1 苦しみを恐れず、いつも一緒に主をたたえよう。

最初に、「あらゆるときに」「いつでも」(一節)という繰り返しで、ダビデは順境のときばかりか逆境のときにも、主(ヤハウェ)を賛美すると告白します。それは、「主はその愛する者を懲らしめる」(ヘブル一二・六)とあるように、私たちは逆境を通してこそ自分の生き方を振り返り成長させていただくことができるからです。ただし、それは自分の心を偽ってまで、「感謝します!」と言うことではなく、自分の正直な気持ちを主に向かって告白することにほかなりません。
 そして、「主(ヤハウェ)を、このたましいは誇る。苦しむ者は、それを聞いて喜ぶ」(二節)とは、サウル王に追われて、絶体絶命にあるダビデのことばだからこそ、同じような苦しみにある人への慰めになります。イエスご自身、十字架上で「わが神、わが神……」という詩篇二二篇の初めのことばを口にしておられますが、この詩篇も繰り返し心に留めていたのではないでしょうか。
 私たちは、キリストの十字架を覚えるとき、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません」という告白に導かれ、同時に、キリストの復活を覚えるとき、「試練とともに脱出の道」が常に備えられていると告白できるようになります(Ⅰコリント一〇・一三)。そして今、キリストご自身がこの歌を用いて、「主(ヤハウェ)をたたえよ、私とともに。御名をあがめよう、ひとつになって」と私たちを主への賛美へと招いておられるのです。
 「主(ヤハウェ)を呼び求めると、主は答え……救い出してくださった」(四節)とは、すべての「救い」のパターンと言えましょう。しかもそれは、「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」(イザヤ四九・二三)などのように、日本人に馴染み深い「恥」ということばでも表現されます。ダビデにとって、恐れの余り狂人のふりをしたことは「恥」でしたが、それから救い出されたことを振り返りながら、「主を仰ぎ見る者たちは輝き、その顔は恥を見ることがない」(五節)と告白したのではないでしょうか。ここには「主を仰ぎ見」、「輝き」、「恥を見ない」という流れが見られます。
 イエスご自身も、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座され」(ヘブル一二・二)とあるように、辱めを忍んで栄光を受けられました。ですから、私たちにとって、キリストの復活こそ、「悩む者の叫びを、主(ヤハウェ)は聞かれ、すべての苦しみから救ってくださる」(六節)ことの保証なのです。


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