2「主のすばらしさを味い、これを見つめよ」

多くの人は「苦しみ」や「人の目」を恐れて生きていますが、聖書は繰り返し「主を恐れる」(七、九節)ことを第一とするように教えています。そして、主はご自分に背を向ける者を厳しく裁かれますが、ご自身を恐れ、ご自身にすがろうとする者には豊かなあわれみを示してくださいます。
 ここで、「主(ヤハウェ)の御使いが陣を張り 主を恐れる者を囲んで助け出してくださる」(七節)と記されますが、その情景は預言者エリシャの記事に記されています。エリシャはあるときアラムの大軍に包囲されます。彼の弟子はパニックに陥りましたが、そのとき「主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」というのです(Ⅱ列王六・一七)。私たちもこの世の生活で圧倒的な敵に取り囲まれているような恐怖を味わうことがあるかもしれません。しかし、私たちが主を恐れ、主にすがって生きているなら、主ご自身が、敵と私たちの間に御使いを配してくださり、守ってくださいます。
 「味わい、見つめよ。主(ヤハウェ)のすばらしさを」(八節)は、古来、聖餐式でよく用いられるみことばでもありますが、これは何よりも、私たちが日常生活の中で、主を呼び求め、主に向かって叫び、主を恐れることを通して、今ここにある現実の中で味わうことができるものでもあります。
 なお、「若い獅子(一〇節)は、自分の力に頼る者の象徴であり、この世の常識は、人が「若いライオン」のようになることで幸せになれると教えます。しかし、「主を恐れる者」また「主を求める者」こそが、どんな時にも「乏しいことがない」という恵みを味わうことが許されるというのです。ここで、「恐れる」と「求める」が、並行法で同じ現実を表しているのは興味深いことです。「恐れる」は、「恐がる」と同時に、親密さを伴った「畏敬」の念をも含むからです。


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