5 わざわいは、悪者を殺すが、正しい者を生かし、栄光の姿に変えるきっかけとする

一九節に記された「正しい者」が出会う「わざわい」(悩み)と、二一節に記された「悪者」が出会う「わざわい」(悪)には不思議な対比が見られます。「わざわい」は、罰ではなく、信仰を練るための神の方法ですが、信仰のない者(聖書の言う「悪者」)は、「わざわい」が益に変えられることはなく、かえって神と人への恨みをつのらせ、霊的な死をもたらす原因となります。一方、「正しい者」は、神によって守られ、先にペテロが語っているように、わざわいを通して栄光の姿に変えられます。
 最後に、「主(ヤハウェ)はそのしもべのたましいを贖う方」(二二節)とあるように、主は、主のしもべとして生きようとする者のたましいを贖い、「罪に定める」ことなく義と認め、永遠の祝福に入れてくださいます。ですから、この詩篇を記したダビデは、詩篇二三篇で、「たとい 死の陰の谷を歩むことがあっても わざわいを 恐れはしません。あなたが いつもともにいてくださいますから」と歌っています。そして、この「わざわい」と訳されたことばは一九、二一節と同じヘブル語の語源です。「わざわい」を直接もたらすのがサタンでも、主は、それをご自身の栄光のために用いられます。キリスト者にとって、わざわいはすでに聖められた悪となっています。

苦しみによって人は謙遜を学ぶことができます。もし、神が、悪を直接的に滅ぼそうとなさるなら、私は今どこにいるのでしょう? キリストは、私たちの悪に耐えることによって、私たちを救おうとされたのです。主のすばらしさを味わい、これを見つめましょう! そこには、悪に対する神のさばきに対する恐れ以上に、罪人を赦す神の愛への畏敬の思いが生まれることでしょう。


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