今ここに生きる預言書
三大預言書、ダニエル書の解説

今ここに生きる預言書

預言書を通して、私たちに与えられている主の約束を読み解き、不条理な今をどう生きるべきかを考える。閉塞感に満ちた時代を歩むキリスト者へ希望と励ましを与えるメッセージ。

イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ヨハネの黙示録から主要な箇所を取り上げて解説。扇動的な終末論にまどわされることなく、来るべき新天新地をしっかりと見据えつつ、苦難に満ちたこの世を堅実に責任をもって生きる道を説く。慰めと励ましのメッセージ。折り込み図表付き。

発売日:2012年8月1日
発行:いのちのことば社
ISBN:978-4-264-03042-3

いのちのことば社サイト

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CGNTV Japan「本の旅」インタビュー


「はじめに」

2011年3月11日の東日本大震災まで、多くの人々は日本でこのように悲惨な原子力発電所の事故が起きるなどとは夢にも思わなかったことでしょう。この後、ドイツのメルケル首相は「日本で起こった出来事は、これまで絶対ないと考えられてきたリスクが絶対ないとは言えないという事実を教えてくれている」と言いながら、脱原発への政策を明確にしました。事故後、次々と原因が明らかになってきました。それによると、日本政府も東京電力も、「安全神話」のようなものを前提に原発事業を推進していたということです。

今から二千六百年前にも同じような「安全神話」がありました。それは「神の都、エルサレムは不滅だ……」というものです。それに対し、神が遣わした預言者たちは、それが幻想に過ぎないと言いつつ、人々の目を、永遠に変わらない真理へと向けさせました。

震災直後の中学校の卒業式で十五歳の少年が、「自然の猛威の前には人間の力はあまりにも無力で私たちから大切な物を容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というにはむご過ぎるものでした。つらくて悔しくてたまりません。……しかし、苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことがこれからの私たちの使命です」と語ったことが日本中の感動を呼びました。神がなぜあのような悲惨を、このときここで許されたかはわかりません。しかし、この少年は三人の友を津波で失うという悲劇を通して、自分にとっての「使命」を明確に意識するようになっています。

聖書の預言は、未来予測ではなく、目に見える私たちの人生の土台がいかに崩れやすいものであるかを示しながら、永遠の神に信頼することを勧めるものです。それは未来を把握したいという人間の願望を満たすものではなく、「今ここで」、どのように生きるべきかを教える永遠の真理の書です。

ところで、牧師として聖書のメッセージを取り次ぎ始めて間もなくの頃、ある米国出身の元宣教師のご婦人が、「先生は聖書の預言がすべて成就すると本当に信じておられますか。たとえば、エゼキエル40章以降のエルサレム神殿の復興を信じておられますか……」と問いかけて来られました。私はその問いに明確にお答えすることはできませんでした。米国の多くの保守的な信仰者は、1948年のイスラエル国家の建設を聖書の預言の成就と見て、イスラエルの支援を自分たちの使命と捉えていますが、エルサレム神殿の再建までもが聖書の預言の成就として必要と認識するなら、同じくエルサレムを聖地のひとつと捉えるイスラム教諸国との対立は不可避となります。その上、中東での戦争のたびに、預言書にある終わりの日の戦争が始まりそうだなどという書籍が書店に平積みにされたことがありました。私はずっと、そのような聖書の読み方がしっくりとは心に落ちずにいました。

一方、宗教改革者マルティン・ルターは私にとってかけがえのない教師ですが、一つ大変に残念に思うことがあります。ルターは宗教改革の初めはユダヤ人に対してきわめて同情的で、「イエスは生まれつきのユダヤ人であった」という文書をしたためたほどです。そこで彼は、ローマ・カトリックはユダヤ人を犬のように扱い、福音を語ってこなかったから、ユダヤ人は回心できなかったと言いました。ところが、ユダヤ人は、宗教改革運動に乗じてキリスト者に働きかけ、安息日をユダヤ伝承で守るように教えたり、割礼の儀式を復活させたりし、ルターの改革運動の最も恐ろしい敵対者になってしまいました。それで彼は態度を百八十度逆転させ、国の指導者にユダヤ人の会堂を焼き払い、彼らの家を壊し、商取引から締め出す法律を作るように促しました。彼の最後の説教はユダヤ人の国外退去令をドイツの領主に勧めることでした。残念ながらそれは、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の根拠とされてしまいました。

それにしても、ユダヤ人は福音の敵となっているという見解と、神はユダヤ人を愛し、特別な計画をお持ちであるという見解は、互いに相容れないのでしょうか。不思議にもパウロはその両面を受け入れるように、「彼ら(ユダヤ人)は、福音によれば……神に敵対している者ですが……選びによれば……愛されている者なのです」と言いながら、「神の賜物と召命とは変わることがありません」と論じています(ローマ11・28、29)。

確かに、救いはユダヤ人から始まっていますが、キリストの十字架の奥義は、何よりも、異邦人とユダヤ人が和解できるということにありました。それをパウロは、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです」(エペソ2・14、15)と記しています。つまり、キリストの十字架は、ユダヤ人と異邦人の間の、「敵意を滅ぼし」、二つの民を一つの民とするためであったというのです。そして、ユダヤ人とギリシヤ人の和解ということは、現代的には、日本人と韓国人の和解、黒人と白人の和解、スペイン語圏と英語圏の和解、など様々なことに適用できます。

旧約聖書はイスラエルに対する最高の「賜物」であり、彼らへの「召命」の書ですが、そこには彼らが「世界の光」として、神の一方的なあわれみを謙遜に分かちあうという使命が記されています。そして、イエスこそ、それを可能にしてくださる真の意味でのイスラエルの王です。

神の救いのゴールは、「新しい天と新しい地の創造」です。そこでは、神の平和(シャローム)が全世界に満ちます。それこそ旧約聖書に記されたユダヤ人の夢であり、私たちの希望です。ユダヤ人も異邦人も、神の一方的なあわれみと選びによって神の民とされました。そこには常に、神の平和を世界に広げるという使命がセットになっているのです。

なお、私は、かつて日本福音ルーテル教会で受洗の恵みにあずかり、仕事でドイツに六年間あまり滞在したときに、プロテスタント教会の源流を作ったマルティン・ルターを心から尊敬しながらも、現在奉仕している福音自由教会と発祥を同じくする自由教会の流れへと移りました。それは聖書を誤りなき神のことばと信じる聖書信仰の立場を明確にする必要を感じたからです。

ただ、そのような福音派の神学が、終末論の理解においては、十九世紀末から二十世紀半ばにかけて体系化されてきた神学の影響を強く受けていることに違和感を覚えてもいました。一方、それでも福音自由教会の牧師として、「主イエス・キリストの御自身による千年王国前の、切迫した再臨を待ち望む」という教理を心から受け入れています。それはこの世の政治や社会改革運動への幻想を抱かずに、福音によって一人ひとりの生き方が変えられるということを第一に目指すことがキリスト教会の使命であると信じるからです。

それにしても私の中では、伝統的なルター派神学と自由教会的な終末論をどのように調和させるかが大きな課題になっていました。しかし、1999年にカナダのリージェントカレッジでもたれた牧師向けのセミナーで、N・T・ライトとゴードン・フィーの集中講義を聴きながら、旧約と新約の連続性や、聖霊論を中心とした聖書の一貫したテーマに目が開かれました。その後、当教会の礼拝では創世記から順番に説き明かすようにしました。その結果が、『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って(モーセ五書の解説)』『哀れみに胸を熱くする神(ヨシュア記から列王記、哀歌の解説)』『正しすぎてはならない(伝道者の書の翻訳と解説)』『心を生かす祈り(三十の詩篇の私訳交読文と解説)』につながりました。幸い、それぞれの書ともに再版を重ねることができています。

今回は本来、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルの全章を網羅した本にしたかったのですが、現下の出版不況に配慮し、特に新約と密接に結びつく箇所の解き明かしのみを掲載することにしました。ただ、ダニエル書だけは分量が少ないのですべてを掲載させていただきます。

米国のブッシュ前大統領の外交政策と米国の保守的な福音派の神学の結びつきが、日本のマスコミでもしばしば話題になってきました。そして、福音派というと、この世の常識を真っ向から否定したり、戦争による問題解決を正当化したり、東日本大震災を神のさばきの現れなどと解釈する危ない教派かのように誤解されることが多くなりました。そして、確かに、十九世紀末から米国の福音派で盛んになってきた預言書の解釈にはそのような誤解を生む余地があるように感じられます。私の願いは、この預言書の解説をお読みになる方が、この地に平和を広げることこそが、神のみこころであることを聖書全体を通して理解してくださるようになることです。そのために、この預言書の解説が少しでもお役に立つことができれば幸いです。