4 正しい者のわざわい(悩み)は多い

ところで、主の御前に「正しい者」(一九節)とは、主を恐れ、主に向かって「叫ぶ者」(一七節)にほかなりません。また、その人は「心の砕かれた者」「打ちひしがれた霊」(一八節)でもあります。なぜなら、「正しい者」とは、パリサイ人のように「自分を義人だと自任している」(ルカ一八・九)者ではなく、たとえ自分の行動に過ちがないと自負していても、「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました」と、神への恐れが足りなかったことを悔い改めたヨブのような人を指すからです(ヨブ四二・一〜六)。私たちはなんとしばしば、「自分を義とするために、神を罪に定める」(同四〇・八)ようなことをしてしまうことでしょう。イエスは、行いの正しいパリサイ人よりも、悪人の代名詞のような取税人を「義」と認められました(ルカ一八・九〜一四)。その不思議さをもっと味わう必要がありましょう。
 しかも、「正しい者のわざわい(悩み)は多い」(一九節)とは、「苦しみは罪の報い」という因果応報的な考え方を一言で砕く宣言です。ローマ帝国の時代、キリストについての最大の疑問は、「十字架に架けられた犯罪人がどうして救い主であり得ようか?」というものでした。しかし、キリストは神のみこころに従って、私たちの身代わりとして苦しまれたのです。つまりキリストにおいて苦しみに積極的意味が与えられました。ですから、私たちはわざわいに会っても、人を恨んだり、誤った選択を悔やんで自分を責める必要はありません。ペテロは、「燃えさかる火の試練」に会って苦しんでいる人に向かって、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです(Ⅰペテロ四・一二、一三)と語っています。
 「主(ヤハウェ)は……彼の骨のことごとくを守られ、その一つさえ砕かれることはない」(一九、二〇節)とのみことばは、ヨハネの福音書一九章三六節で引用されます。キリストのみからだは、十字架にかけられはしましたが、当時の慣習に逆らって、骨を折られることがありませんでした。ここで「砕かれることはない」ということばは、一八節の「心の砕かれた」と同じことばが用いられています。キリストは罪人と同じ姿になるまでご自分を卑しくされ、「心」も「霊」も「砕かれた者」とされました。その十字架の死にまでも従う従順さのゆえに、主(ヤハウェ)は、そのみからだが「砕かれることはない」ように守ってくださったのです。


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