわざを 私は喜び歌います」と記されます。私たちは日々の生活の中で、何か自分や家族が達成した成果を喜び、誇りがちですが、主にとって最も「麗しい」ことは、様々な楽器を奏でながら、主ご自身のご性質を、また主のみわざを喜び歌うことなのです。
著者は引き続き5、6節で、主のみわざの「大きさ」や「御思い(構想 designs)」の不思議さを賛美しながら、「無思慮な者は知らず 愚か者には これが分かりません」と告白します。人はしばしば、目の前の課題や、仕事や人間関係ばかりに目が向かって、この世界が神の不思議で満ちていることを忘れてしまいがちだからです。この社会では、「無思慮(鈍感)な者」である方が、傷つかずに済むかもしれませんが、それでは神と人との真の心の交わりは生まれません。この世的には知性が高いように見えても、すべてが当たり前ではないということに気づかない者は、「愚か者」に過ぎません。
8節はこの詩篇の中心点です。神は、この世界を超えた、はるかに高い「御座」からこの世界のすべてを支配しておられます。私たちは、「神が全世界を治めておられるなら、なぜこのような異常気象や自然災害が起きるのか?」と思いがちですが、火山活動で生まれた日本列島の上で、日々を平穏のうちに暮らしていること自体が圧倒的な不思議とも言えます。ときおりの自然災害は、恵みの偉大さを思い起こす契機となります。
さらに、9節は先の7節に対応し、10、11節は4–6節に対応し、12–15節は1–3節に対応します。そして、主に感謝し、賛美する者が、神の目に「正しい者」と見られ、その人の人生が豊かに祝福されるようすが生き生きと描かれて行きます。
主よ、私たちは毎日、何かに駆り立てられるように忙しく生きてしまいがちです。どうか、安息日の恵みを思い起こさせてください。主の天地創造のみわざ、また歴史に現わされた圧倒的な救いのみわざを思い起こし、感謝する者とさせてください。
詩篇93篇1〜5節「御座は堅く立つ」
この詩篇のギリシャ語七十人訳には「安息日の前日のために、地に人が住んだとき、ダビデの賛美の歌」という標題がついています。たしかにこの詩篇はユダヤ人の会堂において伝統的に安息日の前日に歌われてきたとのことです。この詩篇は先の詩篇92篇8節を中心とした神のご支配をより明確に描いたものと言えましょう。
最初のことばは、「主 (ヤハウェ) は(王として)治めておられる」と動詞として訳すのが原文に忠実です。続けて、「威光をまとっておられます。まとっておられます、主は、力を帯とされて。まことに堅く据えられています、世界は、揺るぎません。堅く立っています、御座は、いにしえから。とこしえから、あなたは」という語順で記されています。つまり、世界が堅く据えられていることと、神の御座が永遠に堅く立っていることが切り離せない関係なのです。私たちは、「神が全世界を治めておられるなら、なぜこのような異常気象や自然災害が起きるのか?」と思いがちですが、火山活動で生まれた日本列島の上で、ほとんどの日々を平穏のうちに暮らしていること自体が不思議とも言えます。
たとえば古事記では「伊邪那美神は、火の神を生みたまいしに因りて、遂に神避りたまいき」と描かれます。これは伊邪那岐とともに日本列島を生み出した最後に、伊邪那美が火山を産んで火傷して、黄泉の国に下ったという神話です。つまり、火山活動は神をも死に至らしめるものと見られているのです。それに対し、古事記の二千年近くも前に記されたこの詩篇では、この世界の天変地異をはるか上から支配する主 (ヤハウェ) の圧倒的な「威光」と「力」が歌われています。ときおりの自然災害は、すべてが平穏に守られること当たり前ではないことを示す、神を恐れることへの招きとも言えます。
3節では、「川はとどろかせています」と三度も同じ言葉が繰り返され、大洪水の恐ろしさが描かれます。イザヤ8章7、8節ではユーフラテス川の氾濫が、アッシリア帝国の包囲がエルサレムの首にまで達することにたとえられています。同時に、「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの地をおおい尽くす」と、絶対絶命の危機下で神の救いの御手がインマヌエル(神は私たちとともにおられる)として示されると描かれています。
そして4節では3節2行目の「轟音」と同じことばを用いて「大水の轟音(とどろき)にまさり 力強い海の波にもまさって 主 (ヤハウェ) は力に満ちておられます。いと高き所で」と、神が天の神の御座からこの世界を確実に支配していることが歌われます。
5節の「あなたの証し」とは複数形ですが、それはこの広大な宇宙や美しい地上の景色、また歴史に現わされた神のみわざの数々を指します。先の92篇6節にあったように「無思慮な者」「愚か者」には、その不思議が理解できないだけです。そして続けて、「あなたの家には」とエルサレム神殿のことが示唆され、そこが「聖なる」美しさによって飾られているようすが描かれています。そして最後に、「主 (ヤハウェ) よ いつまでも」と閉じられますが、これは2節で繰り返された主のご支配の永遠性を歌ったものです。
私たちは、置かれている世界の揺るぎやすさを体験して初めて、すべての安心や安全が当たり前ではなく、神の圧倒的なあわれみのご支配の賜物と理解できるのです。
主よ、あなたが全世界の王として、この世界を堅く立てていてくださることを感謝します。自分の世界が崩れ落ちるような恐怖を味わうことがあっても、それを通して、神の永遠のご支配が、この世界を保ち続けていることを覚えられますように。
詩篇94篇1〜15節「復讐の神よ……報復を」
ギリシャ語七十人訳では、「週の四日目のためのダビデの詩篇」という標題がついています。これは伝統的に週の真ん中の日に読まれていたことを示します。私たちは「復讐の神 主 (ヤハウェ) よ」という書き出しに戸惑いますが、これは先の93篇のテーマと同様に神の公平なご支配を歌った、苦難の中にある神の民にとって極めて現実的な祈りでした。
「復讐の神よ 光を放ってください 地をさばく方よ 立ち上がってください。高ぶる者に 報復してください」という祈りは、不当な苦しみを受けている者にとって、極めて自然な訴えです。「報復する」とは、「埋め合わせる」という意味で、自分ばかりがひどい目に合って損をしていることに対し、平等な状態になることを求める気持ちです。
ただし、これは自分で復讐や報復をするのではなく、神のさばきにゆだねる祈りです。それは、主ご自身が「復讐と報復はわたしのもの」(申命記32:35) と言っておられるからです。使徒パウロは、このことばを引用しながら、「自分で復讐してはいけません」と述べつつ「神の怒りにゆだねなさい」と続けます。これは厳密には「御怒りに場所を空ける」という意味で、自分の怒りではなく、神の怒りが下されることで、神の正義が実現することへの期待です。イエスは確かに、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44) と私たちに命じておられますが、それは自分の敵に対する神の復讐の恐ろしさを知った結果の祈りとも言えます。敵のために祈ることができないのは、神が公平なさばきを実現してくださることを信じていない結果とも言えましょう。
「主 (ヤハウェ) よ いつまでですか 悪しき者が……勝ち誇るのは」(3節) という訴えは、私たちが不当な苦しみを受け続けたときに自然に湧きあがる気持ちではないでしょうか。そして、正直な気持ちを訴えられることこそ、神との対話の始まりです。
そればかりか著者は、自分の身近なところにいる社会的弱者が踏みにじられていることに心を痛めています。そして、「不法を行う者」が、「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない」と言い放っていることに憤りを覚えています。それで、「気づけ。民のうちのまぬけな者どもよ」と呼びかけつつ、私たちの耳や目の創造主がすべてを「聞き」また「見て」おられることを思い起こさせようとしています (8、9節) 。また、「人に知識を教えるその方が……人の思い計ることがいかに空しいかを 知っておられる」(10、11節) とは、自分の知恵で神のご支配を否定することの愚かさを記したものです。
それを前提に、12、13節では、「なんと幸いなことでしょう。主 (ヤハウェ) よ あなたに戒められ……みおしえ(トーラー)を教えられる人は。わざわいの日に あなたはその人に平安を与えられます」と告白されます。それは「わざわい」が一時的なものにすぎず、そこに主の訓練と愛に満ちたご計画を見ることができる「平安」が生まれるからです。
そして、「悪しき者」に対する死のさばきと、主の民に対する永遠の守りが約束された上で、「こうして さばきは再び義に戻り」と告白されます (13–15節)。それは、神の公平なさばきが見えなかった状況が正されるという意味です。また「心の直ぐな人はみな これに従います」とあるのは、誠実さが報われるという確信が生まれるからです。
「復讐の神よ 高ぶる者に報復してください」と祈ることができる幸いを感謝します。あなたは「正直者がバカを見る」という不条理を放置なさらない公平な神であられます。いつでもどこでも、主のご支配の現実性を心に留めさせてください。
詩篇95篇1〜11節「主の牧場の民、御手の羊」
この詩篇の冒頭は「さあ、喜び歌おう……喜び叫ぼう」という呼びかけから始まります。そして、「主 (ヤハウェ) が「私たちの救いの岩」として描かれるのは、「ホレブの岩から水が出て、民はそれを飲む」(出エジ17:6) と言われた主のみわざを思い起こさせるからです。続けて、「御前に進もう」という招きが「感謝をもって」と記されます。ここには、しばしば描かれる主の御前に近づく恐怖と正反対の表現です。またそれが「賛美をもって 主に喜び叫ぼう」と最初の呼びかけが繰り返されます。「主を恐れる」ことは信仰の基本ですが、それは大胆に喜び歌い、喜び叫びながら主に近づくことと矛盾はしません。自分の罪深さを反省する以前に、そのような姿勢が必要ではないでしょうか。
3節では「大いなる神」「大いなる王」という言葉が繰り返され、主の偉大なご支配が賛美されます。そして、その偉大さが、「地の深み」「山々の頂」「海」「陸地」のそれぞれが「御手のうちにあり」「主のもの」として「造られ」「形造られ」と描かれます。
6節ではそれまでの大胆さと対照的なように、「来たれ。ひれ伏し 膝をかがめよう……主 (ヤハウェ) の御前にひざまずこう」と呼びかけられ、そこに「私たちを造られた方」と付け加えられます。そして7節は、「なぜなら、主は私たちの神、私たちは その牧場の民 その御手の羊 なのだから」という、主を恐れるべき理由として訳すことができます。
それを受けて、7節の3行目から新しい展開が始まります。そこでは、「今日 もし御声を聞くなら あなたがたの心を頑なにしてはならない。メリバでのように 荒野のマサでのように」と記されています。これは冒頭に記した出エジプト記17章の出来事を引用したものです。神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放し、海を二つに分けてエジプト軍の追撃を退け、荒野でマナを天から降らせることによって民を養ってくださいました。ところが彼らがシナイ山のふもとの手前のレフィディムに宿営したとき、「民はモーセと争い、『われわれに飲む水を与えよ』と言った。モーセは彼らに『あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主 (ヤハウェ) を試みるのか』と言った」というのです (出エジ17:2)。先の「メリバ」とはここでの「争い」を、「マサ」とは「試み」を意味します。神はモーセを通して岩から水を出してくださいましたが、彼らは主を試みたり、争ったりする代わりに、主に信頼して、静かに祈ることが求められていたのです。
彼らはそのように主に信頼しなかったので、四十年間のもの間、荒野をさまよい、「その世代」の成人はだれも約束の地に入ることができませんでした。それは主ご自身が、彼らの「心の頑なさ」、神を「試み」る「心の迷った」状態に「怒り」を発せられ「彼らは決して わたしの安息に入らせない」と誓われたからだと描かれています (9–10節)。
ヘブル人への手紙3章では、7–11節が引用されながら、「兄弟たち……不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」と勧められています (12、13節)。そして現代の私たちも「生ける神から離れる」なら、最終的な「神の安息」(ヘブル4:10) に入ることができないと警告されています。
主よ、あなたが私たちをご自身の「牧場の民 その御手の羊」と呼んでくださることを感謝します。羊が良い羊飼いによって養われ、導かれるように、私たちもあなたに信頼します。争い(メリバ)、試み(マサ)の思いから解き放ってください。
詩篇96篇1〜13節「主 (ヤハウェ) は王である」
これとほとんど同じ詩がⅠ歴代誌16章に登場します。ダビデがエルサレムに都を定めてすぐに行なったことは、「十のことば」が収められた契約の箱を運び入れることでした。そのときに聖歌隊によってこれが歌われたというのです。このときダビデは、王の権威を捨て、喜び踊りながら、自分を真の王を迎える「しもべ」の立場に置きました。
ダビデは最初に、「主 (ヤハウェ) に歌え」と三度繰り返します (1、2節)。その際、恐れ多い御名「ヤハウェ」を大胆に口にします。「新しい歌」とは、「新鮮さ」を意味します。私たちはどのような状況下でも、主 (ヤハウェ) の恵みとあわれみを思い起こし、日々新鮮な感動とともに「主に歌う」ことができます。しかも彼は、「全地のもの」が、「主の御名をたたえる」(2節) という世界を夢見ながら、「主 (ヤハウェ) に歌う」ことを訴えています。
「御救いを……告げよ」(2節) とは、出エジプトからダビデ王国の繁栄までのすべての主のみわざを後の世代に、「歌」をもって伝えることでした。現代の私たちにとっては、そこに二千年前のキリストの十字架と復活による「救い」が中心として加わります。しかもそれをもたらす「主の栄光」を「国々の間で語り告げよ」(3節) と勧められます。
教会で歌われている様々な賛美の歌は、「主 (ヤハウェ) に」歌われているものであるとともに、主の救いのみわざを人の心にメロディーをもって伝えているものです。宣教と賛美は切り離せません。私たちは主のことばを理性だけで理解しようとしがちですが、主のみわざを、歌をもって伝えるとき、それは人の心の奥底にまで届きます。
7、8節では、「主 (ヤハウェ) に帰せよ」ということばが三回繰り返されます。それは人が、いつもすべての幸せの原因を、人間の手に「帰して」しまうからです。それでここでは、「栄光と力」、「御名の栄光」と重ねながら、「主に栄光を帰す」ことが強調されています。「栄光」の本来の意味は「重さ」ですが、人の愚かさは人の栄光を神の栄光よりも優先してしまうことにあります。現代人は、コンクリートの建物の中と間を忙しく動きまわるばかりで、太陽の光も、小川のせせらぎも、大地の恵みも忘れて生きています。彼らは人間の技術力がすべての富のみなもとであるかのように誤解しています。
ダビデは、人々が貢物を携え、王である自分の権威の前にひざまずくことを求める代わりに、「ささげものを携えて、主の大庭に入れ……主 (ヤハウェ) にひれ伏せ」(8、9節) と勧めました。そして彼は、「主 (ヤハウェ) 」こそが全世界の「王」であると、聖歌隊がそろって宣言するようにと命じます(10節)。この告白こそ、この詩の核心です。そして、「主 (ヤハウェ) は王である」という告白こそが、ダビデ王国が祝福された鍵です。
「主は公正をもって諸国の民をさばかれる」(10節) とは、世の不条理が正されることを意味します。それは、救い主の到来によってすでに始まっています。それは神の平和(シャローム)が全地に満ちるときです。11、12節では、「喜び」「小躍りし」「鳴りとどろけ」「喜び踊れ」「喜び歌う」という五つもの喜びのことばが繰り返されています。この世界には、様々な不条理、悲しみが満ちていますが、「主 (ヤハウェ) は王である」と告白する者にとっては、どのような悲しみも、歓喜の歌を迎えるための間奏曲に過ぎません。
主よ、私たちは、あなたの愛のご支配を見失い、恐怖に駆り立てられるように生きることがあります。この世の不条理は、罪人に対する神の忍耐の現れであることを覚えながら、この世界が喜びに満ちた平和の向かっていることを覚えさせてください。
詩篇97篇1〜12節「民は主の栄光を見る」
詩篇93篇~99篇までの共通のテーマは、「主 (ヤハウェ) は王である」または、「主 (ヤハウェ) は全世界を治めておられる」という霊的な事実です。先の詩篇ではその事実を私たちが全世界に宣べ伝える使命が歌われましたが、ここでは、主ご自身が主こそが王であるという現実を知らせ、やがて「諸国の民はその栄光を見る」(6節) と歌われています。それは、私たちが伝道するという以前に、主ご自身が伝道を進める方であるとも言えます。
1節では「主 (ヤハウェ) は治めておられる」と宣言されながら、その事実を、被造物である「地」と世界中に広がる「多くの島々」に向かって「小躍りせよ」「喜べ」と訴えられています。2–5節の表現は出エジプト記19章に描かれた、主がシナイ山に下って来られた情景を思い起こさせるものです。そこでは、主はモーセに「わたしは濃い雲の中にあって、あなたに臨む」と言われます (19:9)。主がシナイ山に降りてくる朝の情景が、「雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった」と描かれます (19:16)。そして、主が降りて来られる情景が、「主 (ヤハウェ) が火の中にあって、山の上に降りてこられた……煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」と描かれます (19:18)。多くの人々は、「優しいお父様」のような神を求めますが、聖書の神は、まず人々を震え上がらせる栄光に満ちておられます。しかし、それは、「この方の前では、全世界のあらゆる権力も、貧弱に見えるほどで、この方にとっては、どんな課題も難しすぎることはない」という信頼感を生み出す全能の主の偉大さとも言えます。もうこの世の権力者を恐れる必要はないのです。
2節では「義とさばきが御座の基である」と記されますが、6、7節では「天は主の義を告げ……偽りの神々を誇る者は恥を見る」と描かれ、また、8節では「シオンは聞いて喜び ユダの娘たちも 小躍りしました。主 (ヤハウェ) よ あなたのさばきのゆえに」と描かれます。つまり、「主の義」はこの世の人々を恥じ入らせ、主の「さばき」は神の民にとっての喜びの原因となっているのです。私たちはときに、「主の義とさばき」をもとに、「父なる神は、どんな小さな罪をも見逃さずに罰を与える厳しい方で、イエスは私たちの罪の刑罰を身代わりに引き受けてくださった」と解釈します。それによって、イエスの救いの有難さが身に迫って来るということもあるのかもしれませんが、それでは、父なる神と御子イエスを異なった性質をもつ神にしてしまう矛盾に陥りかねません。 もっと単純に、「私の主は偉大な力に満ちた方なので、もうこの世の暴力の支配に屈する必要はない」「私の主はご自身の義(正義)を最終的に全うしてくださる方なので、この世の不条理に怒り狂って、力に力で対抗する必要はない」と考えれば良いのです。
10節は、「主 (ヤハウェ) を愛する者たち」という呼びかけから始まりますが、それは「主にある敬虔な者(主に誠実な者)」、また11、12節では「正しい者」「心の直ぐな人」と言い換えられながら、主がそのような者の「たましいを守り」、その者のために「光を蒔き」「喜び」で満たしてくださると描かれます。私たちの責任は、この世で何らかの結果を出そうと焦ることなく、日々の生活の中で、主を愛し、主に誠実を尽くすことなのです。
主よ、あなたがご自身の栄光を世界に現わしてくださる方であることを感謝します。私たちはしばしば、この世で無力感を味わいますが、あなたがご自身の義とさばきを現わしてくださることに信頼して、今、ここで主に誠実を尽くさせてください。
詩篇98篇1〜9節「神の救いを見ている」
この詩篇には96篇と重なる表現が多く見られます。ただ、3節で「地の果てのすべての者が 私たちの神の救いを見ている」とあるように、今、すでに成就している「救い」が強調されています。クリスマスの有名な讃美歌では、「諸人こぞりて 迎えまつれ 久しく待ちにし 主は来ませリ……主は、主は来ませリ」と歌われます。一方、英語圏では同じメロディーにより、この詩篇をもとにしたアイザック・ウォッツ作の歌詞で、「世界への喜び!主は来られた!地にその王を迎えさせよ すべての心に王のための部屋を用意させよ そして天も自然も歌え……天も、天も自然も歌え」と歌われます。
ただ、この詩篇が描いている「救い」は、何よりも出エジプト記14章に描かれたことで、イスラエルの民がエジプト軍の追撃から逃れる際、主が海を二つに分けて民を海の底の道を通すとともに、主が海をもとに戻してエジプト軍を滅ぼしたことを指します。その主の勝利が15章6、12節で「主 (ヤハウェ) よ、あなたの右の手は力に輝き、主 (ヤハウェ) よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く……あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ」と歌われます。これをもとに、この詩篇の1節の「主の右の御手 聖なる御腕が 主に勝利をもたらしたのだ」と記されているのだと思われます。
現代の私たちにとって、それは無関係なことに思えるかもしれませんが、これをもとに、Ⅰコリント10章13節では、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。試練とともに脱出の道も備えてくださいます」と記されています。この世界を父なる神とともに創造された神の御子が、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担」うために、人となってくださり、私たちがこの世で直面するすべての「悲しみ」と「病」はこの方が体験してくださいました (イザヤ53:3、4)。そして、この方は、ご自身の十字架で「死の力を持つ者」を「滅ぼして」くださいました (ヘブル2:14)。ですから、キリストのうちに生きる者にとっては、最終的な「勝利」は保証されています。
4節では「全地よ 主 (ヤハウェ) に喜び叫べ」と歌われ、それが8節までの全被造物に対する賛美への呼びかけになっています。そして、9節で繰り返される「主のさばき」こそが、全地の被造物にとっての「喜び」の根拠とされています。しばしば、主の「救い」が、死んでも天国に行けることとして描かれます。それは決して誤ってはいませんが、聖書が描く救いは、より現実的なことです。「脱出の道」が「備えられる」とは、海が二つに分けられるように、「お先真っ暗!」と思える状況に、道が開かれることを意味します。神の「さばき」とは、最終的にこの世界をご自身の平和(シャローム)で満たすことを意味します。全被造物は、神のさばきを喜び歌います。しかし、「神のかたち」に創造された人間は、愚かにも自分を神として、神のさばきに反抗しようとします。だからこそ、アイザック・ウォッツが歌ったように「すべての心に、王(である主)のために、部屋を用意して」、主の救いを心に迎え入れさせる必要があるのです。私たちが自分の心の中に、「王である主」(6節) を迎え入れることから「救い」が始まるのです。
主よ、あまたは、海を二つに分けてイスラエルの民のために「脱出の道」を開いてくださいました。「神の救い」は、私たちの目に見える現実的なものであることを感謝します。王である主のあなたが、いつも私たちの心の中をご支配ください。
詩篇99篇「聖なる主のご支配」
初めのことばは、93篇、97篇と同じで、「主 (ヤハウェ) は(王として)治めておられる」と動詞として訳すのが原文に忠実です。一方、96–98篇では、主のご支配が目に見えるように現わされる希望が歌われていましたが、ここでは主の何の「みわざ」にも言及されることなく、「国々の民は恐れおののけ」と命じられます。そして主が「ケルビムの上に座しておられる」超越的な方であることが描かれながら、同時にこの地にあっては、「主 (ヤハウェ) はシオンにおられる 大いなる方。主は すべての国々の民の上に高くいます」(2節) と、主がエルサレムから全世界を治めておられるということが強調されています。
そのことがさらに、「王は力をもって さばきを愛する」(4節) とあるように、神が立てたエルサレムの王が、全世界の王たちの王として、世界を治めるということを意図しているとも考えられます。なお、この文脈での「さばき」とは「公正な支配」と解釈すべきでしょうが、ここでは主ご自身が「王」と呼び変えられているのか、主が立てた地上の「王」を指しているのか、見解が分かれます。ただ、この「王」を「ダビデの子」であるキリスト理解するなら、私たちにとってはより身近な現実と考えられましょう。
そして、6節では「モーセとアロン」「サムエル」が登場し、「彼らは主 (ヤハウェ) を呼び 主は彼らに答えられたと記されます。さらに7節では、「主は雲の柱から 彼らに語られた。彼らは主とさとしと 主が賜ったおきてを守った」と記されます。つまり、主の支配は、目に見える指導者を通して現わされるという面がここでは強調されています。多くの人々は、主 (ヤハウェ) の超自然的なみわざが見られることに憧れますが、日々の現実の中では、主のご支配は、主のみことばに誠実に耳を傾け、それを実行する人を通して現わされています。キリストはすでに王として世界を治めておられますが、そのご支配は、キリストのからだである「教会(エクレシア)」という共同体の働きとして現わされています。たとえば、現在の様々な福祉や医療、教育制度も、また基本的人権の尊重などという基本理念も、すべて歴史的にはキリスト教会の働きから派生してきているものです。
そして8節では、主がご自身の民を導く原則が、民の祈りに「答えられ」、過ちを「赦し」また「悪しきわざに報復される」という日々の導きが記されます。またこの詩篇では、「主は聖なる方」と三度繰り返されますが (3、5、9節)、聖書に描かれた物語の不思議は、汚れた民を超越した「聖なる」神が、汚れた民の真ん中に住むために、神の幕屋を作らせ、またエルサレム神殿を建てさせたということです。つまり、「主は聖なる方」という表現には、問題行動ばかりを繰り返す汚れた民のただなかに住みながら、「あなたがたは聖なる者でなければならない、あなたがたの神、主 (ヤハウェ) であるわたしが聖だからである」(レビ19:1) と語りかけてくださる、神の圧倒的な愛を見ることができます。
主 (ヤハウェ) を私たちのただ中に住んでくださる「聖なる方」として「あがめ」、その方の御前に「ひれ伏す」者たちを通して、主はご自身こそが全世界の王であることを現わしてくださいます。私たちは「王」なるキリストの「みからだ」である教会の一部として、「地の塩」「世の光」として、不条理と闇が支配する世界に遣わされて行くのです。
主 (ヤハウェ) が、全地の王として、すでにこの世界を治めておられると聞き、感謝します。私たちは自分の小ささ、無力さ、また罪深さに唖然とさせられることがありますが、主が私たちを通してご自身の支配を現わしてくださることにこの身を委ねます。
詩篇100篇「主の大庭での感謝」
詩篇93篇以降では主 (ヤハウェ) の王として支配の現実が歌われていましたが、この100篇はそれを締めくくるような、主の民への呼びかけの歌です。標題には「感謝の賛歌」と記されますが、これは「感謝のために交わりのいけにえ」また「ささげ物」との関係を示すと思われます (レビ7:11–15)。イスラエルの民は自分たちの収穫物を、主の幕屋または神殿の「大庭」に携えてきて、家族や奴隷とともに「主 (ヤハウェ) の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」(申命記12:8) と命じられていました。
彼らはこの祭りを自分たちの住んでいる町ではなく、たとえ遠隔地にあっても、エルサレムに神殿ができてからは、主の門を通った主の大庭に来ることが命じられていました。それは、私たちが主を礼拝するためにともに集まることに結びつきます。
しかも、そこでの感謝の礼拝と交わりは、「全地」とあるように、全世界に対して、主に喜び叫び、主に仕えることへと招くための行為でもありました。私たちは主によって創造された「主の民」であり、主に養われている「主の牧場の羊です」。私たちが働いて収入を得たとしても、それは私たちが自分の力で獲得したものではなく、すべては主の恵みです。私たちの心も体も能力も、すべて主の賜物であり、私たちは同じように主によって創造された方々との交わりの中で働きを進めているに過ぎません。この世界のすべての環境が、主からの恵みの賜物です。私たちはそのすべてを主に感謝するのです。
その際、主の「いつくしみ(善)」、「恵み(ヘセド:変わらない契約の愛)、「真実(信頼できること)」というご性質を思い起こし、感謝し、主の御名をほめたたえるのです。
これは多くの教会の礼拝で最も愛用されている招詞の一つです。原文の語順では次のような美しい三行詩が四つ組み合わされています。これは詩ですから、その意味と同時にことばの繰り返しやリズムを朗読しつつ、それを心の底に落として味わい、そのことばが自分自身を動かすことを期待すべきでしょう。以下のように訳すことができます
「喜び叫べ 主 (ヤハウェ) を 全地よ。
仕えよ 主 (ヤハウェ) に 喜びをもって。
来たれ 御前に 喜び歌いながら。
知れ 主 (ヤハウェ) こそ 神であられることを。
この方が私たちを造られた。私たちは主のもの
私たちは主の民、主の牧場の羊である。
来たれ 主の門に 感謝をしながら、
主の大庭へと 賛美しながら。
主に感謝し 御名をほめたたえよ。
それは 主 (ヤハウェ) が いつくしみ深く
主の恵み (ヘセド) は とこしえで
主の真実は 代々に至るから。
主よ、私たちが毎週、「主の大庭」である礼拝の場に集うことができることを感謝します。私たちは主の牧場の羊として、主からの恵みを、主の民とともに喜び祝います。主への賛美の輪が、この礼拝の場から全世界に広がり続けますように。
詩篇101篇「全き道に心を留めます」
詩篇の第四巻 (90–106篇) においてダビデの作品と明記されるのは103篇とこの詩篇しかありません。そしてこの内容は、ダビデがどのような思いで、イスラエルを主の民として治めようとしていたかを告白したもので、キリストの教会の現実にも適用できます。
それにしてもダビデが、「私は家の中を 全き心で行き来します。私は 目の前に卑しいことを置きません。私は 曲がったわざを憎み それが私に まといつくことはありません」(3節) と書くのを見て、「どの面下げて、これを書けたのだろう」と思う人もいることでしょう。ダビデは自分の家来の妻を横取りし、彼を死に至らしめたからです。
しかもその後、長男アムノンが異母妹のタマルを強姦し、その兄アブサロムが彼に復讐を果たし、最後にはアブサロムがダビデをエルサレムから追い出します。ダビデはその間、何もできませんでした。後にパウロは、教会の指導者を選ぶ基準として「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか」(Ⅰテモテ3:5) と記しましたが、ダビデこそ子育ての失敗の見本のような存在です。その彼が、どうして、「欺きを行う者は 私の家の中に住むことはなく 偽りを語る者は 私の目の前に 堅く立つことはありません」(7節) などと書けたのでしょう。
しかし、ダビデは自分の生涯を振り返るように詩篇18篇を残していますが (Ⅱサムエル22章で引用)、そこでも彼は、「私は主の前に全き者……主は 私の義にしたがって顧みてくださいました。御目の前の この手のきよさにしたがって」(23、24節) と告白しています。ときに、「義に満ちた神は、どんな小さな罪をも見逃すことはできない」などと解釈する人がいるかもしれませんが、それはダビデが信頼した神ではありません。
ダビデが姦淫の罪の後で、「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心」(詩篇51:17) と告白したように、神の前に「全き者」とは、過ちを犯さないというよりは、神の目に自分の心の闇をさらけ出す生き方ではないでしょうか。しかも、それでいて、自分の弱さや罪深さに居直ることなく、「私は 全き道に目を留めます……私は悪を知ろうともしません」(2、4節) と告白して、常に、神が喜ばれる生き方を全うしようと成長し続ける生き方なのです。また、「陰で自分の隣人をそしる者」を「沈黙させ」(5節私訳)、「高ぶる目とおごる心」から距離を取り、悪の広がりを防ぐ生き方でもあります。
そして、自分の周りに不条理を見ながらも、自分の「目」を「忠実な人たちに注ぎ」「全き道を歩む者」との交わりを大切にします (6節)。「神の義」とはご自身に信頼しようとする者を決して裏切らないという「正義」です。私たちに求められているのは、何度失敗しても、そのたびに神に立ち返り、神が喜ばれる生き方を全うしたいと願い、すがり続けることです。そこに聖霊のみわざが現わされます。ダビデの罪の後の詩篇51篇10–12節に旧約で最も明確な聖霊のみわざが記されていることは偶然ではありません。
8節では、「悪しき者」「不法を行う者」を「滅ぼし」「断ち切る」と宣言されますが、ダビデは野蛮な将軍ヨアブのさばきを主にゆだね、彼を身近に置き続けました。彼は何よりも主の「恵みとさばきを」歌う中で (1節)、自分の性急な判断を控えていたのです。
主よ、私たちは自分を振り返るとき「私は 全き道に心を留めます」と言えない自分を発見します。しかし、どうか、私たちの弱った気持ちにも寄り添い、ご自身の聖霊を遣わし、私たちが完全を目指す気持ちを励まし、力づけてくださいますように。
詩篇102篇1、2、8〜13、23、24節「絶望感の告白からの希望」
この標題には、この詩篇の祈りの核心の意味が、「苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主 (ヤハウェ) の前に注ぎ出したときのもの」と記されています。私たちも、苦しみのただ中で「気落ち」するとき、どのように祈るべきかの導きがここにあります。
この祈りは、「主 (ヤハウェ) よ 私の祈りを聞いてください」という直球のことばから始まります。そして2節の原文は、「御顔を隠さないでください」から始まり、「すぐに私に答えてください」で終わります。これはイエスが十字架で詩篇22篇のことばを用いて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46) と祈られたことに通じます。絶望感をまっすぐに告白できることのなかに希望が生まれるのです。
3–7節には自分の状態が驚くほど繊細な詩的表現で次のように訳すこともできます。
「私の日々は煙のように失せ、骨々は炉のように熱い。
心は青菜のように打たれてしおれ、パンを食べることさえ忘れるほど。
嘆きの声のため、私の骨々は皮にくっついてしまった。
まさに荒野のみみずくにも似て、廃墟のふくろうのようになっている。
私は目覚めたまま、屋根の上のはぐれ鳥のようになった」
これを見て友人のシャンソン歌手は、「まるでシャンソンの歌詞よう」と言ってくれましたが、「演歌のよう」と言っても良いかもしれません。私たちの心が深く傷つき、絶望的な状況にあるとき、それが詩的に描かれると、深い孤独感が癒される気になります。
続けて8、9節では自分の周りが敵だらけで、その誹謗のことばに、涙がとめどもなく流れる悲惨が描かれます。そして10節ではその原因が神にあることを、「あなたが 憤りと激しい怒りのゆえに 私を持ち上げ 私を投げ捨てられたから」と訴えられます。
ところが、12節からはすべてが逆転される希望が歌われます。そこではまず、「しかし、あなたは 主 (ヤハウェ) よ」ということばから始まり、主の永遠のご支配が賛美されます。そして13節も「あなたは」という呼びかけから始まり、「あなたは立ち上がり シオンをあわれんでくださいます」と、主がご自身の行動を変えてくださったかのように歌われます。しかもその理由が、「今やいつくしみの時です。定めの時が来ました」と、著者自身の神のみこころの変化のタイミングが知らされたかのように歌われます。14–22節は、旧約の預言書で繰り返されるイスラエルの回復の希望が描かれます。著者は自分の個人的な苦難とイスラエルの苦難を重ね合わせ、そこに神ある希望を見ているのです。
ただ、それでいながら、23節では再び、「主は 私の力を道の半ばで弱らせ 私の日数を短くされました」と、自分の絶望感が、主ご自身に由来すると訴えられます。しかし、不思議なのは同時に、「私は申し上げます」という枕詞とともに、「私の神よ 私の日の半ばで 私を取り去らないでください」と明確に訴えられていることです (24節)。「運命だと思って諦め、それを受け入れよう」というのは演歌の世界です。しかし、聖書の世界では、「この苦難をもたらしたのは神なのだから、そこには希望がある。だから、神がご自身のみこころを変えてくださるように祈ってみよう」ということになるのです。
主よ、あなたは、私が自分の絶望感を詩的に表現することを助けてくださることを感謝します。私はそれを通して、自分の傷ついた感情を優しく受け入れ、同時に、あなたに向かってお祈りできるようになりました。絶望感を希望に変えてください。
詩篇103篇6〜14節「あわれみに満ちた神」
「主 (ヤハウェ) は 義とさばきを すべての虐げられている人々のために行なわれる」(6節) とは、7節からも明らかなように、イスラエルがエジプトで奴隷として虐げられていた状態からの解放を指します。それこそが聖書の「救い」の原型です。なお、主の「義とさばき」を自分の罪に向けられるものとして過度に恐れる人がいるかもしれませんが、このことばは聖書では、神の民が苦しみの中で「主に叫ぶ」と、主が敵をさばいて救ってくださるという意味で用いられる場合がほとんどです。「義」は英語で righteousness と訳されますが、それは神が私たちとの正(義)しい関係 (right relatedness) を築くことを目的としているとも解釈できます。そのために神は、イスラエルの罪に対しては、忍耐に忍耐を重ねて、彼らにご自身の愛と真実を示し続けられたと記されています。
8–12節は、主の聖なるご性質を美しく描いたものです。かつてモーセが、イスラエルの民の不従順に耐えかね、主ご自身がともに歩んでくださることの保証を求める意味で、「あなたの栄光を私に見せてください」と願ったときのことです。主(ヤハウェ)は雲の中にあってモーセのもとに降りて来られ、彼の前を通り過ぎるとき、「主 (ヤハウェ) 、主 (ヤハウェ) は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」(出エジ34:6、7) と宣言されました。そのときのことばがここでほとんどそのまま繰り返されています。つまり、神の栄光とは「あわれみ深く、情け深い……恵みとまことに富み」という神のご性質のうちに表わされるというのです。
さらにダビデは10、12節で「罪」「咎」「背きの罪」という罪の三つの類語を用いながら、「主 (ヤハウェ) は……私たちの罪にしたがって私たちを扱おうとはされず……咎にしたがって……報いをされることもない……東が西から遠く離れているように……私たちの背きの罪を私たちから遠く離される」と記します。私たちはみな、自分で自分を信じることができないような面がありますから、「あなたの信仰によって、罪が赦されます」と言われても、「私の中には、赦されるにふさわしいような信仰はない……」とかえって落ち込むことになりかねません。しかし、信仰は自分の中からではなく、神ご自身の愛の眼差しから生まれたものです。その愛に身を任せることこそ信仰の歩みの出発点です。
なお主の「御恵み」と「あわれみ」は、「主を恐れる者」(11、13節) の上に注がれると記されますが、それは神の厳しいさばきを恐れるというより、私たちが自分の「成り立ちを知り……土のちりに過ぎないことを」(14節) 自覚することに他なりません。名曲 Amazing Grace「驚くべき恵み」では奴隷船の船長であったジョン・ニュートンが、自分の歩みを振り返りながら、「驚くべき恵み。何と麗しい響きか!それは私のような『ならず者』を救ってくれた。私はかつて失われていたが、今は見つけ出された」と心から歌っています。そして、二番目の詩では、「恵みこそが私の心に恐れることを教え、また恵みが私の恐れを和らげた」と歌われています。研ぎ澄まされた「恐れ」の感情の中で、真に恐れるべき方と出会うなら、この世の恐れから解き放たれることができます。私たちは一瞬一瞬、「何を恐れ、どなたを恐れて生きているのか?」と問われています。
主よ、あなたは「虐げられている人々」のために「義とさばき」を行ってくださる神であられます。ですから、私たちはこの世の人々を恐れて生きる必要はありません。真の意味で神を恐れることを教え、この世の恐れから解放してください。
詩篇104篇10〜24節「自然か、神のみわざか」
日本語の「自然」ということばは英語の nature の訳語として、仏教用語の「じねん」を充てたとのことです。そこには、「みずからしからしむ」という意味が込められています。もともと Nature にもラテン語の「生まれたもの」という語源があるようです。どちらも創造主を前提としない用語です。それに対して、聖書の世界では、この世界のすべてのものは唯一の創造主の作品として描かれています。しかも、それは機械のような無機質なものではなく、創造主の「いのち」の輝きを現わすダイナミックな存在です。そのことがこの詩篇104篇全体で美しく表現されています。私たちは美しい山々やその木々、川の流れ、大海、無数の星を見て、それらを神々としてあがめる代わりに、そこに私たち一人ひとりをも母の胎のうちで組み立ててくださった神のあわれみに満ちたご意思を見ることができます。それは、自然なことではなく、聖霊のみわざです。
あるとき高い山々を巡り歩き、大きな川の源流となる泉から水が湧き出るのを見ながら、「主は泉の水を谷に送り、山々の間を流れさせ」(10節) という表現が心の奥に迫ってきました。それが、天の神が地の谷の間に「泉を送った」からと記されているのに感動しました。その結果として、「野のすべての獣」がその水を飲み、木々が生えて「空の鳥」が「枝の間でさえずります」という感謝が生まれているのです。
そのことがさらに、「主は その高殿から山々に水を注がれます」(13節) と描かれます。当時の人々も「水が川から海へ、そしてまた山々の川へ」へという循環は理解していましたが (伝道者の書1:7)、それを決して、「自然」とは言いませんでした。この世界のいかなるものも「自然に生まれる」ことはありません。そのことが、「主は 家畜のために草を また 人が労して得る作物を生えさせます」(14節) と描かれます。たしかに人の労働によって作物できるのですが、それを「生えさせる」のは、光や水の創造主ご自身なのです。15–18節には、人間を含むあらゆる生き物の喜びが描かれますが、それらもすべては神の御手のわざの現れです。しばしば、神はこの地の上に「自然のサイクル」を造り上げて、それを天から見下ろし、必要に応じ、また、人の叫びを聞いて、その自然の中に介入すると解釈され、それが神の奇跡と呼ばれます。しかし、ここに記されているように、一瞬一瞬のできごとが神のあわれみの奇跡の連続なのです。
19–22節では、季節や日々の繰り返しが、神のみわざとして描かれます。そこで23節の「人は 自分の仕事に出て行き 夕暮れまでその働きにつきます」という記述は、私たちの労働自体が神の恵みのリズムの中で起きていることを強調したものです。「働くことができる」こと自体が、圧倒的な神の恵みのみわざの現れなのです。
そして24節ではそれらをまとめるように、「主 (ヤハウェ) よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう……地はあなたのもので満ちています」と記されます。聖書によると、この地に、「自然に生まれるもの」などありません。すべてが創造主の御手のわざであり、すべてのものが、「その方のもの」なのです。そして、当然ながら、私たちの存在やいのちも、あわれみに満ちた「主のもの」です。一瞬一瞬が神の奇跡の連続なのです。
主よ、毎日が主のあわれみのみわざの連続であることを感謝します。この世界に、「あたりまえ」なことはありません。「自然に生まれる物」もありません。日々の生活の中で、一瞬一瞬、神の御手のわざに感謝するものとさせてください。
詩篇105篇7〜17、24〜26、42節「契約を守られる神」
この詩篇では、一人のアブラハムから神の民を創造し、その子孫をエジプトでの奴隷状態から解放し、約束の地に導かれた、主 (ヤハウェ) のみわざが歌われています。
7節では「この方こそ 私たちの神 主 (ヤハウェ) そのさばきは全地にわたる」と告白されますが、主は全世界を治める(さばく)方ではありますが、旧約ではあくまでもアブラハムの子孫であるイスラエルにとっての神として描かれているということを忘れてはなりません。自分をアブラハムの子孫の立場に置いて読まなければ、聖書の話は心に落ちません。
8、9節では、「主はご自分の契約を とこしえに覚えておられる……それはアブラハムと結んだ契約」と記され、その後、主のみわざが具体的に思い起こされた上で、42節では再び、「これらのことは 主がそのしもべアブラハムへの聖なることばを 覚えておられたからである」と描かれています。これこそ、聖書のストーリーの核心です。
それは、創世記12章2、3節の「あなたを大いなる国民とする……地のすべての部族は、あなたによって祝福される」という約束であり、同15章5、18節にあったアブラハムの子孫が天の星のように数えられないほどに増えるという約束、また、「エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで」の約束の地を与えるという契約です。そして旧約の前半部分にはアブラハムの子孫に約束の地が与えられたという物語が描かれ、新約においては、地のすべての部族がアブラハムによって祝福されるという物語が描かれています。
筆者は最初、主がアブラハムと結んだ「契約」という観点から聖書を読むことができていなかったため、旧約での残酷な物語や、救いが選びによるという教理にも違和感を覚えました。しかし、この観点から全体を読み出すとすべてに一貫性が見えてきました。
12–15節では、たとえば、アブラハム一族が約束のカナンの地に入りながら、飢饉のためにエジプトに「渡り歩いた」物語が示唆されます。彼は妻のサライを妹だと偽ることで自分の身の安全を保とうとしました。エジプトの「王」は彼女を妻の一人として召し入れましたが、神が王を「戒め」、王は多くの贈り物とともにアブラハムを約束の地に送り出すはめになりました。王からしたら不条理極まりない話ですが、これは神が、アブラハムの不真実にも関わらす、契約を守り通したという神の真実の物語になります。
16–23節ではイスラエルの民が「飢饉」のために避難する過程が描かれます。興味深いことに、「主は一人の人を彼らに先駆けて送られた」(17節) と記されます。それは「ヨセフが奴隷として売られた」ことを指します。兄弟たちから憎まれ、奴隷に売られることなど、あってはならない悲劇です。しかし、主は彼をエジプトの支配者へと引き上げました。
後にヨセフは兄弟たちに、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(創世記50:20) と、兄たちを安心させ、優しく語りかけました。そこにアブラハムへの契約の成就の始まりを見たからです。
24–38節はイスラエルがエジプトから解放される過程が描かれます。その前提で、「主は人々の心を変えて ご自分の民を憎ませ……悪賢く扱うようにされた」(25節) と記されます。ここでも、人々の不真実を通して、契約に対する神の真実が描かれます。
主よ、あなたの使徒パウロは、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」(Ⅱテモテ2:13) と記していることを感謝します。聖書全体を通して、ご自身の契約に対するあなたの真実を見させてください。
詩篇106篇6〜12節、40〜46節「御名のゆえの救い」
この詩篇には、「私たちは 先祖と同じように罪を犯し 不義を行い 悪を行ってきました」(6節) というイスラエルの民の不従順の歴史と、主 (ヤハウェ) の「いつくしみ(善)」と「恵み(ヘセド:契約を守る不変の愛)」(1節) との関係が繰り返し描かれています。
7節ではエジプトにおけるイスラエルの民の恩知らずな態度が思い起こされます。彼らは目の前の期待が裏切られるたびに、モーセを退け、神に逆らい続けていました。主が十のわざわいをエジプトに下し、奴隷状態から解放してくださったときにも、ファラオの軍隊が「葦の海」に追い迫って来るのを見ると、彼らは「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れてきたのか」(出14:11) という皮肉を用いてモーセを非難しました。その際の彼らの問題がここで、「あなたの豊かな恵みを思い出さず」と記されますが、英語では(ESV、NRS)、「they did not remember the abundance of your steadfast love(彼らはあなたの不変の愛(ヘセド)の豊かさを思い出さず)と訳されます。鍵のことばは「恵み」と訳されている「ヘセド」であり、イスラエルの民の根本的な問題は、その「豊かさ」を軽蔑したことにあるというのです。
8節では「しかし、主は 御名のゆえに 彼らを救われた」と記されます。「御名のゆえに」とは、「名は体を表す」などとも言われるように、主がご自身のあり方を民に明らかに示すために、民の忘恩の行為に耐えながら、1節にあった「恵み:契約を守る不変の愛(ヘセド)」を現わされたことを指し示します。さらに続けて、主のみわざが具体的に、「主が葦の海を叱ると 海は干上がり 主は彼らに海の深みを歩かせられた……主は……敵の手から彼らを贖われた」(9、10節) と描かれます。そして12節では、「すると 彼らはみことばを信じ 主への賛美を歌った」と記されることになります。ところがその直後からなお繰り返し、主の御怒りを引き起こし続けたことが描かれます。
40–42節は主の御怒りのクライマクスとしてのバビロン捕囚のことが描かれます。そこでの「主はご自分のゆずりの民を忌み嫌われた……敵どもが彼らを虐げたので 彼らは征服され 敵の手に下った」という表現には心が痛みます。イスラエルの民が異教徒の支配で苦しむのは、主ご自身の意思であったというのです。その理由が改めて、「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが 彼らは相謀って逆らい」と記されます (43節)。
44、45節では、「それでも 彼らの叫びを聞いたとき 主は彼らの苦しみに目を留められ……ご自分の契約を思い起こし 豊かな恵みにしたがって 彼らをあわれまれた」と記されます。ここでも7節の英語訳と同じように「主の不変の愛(ヘセド)の豊かさにしたがって」と訳されることばが記されています。そして、その結果が46節で、イスラエルの民が捕囚下にありながら、バビロンの支配者から「あわれまれる」こととして描かれます。実際、彼らにとって捕囚は、神の民としてのアイデンティティーを明確に確立する機会になりました。
最後に、「国々から私たちを集めてください」(47節) という祈りに、彼らの復興の希望が描かれます。そして、彼らは「キリストにあって 一つに集められる」(エペソ1:10) ことになるのです。ここに新約への連続性が生まれます。
主よ、あなたの「不変の愛の豊かさ」を感謝します。あなたがアブラハムに、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創12:3) と約束されたことを、イスラエルの救いから異邦人の救いへと結び付けておられるご計画に感謝します。
詩篇107篇17〜22、39〜43節「知恵のある者はだれか」
この詩篇の3節では「国々から彼らを集められた。東からも西からも、北からも南からも」と記されていますが、これは明らかにイスラエルの民が不従順のゆえに神のさばきを受けて、約束の地から追い出されたバビロン捕囚からの解放の希望を描いたものです。
そして四方から集められるということを前提に、4–9節、10–16節、17–22節、23–32節の四回にわたって彼らが苦しみのただ中から、主によって救い出されるようすが描かれます。そのたびにほとんど同じことば、「この苦しみのときに 彼らが主 (ヤハウェ) に向かって叫ぶと 主は彼らを苦悩から救われた」(19節) という表現が繰り返されます。
第二と第三の歌では自業自得の「苦悩から」の「救い」というテーマが際立っており、第三の17節では、「愚か者は 自分の背きの道のため また 咎のために苦しみを受けた」と描かれます。続く18節の「あらゆる食物を 彼らの喉は受けつけず ついに死の門に至った」と描かれる状況は解釈が分かれます。以前の訳では、「彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい」と記されていましたが、その方が原文をそのまま表現しているとも言えます。その原因は、身体が衰弱し過ぎたためなのか、置かれた環境を心から忌み嫌ったせいかは分かりません。筆者の母もこの私を胎に宿す前、重い病の中で「食欲を失いながら、このまま死んでしまいたい」と思ったことがあると言っていました。それは残念ながら、自分が嫁いできた家を忌みきらっていたことの表れだったようです。しかし、この私を出産したことによって、自分の置かれた環境を、自分のできる範囲で変えて行こうという気持ちに変えられて行きました。とにかく、人間は、将来への希望が見えないと、苦悩の中で、「あらゆる食物を忌みきらう」ということが起きることがあります。とくに自業自得の苦しみの場合は絶望感に圧倒されがちでしょう。
しかし、全能の神を知っている者は、「苦しみのときに」「叫ぶ」ことができます。それは自業自得の「苦悩」であると分かっていても、放蕩息子が父の家を思い起こしたように、神の「あわれみ」を知っているからこそ、立ち返ることができます。それに対し、「主はみことばを送って彼らを癒し、滅びの穴から彼らを助け出された」(20節) という不思議が起きます。それは放蕩息子が、「我に返って」「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、何と大勢いることか」と思い起こしたようなものです (ルカ15:17)。
そして、「主 (ヤハウェ) に感謝せよ。その恵みのゆえに」とありますが、これも四つの歌すべてで繰り返されることばです(8、15、21、31節)。「恵み」とは「ヘセド:不変の愛」を意味し、1節では「主 (ヤハウェ) に感謝せよ……その恵みはとこしえまで」と歌われました。
39–43節では主が、自分の力を誇っている「君主たち」を「低くし」、「貧しい者を……高く上げ」という逆転を起こされることが強調されます (40、41節)。主に向かって「直ぐな人」は「それを見て喜び」ます (42節)。最後に「知恵のある者はだれか」(43節) という問いかけがなされます。それは、これらの主の数々のみわざを思い起こし、「主 (ヤハウェ) の恵み(ヘセド:不変の愛)」を「見極め」ることができる人です。主がご自身の契約の民を苦難に合わせるのは、主の契約の真実を彼らに思い起こさせるためなのです。
「主はその愛する者を……ご自分の聖さにあずからせようとして訓練される」(ヘブル12:6、10) と記されていることを感謝します。自業自得の苦悩の中でも、主よ、あなたの「恵み(ヘセド:不変の愛)」を思い起こして、生ける希望を持たせてください。
詩篇108篇1〜13節「私の心は確立されています」
この標題は「ダビデの賛歌」と記されますが、この詩篇の1-5節では彼が自分の記した57篇7–11節を、6–13節では60篇5–12節をほとんど同じように繰り返され、その二つを合わせられています。不思議なのは、詩篇57篇の最初では、ダビデが「ほら穴」の中に身を隠している切羽詰った状況が、詩篇60篇では、神の怒りを受けて悲惨の極みを味わっている状況が描かれていましたが、それらがここでは省かれ、それぞれの後半の信頼の告白のみが繰り返されている点です。これによって全体の調子がはるかに明るいものに変わります。そして、それによって私たちの日常生活により適用しやすくなるように思われます。
1節の「神よ 私の心は揺るぎません」は、「確立されています」と訳すことができます。筆者などは始終、「心が揺れ」ますから、その方が心に響きます。大切なのは、心の方向がいつも創造主に向かうことなのです。また「私の心の底も」ということばの原文は、「私の栄光も」であり、神を「全存在をもって」たたえているという告白です。
2節では「琴よ 竪琴よ 目を覚ませ」と呼びかけ、その同じ動詞を用いて「私は暁を呼び覚まそう」と告白されます。「暁」とは「夜明けのしるし」であり、神が暗闇の中にすでに「新しい創造」(ガラテヤ6:12) を始めておられると、大胆に告げ知らせることです。
さらにダビデは、「諸国の間で……もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います」と述べ、全世界に対する神のご計画に思いを向けます (3節)。そして、神の「恵み」(ヘセド:不変の愛)と「まこと」(エメット:真実)の崇高さが覚えられ、神の「栄光が全地であがめられますように」と祈られます (4、5節)。私たちの「祈り」はあまりにも自分の狭い視野に囚われてはいないでしょうか。その心の方向性が正される必要がありましょう。
6–13節は、イスラエル王国の回復の希望を歌ったものでしょう。6節でダビデは自分たちのことを「あなたの愛する者たち」と呼び、「あなたの右の手で救い、答えてください」と祈ります。7–9節では、「神は聖所から告げられ」という表現でエルサレム神殿の再建が示唆され、同時にダビデ王国の支配地全体を思い起しつつ、約束の地の真ん中の「シェケム」、ヨルダン川東側のヤコブの記念の地「スコテ」、その北部に広がる肥沃なギルアデとマナセの地の回復が歌われます。さらに「エフライム」は北王国、「ユダ」は南王国を指しますが、それが神の「頭のかぶと」また「王笏」として名誉を回復すると約束され、死海の東のモアブ、その南のモアブが再び服従するものとされ、またペリシテに対する勝利が保証されます。10節ではエドムに対する勝利が課題として描かれ、11節では、エルサレムの破壊を、神がご自分の民を拒まれたしるしと訴えます。12節では改めて、「どうか敵から私たちを助けてください。人による救いはむなしいものです」と訴えられ、13節で神にある最終的な勝利が歌われています。このような祈りを見ると、私たちは時に、神にある「救い」をあまりにも霊的で個人的な心の平安の問題に見てはいないかと反省させられます。
イエスこそはご自身の十字架と復活によって真の神殿を再建し (ヨハネ2:19)、全世界に広がる神の支配を完成してくださる真の「ダビデの子」です。ダビデへの約束が成就することが、全世界が復活のイエスのご支配に服することにつながります (
詩篇2:8)。
主よ、私たちの日々の生活にも、様々な困難が、またときには大きな挫折が起こります。そのとき、どうかあなたの救いのご計画の大きさを理解できるよう、私の霊の目を開いてください。そして、「私の心は確立されています」と告白させてください。
詩篇109篇1〜7、21〜31節「敵ののろいと神の祝福」
これは94篇と並んで、悪人への報復を祈る詩篇の代表です。ただ、それは自分の敵を愛することと矛盾はしません。たとえば、ダビデはサウル王の手から必死に逃げる中で、二度もサウルを殺す機会が訪れましたが、家来を制止して、「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか……主 (ヤハウェ) は生きておられる。主 (ヤハウェ) は必ず彼を打たれる」と断言しました (Ⅰサムエル26:9、10)。つまり、ダビデがサウルを助けたのは、神のさばきに任せたという意味とも解釈できるのです。
この祈りは、「神よ……沈黙しないでください」から始まります。黙示録6章10節では、殉教の死を遂げた者たちが神に向かって、「いつまでさばきを行なわず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか」と祈っています。この世界の不条理を見ながら、神の公平なさばきを願うのは、当然のことかもしれません。
ダビデの敵たちは、根拠のない悪い噂を広め、人々がそろって彼を非難し、攻撃をしかけるように仕向けました (2、3節)。彼にとって何よりも辛かったのは、「私の愛に代えて、彼らは告発で応じます」という現実でした (4節)。不思議にもそれへの対応が原文では、「しかし、私自身は、祈りです」と記されます。これは、ダビデが、祈りによってすべての問題を解決しようとする姿勢を現します。時に、自分の正当性を訴えることが、火に油を注ぐことになります。これは霊的な戦いです。サタンに操られたような人々への戦いの最高の方法こそ「祈り」なのです。それこそ最善の戦い方だというのです。
5節では、「彼らは 善に代えて悪を 愛に代えて憎しみを 私に返しました」と訴えられます。あなたも人生のどこかでこのような気持ちを味わったことがあることでしょう。そのような敵に対して、「どうか……告発する者が 彼の右に立つようにしてください」(6節) と祈られます。「告発する者」のヘブル語は「サタン」で、ゼカリヤ3章1節でも、人の罪を訴えるサタンの働きが描かれます。つまり私たちには、不当な告発者の右に、より恐ろしい告発者が遣わされるようにと祈ることが許されているのです。
心が憎しみや恨みの気持ちでいっぱいになるときに、はるかに辛い状況に置かれた人の立場になって、この祈りを味わうなら、あなたは、自分の内側に鬱積する怒りや恨みの気持ちが、神にとって軽蔑すべき感情ではないことが分かり、安心できます。
21節からは急にトーンが変わり、主を「あなた」と呼び、主ご自身の名ヤハウェと、「私の主」という親密な呼びかけが記されます。その上で、「私は苦しみ そして貧しく 私の心は私のうちで傷ついています」(22節) 以降のことばを、心の底から味わってみましょう。このような祈りを導いてくださる神の優しさが迫ってきます。また28節の「彼らはのろいます。しかし、あなたは 祝福してくださいます」こそこの詩の核心であり、最高の慰めです。29節の「私を告発する者たち」は、6節の「告発する者」の複数形で、彼らの背後にサタンがいることが示唆されます。また31節では、「主が貧しい人の右に立ち……救われる」と歌われますが、これは6節との対比で、慰めに満ちた表現です。何と、告発者たちの右にはサタンが立ち、信仰者の右には主ご自身が立ってくださるのです。
主よ、私または私の友人が、不当な攻撃を受けて苦しむとき、この詩篇をとおして、傷ついた気持ちを訴えさせてください。あなたが、私たちの中に鬱積された気持ちを解きほぐし、慰めと希望を与えてくださることを感謝できますように。
詩篇110篇1〜7節「ダビデの子、ダビデの主」
ダビデがどのような意図でこれを記したかは永遠の謎でしょうが、これは新約聖書に最も多く引用されている旧約の箇所の一つです。主イエスはパリサイ人たちに向かって、キリストがダビデの子と呼ばれるなら、「どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた……』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」と問いかけました (マタイ22:41–45)。この問いには、当時、誰も答えられませんでした。それは、キリストが「ダビデの子」としての人間であるとともに、キリストが神の御子として「ダビデの主」であるという不思議を現わします。まさに神秘的な詩篇です。
イエスが引用された1節を用いて、使徒ペテロもペンテコステの日に、そこに集まっていたユダヤ人たちに向かって、「ダビデが天に上ったのではありません……神が今や主ともキリストともされたこのイエスをあなたがたは十字架につけたのです」と訴えました。すると人々は心を刺され、イエスを救い主として受け入れました (使徒2:34–37) 。復活のイエスは、ダビデの主として、神の右の座に着座されたからです。
ある方は、高校二年生のとき、その使徒の働きを読んでこのみことばに出会い、ほとんど意味が分からなかったものの、「ただただ、平安が降って来た感じ」に満たされてイエスを救い主として受け入れたとのことです。それこそ聖霊の働きです。彼女はそれから約20年もたって「主イエスこそが王として全てをその足元にすべ治めておられる」という神学的な真理として、文脈から理解して、これを証しできるようになりました。彼女は恵まれた環境に育ち、知的能力も優れていましたが、心の奥底で人生が制御不能になることを恐れていました。しかし、自分の罪のために十字架にかかられたイエスが、この世界のすべてを支配しておられるという「感覚」が不思議な「平安」を生んだのでしょう。十字架の犠牲と王としての支配の関係は、人知を超えた神秘です。
2節ではキリストの支配が「敵のただ中」に現わされ、3節では主の民がサタンとの戦いの中で「喜んで仕える」ことが描かれます。3節の終わりは、「あなたの若者の朝露は、あなたに属する」とも訳すことができ、クリスチャンが日々、キリストからの朝露のような新鮮な力を受けて世界にキリストの支配を広げることと理解できます。
4節はヘブル人への手紙7章17節に引用され、キリストが新しい契約の永遠の大祭司として私たちを神に近づけてくださることとして描かれます。また5、6節では、神の「右におられる主」が「神のことば……王の王、主の主」(黙示録19:11–16参照) としてこの世の横暴な者たちを「打ち砕かれる」と描かれます。つまり、キリストは大祭司であるとともに力に満ちた支配者であると描かれているのです。罪人のままの私たちを「神の子」とするためにダビデの子のイエスは永遠の大祭司として十字架にかかられましたが、そのイエスはすでに神の「右」の座に着座され、この世界を治めておられます。終わりに日にそのことが誰の目にも明らかになるのです。このように、イエスの弟子たちはこの詩篇を通して、イエスがダビデの子で、ダビデの主でもあるという神秘を感じ取りました。
イエスが神の右の座に着かれた「王の王」であり、また新しい契約の大祭司であることを感謝します。その神秘が、この短い詩篇に預言的に描かれています。私たちの知性では完全に理解できなくても、その真理が私たちを導いてくださいますように。
詩篇111篇1〜10節「記憶を主は刻まれた」
この詩篇111篇と112篇は両方とも各行の最初の文字がヘブル語の22のアルファベットの順番に美しく整えられています。たとえば1節の「私は感謝をささげよう」の最初の文字はヘブル語のアレフで、その後半の「交わりにおいて」の最初の文字はベート、2節の最初の「偉大」はギンメル、その後半の「尋ね求められるもの」はダレットと続きます。9、10節は3行に分かれ、全体で22行になります。これこそ最高のアルファベット歌と言えましょう。ユダヤ人はこれを喜んで暗唱できたことでしょう。
3節の前半は「威厳」から、後半は「その義」から始まり、その関連で4節の原文では不思議にも、「記憶を主は刻まれた。その奇しいみわざのために」と記されています。聖書には繰り返し神のみわざを記憶し続けるようにと命じられていますが、ここでは主ご自身が、海を二つに分け、ヨルダン川をせき止めるなどの圧倒的な「威厳」と「義」のみわざによって、忘れられない「記憶を刻んでくださった」と描かれています。
5節の後半では、主ご自身が「覚えておられる。ご自身の契約を」と記されます。私たちが主の契約を覚える以前に、主ご自身が覚えておられるというのです。また6節の原文では「(みわざの)力……を告げ知らされた。(ゆずりの地を)与えられたことで」と、神の一方的な恵みのみわざが強調されています。7節の後半は「確かである」から始まり、8節の前半は「保たれる」、後半は「行われる」ということばから始まります。
また9節の1行目は「贖いを送られた」という不思議な表現が記されます。それは民が主を呼び求める以前の、主の一方的なみわざです。続く2行目は「定められた、ご自分の契約を」、3行目は「聖である、御名は」と記されます。また10節もそれぞれの始まりが「初め、知恵の」、「賢明さを得る」、「誉れは永遠に立つ」と記されます。
つまり、どの行でもその冒頭において、主の一方的なみわざがまず描かれ、私たちのなすべき務めが記されていません。私たちはどこかで、私たちの信仰深さの程度に応じて、神のあわれみが注がれるという、操作可能な信仰を求めてはいないでしょうか。
ある方は、「ディボーションがだんだん辛くなってきた。毎回、その解説を読むたびに、神のみわざに対して私たちがなすべき応答が記されているけれど、それを実行できない自分を責めざるを得なくなるばかりだったから……」と語っておられました。そのようなとき、この詩篇においては、神がご自身の圧倒的なみわざを私たちの記憶に刻み、私たちが神を忘れても、神がご自身の契約を覚えておられ、私たちが主に向かって叫ぶ前から「御民のために贖いを送られた」と記されていることは何という慰めでしょう。イスラエルの子供たちは、ヘブル語のアルファベットを、この神の一方的なみわざとともに覚えることができました。主ご自身が民の信仰を育んでくださいます。
10節においても「主を恐れること」こそが「知恵の始め」と記されますが、その「主への恐れ」を人々の「心に刻まれた」のは主ご自身のみわざであるとのテーマがこの詩全体で強調されているのです。そして、私たちの応答に無関係に、「主の誉れ」または「主への賛美」は「永遠に立つ」または「立ち続ける」と明言されています。
主よ、あなたがご自身のみわざを私たちの記憶に刻んでくださる全能の主であられることを感謝します。どうか、私たちの心の目を、自分の不信仰を責める方向に向けずに、あなたのみわざをただ感謝し、喜ぶ方向へと向けてくださいますように。
詩篇112篇1〜10節「光は闇の中に輝き昇る」
この詩篇は先の111篇とセットに読まれると意味が良くわかります。ある人は詩篇111篇を、すべての人に向けて神の偉大さを語る大きな物語として定義し、112篇を、主を恐れることの幸いを個々人の日々の生活に教える小さな物語と定義しています。
1節の2行目は「幸いなことよ、主 (ヤハウェ) を恐れることは」から始まり、「その仰せを喜ぶ人は」と続きます。ここに描かれていることは、主を恐れる生き方を実行するようにと奨励することというよりも、その「幸い」を様々な角度から描写することです。
2節は「勇士となる」という約束から始まり、「直ぐな人たちの世代は祝福されると」続きます。また3節ではその前半と後半が「繁栄」と「義」ということばから始まり、「主を恐れる」「直ぐな生き方」の祝福が描かれます。以前は、地獄の恐怖から、主を恐れるように勧める福音の提示が盛んな時代もあったかもしれませんが、アブラハムの物語から始まる信仰者の歩みは、主に従うことの「幸い」から描かれているのです。
そして4節は「輝き昇る、光は闇の中に、直ぐな人たちのために」という語順で記されます。2節にも描かれた神に向かって「直ぐな人」の歩みは、闇の中に「光が輝き昇る」ようなダイナミックなものとなるというのです。またその後半は「情け深い」という主のご性質から始まります。「主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる」からこそ、主に従う者の「義は永遠に堅く立つ」(3節) と断言できるのです。
5節は「幸せ」というより「善い(トーブ)」と直訳できることばから始まり、「情け深く 人に貸し 公正に扱う」ことが、人間的な幸不幸を超えた、神に喜ばれる生き方として描かれ、そこに「とこしえまでも揺るがされない」ことと「とこしえに覚えられる」という祝福が約束されます (6節)。続けてその人の心の状態が「悪い知らせを恐れず、心は揺るがない、主への信頼の中で」と描かれ、「心」の「堅固さ」が、「自分の敵」に動じなくなるまでに安定すると記されます (8節)。それらはすべて神が約束しておられる成長であることを忘れてはなりません。さらにその人の生き方が「彼は貧しい人に惜しみなく分け与えた」と評価され、「彼の義は永遠に堅く立ち」と「彼の角は高く上げられる」と描かれます (9節)。
この地では私たちの善意が誤解されることもありますが、ここでは「とこしえ」や「永遠」の視点が強調されています。私たちは時に、あまりにも一時的なこの世の評価に一喜一憂し過ぎているのではないでしょうか。
それと正反対なのが10節で、そこでは「悪しき者は」という言葉から始まり、その「歯ぎしり」するさまや、その「願い」が「滅び失せる」という空しさが描かれます。
私たちはたしかにこの世界で、悪しき者の繁栄と、正しい人のわざわいを見て、主を恐れ、主に向かってまっすぐに生きることの空しさを覚えることがあります。しかし、それは主の永遠の視点から見たら、ごく一時的な不条理にすぎません。詩篇1篇にも記されたことですが、悪しき者と正しい者との結末は、やがて天と地の差として現わされます。「神は、また人の心に永遠を与えられた」(伝道者3:11) と記されているように、私たちはそのような「永遠」の視点から自分の人生を見ることができるのです。
主よ、このアルファベットの歌が、イスラエルの民の心を「主に信頼する」方向へと整えてきた歴史を覚えます。主に向かって「直ぐな人」と呼ばれる生き方を全うさせてください。主を恐れる生き方の「幸い」を口ずさむ者とさせてください。
詩篇113篇1〜9節「御名に込められた意味」
113-118篇は「エジプトのハレルヤ詩篇」とも呼ばれます。それはバビロン捕囚の苦難の中で、新しい出エジプトを期待して歌われたからです。伝統的には過越しの食事の前に113、114篇が歌われ、食事の後に115–118篇が歌われたとのことです。
1節の原文では、「ハルル(ほめたたえよ)」という呼びかけが三度繰り返され、「ほめたたえよ、ヤハ(ヤハウェの略)を。ほめたたえよ、ヤハウェのしもべたちよ。ほめたたえよ、ヤハウェの御名を」と記されています。「ハレルヤ」は、「ほめたたえよ、ヤハを」という意味ですが、このように「ほめたたえよ」と訳して、このことばを三度繰り返してみると、創造主が私たちに何を望んでおられるかが心に迫ってきます。
2、3節では1節の終わりの「ヤハウェの御名」が中心テーマとなり、「ヤハウェの御名が祝福されますように、今よりとこしえまで。日の昇るところから沈むところまで、ほめたたえられますように、ヤハウェの御名が」と、ヤハウェの御名ということばが三度繰り返されます。ユダヤ人たちはバビロン捕囚からの帰還後、律法を守ることに熱心なあまり、「主の御名」を口にすることを恐れ、その箇所に来ると主人を意味するアドナイと読み替えました。しかし、彼らはその名を現わすヘブル語の四文字 יהוהを思い浮かべることができたことでしょう。発音がヤハウェであったかは分かりませんが、この文字が、主がご自身の名をモーセに「わたしは『わたしはある』というものである」(出エジ3:14) と紹介されたことに由来し、それを三人称形の「彼はある」として表現されたという経緯は知らされていました。そこには、「すべての始まり、すべての出来事の原因である方」との意味が込められていたと思われます。異邦人には神聖な四文字は縁遠くても、ユダヤ人はその文字を思い浮かべることができました。その違いは大きいのではないでしょうか。新改訳聖書で太文字の「主」と記されているとき、そこに主の御名の深い意味が込められていることを味わいながら、読みたいものです。
4節の原文では、主の御名が文の真ん中に来るように、「すべての国々の上に高くおられるヤハウェ、その栄光は天の上にある」と記され、この御名には「世界のすべてを支配し、天をも超越した方である」という意味が込められていることが示唆されます。しかもこの方は、先に述べたようにすべての存在を生み出す方であられます。
5節からはヤハウェである「私たちの神」のみわざが描かれます。当時の人々にとっては、「すべての存在の原因」という哲学的な命題よりも、この地の人々にもたらす現実の変化こそが、創造のみわざとして身近に思えました。その創造主のみわざが、「弱い者をちりから起こし 貧しい人をあくたから引き上げ 彼らを 高貴な人々とともに……座に着かせられる。主は 子のいない女を 子を持って喜ぶ母とし」と描かれます。これこそヤハウェの御名にふさわしいものです。私たちは今、神を「無からすべてを創造された方」と説明しますが、当時の人々にとっては、「不妊の女」と軽蔑された女性に、男子を誕生させることこそが、神の創造のみわざと認識できました。この賛美の背後に、預言者サムエルを生むことができたハンナの喜びの賛歌があります。
「わたしは『わたしはある』というものである」とご自身の御名をご紹介くださったヤハウェである主よ、私たちが御名に込められた意味を、毎日の生活での、主の新しい創造のみわざの中に見出すことができるように、霊の目を開いてください。
詩篇114篇1〜8節「神の聖所、神の領地」
ユダヤ人の伝統では、113篇と114篇はセットとして読まれたようですが、この114篇には主 (ヤハウェ) の御名が登場しません。それは、ここでは主の偉大さが、目に見えるイスラエルという小さな民族を通して現わされているからとも言えましょう。異邦の民は彼らを見て「このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか」(申命記4:7) と感心し、その神がどのような方かを知ろうとするはずでした。また、イスラエルは全世界の人々を創造主のもとに導く「祭司の王国」(出ジプト19:6) となるはずでした。
1節の原文では、「出てきたとき イスラエルがエジプトから ヤコブの家が 理解できない言語の民のうちから」と記されています。新改訳で「異なる民」と訳されていることばは、「未知の原語の民」とも訳せることばで、預言者エレミヤはバビロン帝国を「それは古くからある国……その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国」と表現しました (5:15)。つまり、ここでは出エジプトのことと並行して、バビロン捕囚からの解放の希望を「新しい出エジプト」として描いていると言えましょう。
2節で「ユダは神の聖所となり」とユダ民族だけが描かれるのは、バビロンに捕囚とされた民のほとんどがユダ部族だったからです。それにしても、ユダが神にとっての「聖なる場」と呼ばれ、イスラエルが「神の領地」または「神の所有の地」と呼ばれるのは不思議です。それは民の交わりの真ん中に創造主ご自身が住んでくださることを意味します。そして新約では、何と、異邦人中心の教会の交わりを指して、「あなたがたは……聖なる国民、神のものとされた民」(Ⅰペテロ2:9) と呼ばれるようになります。
そして神の栄光は、イスラエルの民の歩み自体を通して現わされました。イスラエルがモーセに導かれて紅海に向かうと、「海は見て逃げ去り」と描かれ、彼らがヨシュアに導かれてエリコに向かうと「ヨルダン川は引き返した」と描かれます (3節)。そして続けて「山々は跳ね回った、雄羊のように、丘は子羊のように」(4節私訳) と記されています。これは約束の地の山々や数々の丘が、イスラエルの民が入って来るのを喜び迎えている様子を表していると解釈すべきでしょう。そこではイスラエルの民が、神のさばきを受けて、約束の地から追放されたという現実との対比が思い起こされています。
5、6節は、「おまえたちは、どうしたというのか」という問いかけから始まり、3、4節で描かれた、海やヨルダン川、山々や丘の行動の理由が問われています。それは、「神がイスラエルの真ん中に住んでおられたから……」という答えを示唆します。
そして7、8節では「主である方の御前に 地よ おののけ(もだえよ)。ヤコブの神であられる方の御前に。その方は 変えられた、岩を水の潤う沢に、硬い岩を 水のあふれる泉に」(私訳) と記されます。これは、かつてイスラエルの民を歓迎し喜んでいた約束の地に対して、イスラエルの民の不在の前におののき、悶えるようにという訴えです。それは、神が約束の地を、イスラエルの民のために潤してくださったという歴史を思い起こすからです。神の栄光はご自身の民を通して現わされました。そして私たちも今、創造主の「聖所」、「領地」とされています。そこに明日への希望が生まれます。
主よ、あなたが私たちを「聖なる国民、神のもとのされた民」と呼んでくださることを感謝します。あなたは人の目には見えませんが、私たちを通してご自身の偉大さを現してくださると教えられました。その恵みを今、ここで体験させてください。
詩篇115篇1〜18節「主に信頼せよ」
ギリシャ語七十人訳では114篇と115篇は一つの連続の歌となっています。この詩篇の始まりで、「私たちにではなく」ということばが繰り返され、真ん中に「主 (ヤハウェ) 」という御名が置かれるのは、114篇では主の栄光がイスラエルの民をとおして現わされると描かれていたためとも言えましょう。それで改めて、「ただあなたの御名に栄光を帰してください」と強調され、その理由として「あなたの恵み(ヘセド:変わらない愛)とまこと(エメット:真実)のゆえに」という主のご性質が思い起こされます。
それと反対に2節からは、イスラエルの周辺の国々がイスラエルを嘲って、「彼らの神は いったいどこにいるのか」と言うようすが描かれます。それに対して詩篇作者は、イスラエルの神が人々の目に見えないのは、「私たちの神は 天におられる」からであると説明しながら、主の存在は、「その望むところをことごとく行われる」というご自身のみわざによって明らかにされると反論します。これは、私たちが神を認識できるのは、神を自分の想像力で思い浮かべようとすることによってではなく、歴史や目の前の現実のうちに現わされた神のみわざを見ることによってであるという原則を述べたものです。
4–7節ではそれとの対比で、周辺の国々の偶像の神は、「神のかたち」としての人間に比べて、目には高価に見えても、何の力も持ってはいないという皮肉が描かれます。その上で、偶像を造り信頼する者も、同じ無能さを抱えていると断罪されます (8節)。
9–11節では、「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主 (ヤハウェ) を恐れる者たちよ」という三種の呼びかけから始まり、三度にわたって「主 (ヤハウェ) に信頼せよ」と訴えられます。これこそこの詩篇の核心部分です。なお、「信頼する」ということばはギリシャ語七十人訳では「望む」という意味のことばで訳されています。それは「信頼」とは、「必死に信じる」というよりも、「安心して待ち望む」という意味があるからです。
さらにそれぞれの節で先の「主 (ヤハウェ) 」を受けて、「この方こそ」という代名詞とともに「助け また盾」と三度繰り返されます。そして、その上でまず、「主 (ヤハウェ) は私たちをみこころに留め」と言われながら、「祝福してくださる」ということばが四度も繰り返されます(12節)。「祝福する」とは、「成功、繁栄、多産、長寿などのための力を授ける」という意味があります。これこそ偶像に対比される神の力の現れです。
14、15節では特に「主 (ヤハウェ) があなたがたを増やしてくださるように」という意味での「祝福」が強調されます。しかも16節では「天」に関して、「主のための天」と言われながら、「地」に関しては「主が人の子らに与えられた」と、この地での祝福が描かれます。さらに「死人にはできない、主(ヤハ)をほめたたえることが。沈黙へ下る者たちもできない」と述べられ、今、生かされている私たちが「主 (ヤハウェ) をほめたたえる」(18節私訳) と描かれます。それは「今よりとこしえに至るまで」続けるべきことです。
ただし、私たちが「主 (ヤハウェ) をほめたたえる」のは、主への信頼から生まれることです。「信頼」とは、自分の力を抜いて、与えられた責任を果たしつつ、主がもたらしてくださる祝福を待ち望み続けることです。その希望も、主が生み出してくださいます。
主よ、私たちに「主に信頼する」ことの安らぎを体験させてください。主の祝福こそが、様々な課題に立ち向かうための「力の源」であることを感謝します。すべての始まりが「私たちにではなく」、「あなたの恵みとまこと」にあるのですから。
詩篇116篇1〜19節「愛しています。信じています」
この詩篇はギリシャ語七十人訳では1–9節と10–19節で二つの詩篇に分けられ、それぞれの始まりにハレルヤということばが入っています。ヘブル語原文でも、1節と10節には、「私は愛しています」、「私は信じています」という対比が見られます。
1節の原文は、「私は愛しています。それは、主 (ヤハウェ) が私の声と私の願いを聞いてくださるから」と記されています。不思議にも「愛する」ということばに目的語が入っていません。その上で「愛する」ことの理由が、「主 (ヤハウェ) が聞いてくださるから」と極めて直接的に記されます。これは多くの詩篇の始まりが、「聞いてください!」という必死の嘆願から始まっているのと対照的に思えます。しかし、3節で、「死の綱が私を取り巻き よみの恐怖が私を襲い」と記されていることばには、まるで「地獄での死の恐怖で震えている」ようなニュアンスがあります。まさにこの著者も、絶望的な状況の中で主の御名を呼び求め、それが聞き入れられたことの感謝からこの告白が生まれているのです。
そして、その恐怖の余韻が残る「私のたましい」に向かって「おまえの全きいこいに戻れ」と自分で優しく語りかけます (7節)。そしてその理由が改めて、「主 (ヤハウェ) が おまえに良くしてくださったのだから」と記されます。そしてその結論としての告白が、「私は生ける者の地で 主 (ヤハウェ) の御前を歩みます」(9節) と記されます。
10節の原文の始まりも「私は信じています」という目的語なしの告白が記され、その上で、「私」ということばが強調されながら、「まことに私は語ります」と記されます。使徒パウロはコリント第二の手紙4章13節でこの箇所を引用しながら「それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります」と記します。
その直前に彼は「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(同8、9節) という逆説を告白します。パウロが苦しんだのは福音を「語った」からですが、彼が苦難に屈することなくそのようにできたのは、自分のうちに復活のいのちが生きて働いているのを「信じていた」からです。
ここでも、「私は大いに苦しんでいました」と告白されます (10節)。これは、主を信頼しているからこそ、強がることなく自分の弱さを表現できたという意味に理解できます。さらに「この私は恐れうろたえて言いました。『人はだれでも偽りを言う』と」(11節) と記されますが、これも自分の混乱したこころを正直に表現したものです。それは苦しみや恐れの中で、「主 (ヤハウェ) の御名を呼び求め」(13節) ることができるからです。
そして15節で「主の聖徒たちの死は 主 (ヤハウェ) の目に尊い」と記されるのは、主の目には、聖徒たちの死は、すでにこの世の死を超えた「いのち」と見られているという復活信仰の告白です。またこの前後の14、18節では「私は自分の誓いを主 (ヤハウェ) に果たします」と繰り返されます。それはこの世の困難の中で、すでに自分のいのちが守られていることを前提に、「感謝のいけにえを献げる」(17節) ことです。著者は全体を通して、自分のいのちが主の愛の御手の中に堅く包まれていることを告白しています。
主よ、「私は愛しています」「私は信じています」と大胆に告白させてください。この地で私たちが体験する様々な死の恐怖も困難も、キリストのうちにあるいのちの豊かさを表すための舞台に過ぎないということを、いつでも覚えさせてください。
詩篇117篇1、2節「すべての国民による賛美」
これはすべての詩篇のなかで最も短いものですが、旧約と新約を貫く福音の大切なことが歌われています。原文の始まりは、「ほめたたえよ、主 (ヤハウェ) を」と記され、2節の終わりの「ハレルヤ」は、「ほめたたえよ(ハルル)、主 (ヤハ) を」と訳すことができます。つまり、「ほめたたえよ」という呼びかけがこの詩篇を包んでいるのです。
呼びかけられている相手が、イスラエルの民ではなく「すべての国々」と「すべての国民」であるというのは興味深いことです。なぜなら、旧約においては、イスラエルの民が真の意味で神の民となることで、諸国の民が彼らを見て「このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか……このみおしえのすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民がどこにいるだろうか」(申命記4:7、8) と言うようになると約束されていたからです。つまり、異邦人はイスラエルの民を通して、彼らの神をほめたたえるようになると考えられていたのです。しかもここでは「すべての国民」に向けての呼びかけとして、「この方を称賛せよ(誇れ)」とも訳されることばで訴えられています。イスラエルは自分たちが神の特別な選びを受けたことを前提に、主 (ヤハウェ) を「誇る」ことができましたが、今の終わりの時代には、神から離れていた異邦人が特別な選びを受け、「ヤハウェは私たちのことをも特別扱いして、その祈りに耳を傾けてくださる」と喜ぶようになるというのです。
使徒パウロはそのことの不思議を、ローマ人への手紙15章8、9節で「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人たちもあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです」と記し、その11節でその根拠としてこの詩の1節を引用します。つまり、イエスは割礼を受け「真のイスラエル民」となることで申命記4章の約束を成就してくださったのであり、異邦人たちが肉のイスラエルというより、イエスを通して神を知り、イエスの父なる神をあがめるようになるというのが新約で描かれた救いのストーリーなのです。
この2節では、「主の恵みは私たちに大きい。主 (ヤハウェ) のまことはとこしえまで」と歌われますが、「恵み」とはヘブル語のヘセドの訳で「変わることのない愛」とか「契約を守る神の真実」とも訳されることばです。また「まこと」とはエメットの訳で「アーメン」と同じ語根のことばで「確か」であること「信頼できること」を意味します。それは、モーセが神に、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(出エジプト33:18) と途方もないことを願ったときに、主ご自身が彼の前を通り過ぎ、ご自身のことを「主 (ヤハウェ) は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す」(同34:6、7) と紹介されたことにも現わされています。
「恵みとまこと」こそが、神の栄光の本質であるというのです。そしてヨハネの福音書1章14節では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た……この方は恵みとまことに満ちておられた」と記されています。つまり、イエスこそが神の栄光の「恵みとまこと」を現す方であられたのです。まさに私たちはイエスを通して、神の恵みとまことを体験し、神をほめたたえるのです。
イエス様、あなたが神の「恵みとまこと」を異邦人であった私たちに特別に示してくださったことを感謝します。イエスを信じるユダヤ人たちとともに、イスラエルの神を「私たちの神」として心から賛美し、その召しに従う者とさせてください。
詩篇118篇1〜4、19〜29節「主の恵みはとこしえまで」
これは113篇から続いていた「エジプトのハレルヤ詩篇」の最後、クライマックスの歌とも言えます。最初と最後で「主 (ヤハウェ) に感謝せよ」と訴えられ、その理由の第一が、「主は……いつくしみ深い」と訳されますが、原文では単に「善い(トーブ)方であるから」としか記されていません。そして、第二の理由が、「その恵み(ヘセド:不変の愛)はとこしえまで続くから」と記されています。そして、2–4節では「イスラエルよ」「アロンの家よ」「主 (ヤハウェ) を恐れる者たちよ」「言え」と繰り返されながら、三度にわたって「主の恵み(ヘセド)はとこしえまで続くから」と繰り返されます。つまり、主に感謝すべき理由は、何よりも、その主がご自身の契約(約束)を永遠に守り続けられることにあり、それこそが「主は善い方である」ということの意味なのです。
19、20節では「義の門よ 私のために開け……正しい者たちはここから入る」と記されますが、「義」も「正しい者」も原文では同じことばから派生しています。「義の門」とは、神殿の門を指しますが、それは「神の正しさ」を現す「門」であり、文脈から明らかなように、神に信頼し、神にすがる者を歓迎する入り口です。イエスの時代のパリサイ人は、正しい人の代表のように見えましたが、イエスの目には「神様、罪人の私をあわれんでください」と胸をたたいて祈った取税人こそが「正しい人」でした (ルカ18:13、14)。そして、神の正しさ(義)とは、ご自身の前にへりくだって、日々、主のあわれみにより頼みながら、生きている者を「受け入れ」、決して見捨てないことに現わされています。そこに「主の恵み(ヘセド)」の永遠性が現わされています。
22、23節の「家を建てる者たちが捨てた石」での「石(エベン)」とはイエスが神の「子(ベン)」であることの比喩で、ご自身が当時の宗教指導者によって捨てられることを指します。しかし、神は、捨てられた「石」である御子を死人の中から復活させ、「神の国」の「要の石」としてくださいました。イエスはこの詩篇のことばを引用しつつ、ご自身を信じない者への厳しいさばきをも預言しておられます (マタイ21:42–44)。
25節の「ああ主 (ヤハウェ) よ」から始まる「どうか救ってください」という祈りは、原文で「ホシアナ」と記され、それが後に「ホサナ!」という賛美の叫びになります。イエスが十字架にかけられる五日前にエルサレムに入城されたとき、人々はこの25、26節のみことばを用いて、イエスをダビデの子としてたたえたのです (マタイ21:8、9)。
「主は私たちに光を与えられた」(27節) という表現は、主の新しい「祝福」の時代の到来を意味します。それは神のご支配(国)が目に見える形で現れることを指します。イエスの時代の人々は、ダビデ王国の再興を待ち望んでいました。それは主がダビデに「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(Ⅱサムエル7:16) と約束してくださったからです。しかし、それは今、「イエスを主」と告白する神の民の共同体(教会)として実現し、同時に、そこから発せられる福音が、世界を変え続けています。しかもそれは、神がアブラハムに「地のすべての部族はあなたによって祝福される」(創12:3) と契約を結んだことの成就でもあります。それこそ神の契約の愛(ヘセド)の永遠性の現れです。
主よ、あなたの「恵み(ヘセド)」こそが、この世界の歴史を完成へと導いておられることを感謝します。あなたはご自身に信頼する者を守り通し、永遠の祝福へと入れてくださいます。そのあなたの契約の愛にいつでもどこでも信頼させてください。
詩篇119篇1〜8、69〜72、89〜92節「みことばに生かされる」
詩篇119篇は、176行からなる聖書で最も長い詩で、驚くほど精巧にヘブル語の22のアルファベットが8節ずつの冒頭に順番に配置されています。たとえば、1–8節の冒頭には8回に渡ってアレフという文字が、9–16節の冒頭には8回に渡ってベートという文字が登場します。作者は不明ですが、バビロン帝国によってエルサレム神殿が滅ぼされたことを振り返りながら、それを神との契約を破ったことへのさばきとして理解し、主のみことばを守ることの大切さをヘブル人に訴えるために記されたのでしょう。
全体を通して、「主のことば」が、「みおしえ」「さとし」「戒め」「おきて」「仰せ」「さばき」「みことば」などと様々なことばで現わされますが、明確な意味の区別がつけられない面があります。日本語の「戒め」や「おきて」には、人を委縮させるようなニュアンスがありますが、本来は、すべて人の心を生かすための、神の愛に満ちた「指導」や「規範」とも理解できます。たとえば最初に「幸いなことよ……主 (ヤハウェ) のみおしえに歩む人々」と記されますが、ここでの「みおしえ」はヘブル語の「トーラー」の訳で、新約では「律法」と訳されることばです。しばしば、主がモーセを通して与えられた「律法」に関して、「神は、人間には守ることができないと分かっていた法律のようなものを与えて、それを守れなかったからといって、人間に厳しいさばきを下した」と解釈されることがあります。しかし、「律法」の基本は、人を真の意味で生かすための「みおしえ」であり、それを守らないことは、自分で自分を破滅に追いやっているだけなのです。神の「さばき」とは、それを「見守る」こととも言えます。
70、71節の「私はあなたのみおしえを喜んでいます。苦しみにあったことは 私にとって幸せでした」とのみことばは、群馬県の「富弘美術館」の入り口の「土の中の豆」という題のモニュメントに記されています。星野富弘さんは念願の体育教師になって間もなく、事故で手足の自由を完全に失います。その後、「土の中」のような暗い生活を送りますが、その「豆」はいのちに満ちていました。やがて、主のみことばが彼を生かし、彼が口に筆を加えて描いた詩画は世界中の人々に生きる力を与えます。彼は身動きができなくなったおかげで、主のことばに生かされる体験ができました。それは、すべてが満たされた「脂肪のように鈍感」な「心」(70節) では起き得なかったことです。私たちも、傷つくことで、主の「おきて(みことば)」のすばらしさに目覚めるのです。
89–91節では、主の「みことば」(ギリシャ語七十人訳では「ロゴス」)が「天において定まっている」ので「地」が「据えられ」、この地は主の「定め(さばき、主のことばの一表現)にしたがって堅く立っている」と記されています。そして、その世界を創造し、保っている「ことば(ロゴス)」が今、「人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14) と記されます。そしてイエスの「みおしえ」は、私を「苦しみの中で滅」びることのないように守ってくれています (92節)。聖霊の導きの中で、「みおしえ(トーラー、律法)は、私を恐怖に陥れ、奴隷にするものではなく、「私の喜び」であり、「神の子」として生かされる自由を生み出す、神の賜物なのです (ローマ8:14、15参照)。
神の「ことば」である方が、私たちの悩み、苦しみを、ともに担ってくださることを感謝します。私の心が「脂肪のように鈍感」にならないように、私に適度な苦しみを与え、主のみことばによって生かされる自由を味わう者とさせてください。
詩篇120篇1〜7節「平和を憎む者に囲まれて」
詩篇120篇から134篇には「都上りの歌」という標題があり、一組の詩篇として歌われてきました。それらは異教世界に離散して住んでいる神の民がエルサレム神殿への巡礼の旅の際に用いられたのだと思われます。私たち異邦人に対しても預言者イザヤは、「終わりの日に……多くの民族が来て言う。『さあ、主 (ヤハウェ) の山、ヤコブの神に家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主 (ヤハウェ) のことばが出るからだ……さあ、私たちの主 (ヤハウェ) の光のうちを歩もう」(2:2–5) と語っています。それは私たちにとって、弱肉強食の競争社会の中でうめきながら、天の「新しいエルサレム」が地に下ってくることを待ち望みつつ、主の日の礼拝に上って行くことにも適用できましょう。
最初の文は、「主 (ヤハウェ) に向かって、私の苦しみの中で叫ぶ、主が答えてくださるようにと」と訳すこともできます。続く文書も原文の語順では、「主 (ヤハウェ) よ 救い出してください 私のたましいを 偽りの唇 欺き舌から」(2節) と記されています。著者は、「平気でうそをつく人たち」に取り囲まれながら、そこから「救い出される」ことを必死に願っています。これはたとえば、どこにスパイが潜んでいるか分からない独裁国家で生きざるを得ない不安にも似ています。現在の日本でも、「正直に自分の気持ちを言うと、とんでもない非難を受けそうで、本音が言えない……」という恐れの中で生きる場合があることでしょう。そのような場から救い出されることを願った祈りです。
そのような中で、「欺きの舌」に対し、「おまえに何が与えられ おまえに何が加えられるだろうか。勇士の鋭い矢 そして えにしだの炭火だ」と、神のさばきが宣言されます (3、4節)。これは「死の武器」としての「燃える火矢」によって「欺き」や偽り」が一掃されることを願ったものですが (7:13参照)、そこに神の平和が始まります。
さらに著者は、「ああ 嘆かわしいこの身よ メシェクに寄留し ケダルの天幕に身を寄せるとは」(5節) と自分が置かれた状況を嘆いています。メシェクとは現在のトルコの東北部、ケダルとはアラビア砂漠に住む遊牧民で、両者とも争いを好む民族の代名詞的な意味がありました。そのことが「この身は 平和を憎む者とともにあって久しい」(6節) という嘆きとして表現され、そこで起こる悲惨が、「私が 平和をーと語りかければ 彼らは戦いを求めるのだ」(7節) と記されます。「平和」とはヘブル語のシャロームの訳で、それは戦いがないこと以上に、すべてが整って欠けがない神の国の完成の状態を指します。それは、私たちが創造主のもとにある世界の完成への憧れを表現すると、「何をとぼけたことを言っているのか。そんな理想ばかりを言って、生きて行けると思っているのか」と、論争を仕掛けられる葛藤に似ているとも言えましょう。
ヘブル書では信仰者の歩みが、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(11:13) と描かれています。私たちもこの異教社会の中で、キリストの苦難を味わいながら生きますが、神はシャロームの完成の世界へと導いてくださいます。
主よ、私たちは真の平和(シャーロム)に渇いています。理想からほど遠い弱肉強食の競争社会の中で、それに同調しないこの地の寄留者としての歩み、また、「新しいエルサレム」に向かう巡礼者としての歩みを、私に全うさせてください。
詩篇121篇「私の助けは どこから来るのか」
最初のことばは、「私は目を上げる、山々に向かって」と記されています。この「山々」とは「高き所」と呼ばれる偶像礼拝の場であるとも理解できます。それはエレミヤ3章23節に「もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした」と記されているようなことを思い浮かべさせます。一方、エルサレム神殿への巡礼の旅の最終段階で、海面よりも400m近くも低いヨルダン渓谷から、標高約800m以上もあるオリーブ山に続く峰々を見上げて標高差1200mの登山の助けがどこから来るのかと、途方に暮れている場面とも理解できます。また、文脈からは若干外れるかもしれませんが、神の創造のみわざとしての美しい山々を見上げて、自分の人生がどなたに依存しているかを思い巡らすということでもよいかもしれません。大切なのは、どの解釈を取ったとしても、「私の助けは主 (ヤハウェ) から来る。天地を造られたお方から」というメッセージにあります。
3–8節では6回にわたって「守る」ということばが繰り返されます。まず最初に、「主は あなたの足をよろけさせず」という意味で、主は「あなたを守る方」と呼ばれます。その理由が、その方が「まどろむこともない」からと説明されます。主は、私たちの歩みの一歩一歩を見守ってくださるというのです。そしてその方がさらに「イスラエルを守る方」と呼びなおされ、さらに、「まどろむこともなく 眠ることもない」と繰り返されます。さらに「主 (ヤハウェ) はあなたの右手をおおう陰」と言われますが、これが具体的に「右手」を守ってくださるというより、詩篇110篇5節で、「あなたの右におられる主は 御怒りの日に 王たちを打ち砕かれる」と記されていたように、主が私たちを敵の攻撃から守ってくださる方であるという意味です。その二つの攻撃が、昼の熱い太陽に打たれることであり、夜に月に打たれることです。それは当時、月の光が人間の理性を失わせると恐れられていたからだと思われます。英語で moonstruck(月に打たれた)ということばが狂気の意味になっているのはそのためかもしれませんが、ここでは夜の月明かりの中で盗賊に襲われることも含めて、そのように記されているとも考えても良いでしょう。
そのことが7節で、「主 (ヤハウェ) は すべてのわざわいからあなたを守り」とまとめられます。さらに「あなたのたましいを守られる」と重ねて記されるのは、肉体の命を超えた「永遠のいのち」を指しているとも考えられます。さらに8節での「行くにも帰るにも……守られる」とは、日常の生活の中で、城壁に囲まれた町を出て野で働き、また戻ってくるということさえも、主ご自身が「今よりとこしえまで」守ってくださるという意味です。
詩篇44篇23節などでは、この詩篇とは反対に、「起きてください。主よ なぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください」と訴える祈りがあります。しかし、使徒パウロはその直前の「あなたのために 私たちは休みなく殺され、屠られる羊とみなされています」というみことばを引用しながら、「しかし、これらすべてにおいても私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」と告白しています (ローマ8:36、37)。つまり、パウロは神が眠っておられるように思える苦難の中で神に訴え続け、そのことをとおして、主は「まどろむこともなく 眠ることもない……主は今よりとこしえまでも守られる」という現実を体験できたのです。
主よ、たとい私たちの人生に、神が眠っておられるように感じられることがあっても、あきらめずに、あなたの助けを求めることができるように、私たちの祈りを導いてください。そして、主が「私を守る方」であることを力強く証しさせてください。
詩篇122篇「エルサレムの平和のために祈れ」
現在のエルサレム市はしばしば宗教対立のシンボルの町にように見えてしまいます。多くのユダヤ教徒ばかりかクリスチャンにとっても、昔のエルサレム神殿の跡地にイスラム教のモスクが建っていることに悲しみを覚え、その状況が平和裏に正されることを願って、「エルサレムの平和のために祈れ」(6節) という訴えがなされます。しかし、残念なのは、そこでしばしば、終末論の理解を巡って信仰者の間に争いが生まれることです。
6–8節に「平和(シャローム)」ということばが三度繰り返されますが、それに挟まれるように、「安らかであるように」「平穏であるように」と記されます。このふたつのことばとも平和(シャローム)と基本的な意味は同じです。そこでは具体的な地上の都市としてのエルサレム以前に、エルサレムを愛する人々、エルサレムの城壁または城塞(宮殿)の中に住む人々、またダビデの兄弟や友、つまり、すべての神の民のための平和を祈ることが求められているのです。つまり、神の民とされている人々のただ中にシャローム(平和、平安、繁栄)が実現することこそが、ここでの祈りの第一の趣旨です。イエスは弟子たちに向かって、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:34、35) と言われました。つまり、神の民が互いに愛し合っている姿こそが、この世界、またエルサレムが変えられる鍵となるというのです。つまり、エルサレムの平和のために祈ることと、あなたが集っている礼拝の交わりの平和を祈ることは切り離すことができないのです。そのことが9節で「私たちの神、主 (ヤハウェ) の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう」と記されます。
ところで、「さあ 主 (ヤハウェ) の家に行こう」(1節) という呼びかけは、たとえばナザレに住んでいたイエスの父ヨセフにとっては、往復に一週間もかかる距離でした。ですから遠隔地に住む人々は、年に三度の主の祭りにしかエルサレムに上って行くことができませんでした。しかし、それは彼らにとっての何よりの喜びの旅でした。1–3節はその大きな犠牲を伴う巡礼の旅に向かう喜びと、エルサレムに到着したときの喜びが描かれています。使徒の働き8章26–40節には、はるか遠いエチオピアの女王に仕える高官である宦官が、エルサレム神殿に巡礼して、聖書を手にし、帰りの馬車で預言者イザヤの書を読んでいたようすが描かれています。彼は神殿の外庭までしか入れてもらえませんでしたが、エルサレムに巡礼できたこと自体を喜んでいました。そこには4節に描かれた「主 (ヤハウェ) の部族」の幅が新約の時代に広げられる姿が描かれています。さらに5節には「さばきの座」という言葉が記されていますが、「さばき」とは最後の審判以前に、神のご支配の現実を指した表現です。つまりエチオピアの宦官が、ピリポに助けられて主のことばを理解でき、それに従ったこと自体が、主のさばきがエルサレムから全地に広がっている最大の証しになっていたのです。そして、私たちもエルサレムから広がった「主 (ヤハウエ) の家」(1、9節) の一部である主の教会の交わりの中に招き入れられています。
主の家における礼拝は、私たち信仰者にとって、あらゆる犠牲を払ってでも守るべき責任であるとともに、喜びの源泉です。神の平和がそこから世界に広がるからです。
主よ、私たちは「エルサレムの平和のために」祈ります。それは終末預言の成就以前に、神の民の間に平和が実現し、その愛の交わりが、世界に広がって行くことの願いであることを覚えます。エルサレムから地の果てまで主の教えで満たされますように。
詩篇123篇「天の御座に着いておられる主」
この詩篇の時代背景は不明ですが、中心テーマは明らかです。それは主を礼拝する者たちがこの世の「安逸を貪る者たちの嘲りと 高ぶる者たちの蔑み」(4節) をいっぱいに受けるという中で「天の御座に着いておられる」主 (ヤハウェ) に助けを求めるということです (1節)。先の122篇ではエルサレムが「一つによくまとまった都として建てられている」こと (3節)、また「ダビデの家の王座」が「城壁の内に」あることを想定していましたが (5、7節)、ここでは同じ「都上りの歌」であっても、栄光に輝くエルサレム神殿を目指して上っている希望に満ちた巡礼者とは対照的な悲惨な姿が思い浮かべられます。
エルサレム神殿がバビロン帝国の軍隊によって破壊されたのは紀元前586年ですが、それから約50年後の紀元前538年、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国の王キュロスは、捕囚とされていたユダヤ人たちにエルサレムへの帰還と、神殿の再建を命じます (エズラ1章)。ところがそれから間もなく神殿再建工事はエルサレム周囲の民族の激しい反対で、約15年間にわたって中断されます (エズラ4:1–5)。しかし、主が預言者を用いてエルサレムの人々を励ますとともに、ペルシャの王ダレイオスの心を動かし、紀元前516年に神殿は再建されました。ただそれはソロモンの神殿とは比較にならないほど小さく惨めな建物で、主の契約の箱もそこにはありませんでした。それは「主の家」と呼べるようなものではありませんでした。まさに主は「天の御座」にしかおられないように見えました。しかし、この再建はエルサレム陥落の70年後で、そこに主がエレミヤを通して「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み……あなたがたをこの地に帰らせる……あなたがたのために立てている計画は……あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:10、11) と言われたことの成就の一環とも見ることができました。
しかし、さらに約70年後の紀元前445年に、ペルシャの首都に留まっていたネヘミヤは、エルサレムの住民がなお「大きな困難と恥辱の中にあり」、そればかりか「エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたまま」であると聞きます (ネヘミヤ1:3)。その後、彼は城壁を再建できましたが、その感謝の祈りを主にささげながらもなお、「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。私たちが実りと良い食べ物を食べられるようにとあなたがた先祖たちに与えてくださった、この地で、ご覧ください。私たちは奴隷です」(同9:36) と祈ります。つまり、捕囚の70年後に神殿が再建され、さらにその70年後にエルサレム城壁が再建されても、苦難は続いていたのです。
ネヘミヤが「私たちは今、奴隷です」と告白せざるを得なかった現実を想定して、この詩篇を味わうと、この祈りが心に迫ってきます。多くの日本人も今、職場で上司の顔色を伺いながら「しもべ」のように生きているのではないでしょうか。当時のユダヤ人と同じように、「一難去ってまた一難……」という現実があります。そこでは、「主人の手」がどこに向けられるかを敏感に察知し、上司の気持ちを忖度する必要があるかもしれません。しかし、横暴な上司さえも、天の御座に着いておられる方のみこころのままに動かされているのです。あなたの職場の真の支配者は、主ご自身です。主はあなたが蔑まれ、嘲られているのを、ただ見過ごしておられるのではありません。祈りは聞かれています。
主よ、「存在している権威はすべて、神によって立てられている」(ローマ13:1)という、天の神の支配を、いつでもどこでも認めさせてください。上司の顔色を見るのではなく、天の主が何を望んでおられるかを知り、それを実行できますように。
詩篇124篇「主が私たちの味方でなければ」
この詩篇の標題には、「都上りの歌。ダビデによる」と記されています。これをダビデがエルサレムでイスラエルの王として立てられるまでの歩みに重ね合わせて考えると、より実感が湧くことでしょう。ダビデは初代のイスラエル王サウルからいのちを狙われ続けていました。たとえばダビデとその部下が、ヘブロンの南の「マオンの荒野」にいたときのことが、「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山のもう一方の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃れようとした。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来たとき、一人の使者がサウルのもとに来て、『急いでください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました』と言った。サウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人の方に向かった。こういうわけで、この場所は『仕切りの岩山』と呼ばれた」(Ⅰサムエル23:26–28) と描かれています。この当時の誰の目にも、ダビデはサウルに殺される運命と見られたことでしょうが、神ご自身がダビデとサウルを隔てる『仕切りの岩山』となったばかりか、ペリシテ人を用いてサウルを引き離してくださったのです。
ダビデはそのような絶体絶命の危機を振り返りながら、「もしも、主 (ヤハウェ) が私たちの味方でなかったなら」(1、2節) ということばを繰り返しながら、「人々が敵対してきたとき そのとき 彼らは私たちを生きたまま 丸呑みにしていたであろう」(3節) と記しています。さらに、ダビデの追う者たちの怒りの激しさが、荒野の乾いた「わじ」が突如の激流となって人々を呑み込む姿にたとえられます。ダビデが逃げ惑っていたイスラエル南部のユダの荒野は乾ききった岩石で覆われて水を吸収しないため、冬の局地的な豪雨が普段乾いている谷を大水で満たし、瞬時に激流となって人に襲いかかることがあります。4、5節では敵の攻撃がそのような予測不能で避けられない災いとして描かれます。
そして6節では、「ほめたたえられ(祝福され)ますように 主 (ヤハウェ) が、この方は私たちを 彼らの歯の餌食にされなかった」と記されます。そこには、ダビデ一行の生死の鍵を握るのは、時の権力者であるサウルである前に、主ご自身であるという告白があります。さらに続けて、「私たちのたましいは」ということばから始まり、「鳥のように……仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ 私たちは助け出された」と記されます。鳥は自分で罠から出ることはできません。ここには敵の罠にはまってしまう私たちの無力さと、それから「助け出してくださる」主のみわざの対比が描かれています。
8節では最後に「私たちの助けは 主 (ヤハウェ) の御名にある」と宣言され、その方が「天地を造られた」で閉じられます。「あなたの神は小さすぎる!」と言われることがありますが、天地万物の創造主に不可能はありません。しかも、この方ご自身が、私たちが求める前から、ダビデや私たちに目を留め、圧倒的な敵の攻撃から救い出してくださいます。ダビデは自分がエルサレムでイスラエルの王に立てられ、その王家が永遠に続くという約束を受けたときに、「神、主よ、私は何者でしょうか。私の家はいったい何なのでしょうか。あなたが私をここまで導いてくださったとは……あなたは私をすぐれた者とみてくださいます」と感動の賛美をささげています (Ⅰ歴代誌17:16、17)。主はダビデを見るように、キリストのうちにあるあなたを「高価で尊い」存在と見てくださいます。
主よ、私たちはこの世の力ある者たちの攻撃を恐れ、自分の良心に反してでも、彼らの意のままに動かざるを得ないと、絶望することがあります。どうか、天地万物の創造主が私たちの味方となっていてくださることをいつでも覚えさせてください。
詩篇125篇「主は御民を……囲まれる」
最初に「主に信頼する人々」が「シオンの山」にたとえられます。それは、エルサレムの町が築かれている丘で、地震その他の災害によって「揺るぐことなく」、「とこしえにながらえ」ているからです (1節)。事実、エルサレムの基本的な地形は三千年前から変わっていません。しかも、その不思議な地形は、神の圧倒的な恵みによって形造られているものです。エルサレムは約標高750mの高地にありますが、神殿を含む町の東にはキデロンの谷、南から西にはヒノムの谷があって、町は小高い丘の上に立っています。その丘を包むように城壁が築かれていました。そればかりか2節で「エルサレムを山々が取り囲んでいる」と記されるように、東のオリーブ山はエルサレムの丘よりも約66m高く、北のスコポス山も約76mも高く、西と南の丘陵地帯はそれぞれ33m、55mも高くなっています。
これはまさに天然の要塞に守られた町でした。それを前提に、「主 (ヤハウェ) は御民を囲まれる 今よりとこしえまで」と記されています。地形には、主がご自身の民を守ってくださるということの象徴的な意味があったのです。しかも、この地形のゆえに、「悪の杖が 正しい人の割り当て地の上にとどまる」ことや、「正しい人が不正なことに 手を伸ばさないように」(3節)、この世の偶像礼拝の価値観との間に明確な境界線を保つことができました。アッシリア帝国の軍隊に包囲されたヒゼキヤ王は、この天然の要害の中に留まりながら、イスラエルの神に助けを求め、世界最強の軍隊を自滅させ、撤退させました。
ところが、どのような堅固な町も、内側から崩れるというのが歴史の常です。ダビデの子孫たちは、エルサレムの東のオリーブ山に数多くの偶像の宮を建てたばかりか、最後には、神殿の中に異教の偶像を安置してしまいました。それは、周辺諸国の偶像礼拝の文化と融和するという姿勢でもありました。彼らは神の守りに期待する代わりに、周りの国々に合わせることで安全を守れると思ったのでしょう。その結果、主ご自身がそこを離れざるを得なくなり「主が御民を囲む」という基本が失われ、バビロン帝国に滅ぼされます。
4節の原文は、「善くしてください、主 (ヤハウェ) よ。善の人々に、心の直ぐな人に」と記されます。それは「善」を志す人に神からの「善」が報いられるようにという願いです。また5節は、「曲がった道にそれる者どもを、主 (ヤハウェ) は去らせてくださる。不法を行う者どもとともに」と記されています。それは反対に、主がこのエルサレムを混乱させる人々をこの町から去らせることで、町の人々の主への歩みがまっすぐに保たれることになるという信頼の告白です。その上で、「イスラエルの上に平和があるように」と祈られます。それは、主ご自身が主の民の平和を守ることができるという信頼に立った祈りです。
主がエルサレムの民をその地形を用いて周辺の偶像礼拝の文化から分離させて守ってくださったように、主は現代の私たちの信仰を、地上の教会の交わりの中に入れることによって守ってくださいます。その際、主が与えてくださっている環境自体を主の圧倒的な恵みとして感謝することが何よりも大切です。エルサレムの守りが不十分だと思って人間的な知恵に頼った民は、墓穴を掘って滅びました。同じように、あなたの信仰を守る環境としての教会の不足ばかりを見て、人間的な解決を求めることは危険です。何よりも主が与えてくださっている様々な恵みを感謝することから、主への信頼が成長してゆきます。
主よ、あなたがエルサレムの守りを備えてくださっていたのに、その住民は内側から守りを崩してしまいました。今も、主が備えてくださった聖徒の交わりを壊す力が働いています。すべてに先立って、主の恵みに感謝することから始めさせてください。
詩篇126篇「夢を見ている者のようであった」
これは新約の視点からはキリストにある「新しい創造」を歌った、私たちに与えられた「救い」の喜びを最も美しく表現した詩の一つと言えましょう。イスラエルの民は先の詩篇の解説に記したように、自業自得でエルサレムを滅亡に導きました。しかし、ペルシャの王キュロスがバビロン帝国を滅ぼしたとき、主は彼の霊を奮い立たせ、イスラエルの民がエルサレムに帰還し、主の宮を再建できるように導きました (エズラ1章)。そのときの民の感動が、「私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき 私たちの口は笑いで満たされ……舌は喜びの叫びで満たされた」と描かれます (1、2節)。そればかりか、それまでイスラエルの苦難をあざ笑っていた「諸国の人々さえ」、「主 (ヤハウェ) は彼らのために大いなることをなさった」と、主のみわざを認めざるを得ませんでした。そして、主の民も同じ表現で、「主 (ヤハウェ) が私たちのために大いなることをなさった」と、主のみわざを喜びました。これは新約では、私たちが罪と死の支配からキリストの十字架と復活によって解放され、キリストにある復活のいのちを生き始めることを意味します。私たちもその福音を最初に味わったとき、「夢を見ている」ような感動に満たされたかもしれません。
ところが、イスラエルの民はその後、その感動が徐々に薄れて行きます。神殿再建は中断され、再建できても、そのうち「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても……何の得になろう」(マラキ3:14) などと言うほどに、倦怠感に満たされて行きます。同じことが現代の私たちにも起きることがあるのではないでしょうか。そのような中で、この詩篇作者は、「主 (ヤハウェ) よ 繁栄を回復させてください ネゲブの流れのように」(4節私訳) と大胆に訴えます。ネゲブとはユダの荒野の南に広がる乾燥地帯ですが、雨が降ると突然、水に満たされ、まもなくすると一斉に美しい花が咲き誇るという不思議な現象が起きます。それはイザヤ35章1、2節で「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う」と描かれている情景と同じです。
そして、主の祝福が見えなくなっている中で、それでも「涙とともに種を蒔く者は」やがて、「喜び叫びながら刈り取る」という祝福を体験できると保証されます。同じように、「種入れを抱え 泣きながら出て行く者」とは、凶作に苦しんだ後に、「この種が実らなければもう生きて行けない……」というような不安に苛まれながら、種を蒔く姿ですが、その人が、収穫時には、「束を抱え 喜び叫びながら帰って来る」と保証されているのです。そして、これを前提に、使徒パウロは「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります」(ガラテヤ6:9) と記しました。さらに彼は、キリストの十字架こそが自分たちの信仰の出発点であることを、「大事なのは新しい創造です」(同6:15) と記しています。イエスを救い主と告白する私たちはすでに「新しい創造」の世界に生かされています。その者にとっては「自分たちの労苦が主にあって無駄ではない」というのは信仰の確信の基本です (Ⅰコリント15:58)。パウロはそれを前提に、「苦難さえも喜んでいます」(ローマ5:3) と告白しました。そこに私たちを成長させる神の愛の御手を見ることができたからです。キリストにある「新しい創造」は、「新しい天と新しい地」の実現の保証です。私たちの世界は、喜びの完成に確実に向かっているのです。
主よ、あなたの民はバビロン捕囚からの解放を、「夢のようだ」と喜んでいましたが、やがて倦怠感に陥ってしまいました。主よ、私たちが同じ落とし穴にはまることがないように、キリストにある「新しい創造」をいつでもどこでも覚えさせてください。
詩篇127篇「労苦が無駄にならないために」
先の詩篇では私たちの労苦が報われるという趣旨のことが歌われましたが、それだけだと、物事がうまく進まないとき、「結果が出ないのは、努力が足りなかったからだ」と言い合うことになりかねません。残念ながら、高度成長時代を生きてきた日本の親たちは、若い世代をそのように叱咤激励することがあったかもしれません。大切なのは、「自分たちの労苦が主にあって無駄ではない」というときの、「主にあって」という生き方です。「キリストのうちにある生活」という原点を忘れた人間的な努力は、人間の労働を、目的達成の手段に堕落させます。何と多くの人々が機械のように扱われていることでしょう。
この詩篇は「ソロモンによる」という表題がついています。ですから1節の「主 (ヤハウェ) が家を建てるのでなければ」とは、もともとエルサレム神殿の建設を指していたと考えられます。神殿の建設は、主ご自身のみわざであり、それを最初に思い立ったのは、ソロモンの父ダビデでした。ソロモンはここで、それが主のみわざでなければ、「建てる者の働きはむなしい」と言い切っています。それは、社会的弱者を搾取し、虐げる強制労働と愚かな人間の栄光にしかつながらないからです。神殿は、主ご自身の導きだったからこそ、イスラエルの民全体の祝福の原点となりました。同じように、主ご自身がエルサレムを守ってくださるという前提がなければ、「守る者の見張り」の労苦は「むなしい」ものなります。なぜなら、主ご自身が後に、敵の手を用いて城壁を崩されたからです。
同じように私たちの日々の労苦は、創造主ご自身との交わりの中で行われるのでなければ、むなしい人間的な誇りに結びつくか、どこまで行っても「もっともっと」という駆り立てになって、際限のない成功への「渇き」を生み出すだけになってしまいます。そのことが、2節の原文では「あなたがたにとって、それはむなしい」ということばから始まり、「早く起き、遅く休み 労苦の糧を食べたとしても」と記されます。そこには、それが「主にあっての働きでなければ」という前提があります。私たちの日々の労苦に、意味と結果を与えてくださるのは主ご自身なのです。筆者が二十歳過ぎのとき、イエスがサマリヤの女にむかって、「この水を飲む人はみな、また渇きます……わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4:13、14) と言われたことばを、自分への語りかけとして聞くことができたのは、自分の心のうちに湧きあがる「渇き」は、人間的な成功や達成感によっては満たされないことに気づいたからです。
3節の「見よ 子どもたちは主 (ヤハウェ) の賜物」とありますが、「賜物」とは厳密には「相続財産」という意味で、土地と同じように主からお世話を委ねられている主の所有物という意味があります。「胎の実は報酬」とは、続く「勇士の手にある矢のようだ」という表現でその意味が説明されます。それに続いて、「若いときの子どもたちは」、さらに「幸いなことよ 矢筒をその矢で満たしている人は」と記されます。つまり、若いときに報酬としての子どもを与えられていることは、将来の戦いに備えての最高の準備になるというのです。それがさらに「門で敵と論じるとき」あるいは「裁判の席で敵に向き合う時」に「恥を見ること」なく勝利できるための備えになると記されます。子どもを育てることには多くの労苦が伴いますが、そこには豊かな報いがあると強調されているのです。
主よ、私たちがすべての働きや子育てのわざを、キリストのうちにあって行うことができるように守ってください。仕事も子どももあなたから委ねられているものです。あなたから与えられている力によって、あなたのために行わせてください。
詩篇128篇「神の家族の平和を祈る」
先の詩篇の最後の節は「幸いなことよ……人は」と記され、そこでは「主の恵みのうちにある家庭」の「祝福(幸い)」が描かれていましたが、ここでも家庭の祝福が引き続き描かれています。エペソ人への手紙4章14、15節で使徒パウロは、「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります」と記していますが、ここでの「家族」のギリシャ語は「パトリア」で、「御父」は「パテラ」です。つまり、すべての「家族」という概念は、父なる神から生まれていると描かれているのです。まさに家庭の平和の基礎は、父なる神のうちにあります。
1節の原文では、「幸いなことよ 主 (ヤハウェ) を恐れるすべての人は」とまず記され、続けて「主の道を歩む人は」と追加されています。すべての祝福された生き方の基本は、「主を恐れる」ことにあります。それは、この世界のすべて、またこの地の人間関係の基本単位である「家庭の平和」は、創造主をあがめ、主を礼拝することから生まれることを意味します。さらに、「あなたがその手で労した実りを食べること それはあなたの幸い あなたへの恵み」と記されますが、ここには農作業の祝福がイメージされやすいですが、すべての労働に当てはまります。「幸い」は今までと同じ「祝福」とも訳されることばで、「恵み」は「善い」が基本的な意味で「楽しみ」とも言えましょう。19世紀のフランの画家ミレーの傑作に「晩鐘」と呼ばれる絵があります。遠くの教会で鳴らされる夕刻の鐘の音に合わせて若い夫婦が、心を合わせて祈っている姿が感動的に描かれています。このときのミレーには六番目の子が生まれ、貧困にあえぎつつも、家庭は平和でした。
3節の「あなたの妻は 家の奥で たわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは 食卓を囲むとき まるでオリーブの若木のようだ」とは、今から三千年前の情景で、子どもの数やその健康に神の祝福の現れを見るものです。それは現代も、母親が外で働いていたとしても「家族がそろって安心しながら食卓を囲む」ことを大切にする生き方として適用することができましょう。そして、4節の「見よ 主を恐れる人は 確かに このように祝福を受ける」とは、主を恐れる家庭の平和と繁栄を示すものです。
5節の「主 (ヤハウェ) がシオンからあなたを祝福されるように」とは、現代的には、主が私たちの交わりのただ中に住んで、私たちに平和と繁栄を与えてくださることを願う祈りと解釈できます。そして、5節後半と6節初めに、「そして、見なさい」という同じ命令形が二回繰り返されます。第一は「エルサレムへのいつくしみ」です。それは先の「恵み」と同じことばで、神の民の交わりのただ中に、善いことが実現し、楽しみが満ちる姿を確認しなさいという勧めです。また第二は、「あなたの子らの子」、つまり、孫が増えて成長することを確認しなさいという勧めです。これは神の祝福が必ず実現するという保証とも言えましょう。最後に、「イスラエルの上に平和」を祈るのは、主を恐れる家庭から、より大きな神の家族の平和を祈るものと言えましょう。なお、肉の家族で傷つけられた人、結婚や子の誕生を望みながら、それが実現せずに苦しんでいる人もいます。しかし、私たちはそれでも「神の家族」である教会の「平和」また、身近な人との「平和」のために祈ることができます。私たちの幸いは、主を恐れる交わりから生まれるからです。
父なる神様、あなたこそがすべての家族の創造主であることを感謝します。どうか、「主を恐れる」生き方を教えてください。そして、主を恐れることを通して、私たちの肉の家族ばかりか、神の家族としての教会の上に祝福を見させてください。
詩篇129篇「苦難の中に、主の祝福を見る」
人はみな、基本的に、平穏無事な人生を送りたいと願っているものです。筆者も同じです。しかし、どこに試練や苦難が伴わない人生があるでしょう。むしろ、私たちの信仰の醍醐味は、逆境の中で、神の圧倒的な真実を味わうことと言えないでしょうか。
1–4節の原文の語順を生かすと、次のように訳すこともできます。
「『大いに彼らは私を苦しめた、私が若いころから』さあ、言え、イスラエルよ
『大いに彼らは私を苦しめた、私が若いころから。しかし、私に勝てなかった。
私の背に、鋤を使う者が鋤をあて、長いあぜをつくった。』
主 (ヤハウェ) は正しくあられ、悪しき者の綱を断ち切ってくださった。」
著者はイスラエルの歴史を自分にたとえて、受けた苦難の大きさと長さを、同じことばの繰り返しで振り返りながら、それでも敵は自分たちを圧倒できなかったことを思い起こしています。それどころか、敵の迫害の激しさが、自分の背中に鋤をあてられて、長いあぜを作られるような、想像を絶するものであったことを振り返っています。しかし、それでも最終的に、主 (ヤハウェ) は敵の綱を断ち切ってくださり、イスラエルは解放されました。
その理由が、「主 (ヤハウェ) が正しくあられ」たからであると説明されます。この「正しさ」とは「神の義」というときの「義」と同じ語源のことばです。神の「正しさ」または「義」とは、ご自分の民を守り通すということの中に現わされます。聖書の物語の基本とは、神がアブラハムとの契約、ダビデとの契約を守り通してくださったということです。それは、イエスがダビデの子として現れ、私たちを「悪しき者」であるサタンの支配から贖い出し、今、「王の王」として世界を治めていることに現わされています。それによってアブラハムが世界の人々の祝福の基となるという約束が成就しました (創世記12:2、3)。
そして5、6節は、エルサレム神殿が立っていたシオンを憎む者たち、神の民の敵たちに対する「のろい」のことばです。旧約聖書では、神の民の「救い」が神の敵に対するさばきによって実現すると描かれる場合が多くあります。それは、たとえばバビロン帝国がペルシャ帝国によって滅ぼされることによって、捕囚となっていたイスラエルの民がエルサレムに帰還し、神殿を再建できたことに現わされています。バビロンの繁栄は「屋根の上の草」のようにはかなく、エルサレムを滅ぼした50年後には歴史から永遠に消え去りました。7節では、国の力に頼って多くの収穫を得ようとした人は、みな失望を味わうことになると描かれます。さらに8節の原文は、「言うことがない」という否定形から始まり、彼らは主 (ヤハウェ) を敵とすることで、主の祝福から永遠に切り離されてしまうという趣旨で描かれます。皮肉にも、「祝福のことば」を通して「のろい」が宣告されます。
私たちがこの地で苦しむとき、私たちを苦しめる者にも同じさばきが待っています。アブラハムの子孫を「呪う者」を、主ご自身が「のろう」と約束されているからです (創世記12:3)。ですから私たちは、この世の権力者たちを恐れる必要はありません。主こそが私たちのために戦ってくださるからです。天地万物の創造主からの驚くべき祝福が、信仰によって「アブラハムの子」とされた者に約束されています (ガラテヤ3:7、14)。アブラハムが主から豊かに祝福されたように、あなたの人生にも主の祝福が豊かに注がれます。
主よ、私たちの地上の歩みには様々な試練と苦難があります。どうか、そのような中で、あなたの祝福こそが、それらのマイナスを補ってあまりあるほど豊かなものであることを日々思い起こさせてください。私たちはあなたの祝福をこそ求めます。
詩篇130篇「深い淵から私は叫ぶ」
この詩篇はプロテスタント宗教改革の原点とも言えるもので、マルティン・ルターはこのみことばをもとに「Aus tiefer Not(深き悩みより)」という讃美歌を記し、そこから多くのオルガン音楽も生まれています。ルターはこの詩篇を信仰義認の教理の最重要テキストの一つと見ていました。ルターはカトリックの修道院生活の中で、「神はどんな小さな罪も見逃さない厳しいお方で、神のあわれみを受けることができるために徹底的な服従の生活を全うしなければならない」と、恐怖に震えていました。しかし、この詩篇に描かれている神は、私たちが自分の罪に悩みながら、主のあわれみを求めるとき、「不義に目を留める」代わりに、豊かに「赦してくださる」方であると記されています。中世の神学では、しばしば、「神の義」は、どんな小さな罪をも見逃すことができない厳しい基準で、何の罪もないイエス・キリストが初めてその神の義の基準を満足させることができたと説明されていました。そのうちにイエスの十字架の苦難に倣って初めて、イエスが獲得された豊かな義を受けさせていただけると教えられ、イエスでさえも恐怖の対象になり、イエスの母マリアにすがるしかなくなって行きました。
しかし、ルターはこの詩篇を思い巡らしながら、イエスの十字架は何よりも、神の側から私たちの罪を赦し、私たちとの「和解」を望んでおられることとしるしであると理解できました (Ⅱコリント5:20参照)。私たちに求められることは、神の義の基準に達するために善い行いに励む代わりに、私たちをそのままで赦し、神の子として受け入れたいと願っておられる神の圧倒的な恵みに自分の身を差し出すことだけだったのです。
その感動をルターは以下のように歌っています (私訳)。曲は讃美歌258番
- 深き悩みより 主よ われ叫ぶ かえりみたまえや わが願いをば
主よ もし わが不義 目に留めたまわば 御前に立ち得じ - 御赦し受くるは ただ 恵みのみ いかに善きわざも 誇ること得じ
御前にひれ伏し ただ主を恐れて あわれみ乞うのみ - 主を待ち望みて わが義 頼まじ われを義とせるは 主のまことのみ
くすしきみことば わがうちにせまり 慰めたまえり - いかなる罪にも まさる御恵み 主の恵みの御手 はばむものなし
われらの牧者は すべての不義から あがない出したもう
この4節には、「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」と記されます。私たちの罪に対する「神の怒り」は「天から啓示されて」いますが、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と記されています (ローマ1:17、18)。つまり、神の前に義とされる信仰とは、私たちの罪を赦すためにご自身の御子を十字架にかけてくださった方の圧倒的な愛を受け入れることです。そして、何よりも大切なことは自分の罪を認め、「自分の罪を告白する」ことです (Ⅰヨハネ1:9)。私たちが「主を待ち」または「望む」ことの内容は、「主には恵みがあり、豊かな贖いがある」こと、「すべての不義から……贖い出される」ことを信じ受け入れることなのです (7、8節)。
主よ、あなたが私たちの罪を赦すためにご自身の御子を十字架にかけてくださった圧倒的な愛を、心から恐れるとともに、感謝して受け入れます。どうか、日々の生活の中で、自分の罪に悩む私たちにあなたの圧倒的な愛を体験させてください。
詩篇131篇「乳離れした子のように」
この詩篇のテーマは、変えられない現実に関しての無意味な詮索をやめ、そこに神の愛の御手が働いていると受け止める生き方です。聖書の中で、義人の代表と呼ばれているのはヨブです。彼は理由の分からない恐ろしいわざわいに会って、自分の苦しみを必死に神に訴えました。最終的にヨブは、自分がどうしてそのようなひどい目にあったかの理由はわからないままでした。しかし、主ご自身が自分に語りかけてくださったこと、またそのわざわいの原因が自分の側にはないということに、安心することができました。そして、神に向かって「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました……私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを」と告白しました (ヨブ42:2、3)。
ダビデがここで、「主 (ヤハウェ) よ。私の心は驕りません。私の目は高ぶりません。私は足を踏み入れません」と三つの否定形を繰り返しながら、「及びもつかない大きなことや奇しい(不思議な)ことに」と告白しています(原文の語順)。その背景にはヨブ記があるように思えます。人間の罪の始まりは、「神のようになって善悪を知る者となる」ことを願ったことでした (創世記3:5)。しかし、ヨブがわざわいの理由を知らないまま、主に信頼できたとき、アダムの罪を逆転させることができました。主は、ヨブに主をのろわせようとしたサタンに勝利したのです。ヨブ記は私たちにとって、サタンに対する勝利の歌となりました。
ダビデはさらに、「まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました。乳離れした子が 母親とともにいるように」と告白しますが、その後のことばは、「私のたましいは 私のうちで乳離れした子のようです」と訳すことができます。「乳離れした子」が「平安」の象徴として描かれますが、昔は乳離れの時期が非常に遅かったようで、少なくとも3歳ぐらいまでは母乳を飲ませたという記録があります。また、「アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した」(創世記21:8) と記されるように、それは子どもの成長を喜ぶ機会でした。この時期の子は多少お腹を空かせても、母親が目の前にいることで安心し、待つことができます。それは幼児が泣くたびに、母が必要にすぐ答え、乳を飲ませ、安心させて来たからです。その積み重ねの結果として、子どもは泣いて叫ばなくても母親が自分を守ってくれるということを感じ、安心して待つことができるようになりました。
同じように私たちは、自分の心の中の叫びに、母親のように優しく耳を傾けながら、自分の「たましいを和らげ 静め」ることができます。私たちは自分のたましいの中に沸き起こる嵐や不安の思いに蓋をして、それを押さえ込むのではありません。母親は子どもが泣くときに、たたいて黙らせる代わりに、優しく抱擁し、乳を含ませることでおとなしくさせることができます。私たちも、自分のたましいの叫びに、そのように対応することをとおして、自分のたましいが、私の中で、乳離れした子のように落ち着いてきます。
今私たちは目の前に多くの問題が山積し、解決の目処が立たないままの中で、「今よりとこしえまで 主 (ヤハウェ) を待ち望め」(3節) と自分に語りかけることができます。最初と最後記された「主 (ヤハウェ) 」という御名には、主がこの世界のすべてのことを御手の中に治め、すべての問題をご自身のときに、解決してくださるという全能性の意味が込められています。
主よ、私の内に働いて御心を行なう志を立てさせてください。私の内なるすべてのものが愛する御方の御心を静かに待ち望むことができますように。そしてついに満ち足りて乳離れした児のようにあなたを仰ぐことができますように」(エミー・カーマイケル)
詩篇132篇1〜12節「主が安息の場所に入られる」
最初にダビデの「苦しみ」に言及されますが、彼はかつて「私は困難な(苦しみの)中で主 (ヤハウェ) の宮のために、金十万タラント、銀百万タラントを用意した」と語っています (Ⅰ歴代22:14)。これは彼が戦いに次ぐ戦いの中で、主 (ヤハウェ) の宮の建設のための準備をしたことを指します。単純な比較はできないにしても、ここに記された金銀の量を現代の価格で算定すると19兆円になり、日本の一年間の税収の三分の一に相当する膨大な金額です。これはダビデが自分の生涯をエルサレム神殿の建設のために献げていたことを意味します。
2節は、「彼は主 (ヤハウェ) に誓いました。ヤコブの力強き方に誓願を立てました」と訳すことができ、「誓った」、また「誓願を立てた」という似た意味で異なったことばの繰り返しが見られます。そして3–5節ではその内容が、「主 (ヤハウェ) の……御住まいを……見出すまで」は、自分の家に入って眠ることさえもしないという覚悟が描かれます。これは現代的には、「不眠不休の覚悟で、神殿建設の準備に励む」という意味と言えます。
ただし、「御住まいを 私が見出す」(5節) と記されますが、実際に神殿になる場所を見出したのは、ダビデが晩年にイスラエルの人口調査をして、神のさばきを受けた直後です。そのとき御使いは、「エブス人オルナンの打ち場に、主 (ヤハウェ) の祭壇を築かなければならない」と告げられ、彼が祭壇を築き全焼のささげ物を献げ、主を呼ぶと「天から火を下し、彼に答えられた」という不思議が起こりました (Ⅰ歴代誌21:18、26)。神殿がダビデの熱い思いから始まりながらも、その神殿は彼の人間的な限界とその罪の上に立っているという不思議が明らかにされます。大切なのは、何度も失敗しながらも、一つの方向に従順であり続けることです。ダビデが後世に残した最大の遺産は、主への礼拝でした。神殿は後に跡形もなく崩されますが、ダビデが自分の葛藤の中から書いた詩篇は今も生きています。
8節の「主よ 立ち上がってください」とは、イスラエルの民が荒野を旅したとき、「契約の箱が出発するとき」(民数10:35) に語られたことばです。不思議なのは、ここでは続けて「あなたの安息の場所にお入りください。あなたと あなたの御力の箱も」と記されていることです。著者は主 (ヤハウェ) を「あなた」と呼びかけながら、神ご自身が神殿に入ることと、主の契約の箱が神殿に入ることを同じに描いています。これは直接的な意味としては、神がエルサレム神殿の中で「休む」ことを指した、神を擬人化した表現です。つまり、主が「休まれた」というのは、アメリカの大統領がホワイトハウスに住むことと同じように、主がこの世界を治めるコントロールルームに入ったことを意味するとも言えましょう。主がエルサレム神殿に住まわれることによって、イスラエルは豊かな繁栄と平和を享受できました。主が私たちの交わりの真ん中に住むことこそすべての祝福の原点です。
ダビデが神殿を建てようと思ったこと自体を、主が喜んでくださり、ダビデ王家を永遠に守ると約束してくださいました。そこからイエス・キリストがダビデの子として登場するという流れが決まります。そして主は今、私たち礼拝者の交わりをご自身の「安息の場所」としておられます。そして、それは私たち自身の安息につながることです。私たちの場合も、主との交わりを第一とすることで、主ご自身が教会の交わりのただ中に住まわれ、それによってあなたと周りの人々が守られ、祝福で満たされることになるのです。
主よ、私たちもダビデと同じように様々な過ちを犯しますが、それに真剣に向き合い、主にすがる時に、主はそこを新たな祝福の出発点にしてくださることを感謝します。どうか、主ご自身が私たちの交わりのただ中に住んで、祝福で満たしてください。
詩篇133篇「主そこに……祝福を命じられた」
最初の「なんという幸せ」には、ヘブル語の「トーブ」という「善い」「好ましい」こと全体を意味することばが、また「なんという楽しさ」では「愉快な」「愛しい」を意味することばが用いられており、それらは、「兄弟たちが一つになって ともに生きること」を指しています。逆説的ですが、「ともに生きる」ことの幸いは、孤独を通してこそ見えるという面があります。それは、野球のイチロー選手が引退会見で、「メジャーリーグに来て、外国人になったことで、人の心をおもんばかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね……」と、孤独を感じて苦しんだおかげで、自分の中に新しい感覚が芽生えてきたことを感謝していたことに似ています。私たちもこの「都上りの歌」の最初の詩篇120篇に描かれていたような、神を知らない人々のただ中に生きながら、ただキリストにあって、主を礼拝する恵みにあずかることができています。それは決して当たり前のことではありません。ただその際、私たちが注意すべき二つのことがあります。
私たちはみな、一人で神の召しに従い始めました。イエスは、「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マルコ8:34) と言われました。ひとりで苦しむことができずに、問題の解決を他の人に願うばかりのような人は、交わりを壊します。一方、神の召しはあなた一人に向けられているのではなく、あなたは召された者の教会の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのです。あなたは一人ではありません。もしあなたが兄弟姉妹の交わりを軽蔑するなら、あなたはイエス・キリストの召しを否定することになります。一人で神の前で祈ることと、交わりの中に生きることは、どちらに偏り過ぎてもいけません。
さらに「ともに生きる」ことの「幸い」が、祭司の上に注ぐ任職の「貴い油」にたとえられます (2節)。ここでの「貴い」は、先の「幸い」で用いられたと同じヘブル語(トーブ)です。「アロンのひげに流れる」とあるのは、大祭司の油注ぎが、頭にかぶり物と記章を付けた上でなされるからです。キリストは「油注がれた者」(メシア)のギリシャ語訳ですから、この儀式は、神の民にとっての最高の祝福と喜びの時でした。なぜなら、祭司の働きがあってこそ、神が汚れたイスラエルの民のただ中に住むことができたからです。しかも新約においては、私たち一人ひとりが、聖霊による油注ぎを受けた「王である祭司」(Ⅰペテロ2:9) とされています。そして、私たちは教会の交わりにおいて、互いが互いの祭司として奉仕するように召されています。それは何よりも互いのために祈り合う関係です。
3節では、「ともに生きる」ことが、「ヘルモンの露」に例えられます。それは200kmも南のエルサレムのシオンの山々までをも潤すというのです。それは夏の日照りで乾ききった季節に起きる神の奇跡です。雨が降らない中で、イスラエルの作物を豊かに実らせる力が「ヘルモンの露」にあります。私たちの兄弟愛は世界を潤す力を持っています。
さらに3節の後半の原文の語順では、「それは、主 (ヤハウェ) がそこに命じられたからである、いのちの祝福をとこしえまでに」と記されています。「そこ」とは、「兄弟たちが一つになって ともに生きる」その交わりの場を指すと理解すべきでしょう。それは、神の祝福が、アロンの頭に注がれた油のように、また、衣の端にまで及ぶ油のように、またエルサレムを潤すヘルモンの露のように、豊かに、奇跡的に注がれることになるのです。
主よ、あなたがキリスト者の交わりの中に、「とこしえのいのちの祝福」を命じてくださったことを心より感謝します。神の御前に一人で静まることと、ともに祈り、ともに礼拝するという交わり、そのバランスを大切に、主の祝福を受けさせてください。
詩篇134篇「主を祝福する者への祝福」
この詩篇は15回の「都上りの歌」の最後の頌栄的な歌で、前の詩篇の「祝福」と同じ、英語で bless と訳されることばが三度繰り返されます。第一は、「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ(祝福せよ) 主 (ヤハウェ) のすべてのしもべたち 夜ごとに主 (ヤハウェ) の家で仕える(立つ)者たちよ」という呼びかけです。第二は、「聖所に向かって……手を上げ 主 (ヤハウェ) をほめたたえよ(祝福せよ)」という呼びかけです (2節)。そして第三の原文の語順では、「主 (ヤハウェ) がシオンからあなたを祝福してくださるように 天と地を造られた方が」という呼びかけです (3節)。「祝福する」と訳されることばには「ひざまずく」という意味があります。「主をほめたたえる(祝福する)」とは、主の御前にひざまずき、主がすべての祝福の源であることを覚えることです。そして、主の前にひざまずく者を、主は祝福してくださいます。
歴史的に尊重されるウエストミンスター教理問答の最初では、「人間のおもな最高の目的な、何であるか」という問いに、「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし(神をほめたたえ)、永遠に神を全く喜ぶことである(原文:Man’s chief and highest end is to glorify God、 and fully to enjoy him forever)」と記されています。つまり、私たちが「神のかたち」に創造されていることの意味は、永遠に神をほめたたえ、神を喜ぶことにあるのです。その反面教師の姿が、サムエルが祭司エリの家に預けられて間もなくのときに描かれます。主は、自分の息子たちに主を恐れることを教えられなかった祭司エリに、「なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて……」と言われながら、「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられる」と戒めました (Ⅰサムエル2:30)。つまり、主をほめたたえる(祝福する)者は、主によって祝福され、主を軽んじる者は、主から軽んじられ、のろわれるという恐ろしい対比が描かれているのです。
しかも、主が私たちを「祝福」してくださるとは、主ご自身が私たちの前に「ひざまずく」かのように、ご自分を低くして、ご自身のすべてを私たちに分かち合ってくださることです。それは神の御子キリストの生き方に何よりも現わされています。それは、私たちが主の御前に「ひざまずく」ことに対する、神ご自身の対応です。反対に神の前で高ぶる者に対しては、神は見下ろすようにさばきを下されます。それは、「まことにあなたは 苦しむ民を救い 高ぶる目を低くされます」(詩篇18:27) と記されているとおりです。
なお、1節の終わりでは「夜ごとに主 (ヤハウェ) の家で仕える(立つ)者たち」のことが覚えられ、その直後に3節の冒頭で、「聖所に向かって手を上げ 主 (ヤハウェ) をほめたたえよ(祝福せよ)」と促されます。これは、夜通し働いて疲れを覚えている人に、なお、「手を上げよ、聖所に向かって」と励まされていることとしても理解できます。私たちもときに、疲れを覚えて、「主をほめたたえる」ような気持ちになれないと思う時があることでしょう。しかし、そのように気持ちがついてゆかないときでも、敢えて「手を上げ」て、主をほめたたえるという姿勢を取ることで、私たちの気持ちが変えられるということがあります。
最後「天地を造られた方」という表現は、詩篇121篇にもありました。私たちが「主の前にひざまずく」ときに、天と地を造られた方ご自身が私たちに向かってひざまずき、私たちにご自身の力を分かち合ってくださいます。何という恵みでしょう。
主よ、あなたの前にひざまずく者に対し、あなたご自身がひざまずくようにして祝福を分かち合ってくださるという恵みに心より感謝します。疲れて気持ちがついて行かないようなときにも、あえて主に向かって手を上げるという行動を選ばせてください
詩篇135篇1〜7、15〜21節「主 (ヤハウェ) という御名」
最初の「ハレルヤ」は、原文で「ハルル(ほめたたえよ)、ヤハ(主)を」と記されています。つまり、1節では三回に渡って「ほめたたえよ」と繰り返されているのです。そこではまず、ほめたたえるべき対象が、「主 (ヤハウェ) の御名」と描かれます。さらに、それを命じられる相手が「主 (ヤハウェ) のしもべ」と記され、2節ではそれが「主 (ヤハウェ) の家で仕え、私たちの神の大庭で仕える者」と解説されます。つまり、これは何よりもエルサレム神殿で仕える祭司やレビ人たちに対する「命令」なのです。ダビデはエルサレム神殿を建てる備えとして、四千人のレビ人を訓練して、楽器を手にし、主の賛美する者に整えました (Ⅰ歴代23:5)。今、この聖書に残されている多くの詩篇は、そのためにダビデが作ったものです。
そして3節では再び、「ハルル(ほめたたえよ)、ヤハ(主)を」と繰り返されながら、その理由が原文では、主 (ヤハウェ) が「トーブ」(善い)方であるからと説明されます。この単語が「まことにいつくしみ深い」とまで訳されるのは、主がイスラエルの民を「ご自分のために選び」「ご自分の宝」とされたという主のみわざがあるからです (4節)。それは8-12節に描かれたエジプトの奴隷状態からの解放と約束の地の占領に現わされています。
またイスラエルの民は、「主の名をみだりに口にしてはならない」という十戒のことばの意味を狭く解釈し、聖書を読む際、主の名を現わす四文字の箇所に来ると、それを主(アドナイ)と読み替えました。しかしそれはもともと、ヤハウェと発音したと思われ、それは主がご自身の名をモーセに、「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジ3:14) と紹介されたことに基づいています。なお、一部の学者は、「わたしは、あらしめる者である」と訳すべきだとさえ言いますが、それは主がこの世界のすべての存在を生み出した方であるからです。そのことが5-7節では、主が他の神々に比べようもない偉大な方であることが、「主 (ヤハウェ) は望むところをことごとく行われる……主は 地の果てから雲を上らせ 雨のために稲妻を造り その倉から風を出される」と描かれます。世の人々が「自然現象」と呼ぶすべてのことは、神ご自身がそのように「あらしめている」ことの結果なのです。
15-17節では、異邦の民が金や銀で作る偶像に関して、「口があっても語れず 目があっても見えない。耳があっても聞こえず また その口には息がない」と描かれます。それに続く18節は「これを造る者も これに信頼する者も これと同じようになる(される)」と訳すことができます。先に神がご自身のことを「わたしはある」と一人称形で表現されたことばの三人称形がここで用いられています。これは驚くべき皮肉です。この地のすべてを生み出す神をまねて、偶像の神を生み出す者は、「神のかたち」としての在り方を失い、偶像に似た者に「なる」というのです。多くの人が、主に向かって「語る」ことも、主のみわざを「見る」ことも、主のことばを「聞く」こともできなくなり、生ける屍のように神の「息」を失っているのは、偶像に「信頼する者」になったことの結果なのです。
19、20節で「主 (ヤハウェ) をほめたたえよ」と四回繰り返されますが、これは1–3節と異なり、英語でbless(祝福せよ)と訳されることばです。それを前提に21節で、「主 (ヤハウェ) が祝福されるように」と祈られます。それは主の御名が、この世界のすべての繁栄、平和、力などの原因であると「祝福」されることです。そこにこそ私たちの祝福が生まれます。
世界の全てを創造し、この地の雨も風も全てを「あらしめ」てくださる全能の主よ、あなたに向かって、「お父様!」と呼びかけることができる特権を感謝します。主の御名が、あらゆる祝福を生み出す、祝福に満ちたものであることを覚えさせてください。
詩篇136篇1〜4、10〜17節「主に感謝する理由」
この詩篇は the Great Hallel(大ハレル)と呼ばれ、過越の祭りの際に歌われました。「感謝せよ」という呼びかけは、原文では1–3節と最後の26節の四回しか記されず、4節以降では「大いなる不思議を行われる方に(感謝せよ)」などように「方に」ということばが繰り返されています。さらに、「方に」がない場合も (11節など)、前節の「方に」を補足するように主のみわざが描かれています。つまり、この詩篇では、主 (ヤハウェ) の具体的なみわざが、天地創造から出エジプト、約束の地への導きまで描かれながら、その主に「感謝せよ」という呼びかけが、この詩篇全体を通して意味の上では繰り返されているのです。
朗読の際はそれらの部分を司会者が読んだ後、会衆が具体的な主のみわざに感謝すべき理由として、「主の恵みはとこしえまで」と26回にわたって朗誦したと思われます。これは多くの英語訳(ESV等)では for his steadfast love endures forever(彼の不変の愛は永遠に続くのですから)などと訳されます。「恵み」と訳されていることばは、ヘブル語のヘセドの訳で、英語では steadfast love 以外にも、mercy(慈しみ)、lovingkindness(慈愛)、unfailing love(無限の愛)などと様々な訳があり、その中心は主がご自身の契約を誠実に守られるという意味が込められています。とにかく、このヘセドの永遠性こそが感謝の理由なのです。
なお、主のみわざが「エジプトの長子を打たれた」とか「ファラオとその軍勢を葦の海に投げ込まれた」(15節)、「大いなる王たちを打たれた」(17節)、「力ある王たちを殺された」(18節) と描かれますが、エジプト人やカナン人の立場に身を置くとやり切れない気持ちになります。しかし、これは神がアブラハムの子孫のイスラエルの民に、アブラハムとの契約のゆえに特別な「恵み」を施しているということを強調するために他なりません。
たとえば、主は安息日命令で、一週間に一日は、奴隷を仕事から解放し、休ませることを命じますが、その理由が「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったことを……覚えていなければならない」と説明されています (申命記5:15)。これは日本で100年ほど前まで、多くの使用人は盆と正月しか休みが取れなかったのと大違いです。つまり、主がイスラエルに特別な恵みを施したのは、彼らが奴隷にも一週間に一度の休みを与えるためだったと言えましょう。また、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という隣人愛の命令はレビ記19章18節に由来しますが、そこでは寄留者(在留異国人)を「自分自身のように愛さなければならない。あなたがたも、かつてエジプトの地では寄留の民だったからである」(同34節) と続きます。つまり、神がイスラエルをエジプトから救い出したことが、奴隷を休ませ、寄留者を愛するという平和の使者の使命につながっているのです。
神がアブラハムを選んだのは、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3) という目的のためです。そして私たちは今、イエスを救い主と信じることによってアブラハムの子孫とされています。「主の恵み(ヘセド:契約の愛)はとこしえまで」だからこそ、私たちは、目先の損得勘定を超えて、隣人愛を実行する勇気が湧いてくるのです。
主よ、私たちがイエスを救い主として信じることで、アブラハムの子孫とされたことを感謝します。あなたの恵み(契約の愛)が私たちに永遠に注がれていることを覚えさせてください。そして、それによって私たちを神の愛の器として豊かにお用いください。
詩篇137篇「新しいエルサレムを至上の喜びとして」
1節は、エルサレムがバビロン帝国によって破壊され、その住民が捕囚としてバビロンの地に強制移住させられたことを背景に、エルサレム神殿のあったシオンの丘を「思い出して泣いていた」という著者自身の体験を語ったものです。深い悲しみの原因は、シオンに立つエルサレム神殿を思い起こさせられたからですが、その理由が2–4節に描かれます。「街中の柳の木々に 私たちは竪琴をかけた」とありますが、彼らがエルサレムから持ってきた大切な楽器を柳の木に掛けたのは、「私たちを捕えて来た者たちが……余興に 『シオンの歌を一つ歌え』と言ったから」でした。彼らはそれに抗議するような意味で、竪琴の演奏を止めるという意思を表現したのでしょう。ここで問題なのは、「異国の地」で主をたたえる歌を奏でること自体ではありません。支配者たちが、ダビデが竪琴を奏でて踊ったような、心を喜ばせ、踊ることができるような余興を求めたことが問題だったのです。
5節と6節前半は原文の語順では、「もしも 私があなたを忘れてしまうなら エルサレムよ この右の手も忘れるがよい 私の舌は上あごについてしまえばよい もしも 私があなたを思い出さないなら」と記されます。著者は、主が自分をエルサレムに戻してくださる日を待ち望みながら、右の手で竪琴を弾く練習を繰り返し、また、自分の「舌」を用いて、主をほめたたえる歌を歌う練習を重ねていたのではないでしょうか。だからこそ、著者は、「エルサレムを忘れ……思い出さない」ようになるぐらいなら、「右の手」が竪琴の演奏を忘れ、舌が動かなくなって主への賛美が歌えなくなることを願ったのです。その上で、「もしも 私がエルサレムを至上の喜びとしないなら」とさらに追加されます。それは自分の人生の喜びの基本が、エルサレムを心から待ち望むことにあると告白することです。それは、私たちが天のエルサレムを最高の喜びとして生きることと同じです。
7節ではエドム人に対して、主のさばきが下されることを願う祈りが記されますが、それは、彼らがヤコブの双子の兄のエサウの子孫でありながら、「エルサレムの日」、つまりエルサレムの滅亡の日に、「破壊せよ 破壊せよ その基までも」と、バビロン帝国がエルサレムを破壊することを応援するようなことを言っていたからです。そのような中で、8節後半と9節で、二回に渡って「幸いなことよ」から始まり、かつてのバビロン帝国の暴虐に「仕返しする人」が称賛されますが、この動詞はシャローム(平和)と同じ語根のことばです。それは、ある人が一方的にわざわいを受けるという不条理が正されることです。つまり、平和の実現には、加害者に対する「仕返し」が完了する必要があるのです。
そして、神は「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と言われながら、「もしあなたの敵が飢えていたなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ」と命じられました (ローマ12:19、20)。私たちは神の報復を知っているからこそ、敵を愛することができます。そして、新しいエルサレムとは、すべての報復が終わって、愛だけが残る世界です。私たちはそのような世界を「至上の喜び」としながら、この地に神の愛を広げて行くのです。
主よ、私たちは異教徒が支配する町の中で、主のご支配が完成する新しいエルサレムを待ち望んでいます。どうか、異教の世界の期待に応えて人々を喜ばせるような生き方ではなく、主がこの世界を新しくしてくださることに期待して生きられますように。
詩篇138篇「主 (ヤハウェ) は 成し遂げてくださる」
この詩篇から145篇までは、詩篇の中でも最後のダビデの名を冠するシリーズが記されます。ただ、どのような状況下でこれが記されたのかは、何も明確なことは分かりません。
1節は、「私はあなたに感謝をささげます 心を尽くして。神々の前で あなたをほめ歌います」とも訳すことができます。「御使い」と訳されている原文はエロヒームで、「神」とも「神々」とも訳すことができます。その背景には、サウル王に従ったダビデの敵たちは、ダビデに向かって「行って、ほかの神々に仕えよ」と、彼をイスラエルから追い出そうとしていたことがあります (Ⅰサムエル26:19)。ダビデはそのような策略を意識しながら、異教の神々の前でさえ、イスラエルの神、主 (ヤハウェ) のみに賛美をささげると告白しました。
2節の2行目は、「御名に私は感謝します。恵み(ヘセド:契約の愛)とまこと(エメット:真実)のゆえに」と記されます(カッコ内筆者)。「恵みとまこと」は、詩篇全体の中で主のご性質を現わすことばとして何度も登場します。そして3、4行目は、「それは、あなたがすべての御名にまさって、あなたの仰せ(みことば)を高く上げられたからです」と訳すこともできます。それは3節に記されているように、ダビデが主を「呼んだその日に」、主ご自身が「仰せ」をもって彼に答え、彼のたましいに力を与えたからです。私たちも主の御名に込められたご性質を知りながらも、その場その場で、主が私に何を「仰せ」になられるかを知りたいと思うことがあります。ダビデは苦しんだこととセットに、そのような主の個人的な語りかけを聞いて、そのたましいに力が与えられて強くされたというのです。
4節は「あなたに感謝するでしょう。主 (ヤハウェ) よ 地のすべての王は。彼らがあなたの口の仰せを聞いたからです」と訳すことができます。ダビデを取り巻くこの地の王たちは、ダビデを通して主の口から出るみことば(仰せ)を聞いて、彼に感謝するというのです。ダビデとソロモンの時代に、周辺諸国はイスラエル王国の繁栄を見て、イスラエルの神ヤハウェの栄光をあがめるようになりました。しかし、それは何よりも、ダビデが「低い者」であり、「苦しみの中を歩いていた」状況からの逆転を、主が成し遂げてくださったことに基づきます (6、7節)。私たちも苦しみ、みじめな状態に置かれることがありますが、それこそ主 (ヤハウェ) の栄光が現わされるときであると言えます。ですからこの7節は私たちが謂れのない攻撃を受けているときの何よりの慰めとなります。「私が苦しみの中を歩いても
あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし あなたの右の手が私を救ってくださいます」とは、私たち一人一人に実現する神のみわざです。
8節のESV訳は「The LORD will fulfill his purpose for me(主 (ヤハウェ) は私のためのご自身の目的を成し遂げてくださいます)」と記されています。主は私たち一人ひとりをご自身の目的に従って選んでくださいました。私たちが自分自身を主に差し出すとき、主はそれを成し遂げてくださいます。そして、続く、「主 (ヤハウェ) よ あなたの恵みはとこしえに」ということばは、先の詩篇136篇で26回にわたって繰り返された表現を思い起こさせます。
主よ ダビデが苦しみの中であなたを呼び求め、あなたの個人的な仰せ聞き、力を受け、またを救われたように、私たちがあなたの前に静まるときに、聖書のみことばを通して私たちに語りかけ、私たちのために備えられたあなたの計画を成し遂げてくださいますように。
詩篇139篇1〜16節「存在への感謝」
この詩篇のテーマをある方が「存在への感謝」と名付けました。1節の「主 (ヤハウェ) よ あなたは私を探り 知っておられます」という表現は、主はあなたの隠された罪をすべて探り出し、さばきを下すというようにも理解できますが、同時に、「主は私の愚かさや罪深い性質をすべてご存じでありながら、なおも私たちを愛し、ご自身の計画を成し遂げられる」という安心感を与えることばとしても理解できます。2–4節では、主が私たちの日々の生活をすべてご存じであると記されます。特に「ことばが私の舌にのぼる前」から「あなたはそのすべてを知っておられます」という表現を見る時、私たちが主の御前で取り繕ったり、自分の理屈や正当性などを訴えたりする必要がないことが分かります。
5節は「後ろからも前からもあなたは私を取り囲み 御手を私の上に置いてくださいます」とも訳すことができます。それは私たちの歩みが、主ご自身から「取り囲まれ」、守られているという安心感につながります。7–10節は、主の御霊から離れてどこにも逃げようがないという「恐れ」よりは、9節に描かれるように、太陽の動きと共に 翼に乗るように西の海の果てに行くようなことがあっても、「そこでも御手が私を導き 右の手で支えてくださいます」(10節私訳) という「安心感」として理解できます。そして11、12節も、自分自身の世界が闇に覆われ、絶望的な状況になっても、主 (ヤハウェ) にとっては「闇も暗くない」ので、主の御前で安心していられるという意味に理解できます。
13節で「あなたこそ 私の内臓を造り」とありますが、原文では「腎臓」と記され、人間の最も奥深くの臓器の代表です。しかも腎臓は、当時、私たちの基本的な気質(古典的には躁鬱質、分裂気質、粘着質に分類)が形作られるところと見られていました。ですから、主は私たちが自分で自分のことを理解できない、隠された基本的な気質さえも「母の胎のうちで……組み立てられた」と記されているのです。そして14節のことばは英語のESV訳では、「I praise you、 for I am fearfully and wonderfully made(私はあなたをたたえます。あなたは私を恐ろしいほどにすばらしく造ってくださったからです)」と訳されています。
スウェーデンのゴスペル歌手のレーナ・マリヤさんは、生まれながら手がなく、足も片方しかありませんが、この詩篇をそのまま歌にし、I praise you、 because I am fearfully and wonderfully made(NIV訳)の部分を感動的に繰り返しています。彼女は、自分を障害者というよりも神の最高傑作として見ていたのです。彼女は片足で泳ぎ、裁縫をし、料理を作り、ピアノを弾き、車を運転します(筆者はこのすべてで彼女に劣っています)。それは主が彼女に、身体の不自由さを補って余りある強い生命力や冒険心を与えてくださっているからです。彼女の歌を聞きながら、筆者も、難しい気質を抱えた自分自身を神の最高傑作と見るように導かれました。16節の「あなたは胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました」とは、運命が決まっているというより、18節までの文脈から理解すると、私たちの人生にはありとあらゆる可能性が開かれているとも解釈できます。
主よ あなたは私をご自身の最高傑作として創造してくださったことを感謝します。どうか自分の歩みのあなたの御前から隠そうとする代わりに、すべてがあなたの知られていることを安心の源と見させてください。あなたが開かれた可能性にチャレンジさせてください。
詩篇140篇1〜13節「敵の頭上に燃える炭火を積む」
1節の原文の語順を生かすと、「私を助け出してください!主 (ヤハウェ) よ、よこしまな人(アダム)から。暴虐を行う人間から私を守ってください」と訳すことができます。そして、2、3節では自分を攻撃する人々の姿が描かれます。不思議にも彼らが用いる手段は「ことば」であって、その弁舌の「鋭さ」や隠された「毒」が、「蛇」や「まむし」にたとえられます。最初の人間アダムは、蛇の鋭いことばに騙されて神に背きました。私たちの周りにも、驚くほど弁舌が鋭い一方で、「あなたのために言ってあげている……」ということばの背後に、毒を隠している人がいます。それは後になって初めて気づかされるものです。
4節は「私を保護してください 主 (ヤハウェ) よ 悪しき者の手から。暴虐を行う者からお守りください」と訳すことができます。原文では「保護する」と1節後半にもあった「守る」ということばの使い分けがあります。そこにはそれに続くように、確かに私の周りの人々が、「私をつまずかせようと企んで」いて、「罠を仕掛け」るという現実があったのです。著者はそこで、自分の無力さを感じ、神の「守り」と「保護」を必死に求めているのです。
クリスチャンはときに、イエスが「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44) と言われたことばを拡大解釈し、たとえ悪意に満ちた人を前にしても、「その人を愛さなければならない」「好きにならなければいけない……」などと、目の前の人に脅威を感じてしまう自分の感情に蓋をすることがあります。しかし、イエスは、あなたには、敵が現れること、迫害する者が現れることを前提として、その人をも愛するように命じられました。つまり、「人を敵と思ってはいけない」という意味とは正反対なのです。
隣人愛とは、「嫌いな人を好きになる」という意味ではありません。以前の新改訳では、出エジプト23章5節の隣人愛の教えが、心理描写を含めて、「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見つけた場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない」と訳されていました。「新改訳2017」では「見過ごしにせず」と訳されますが、以前の訳の方が原文の意図を現わしているように思えます。自分のことを勝手に憎んでいる人が困難に陥っている場合、「いい気味だ……」と思うのが人情であり、「助けてなんかやるものか!」と思うのが自然な感情です。しかし、それにも関わらず、それを「見過ごしにしない」というのが隣人愛の核心なのです。決して、敵を好きになることではないのですが、結果的にそれを実践することによって相手の勝手な憎しみが消え、その人を好きになれることがあるかもしれません。
10節では「燃える炭火が彼の上に降りかかりますように」という、神の復讐を願う祈りが記されます。不思議にもパウロは、「敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ」と命じ、それこそが敵の「頭上に燃える炭火を積むことになる」と記します (ローマ12:20)。それは敵を慌てさせることでの勝利ですが、それを実行できるのは、ここに記されるように、神が自分を守り、自分のために復讐してくださることを知っているからです。
主よ、ときに私たちの周りには、巧みな弁舌で私の立場を悪くするような人が現れます。そのようなとき、神が私の味方となってくださっているということを信じながら (ローマ8:31)、その人が苦しんでいるときに、助けの手を差し伸べられるように守ってください。
詩篇141篇「私の祈りが 御前の香(こう)とされる」
この詩篇も先の詩篇と同様に、悪しき者たちから自分が守られることを、主 (ヤハウェ) に願った祈りです。ただ「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように」(2節) という表現に、不思議な響きを感じます。神殿の至聖所の前の、香をたくための祭壇で、祭司は朝にも夕暮れにも「香りの高い香をたく」ことが命じられ、それは「主 (ヤハウェ) の前の常供の香のささげ物」と呼ばれていました (出エジプト30:7、8)。そして、黙示録5章8節では、「香は聖徒たちの祈りであった」と記されながら子羊であるイエスへの賛美が記されていました。しかし、ここでは、敵から守られることを願う個人的な必要からの祈りが、神に喜ばれる「ささげ物」と見られています。
それは祈りの内容が「主 (ヤハウェ) よ 私の口に見張りを置き 私の唇の戸を守ってください」(3節) とあるように、自分のことばが神の前に聖くされるように願ったものだからです。さらに4節では「私の心を悪に向けさせず 不法を行う者たちとともに 悪い行いに携わらないようにしてください」と、自分が「悪い行い」と一線を画すことができるようにと願っています。そこで「私が彼らのごちそうを 食べないようにしてください」とは、悪い行いから生まれた報酬を受け取ることがないように自分の心が守られることを願う祈りです。つまり、自分の口のことばや心の思いが、神に喜ばれるものとなるように祈ることは、神への最高のささげ物とされるというのです。私たちの祈りはどうでしょうか?
5節では「正しい人」が「真実の愛」(ヘセド:契約の愛)をもって、「私を打ち」、「戒め」ることを歓迎したいという思いが祈られます。箴言27章6節では、「愛する者が傷つけるのは誠実による」と記されています。そして、5節の最後は、「彼らの悪行のただ中に、なお私の祈りはあり続けます」と訳すことができます。その意味は、悪しき者たちの改心を祈るというよりも、彼らのただ中で、自分のことばや心が彼らの悪に毒されないようにと祈っていると解釈する方が、この詩篇の文脈に合っていると思われます。
6節の「彼らのさばき人たちが岩の傍らに投げ落とされるとき」とは、悪しき者に対する神のさばきが明らかになるときを指します。そのとき、彼らは「私のことば」が神のみこころにかなった「優しい」または「喜ばしい」ものであったことを「知る」ようになるというのです。それは、自分の口のことばが、彼らの悪に毒されなかった結果です。筆者も、自分の言動が、争いを広げるもののように非難され、悩んだことがありましたが、10年近くたってようやく理解され、深い慰めを受けたというようなこともありました。
7–10節では、著者が悪しき者たちの攻撃を受けて、瀕死の状態に置かれながら、「私の目は」「私の主 ヤハウェ」である「あなたに向いている」と告白されます。そして、「私のたましい」が「仕掛けられた罠」や「不法を行う者の落とし穴」から守られることと同時に、「悪者が自分の網」にかかって、自滅することを祈ることが記されます。それは、神の公平なさばきが誰の目にも明らかになるという正義を求める祈りです。
主よ、私たちはときに、この世の悪や、自分が属する共同体の誤った動きに流されそうになることがあります。そのとき、この詩篇の祈りを用いさせてください。そして私の祈りが、神の御前への香(こう)として、御前に喜ばれるものとなりますように。
詩篇142篇「絶望感の告白から生まれる感謝」
標題は、ダビデがイスラエルの初代王サウルの攻撃から身を隠すために洞窟に隠れたことを指します。聖書ではそのうちの二回が描かれますが (Ⅰサムエル22:1、24:3)、どちらの場合も、不思議にも、そこからダビデの新しい歩みが始まっています。ただし、ここでは4節にあるように「私は逃げ場さえも失って」と記された絶望的な状態での祈りが描かれています。「洞窟」は入り口と出口が同じですから、敵が来たらひとたまりもありません。
1節では「声を上げて」ということばの繰り返しが印象的です。そして2節では「御前に」と繰り返しながら、ダビデは自分の祈りを描いています。それは彼が「私はいつも 主 (ヤハウェ) を前にしています」(詩篇16:8) と告白したとおりです。私たちは、「それなら、静かに祈っていたらよいのでは……」とも思いますが、ここでは声を張り上げて、大胆に自分の気持ちを訴えているようすが描かれます。それこそが彼の祈りの特徴とも言えます。
また3節では、「私の霊が……衰え果てたときにも」と自分の状況を描き、その上で「あなたは 私の道を知っておられます」と告白します。ここでも、「それなら黙って待っていれば良いのでは……」とも思いますが、4節では、大胆に、「ご覧ください 私の右に目を注いでください」と性急に訴えています。そしてその理由が「私には 顧みてくれる人がいません」と描かれます。ただ、その嘆きも、「主が私の右におられるので 私は揺るがされることはありません」(詩篇16:8) という信頼と矛盾しているように思え、「人の理解や同情を求めること自体が、信仰的ではない」と言われかねません。ある人は孤独感を味わいながら、そのように自分に言い聞かせているうちに、「祈ることすらできなくなった……」とのことです。しかし、詩篇69篇20、21節で「同情」や「慰める者」を求める祈りが記され、しかもそれが十字架のイエスのお気持ちでもあった (ヨハネ19:28) ということが分かった時、自由に自分の気持ちを祈ることができるようになり、信仰が回復しました。知的に神を理解する以前に、神があなたの感情を受け入れてくださることが分かることで、信仰が活性化されます。それは「心が通じ合う」ことが人間関係の基本であるのと同じです。
5節の「あなたこそ私の避けどころ 生ける者の地での 私の受ける分」ということばは私たちにとっても最も基本的な大切な告白です (16篇5、6節参照)。それは、主 (ヤハウェ) がご自身を求める者のいのちを守り、必要を満たしてくださるという信頼です。ただ、ここでも続けて、ダビデは自分が受けている攻撃の激しさを切々と訴えています。その上で、不思議にも、「私があなたの御名に感謝するようにしてください」(7節) と記されます。それは、ダビデの感情を絶望感から喜びに満ちた希望に変えてくださるのは、まさに主ご自身のみわざであるという告白です。私たちは、自分で自分の心を管理するように訓練されてきていますが、それができるぐらいなら、祈りは必要ないとも言えます。自分の心の貧しさを主に認めることこそ、神に喜ばれる生き方の始まりです。続けて、「正しい人たちは私の周りに集まるでしょう」という希望が記されますが、それが実際にダビデに実現します。ダビデが身を隠していた洞窟に、次々と仲間が集まってきたからです (Ⅰサムエル22:2)。
主よ、あなたは私の不安や絶望感をすべてご存知です。しかし、それでも、私の心の奥底の混乱した気持ちを、この口で表現することを待っておられ、望んでおられます。そして、その生きた神との交わりから、生きた人との交わりも広がることを感謝します。
詩篇143篇1〜12節「私はあなたのしもべですから」
最初の三行でダビデは、「聞いてください」「耳を傾けてください」「私に答えてください」と畳みかけるように訴えています。しかも、三番目の祈りは原文の順番で「あなたの真実によって私に答えてください」と言った後で、「あなたの義によって」と付け加えられ、続く2節では、「さばきにかけないでください あなたのしもべを。 あなたの前で 生ける者は誰一人 義(正しい)とは言えないからです」と記されます。教会の歴史の中では、「最後の審判」が大きなテーマでしたが、ダビデは自分が神の「しもべ」であるという理由で、さばきを自分に適用しないようにと、図々しく訴えています。私たちの中には神に主張できる義(正しさ)は少なく、神が自分を守り通してくださると言われた約束に信頼することしかできません。使徒パウロは人生の最後の手紙でテモテに向かって、「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである」と記しています (Ⅱテモテ2:13)。「神の真実」「神の義」とは、神の約束に関わることばなのです。
3節では敵の攻撃のようすが描かれます。ある方は身近な人を「敵」と呼ぶこと自体が、信仰者として決してあってはならないことと思っていましたが、詩篇の祈りをとおして自分の気持ちを訴えられるようになったとき、「もう二度と会いたくない!」と思った相手にも落ち着いて話しかけることができたとのことです。なお、4節でダビデは「私の霊」の状態を「衰え果て」ていると素直に描きます。これは「祈る気にもなれない!」という状態とも言えます。しかも、心は「荒れすさんで」いるとさえ表現しています。
そのような中で5節では三つの黙想の類語を用いながら、「私は思い起こしています 昔の日々を。 思い巡らしています あなたのすべてのみわざを。 御手のわざを黙想しています」と描きます。そしてその結果が6節では、「私は両手を広げます あなたに向かって。 このたましいは 渇いた(乾いた)地のようです あなたを慕って」と表現されます。ある方は自分の歩みを振り返って、「私は平気だ!」と強がって生きてきた自分が両手を広げて「助けて!」と言えるようになったと感謝していました。そして、たましいの渇きを素直に認めるようになると、周りの人も心を安心して開くようになってきました。
8節からは幼児が親に泣き叫んだあとに訪れるような平安な祈りが記され、9節では、敵から救い出され、神の御腕の中に安らぐことが表明されます。また、10節では、神に向かって「あなた」と呼びかけながら、その方を「私の神」と個人的に告白し、その「みこころを」自分の意志としようという、信頼が表明されます。ただ同時に、自分の霊性の弱さを自覚しながら、神の「いつくしみ深い霊」の導きに期待しています。それは、天国への逃避ではなく「平らな地」で、神の霊によって神の意志を生きるという思いです。
最後にダビデは、「私は」と強調しながら、「あなたのしもべですから」と言います。そこには、自分を神が守るべき大切な財産であると見るような思いが込められています。あなたも神にとってかけがえのない存在です。それを認めることこそが信仰の始まりです。
主よ、私はあなたのしもべです。あなたは私を、ご自身のみわざを現わすために選んでくださいました。確かに私は何度もあなたの御名を汚すような過ちを犯しますが、それでも、あなたは私をあわれみ、新たな使命のために生かしてくださることを感謝します。
詩篇144篇1〜15節「主に何でも祈ることができる幸い」
標題には「ダビデによる」と記されますがギリシャ語七十人訳には、「ゴリヤテに対して」ということばが追加されています。1節の原文では、主は私たちの「手」に「戦い」を、「指」に「戦闘」を「教える方」として記されています。ダビデは、身長286㎝の巨人ゴリヤテと戦うとき、「川から五つの滑らかな石を選んで……投石袋に入れ、石投げを手にして」、彼に立ち向かって行き、「手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った」と描かれます (Ⅰサムエル17:40、49)。ダビデは、手と指だけでゴリヤテを倒しましたが、その背後にこの祈りがあります。イエスは「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われましたが、それは何よりもローマ軍との無謀な戦いを避けさせるための、また復讐の連鎖を断ち切るための教えです。「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ5:11) ともあるように「戦い」や「戦闘」の仕方を学ぶべきときがあります。負けてはならない戦いもあるからです。それはビジネスの世界からスポーツにまで適用できる祈りです。
2節では、主があらゆる意味で自分を守ってくださる方であるということが様々な表現で描かれますが、最後には、「この方は私の民を私に従うようにさせてくださる」と描かれます。これは私たちが指導的な立場に立たされるときに、主に願うべきことでしょう。一人の指導者の下にまとまることができるグループには勝利が生まれるからです。
3節の表現は、ダビデ王家がとこしえに立つと言われたときに、彼が「神、主 (ヤハウェ) よ、私は何者でしょうか……あなたは私をすぐれた者として見てくださいます」と感謝したことを思い起こさせます (Ⅰ歴代誌17章16、17節)。人間の価値は、全宇宙の創造主ご自身が私たちを「知り」「顧みられる」ことから生まれるのです。あなたが「神の子」とされたのは、主 (ヤハウェ) があなたに目を留め、ご自身の働きのために選んでくださったからです。
5–7節は詩篇18篇7–19節の要約とも言え、Ⅱサムエル22章でも、ダビデが人生を振り返ったまとめとして同じことばを繰り返しています。親が愛する子を守るために、社会的な立場を犠牲にすることさえあるように、主はご自身の「天を押し曲げて降りて」、私たちのために戦ってくださいます。それが後の神の子イエスに現わされています。また、7節後半と11節初めでは、「異国人の手から 私を解き放ち 救い出してください」と祈られます。これは「置かれた場所で咲きなさい」という有名な教えと対照的にも思えます。また8、11節後半では敵の卑劣さが同じ表現で繰り返され、それを主が知って、助けてくださるようにと祈られます。これも人を最初からさばくような祈りです。しかし、自分で自分の心を制御できないからこそ、詩篇の祈りがあります。私たちも自分の気持ちを素直に神に訴える結果として、「置かれた場所で咲く」ための力をいただくことができるのです。
12–14節では、主語が「私たち」になり、祈られている内容は子どもたちの健全な成長と財産が増えることです。15節にあるように、主こそが「幸い」の源泉だからです。
主よ、私たちは自分の感情を制御できずに何度も失敗します。主ご自身が私に戦う知恵を与えるとともに、置かれた環境を変えてくださる方であることを覚えさせてください。あなたとの祈りの交わりの中で、すべての課題に向き合うことができますように。
詩篇145篇9〜21節「神のご支配を感謝しつつ生きる」
この詩篇は各節の最初の文字が、ヘブル語のアルファベットの順番になっており、神が全世界の真の支配者であるということが強調されています。世界には様々な悲惨や不条理が起きますが、同時に、そこには神のご支配を信じて誠実を全うした人々が必ずいます。レビナスというユダヤ人哲学者は、「ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験でもあった……(彼らは)その真心を示し、ユダヤ人のために、すべてを危険にさらしてくれたのである」と言って、ユダヤ人とキリスト教徒の間には、相互補完的な共通言語があるということを訴えています。そしてこの詩篇こそ、「すべての肉なる者」(21節) を結びつける鍵の歌になるとも言えましょう。
9節では主 (ヤハウェ) いつくしみとあわれみが全被造物に及ぶと記され、10節では全被造物の「感謝」のようすが描かれます (詩篇96:12参照)。この世には驚くべき不条理がありますが、同時にそこに神のご支配の現実を発見することもできます。ですからユダヤ人は強制収容所でも「希望(ハティクバ):現在のイスラエル国歌」をともに歌うことができました。
10節後半では「あなたにある敬虔な者たちは あなたをほめたたえます」と記されますが、「敬虔な者たち」とは、ヘブル語のヘセド(恵み、契約の愛)の形容詞形のハシドゥに由来し「誠実な者」とも訳すことができます。それは、主のヘセド(恵み)によるご支配を理解する者こそが、「誠実な者」として主をほめたたえることができるという意味です。しかも、その目的は「人の子らに」、主の「大能」と、主の「王国の輝かしい栄光」を「知らせるため」です (12節)。そして13節では、主が全世界を治めておられるという現実が歌われます。11–13節で主のご支配を現わす「王国」ということばが四度も繰り返されているのです。
14節では、主 (ヤハウェ) のご支配の現われが、「倒れる者を みな支え かがんでいる者を みな起こされます」と描かれます。これは、人間の王国の支配が、格差社会を生み出し、必然的に社会的弱者を生み出してしまうことと対照的です。15節では、世の権力者ではなく、創造主である神こそが、全世界の人々のいのちを支えている方であると告白されます。
そして16節では、「あなたは御手を開き」という表現から始まり、「生けるものすべての願いを満たされます」と告白されます。18節では「主を呼び求める者すべてに……主 (ヤハウェ) は近くあられます」と記されますが、「呼び求める」には「出会う」という意味も込められています。文字通りに願いがかなうということ以前に、神との出会い自体に意味があるからです。それは、社会と人を恨みながら、自分の心を閉ざすことの反対です。
さらに19、20節では「主を恐れる」こと、「主を愛する」ことが同じ意味で用いられ、主はそうする者の「願い」を「かなえ」、いのちを「守られ」ると約束されます。そのような体験は信仰を活性化させるもので、それは先の神との人格的な出会いとともに、車の両輪のように働きます。ユダヤ人のタルムードには、「詩篇145篇を毎日三度唱える者は皆、来たる世の息子であると保証されるであろう」と記されています(BTベラ四b)。それは、「この詩篇を唱えることで、自分が神の慈しみに頼っていることを毎日三回認識するようになるからである」とのことです。
主よ あなたは、あなたに誠実な者をとおして、歴史を導いておられます。さまざまな不条理がある中で、そこにも主のいつくしみとあわれみを発見させてください。そして、主を呼び求めることができる幸いを、世界に証しさせてください。
詩篇146篇1〜10節「神のかたちとして生かされるために」
これは150篇まで続くハレルヤ詩篇の最初ですが、七十人訳では「ハガイとゼカリヤによる」という標題がついています。この詩篇は、バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちが、それを実現したペルシャ帝国の支配者の顔色を伺うことなく、すべての権力者を立て、また滅ぼしてゆく創造主に信頼するように、訴える趣旨で記されたと言えましょう。
1、2節では、「私は生きているかぎり……いのちのあるかぎり 私の神にほめ歌を歌う」と記されます。最初の人間のアダムとエバは蛇の誘惑の声に負けて善悪の知識の木から取って食べましたが、それは「神のかたち」に創造された者が、神を「ほめたたえる」代わりに自分を神とし、神の命令を軽蔑したことを意味します。そこに「神々の争い」が始まりました。アダムはエバを非難し、その争いから生まれた最初の子のカインは弟を殺してしまいます。そしてアダムから七代目のレメクは、「カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍」という恐怖政治によって支配権を握ろうとします (創世記4:24)。
そして現代は、人工知能(AI)を活用して課題を処理する能力を持った一握りのエリート層が、自らデウス(神)になったかのように振舞い、大衆を支配し、切り捨てて生き残りを図るかもしれないという懸念が高まっています(話題の書「ホモ・デウス」)。そのような中で、この3節では「力ある者(君主)たちを頼みとするな」と警告されます。それがどれほどの人格者であっても「アダムの子ら」に過ぎません。それが4節では、「霊が出て行くと 人(アダム)は」その源であった「土(ヘブル語ではアダマー)に帰る」からと描かれます。その現実は、どれほど科学技術が発展しても、変わりはしません。その人が死ぬと「彼の計画は滅び失せる」というのです。たとえ忠実な後継者がいても、前任者の計画が絶対化される時点で、時代の変化に対応できなくなり、その計画の滅亡の方向が決まります。
5節は、物事が自分の期待通りに進まない中で、その解決をアダムにではなく、主 (ヤハウェ) に期待し、「主を待つ」という生き方の「幸い」が描かれます。自分を神としたアダムの子孫は、人を依存させ、隷属させる傾向がありますが、「ヤコブの神を助け」とする者は、「神のかたち」としての生き方を回復できます。それは、「天と地と海」のすべてのものを創造された方を「助け」とするからです (6節)。しかも、その方は「とこしえまでも真実を守り」と描かれます。主の「真実」こそが、私たちに「真実な」生き方を生み出す力を持っています。しかも7節の3行目から5回に渡って「主 (ヤハウェ) は」という書き出しから始まる表現が続きます。「主 (ヤハウェ) は捕らわれ人を解放される……目の見えない者たちの目を開け……かがんでいる者たちを起き上がらせる」と描かれます。これらすべては最終的な復活以前に、今ここで主が私たちの心を「復活」させ、新しい歩みに導くことを示します。
イエスの癒しのみわざは、打ちひしがれた人を「立ち上がらせ」「生きる勇気を与える」という方向でなされます。それらはすべて詩篇146篇のテーマです。イエスの十字架は死の力に対する勝利の現れでした。それは私たちを内側から復活させる力として働きます。
主よ、私たちはあなたをほめたたえて生きるとき、真の意味での「神のかたち」としての生き方ができます。どうか、救いのない人間の子に依存することがないように守ってください。そして私たちの心の中に、神のかたちとしての生き方を復活させてください。
詩篇147篇1〜11節「新しいエルサレムへの希望」
2節の「主 (ヤハウェ) は エルサレムを建て イスラエルの散らされた者たちを集められる」とは、捕囚の民が再び約束の地に集められていることへの感謝です。イザヤ56章7、8節で、主は「異国の民」までをも、「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる……なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだーイスラエルの散らされた者たちを集める方、神である主のことば―すでに集められた者たちに、わたしはさらに集めて加える」と約束しました。イエスは神殿の外庭から両替人や商売人を追い出されました。それは外庭までしか入れない外国人に礼拝の静寂を回復させるためであり、神が外国人をエルサレムの礼拝に加えられることを示すためでした。
イザヤ56章以降は、終わりの日のエルサレムの完成と「新しい天と新しい地」の実現を預言していますが、その65章17、18節では、主ご自身が、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する……わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする」と言われます。多くの人が思い描く天国(パラダイス)のイメージは、イスラム教の影響を受け、「砂漠の苦しみから逃れて私たちを憩わせてくれるような、木や花や鳥や泉のある庭園という概念」になっているのかもしれません。しかし、聖書の描く「新しいエルサレム」は、「都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた」という豊かさが描かれます (黙示21:18、19)。同時にそこでは、「いのちの水の川が」が「神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れ……十二の実をならせるいのちの木があって、その木の葉は諸国の民を癒した」(同22:1、2) とも描かれます。そこには都市の繁栄と癒しという両面での完成があるのです。
3節では、捕囚の苦しみから帰還した民、「心の打ち砕かれた者」の「傷」を、主ご自身が愛の御手で「包まれ」、「癒される」というイメージが描かれます。イエスも「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3) と言われました。
4–6節では、主 (ヤハウェ) の偉大さが、一つひとつを見分け、個を大切にする誠実さとして描かれます。それゆえ、主はこの世から見捨てられた「心の貧しい者(虐げられた者)」を「支え(引き上げ)」てくださいます。それをもとにイスラエルのことわざでは、「一人の命を救うことは、全世界を救うことだ」(Mishnah Sanhedrin 4:5)と言われます。
10、11節では、主は人間的な「力」を誇る者を「好まれない」と言われ、同時に、「主 (ヤハウェ) が好まれる」のは「主を恐れる者」であると記され、それが「その御恵み(ヘセド:契約の愛)を待ち望む者」と言い換えられます。それは、目の前の状況が自分の期待に反するような悲惨な状態であっても、主のご支配のあわれみと真実とに信頼し続けることです。
この詩篇の約600年後、エルサレムは再び廃墟とされます。それは、敢えて貧しい姿で現れ、虐げられた人々に寄り添った、「御恵み(ヘセド)」に満ちた「救い主」を拒絶して、神の「のろい」を招いたからです。しかし、今、私たちは「新しいエルサレム」が天から降って来るのを待ち望んでいます (黙示21:2)。「救い主」が世界を聖めてくださいます。
主よ 都市には人間の様々な欲望が渦巻いています。しかし、この世界の歴史がエデンの園から都市の完成としての新しいエルサレムに向かうことを感謝します。主を礼拝する教会の交わりを広げることから都市の文化を変えさせてください。
詩篇148篇1〜14節「全被造物とともに主を賛美する自由」
13世紀初めのイタリア中部の自由都市アシジで活躍したフランシスコは、神が全世界を喜びのうちに創造したことをいつも思いながら、太陽を自分の兄弟、月と星を自分の姉妹と呼び続け、全被造物とともに主を賛美するという生き方を貫きました。そこから Brother Sun Sister Moon という伝記映画や賛美歌75「ものみなこぞりて」が生まれます。その原点は3節で、太陽や月に向かって、「主をほめたたえよ」と命じることにあります。
4節の原文では「ほめたたえよ 主を 諸々の天の天よ」と、何層にもなっている天に向かって主をほめたたえるように訴えています。それはサタンが「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれ、「天上にいるもろもろ悪霊」という表現もあるように、神に反抗する天の領域もあるからです (エペソ2:2、6:12)。そこではさらに、「諸々の天の上にある水」に向かって「主をほめたたえよ」と訴えられます。ノアのときの大洪水は、「天の水門が開かれた」ことで起きたと描かれますが (創世記7:11)、それらの領域においても「主がほめたたえられる」ことが、この地上世界の営みが安全に守られ続けることの鍵であると考えられます。
さらに5節の原文では、「ほめたたえさせよ 主 (ヤハウェ) の御名を」と上記の天の万象すべてに向かって「させよ」という使役形で記されます。そしてその理由が、「この方が命じて それらは創造されたのだから」と記されます。また6節2行目の「この方が定めを置かれた」とは、天の法則のようなものを定められたというようにも理解できましょう。そして「それは過ぎ去ることがない」と描写されます。そこに宇宙の安定の基礎があります。
7節以降では「ほめたたえよ 主 (ヤハウェ) を 地の上から」と、1節の「天から」との対比で描かれます。8節ではすべての自然現象と見られるものに対して主への賛美が命じられます。不思議にも「激しい風」が「みことばを行うもの」として描かれます。「風」には主の「息」という意味もあり、それを通して主が気象現象すべてを支配していると述べられています。日本語の「天気」には、「天の気分」という意味が込められているという解釈もあるようですが、そこには「主のことば」というみこころの成就があるというのです。
9節では、地形や植物に、主を賛美するように訴えられています。ローマ人への手紙8章21節では、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」と記されます。それは、この地上世界が狂ったのは、アダム以来の人間の罪によるものなので、この地の人間がキリストの復活にあずかり「神の子ども」として「現れる」ときに、この地上世界全体がすべて新しくされるという希望を語ったものです。
ですから11–13節では、すべての人間が「神のかたち」としての生き方を回復して、創造主なる主 (ヤハウェ) をほめたたえるように訴えられます。しかも13節原文で「彼らにほめたたえさせよ」と記されますが、その「彼ら」には10節の「翼のある鳥」も含まれます。アシジのフランシスコは、あるとき小鳥たちに、「兄弟なる小鳥たちよ。あなたがたを造ってくださった神様のご恩を深く感じていなければなりません」と説教をしたという言い伝えがあります。私たちは全被造物とともに主を賛美することから、真の自由が生まれます。
主よ、すべての見えるもの、また見えない世界のすべてが、あなたによって創造されました。私たちが主を賛美し、また被造物すべてに主への賛美を訴えることには、全世界が神の栄光に包まれるという希望があります。その自由を味あわせてください。
詩篇149篇「主を喜ぶことはあなたがたの力」
2節では「歌え 主 (ヤハウェ) に 新しい歌を」と記されています。三千年前に記された古い詩篇には「新しい歌」という表現が何度も登場します。それは当時、「新しい歌」が次々と生まれたというより、詩篇40篇3節で「主はこの口に授けてくださった。新しい歌を 私たちの神への賛美を」と記されるように、主ご自身が私たちの心を新しくし、新たな気持ちで主を賛美できるように変えてくださるように祈りながら、歌うことの勧めと理解できます。私たちも、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリント5:17) というみことばをもとに、新しい心で、古い賛美歌を歌うことができます。
さらに「主への賛美を 敬虔な者たちの集まりで」「歌え」と勧められますが、「敬虔な者たち」とは、ヘブル語のヘセド(恵み、契約の愛)の形容詞形のハシドゥで、「誠実な者」とも訳すことができます。先の148篇14節では「主は御民の角を上げられた 主にある敬虔(誠実)な者すべての賛美を」と記され、主のヘセド(恵み)を理解する者こそが「誠実な者」として、「角を上げられ」るように神からの特別な力が与えられたと描かれていました。
そして、「敬虔(誠実)な者」ということばはこの詩篇の鍵のことばで、5、6節では「敬虔(誠実)な者たちは栄光の中で喜び踊れ……彼らの口には 神への称賛があり 彼らの手には 両刃の剣があるように」と記され、そこにも「喜び」と同時に、敵を圧倒する「力」が約束されています。まさに「主 (ヤハウェ) を喜ぶことは、あなたがたの力」(ネヘミヤ8:10) なのです。
なお、2節では、「自らの造り主にあって喜べ」が、「自らの王にあって楽しめ」と言い換えられ、この世の王権に目が向けられます。そして7、8節では、全身全霊で主を賛美し、喜び踊る目的が、「それは国々に復讐し もろもろの国民を懲らしめるため 彼らの王たちを鎖に 彼らの貴族たちを鉄のかせにつなぐため」と記されます。これは三千年前のイスラエルが、約束の地を徹底的に占領するように、主から命じられていたという文脈で理解する必要があります。ただ実際には、イスラエルの民が偶像礼拝者と妥協したために、神の民自身が、偶像礼拝の文化に呑み込まれ、神のさばきを受けることになります。
ですから、これは現代的には、神の民に、サタンとしての竜を拝ませようとする諸力との戦いを意味します。私たちの周りには、お金のために友との信頼を裏切るような人も、ときにいることでしょう。イエスの公生涯の初めに、サタンはイエスを非常に高い山に連れて行って、「この世のすべての王国とその栄華を見せて」「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう」と誘惑しました (マタイ4:8、9)。ですから、この世の権力と富を第一にして生きている人は、知らないうちにサタンを礼拝していると言えます。
それに対して、現代のキリスト者には、「子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも 自分のいのちを惜しまなかった」という「誠実」が求められています (黙示12:11)。このサタンである竜に対する勝利が、この詩篇の9節では、「これは 主にある敬虔(誠実)な者すべての誉れである」と描かれています。「新しい歌を主 (ヤハウェ) に歌う」私たちのうちに、主への誠実を全うする力が与えられています。
主よ、私たちはこの世の栄華を見せられて、心が騒ぐことがあります。そのようなときに、そこにあるサタンのささやきに気づくことができますように。そして新しい心で主を賛美する中から、サタンの誘惑に負けない力を生み出させてください。
詩篇150篇「息のあるものみなに ほめたたえさせよ」
それ以外は三つの部分に分けられ、第一は「どこで」神を「ほめたたえる」のかが1節で記されます。最初は「神をほめたたえよ、その聖所で」と記され、次に「彼をほめたたえよ 御力の大空で」と記されます。つまり1節では、諸々の天の領域において神がほめたたえられるようにと願われているのです。これは148篇1–6節の要約とも言えましょう。そして、この箇所を含めこれ以降、5節まで9回にわたって「彼をほめたたえよ」と繰り返されて歌われます。
第二は「なぜ」神をほめたたえるのかが、2節で描かれます。それはまず「大能のみわざのゆえ」と記され、神の御力の大きさが表現されます。さらに「比類なき偉大さにふさわしく」と記され、神の偉大さが私たちの想像をはるかに超えていることが表現されます。
第三は「どのように」神をほめたたえるかが、3–5節で数々の楽器を用いることとともに描かれます。1番目は「角笛を吹き鳴らし」、2番目は「琴と竪琴に合わせて」、3番目は「タンバリンと踊りをもって」、4番目は「弦をかき鳴らし笛を吹いて」、5番目は「音の高いシンバルで」、6番目は「鳴り響くシンバルで」と記されます。ここで角笛を吹き鳴らすのは祭司であり、タンバリンと踊りは「おとめたち」であった (68:25) などと、多彩な人々が心を合わせて神をほめたたえていることがイメージされます。これらを見ると、現代の多くの教会の礼拝は、あまりにも静かすぎると言えるかもしれません。ただ、詩篇の歌のかなりの部分は、神に自分の心の奥底の悲しみや絶望感、怒りや葛藤などを訴えるものです。当然ながら、それらは私たちの心の痛みに寄り添う静かな調子で歌われたことでしょう。三千年前の音楽療法とも言えるダビデの竪琴 (Ⅰサムエル16:23) などはその代表です。
ですからこの箇所から、礼拝に大音量の楽器を持ち込むべきと考えることには注意が必要です。詩篇150篇はそれまでの149もの詩篇の最終結論的な意味があります。これはあくまでも、限られたときの祝祭的な意味での賛美の際に用いられたものなのですから。
そして最後に、「息のあるものすべてに 主 (ヤハウェ) をほめたたえさせよ」と訴えられます。これは詩篇148篇7–12節で、地上のすべての被造物に向かって、主への賛美が命じられていたことを思い起こさせます。すべての獣ばかりか、山々の木々までもが主を賛美していることをイメージすると、「鳴り響くシンバル」でさえも静かすぎると思えるかもしれません。黙示録5章13節では、「天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの」が、御父と子羊なる御子を賛美するようすが描かれています。それこそが歴史のゴールです。
主よ、この世界には多くの悲しみや痛みがあります。それらすべてが詩篇の歌とされていることを感謝します。しかし同時に、世界の歴史はすべての被造物が、創造主と御子イエスを心から喜び、賛美する完成へと向かっていることを覚えさせてください。