3「御子に口づけせよ」
そして、主(ヤハウェ)はこの世界に対し、王としての「布告」を発せられます。それは、ダビデ王国の支配が全世界に広がることを意味しました。ただ現実には、彼の支配地は約束の地カナンに限られていましたから、その完全な成就は、「ダビデの子」としての救い主の出現を待つ必要がありました。イエスのバプテスマのとき、天からの声が、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と響いたのは、主(ヤハウェ)が「私」に、「あなたはわたしの子」と言われたというこの預言の成就でした。また、「わたしは きょう あなたを生んだ」とは、新約時代の使徒たちは、「神は、イエスをよみがえらせた」ということを指していると理解しました(使徒一三・三三)。
しかも、私たちも、イエスに結びついていることで、「あなたは、わたしの愛する子」と呼ばれる神の子とすでにされており、神の霊によって「新しく生まれ」ているのです。
そしてまた、この「あなたは わたしの子 わたしは きょう あなたを生んだ」(七節)という布告は、イエスが父なる神の右の座に着かれたことをも指していると言われます(ヘブル一・三〜五、五・五)。実際、イエスが十字架にかけられるのが決定的になったのは、ご自分が全世界を治める王として、「天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになる」(マタイ二六・六四)と当時の宗教指導者たちに言われたからでした。彼らはそれを神に対する冒濱としか見ることができなかったのですが、イエスはダビデにはるかにまさる王として神の全権を委ねられた方だったのです。そのことが、ここでは「地の果てまで あなたのものとする」(八節)と歌われています。
また、「鉄の杖で彼らを打ち 焼き物のように粉々にする」(九節)は、ヨハネの黙示録で三回にもわたって(二・二七、一二・五、一九・一五)、再臨のキリストが力を持ってこの地を治めることとして引用されています。救い主は、二千年前はひ弱な赤ちゃんとしてこの地に来られ、神の優しさを示されましたが、今度は剣を持って神の敵を滅ぼすために来られるからです。
つまり、ここにはキリストの誕生から再臨までが合わさって預言されているのです。そしてここには、今、私たちの救い主イエス・キリストが、すでに「王の王、主の主」としてこの地を治めておられるという霊的な現実が預言されているのです(黙示録一一・一五、一九・一六)。ですから、ヘンデルのハレルヤコーラスは、この詩篇二篇から導かれる必然的な帰結です。
私たちの教会の群れの基礎を築いてくださった古山洋右先生は、ご自身の葬儀の際にはぜひこのハレルヤコーラスを歌ってほしいと切に願われ、今から十二年前の最も悲しいときに、私たちは、目に見える現実を超えたキリストのご支配をともに高らかに歌いました。
「御子に口づけせよ 怒りを招き その道で 滅びないために 怒りは今にも燃えようとしている」(一二節)とは、キリストに臣下としての礼をとることを意味します。そうでないと私たちは神のあわれみを軽蔑した者として、悪者どもとともに神の怒りを受け、滅ぼされるというのです。
そして、最後に、「幸いなことよ」と繰り返され、御子に身を避ける者の幸いが強調されます。イエスは、あなたの罪を担って十字架にかかってくださったからです。
そして、最後にキリストにおいて成就したことが、キリストにつながる私たちにおいても成就するということを常に覚えるべきでしょう。キリストにつながる者は、「キリストとともに……王となり」(黙示録二〇・四)また「永遠に王となり」(同二二・五)、そして「世界をさばく」(Ⅰコリント六・二)と保証されているのです。ですから、私たちはあらゆる「苦しみ、迫害、飢え、危険」に囲まれながらも、今ここで、すでに「圧倒的な勝利者」(ローマ八・三七)とされていることを喜ぶことができるのです。
私たちの人生がどんなに厚い雲に覆われているように思えても、その上には太陽が輝いています。キリストに従う者は、この世界を平面的にではなく立体的に見ることができます。人は、自分の過去の苦しみをまったく違った観点から見られることがあります。それと同じように、私たちは、キリストの復活と再臨という霊的な枠からこの世界の現実を見るときに、「自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている」(Ⅰコリント一五・五八)と言うことができます。
そして、その意味で、「主の教えを喜びとする」者は確かに、「行うすべてが繁栄をもたらす」と断言することができ、「主の教えを喜びとし……思い巡らす」者は、永遠に「幸いな人」と呼ぶことができるのです。
なお、私たちはキリストとともに王とされる者として、この地に遣わされます。それはこの世に対して権威をふるうためではありません。主イエスの王としての姿は、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテロ二・二三)という姿に表されています。私たちが人の悪に対して条件反射的に対応しているうちは、王ではなく奴隷に過ぎません。イエスが父なる神の権威に服した王であったように、私たちも「王の王、主の主」である方の権威に服しながら、何よりも自分の感情を治める王であるべきでしょう。
私たちの感情ほど厄介なものはありません。私たちは自分の感情に優しく寄り添うべきではありますが、感情に振り回されてはなりません。私たちが王として、自分の感情に寄り添いつつ、それを治めることができるとき、私たちのまわりから多くの争いは消え去ることでしょう。