「主(ヤハウェ)を恐れ、主のすばらしさを味わえ」

この詩篇には背景の説明があります(Ⅰサムエル二一・一〇〜一五)。ダビデはサウル王から無実の罪で追われ続けていましたが、居場所がなくなり、イスラエルの敵であるペリシテ王のもとに身を隠さざるを得ないところまで追い詰められました。しかしそこでも自分の正体が知れそうになってしまいました。彼はひげによだれをたらした気違いを装いながら、命からがら逃げました。このときの彼は、ひとりぼっちで居場所もない切羽詰った状況でした。
 しかし、そこから彼の転機が生まれました。彼が身を隠したアドラムのほら穴には彼の父の家の者たちばかりか、「困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった」(Ⅰサムエル二二・一、二)というのです。これは中国の『水滸伝すいこでん』にある故事「梁山泊りょうざんぱく」と同じようなことがその二千年余り前に起こったことを意味します。彼はその中で、無頼漢ぶらいかんたちに、この歌によって、主を恐れることを教えたのかもしれません。とにかくこのダビデの最初の集団は、互いのために命を捨てる覚悟を共有するような固い絆で結ばれていました。孤独の逃亡者という痛みから、主にある聖徒の交わりが生まれたのです。
 ダビデは、困難の中で受けた慰めを、覚えやすい一つの歌の形にまとめました。各節の始まりはヘブル語のアルファベットの頭文字の順番に並んでおり、字の練習にもなります。ダビデは、自分が受けた慰めが、すべての子孫の慰めともなることを願っているのでしょう。
 そしてこの二十二節からなる詩には、いわゆる「キリスト者の霊性」の教えの核心が記されているとも言えます。これは現代の私たちにとってもかけがえのない歌となっています。


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