自分の「正しさ」が人を攻撃していないだろうか。―「この世」と「教会」の違いを強調しすぎると、独善的・排他的傾向になるキリスト教会に、不朽の神の知恵である「伝道者の書」から、聖書の教えをそのまま受け止め、現実をあるがままに見る姿勢を説く。
発売日:2010年2月1日
発行:いのちのことば社
ISBN:978-4-264-02796-6
定価:1,650円(税込)
「はじめに」
約三十五年前の学生時代、私は英国の女性宣教師から英語とともに聖書を学び始めました。彼女には今も心から感謝していますが、ひとつだけ残念に感じたことがありました。私の質問に対し彼女は、「私は英国人としてビートルズを恥ずかしく思う……」と答えたことがあったからです。
しばしば、キリスト教会は、この世の文化との違いを前面に出すあまり、「自分たちの正義ばかりを主張する独善的で排他的な教え」というイメージを与えてはいないでしょうか。ところが、「伝道者の書」では、「日の下」ということばで、目に見える現実の世界の空しさが分析されており、そこには、仏教の教えとの共通点が見られるような気がします。もちろん、それぞれが指し示す救いの体系は根本的に違います。しかし、時に、聖書の福音を語っているはずの人が、この世界の現実的な悩みに対し、あまりに表面的な理解しかしていないと感じられることがあります。それは、たましいの叫びから生まれる音楽や哲学や宗教的洞察を、批判的に見すぎているからかも知れません。
そのようなことを意識しながら、タイトルを七章一六節の「正しすぎてはならない」とし、その部分の解説で使った Let it be(そのままに)をサブタイトルにしたいと思いました。私の学生時代には、まだマルクス主義のイデオロギーが尊敬を勝ち得ていた時代でした。私は、マルクス主義者たちがこの世界におこるすべての問題を理路整然と解説し、批判するその体系に、何とも言えない違和感を持ちました。それは現実をあまりにも単純化しているように思えたからです。
そして、その後、聖書を読めば読むほど、世で説明されているキリスト教の体系や枠組みにも、聖書の教えの大切な部分を切り捨て、単純化しているものがあるように感じました。現実をあるがままに見ると同時に、聖書の中で、一見、互いに矛盾しているように思える教えや、理解しがたい表現を、あるがまま受け止め、人間的な解釈を加えようとしないという姿勢(Let it be)こそが、大切ではないでしょうか。そして、「伝道者の書」こそ、互いの正当性を主張するイデオロギー的とも言える対立に、まったく新しい視点を与えてくれる不朽の神の知恵です。
なお、この書の結論は、「神を恐れよ。その命令を守れ」というものです。ただ、最初からそれを前面に出すと、多くの日本人は、それを、「こんなことをしたらバチが当たるのでは……」などという萎縮した生き方に結びつける恐れがあります。また反対に、「神を恐れようとしない者」への敵意を正当化する場合もあり得ます。実際、アメリカ南部の過激な信仰者たちは、ジョン・レノンが一九六六年に、「僕たちは今や、イエスより有名だ……」と発言したことに抗議し、ビートルズのレコードを焼き討ちにして、彼らのコンサート予定を中止に追いやりました。
しかし、本来、神を恐れ、神の最終的なさばきを信じるなら、自分の「正しさ」の基準によって人を攻撃する必要などありません。また、自分を襲う不条理を、神の罰と受け止め不安になる前に、Let it be(そのまま)にして神の導きを待つことができるはずです。また同時に、「今、ここで」、すでに与えられている神の恵みを感謝できます。また、神の眼差しを意識すればするほど、神が創造された広い世界に心が向かいます。歴史を振り返っても、真に神を恐れた人々は、この世の不条理を性急に正そうとして新たな問題を生み出すことなく、忍耐をもって対処できています。
この書は、「エルサレムの王、ダビデの子、説教者のことば」と最初に紹介されていますから、教会の伝統では、ダビデの子、ソロモン王によって今から三千年近く前に記されたと言われています。新共同訳聖書は、この書名を原文そのままに「コヘレトのことば」としていますが、コヘレトは、「集会の説教者」という意味だと思われます。日本では「伝道の書」または「伝道者の書」という呼び名で親しまれています。ソロモンは、イスラエルの王とされたとき、神から「知恵の心と判断する心」(Ⅰ列王三・一二)をいただきました。そして、シェバの女王は、彼の名声を聞いて遠くから来たとき、「なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことができる家来たちは」と感心しました(Ⅰ列王一〇・八)。そして、私たちはこの書を通して、彼女が感嘆した「知恵のことば」を聞くことができます。
また、この「伝道者の書」は、現代の日本とは遠く離れた世界を基に記されているようでありながら、この目に見える世界に生きることの悩みやそこで得た洞察などは、現代にそのまま適用できます。実際、聖書には、戦争や飢饉など危機的な状況下で記された多くの記事がありますが、この書は、平和と繁栄の中での現実生活の空しさを描いているという点で、現代の日本により身近な内容です。
学問的にすぐれた聖書の解説は数多くありますから、私のような者が新しい翻訳と解説を記すことには大きな躊躇がありました。しかし、回り道をしながら聖書の教えに魅せられ、また国際金融の世界から牧師としての働きに召され、今も数多くの悩みを抱えた方々のご相談にのらせていただいているからこそ見えていることも多いのではないかと思い、出版を決意しました。
また、この書で原文からの独自な翻訳を提示しましたのは、決して、既存の聖書翻訳を批判するためではありません。私の教会では新改訳聖書第三版を礼拝において用いており、その翻訳の正確さに関しては心よりの敬意を抱いております。また新共同訳のわかりやすさも助けになっています。しかし、ヘブル語の詩文の翻訳は、ある意味で、不可能への挑戦とも言われます。実際、この書の特に難解な箇所で、いくつかの翻訳を提示すると、何人もの方が、「これらは同じ原文から翻訳されたのですか」と驚かれます。時に大胆な解釈を入れないと現代の日本人に理解できる表現にならないからでしょう。ただ、それでもこの私訳は、過去十五年来、何度も手直しを加え、英語やドイツ語などの多くの翻訳も比べながら、伝統的な翻訳の枠に留まるように心がけたものです。
なお、翻訳に当たっては、原文のリズムとことばの繰り返しに特に注意を払っております。少し日本語としてぎこちなくなくなっても、同じ原文は同じ日本語で表現することで、原文でどのことばが強調されているかをわかるようにしました。また並行法やレトリック、語順なども、日本語として不自然にならない範囲で、原文を少しでも生かすように心がけております。ですから、各章の解説以上に、この翻訳を通して、この詩文の原典の美しさを推察していただければ幸いです。
目次
はじめに
第一部 「『空の空……』と言われる中での平安」
「自分の人生を生きてね」
「空の空、すべては空」
「地はいつまでもそこにある」
「何もかもが疲れることばかり」
「神が与えたつらい仕事」
「般若心経」と「詩篇の祈り」
「あらゆる快楽に心を開く実験」
「ジョン・レノンの悟り」
第二部 「四苦八苦の人生を、神の御手の中で」
「何のために」
「労苦が、災いの種になる」
「人生の四苦八苦を受け止める」
「神から離れて……誰が楽しむことができよう」
「すべての営みには時がある」
「すべてをご自身の時に美しく」
「神のなさることは永遠に残る」
「労苦は、主にあってむだでない」
第三部 「猿に似ていながら、神のかたちとして生きる」
「明日に架ける橋」
「人は獣にまさりはしない」
「死を意識して、今を生きる」
「ふたりはひとりよりも善い」
「ひとりよりもふたり、ふたりよりも三人」
「権力者の交代」
「神を恐れよ」
第四部 「『影の国』での、満ち足りた生活とは」
「サティスファクション」
「不正に驚いてはならない」
「富の悲劇」
「裸で来て、裸で去って行く」
「労苦の中にしあわせを見いだす」
「死産の子のほうがしあわせ」
「影のような人生の中で」
「胃癌の中で示されたこと」
第五部 「そのままにして (Let it be)、神を仰ぐ」
「Let it be(そのままに)」
「苛立つことは笑うことにまさる」
「心の貧しい者は幸い」
「歴史 (History) は、神の (His) 物語 (Story)」
「災いは、神の罰ではない」
「正しすぎてはならない」
「自分の罪と尊厳とを同時に知る」
「無知の知」
「自己正当化の必要をなくす救い」
第六部 「成功の意味を知る―今ここにあるしあわせ」
「ヨーコ(洋子)が教えた成功の意味」
「誰も王に、『あなたは何をなさるのか』と言えない」
「時とさばきを知る」
「神を恐れる者は……しあわせである」
「宗教は……アヘン」か?
「死の不安がもたらす狂気」
「ジョンの心の叫び」
「死人は何も知らない」
「愛する妻(夫)との生活を楽しめ」
第七部 「望みに生きる―時と機会はすべての人に巡ってくる」
「希望という名の……」
「能力を磨く、その限界を知る」
「時と機会は……巡ってくる」
「静まった中で聞かれる知恵ある者のことばは」
「健やかな心 (Serenity) をもたらす知恵」
「パンドラの箱の神話と聖書の教え」
「成功をもたらすのに益となるのは知恵」
「愚か者たちの労苦」
「品位を保つ生き方とは?」
「主よ、人の望みの喜びよ」
第八部 「元気のあるうちに、あなたの創造者を覚えよ」
「悲しいことを忘れるために歌う?」
「三千年前の投資の勧め」
「どれが成功するかを知らないから……」
「青年よ。大志を抱け」
「老年になる前に、あなたの創造者を覚えよ」
「死を迎える前に、あなたの創造者を覚えよ」
「神を恐れよ。その命令を守れ」
「新しい天と新しい地を目指して」
おわりに
引用文献