3「主を恐れることを教えよう」
一二〜一六節は、ほとんどそのままでⅠペテロ三・一〇〜一二で引用されますが、その直前には「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(同三・九)と記されています。その意味は、「だれでも、いのちを喜び、幸いな日々が続くのを望むなら」、人の言動に振り回されて「舌に悪口を言わせ」たり、「唇に欺きを語らせ」たりすることなく、「平和を求め、追い続ける」生き方を全うしなければならないということです。
そして、それができるための秘訣は、ただひたすら、「主の目」と「主の耳」に望みを抱き(一五節)、主が私たちの良い行いに正しく報いてくださることを信じることです。そしてそれと同時に、「主の御顔」は「悪をなす者に立ち向かい、彼らの記憶を地から消し去る(一六節)とあるように、主ご自身が私たちに代わって報復してくださることを信じることです。主は、ソドムやゴモラを天からの火で焼き尽くされましたが、同じようなさばきがこの世界の終わりに実現します。
つまり、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい(ローマ一二・一九)とあるように、私たちが悪に報いなくても、神が報いてくださるのです。ですから、私たちも人を恐れず、主を恐れて生きるなら、この口からも柔和なことばを発する者に変えられることでしょう。その際、私たち自身が、「悪をなす者」として、主の怒りの御顔を向けられることがないように、注意しなければならないのはもちろんのことです。
ところで、この詩篇の前半は、主への賛美から始まり、後半は「舌を制する」ことから始まります。心からの神への尊敬の思いは、神のかたちに造られた隣人への、心からの尊敬として現れるはずだからです。しかし、実際には、「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます(ヤコブ三・八、九)というような現実がしばしば起こります。本来、私たちが心から神を恐れ、「主の目」、「主の耳」「主の御顔」を意識して生きていたとしたら、相手がどれほど悪いとしても、自分の「舌」と「唇」を制御することができるはずではないでしょうか。
つまり、「いのちを喜び、幸いな日々」を過ごしたいと願うなら、心の目を自分ではなく、主に向けることが何よりも大切なのです。それは聖書が一貫して語っていることで、イエスご自身も、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ六・三三)と言われました。私たちの目は、自分の外を見るように造られていることを忘れてはなりません。