2「わたしはわたしの王を……立てた」

二篇の初めの、「なぜ 国々は たくらみ……地の王たちは……結束して 主(ヤハウェ)と油注がれた者(メシヤ)に逆らうのか?」という問いは、使徒の働き四章二五節では、ダビデが千年後の救い主とその教会に対する迫害のことを預言的に記したものとして引用されます。またこの一〜四節と九節とは、ヘンデル作のオラトリオ「メサイア」においてあの有名なハレルヤコーラスの前で歌われる歌詞で、終わりの時代に生きるすべての者への力に満ちた慰めとなっています。
 この世では、「神の民」は少数派に過ぎず、神に逆らう者たちの力の方が圧倒的に強く感じられます。そのような現実の中で、「人々は むなしく思い巡らす」(一節)というのです。これは「つぶやく」とも訳され、原文では「主の教えを思い巡らす」(一・二)というときと同じことばが用いられています。私たちは聖書にある神の救いのストーリーを思い巡らす代わりに、この世の不条理ばかりに目を留めて、「神がおられるなら、なぜ……」とつぶやいてしまうことがあるかもしれません。しかし、聖書を読むことを忘れた「思い巡らし」は、時間の無駄であるばかりか、人を狂気に走らせることすらあるのではないでしょうか。
 しかし、むしろ、私たちが「思い巡らす」べき「なぜ?」とは、この世の権力者が、なぜこれほど脳天気な生き方、つまり、自分の明日のことを支配する創造主を忘れた生き方ができるのかということではないでしょうか。実はそれこそが私たちが問うべき「なぜ?」です。
 聖書を通して私たちは、ダビデや救い主が受けた不当な苦しみのすべては、神のご計画であったと知ることができます。また、主イエスが「あなたがたは、世にあっては患難があります」(ヨハネ一六・三三)と言われたように、私たちの人生に様々な試練があることはあらかじめ知らされていることです。そして私たちの信仰とは、そのような苦しみのただなかで、主にある勝利と祝福を体験することができるということにあります。なぜなら、私たちの創造主こそが私たちの将来を支配しておられ、どんな苦しみをも益に変えることがおできになるからです。
 すべての人は必ず何らかの予期せぬわざわいに会い、最終的にはひとりで死んでゆきます。サタンは、それが避けられるかのような幻想を与えたり、死を美化することによって、この現実と向き合うことを止めさせようとしています。そればかりか、この世の人々を結束させて、主(ヤハウェ)は人を幸せにすることはできないどころか、人を束縛しようとしているだけだと思わせ、「さあ かせを砕き 縄を切り捨てよう!」(二・三)と号令をかけ、主のご支配に反抗させます。しかし、そのようなサタンの勢力による反抗も、主にとっては決して意外なことではありません。彼らは、隠された霊的な現実を見ることができないからこそ、神に反抗できるのです。

そして、神は今、天に座しておられ、ご自身の権威を否定する者たちのことを「笑い」、また「あざけって」おられるというのです(二・四)。ですからここでは、「ヤハウェ」という御名の代わりに、「主人」を意味する「アドナイ」と呼びかえられています。
 しかも主は、ご自身のときに新しい権力者を立てられます。それは、直接的にはダビデの戴冠のときとして、主(ヤハウェ)が、「わたしは わたしの王を 聖なる山シオンに立てた」(二・六)と言われます。ダビデはサウルに命を狙われ、逃亡していたことを思い起こしながら、このみことばを喜んでいたのではないでしょうか。私たちには不条理としか思えないことも、神のご支配の中にあります。私たちはこの地の支配者が誰なのかを忘れてはなりません。
 なお、「神の国(支配)」の民として生きることは、この世の国や権力を否定することではありません。人はみな視野が狭く、自己中心的ですから、互いの利害が対立し、ある人の成功が、ある人の失敗につながるということがあります。ですから、それを調整する権威がなければ争いに満ちた無政府状態に陥ります。使徒パウロも、あの悪名高いローマ皇帝ネロの時代に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(ローマ一三・一)と言っています。つまり、この世の権威を尊重することでこの地の平和が保たれるという現実を覚え、真の権威のみなもとに立ち返る必要があるのです。


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