ヘブル書を原書に遡って精読し、受肉、死、復活、「律法や預言者」と福音との関係などについて、その豊かなメッセージを解説する。救いの確かさを知り、死の恐怖から解放され、葛藤に満ちた現実の中を大祭司イエスに導かれて歩む人生へと誘う聖書講解書。
発売日:2020年10月1日
発行:いのちのことば社
ISBN:978-4-264-04184-9
定価:2,200円(税込)
「はじめに」
2020年春、全世界が新型コロナウイルスの蔓延で恐怖に陥れられました。特に米国では感染による死者数が初期の三か月間で十万人を超える勢いとなりました。医療体制が追い付かず、ニューヨークの病院では、看護師が回復の見込みのない重症患者の人工呼吸器を取り外して、新しい患者のために使わざるを得ないほどになりました。未知の病のために、症状の推移の見通しが立てられず、突然、重症化し、対処方法もなく死を見守るしかない、または死を見守ることもできない状況に陥れられました。そして、これからこの感染は開発途上国に米国を上回る悲劇をもたらす可能性があります。
つい最近まで、人類は世界的な感染爆発を抑える知恵を得られたという見方もありましたが、そうではないことが実証されました。多くの人々が予測のつかない「死の恐怖」に怯えています。そして、「人命はお金よりも大切」ということで、日常の経済活動を全面的に止めるというロックダウンに至る国々も多く見られました。
ただ、その結果大量の失業者が生まれ、米国の四月の失業者数は14.7%を記録しました。私は十年間、證券会社に勤めていたこともあり、今後の経済が大変気になります。「お金よりは人命」という単純化は避けるべきです。長期的には、この経済危機のほうが人命を奪う可能性がはるかに高いからです。どちらにしても目の前の「死の恐怖」が経済活動を止め、短期間に失業者を急増させ、政府の財政赤字を急拡大させ、今後の経済政策に暗い影を落とすという前代未聞の事態が生じています。米国のような先進国でこのような事態になっているのですから、世界中に圧倒的に多い開発途上国ではどのようなことが起きるか、予断を許しません。
なお日本での死者数は世界標準では驚くほど少ないですが、感染者がいない地域では、だれが第一番目の感染者になるかと、戦々恐々となっていると聞きます。また、ある地域では、最初の感染者が出たとき、その人の職業や家族構成まで話題にされて、ネットの世界で集中攻撃を受け、転居せざるを得なくなったという話も聞きます。
日本では、この「死の恐怖」が社会的な死の恐怖である「見捨てられ不安」として多くの人の心を恐怖に陥れています。私の場合は小学校低学年のときは運動能力が同学年の中で極度に劣っていたため、ソフトボールの仲間に入れてもらうこともできませんでした。その悲しみは今も完全に消えてはいません。小学校高学年からすべてにおいて、「追いつき追い越せ」というモードになりましたが、心の内側では落ちこぼれになることを恐れていました。私は自分をエリートと思ったことはありませんが、いわゆる社会的なエリートと見られる人々の内に住む、社会的な死の宣告を受けることへの恐怖感を身近に聞いてきました。肉体的な死も、社会的な死も、実は驚くほどの共通点があります。「死人に口なし」と言われるように、周りの人々からどれほど不当なことを言われても弁明することができません。しかし、人は自分の名誉を守るためであったら死をも厭わないというほどに、この名誉とか誇りは人間の存在価値を表す鍵の概念です。
ですから、日本では特に、それぞれの所属社会で自分の立場を守るために命がけで戦うということもあります。その背後にあるのは社会的な死を恐れる心です。そしてこれらすべての恐れに囚われた生き方を、「恐怖の奴隷状態」と呼ぶことができましょう。私自身が他の人の評価を恐れ、他の人に合わせて生きる恐怖の奴隷状態でした。最初、聖書の話を聞いて魅力を感じても、村社会から外れるのを恐れて信仰の決心ができませんでしたが、米国留学中にイエスをシュと告白することにある心の自由を体験し、決心がつきました。
古来、多くのそのような肉体的な死、社会的な死の恐怖からの解放を生み出してきたのがへブル人への手紙(以下「ヘブル書」と呼ぶ)2章14、15節で、以下に二つの訳を記します。
「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした」(新改訳2017【新日本聖書刊行会】、以後「新改訳」と表示)
「そこで、子たちは皆、血と肉を持っているので、イエスもまた同じようにこれらのものをお持ちになりました。それはご自分の死によって、死の力を持つ者、つまり悪魔を無力にし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした」(日本聖書協会共同訳【日本聖書協会、2018年】、以後「共同訳」と表示)
そして今も、驚くべき多くの信仰者が「死の恐怖の奴隷状態」から解放された結果、イエスによって遣わされたボランティアとして、ニューヨークやロンドンのような大都市、また貧しい国々の病院において、感染リスクを引き受けるようにして、最前線で生かされています。
この前提には、十字架にかけられたイエスが死の中から復活したという歴史的な事実があります。しばしば、キリストの復活が、十字架による罪の贖いを証明するものという程度に説明されることがありますが、キリストの復活によって世界は根本から新しくされました。そして、このヘブル書には当時のユダヤ人クリスチャンが、その復活信仰をもとに、どのようにユダヤ人の村社会から抜け出る勇気を与えられたかが明らかにされます。ところが残念ながらその部分を強調するヘブル書の日本語の解説書がほとんどないということに気づかされました。
今まで、いのちのことば社さんを通して旧約聖書の解説書を七冊出版させていただきましたが、その旧約解説の延長上に、この書は存在します。新しい聖書翻訳はそれぞれ、ほんとうにすばらしい日本語として翻訳されておりますが、日本語としての自然さを求めれば求めるほど、残念ながら原文のリズムや強調点が隠れてしまいます。本書では、その点を補うことを目標としており、決して新たな翻訳を提示しようとするわけではありません。
現在のキリスト教信仰は、ユダヤ人の信仰から生まれ出たものです。しばしば、キリスト教はユダヤ人の信仰を否定するものと見られますが、正確には、彼らが望んでいたことを成就したのがイエス・キリストであると理解すべきです。事実イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思っては(みなしては)なりません。廃棄するために来たのではなく、成就するためなのです」と言われました (マタイ5:17、私訳)。
「律法や預言者」とは旧約聖書全体を指しますが、それはイエスご自身が親しんだ聖書そのものです。確かに旧約には神殿礼拝に関わる様々な儀式や食物規定が記されますが、それをそのまま適用しなくなったのは、イエスが神殿を完成したからです。神殿は神が民の真中に住まわれるための施設でしたが、イエスにおいて、神ご自身が人となり、民の真中に住んでくださいました。また、神殿は、いけにえを献げて罪の赦しを受けるためにありましたが、イエスの贖いのみわざは、「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入られたのです。それは、永遠の贖いを成し遂げるためです」(ヘブル9:12) と描かれています。
しかも、目に見える神殿は「本物の模型」(同9:24) に過ぎないと記されています。そして、イエスご自身、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」(ヨハネ2:19) という途方もないことを言われました。これは、神殿冒潰罪として、イエスの裁判の際に、違ったことばで引用されましたが、実は、復活によって成就しているのです。そして黙示録21章では「新しい天と新しい地」の実現が、「聖なる都、新しいエルサレムが……天から降って来る」こととして描かれます。それは天と地が一つになり、この世界すべてが真の神殿となって完成する状態です。それは「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ」るという平和(シャローム)の完成の状態です (イザヤ65:25)。
イエスの時代の人々は、神の栄光の現れという神殿の完成と、この地に神の支配が全うされるというシャロームの実現を待ち望んでいましたが、イエスはご自身の十字架と復活でそれらの預言の成就を確かなものにしてくださったのです。
しかもイエスは、「まことに、あなたがたに言います。天と地が過ぎ去るまで、律法の一点一画でも決して過ぎ去ることはありません、全部が実現するまでは」(5:18、私訳) と強調されました。この目に見える「天と地」は過き去り、「新しい天と新しい地」が実現します。それは聖書の預言がすべて成就するときです。そのときまで、旧約聖書にある最も小さな文字も無駄にならず、小さな読み替えも必要はありません。みことばが役割を終えるのは、全部が成就したときになってのことです。歴史とは、神のみことばがひとつひとつ実現していくプロセスです。
そして、このヘブル書こそ、神殿礼拝に親しんでいたユダヤ人の視点から福音を語ったもので、これによって旧約と新約が一つの連続した福音として理解されるようになります。ただ、それがために旧約の知識が乏しい多くの日本人にとっては縁遠い書とも考えられる場合があるかもしれません。しかし、これほどにキリストの神としての栄光と同時に、人間としての弱さの両面を語り、私たちの大祭司として、迷い悩む者の信仰を導いてくださるという実践的な教えはありません。ローマ人への手紙は、キリストにある神の救いのご計画の全体像を語り、私たちに与えられた救いがどれほどすばらしいものであるかを語っています。
しかし、ヘブル書は、私たちがこの地で、神の救いが見えなくなり、信仰を失う誘惑にさらされるという、その葛藤に満ちた現実の信仰生活に語りかけるものです。多くの日本人の心が福音に閉ざされがちで、せっかく救いに導かれたと思っても、教会の交わりから簡単に離れてしまうという現実を前に、私たちは日本人の心のかたくなさを嘆きます。しかし、それはヘブル書の著者が直面していた当時のユダヤ人クリスチャンの現実でもありました。ユダヤ人も日本人も、自分が所属する村社会の交わりを大切にするという点ではきわめて似ています。ですから、この書は日本人にこそ、理解しやすい書かもしれません。
私はヘブル書を最初に読んだとき、「私たち信仰者の希望は天国にある。だから、天国の祝福を身近に感じられるようになることこそ、信仰成長の鍵だ」と思いました。しかし、神学校時代に、古代教会の正統信仰のチャンピオンとも言えるアタナシウスの『ことば(ロゴス)の受肉』を読んで、それまで聞いてきた福音と違った切り口で語られていることに深い感動を覚えました、その中心テキストこそ、先に紹介したヘブル人への手紙2章14、15節です。そこでは私たちを「死の恐怖」の「奴隷」状態から解放するために、キリストがご自身の十字架と復活で、悪魔という「死の力を持つ者を無力化した」と記されています。
多くの日本人は罪の自覚という点で、聖書の福音が理解しにくいと言われます。しかし、多くの日本人が持っている「見捨てられ不安」を「死の恐怖」の観点から理解すると、ヘブル書を中心テキストとするアタナシウスの解説はとても身近に感じられます。
また、多くの聖書学者が、ヘブル書にはキリストの十字架の贖いは記されていても、キリストの復活のことは記されていないと主張しがちだと言われます。確かに表面的に文字を追っていくと、この書では旧約のいけにえとキリストの贖罪が対照的に記されているようにしか見えません。しかし、私はN・T・ライトの聖書解釈に傾倒する中で、彼の協力者であるデイビッド・モフィット博士と知り合うことができ、彼の著書『Atonement and the Logic of Resurrection in the Epistle to the Hebrew(ヘブル人への手紙における贖罪と復活の論理)』を読んで、レビ記からヘブル書の読み方が大きく変わりました。それは、人間イエスが復活を経なければ大祭司になり得なかったということと、復活のイエスが今、神の右の座で大祭司としての働きをしておられるということです。
それと同時に、ライトとモフィットのもとで博士論文を記した山口希生氏から多くのことを学ぶことができました。それによって私は、レビ記のいけにえ規定に、動物の身代わりの犠牲以前に、「いのちを、いのちによって贖う」という中心思想を読み直すことができました。そして、さらにキリストの十字架に、神の御子のいのちの勝利を見出し、キリストのいのちが私たちの「いのち」となって、この荒野の人生を導くというストーリーを見ることができました。
実は、ヘブル書の中心テーマに、キリストの復活と昇天、天の御座でのとりなしがあるのです。しかも、そこで約束されている救いとは、天国でたましいが安息を得るということよりも、新しいエルサレムでの礼拝の完成と私たちの身体が復活して、そこで永遠に喜ぶこととして描かれています。
ヘブル書は、キリストの復活が読者にとって当然のこととして理解されているという前提で記されていると認識することは、この書の読み方を決定的に変えるものです。この解説を通して、そのことを読者の方々にお分かちできれば幸いに思います。
なお、本書は聖書の解説として記されております。僭越ながら、聖書を開くことなく本書をお読みいただくと、「なんでこのようなまわりくどい説明が必要なのか……」と思われ、読む気がしなくなってしまうかもしれません。身近に聖書がなくても、インターネットで「聖書ヘブル人への手紙」と入れて検索していただくと、いくつかの翻訳がすぐ見られます。恐縮ながら、まずそれで全体の流れをご覧いただき、また各セクションごとで事前に当該箇所をお読
みいただければ幸いです。
私たちは二千年前の古典文書に向き合っています。そう簡単に理解できなくて当然です。しかし、本解説を通して当時の問題意識や言葉遣いの特徴などをご理解いただけるなら、難解な聖書のことばが、私たちにいのちを生み出す神のみことばとして迫ってくるかもしれません。しかも、私たちはこれを霊感された神のことばとして受け止めており、恐れの心をもって、原文のギリシャ語やその背後のヘブル語聖書の一文字一文字に丁寧に向き合う必要があると感じております。個人的な解釈と原文のニュアンスを区別しながら記しておりますので、分かりにくい表現があることはご理解いただければ幸いです。
目次
はじめに
- 王なる支配者としての御子(1章1-14節)
- こんなにすばらしい救い——Amazing Grace(2章1-9節)
- 死の力を滅ぼした方に従う幸い(2章5-18節)
- 今日、もし御声を聞くなら(3章1-19節)
- 神の安息に入るための励まし合い(4章1-13節)
- 苦しみを通して大祭司となられた主イエス(4章14節-15章10節)
- 成熟を目指して進む(5章11節-16章12節)
- 神の約束と誓いに生かされる自由(6章13-20節)
- 私たちを完全に救うことができる大祭司(7章1-25節)
- よりすぐれた契約の仲介者(7章26節-18章13節)
- キリストの血が、良心をきよめる(9章1-14節)
- 新しい契約を実現したキリストの血(9章15-28節)
- 主の復活が、私たちを聖なるものとする(10章1-18節)
- 恐れから生まれる希望(10章19-31節)
- 神の都に向かっている信仰者(10章32節-11章40節)
- 神の都を待ち望む信仰(11章7-22節)
- もっとすぐれたものを待ち望んで生きる(11章23-40節)
- 義という平安の実を結ぶために(12章1-11節)
- 天のエルサレム市民として生き始める(12章12-24節)
- イエスに生かされる信仰(12章25節—13章8節)
- 主の辱めを身に負い、天の都を目指す(13章8-25節)
あとがき