1「主(ヤハウェ)は正しい者の道を 知っておられる」
この詩篇は突然、「幸いな人よ!」という感嘆表現から始まり、その生き方が二節までひとまとまりに描かれます。「人間」とは「人の間」で生きる存在ですから、誰と交わるかは、その人格の形成に決定的な影響を与えます。ですから、まず「悪者の勧めを 歩まず」「罪人の道に 立たず」「おごる者の座に着かず」という三つの否定形で、「幸いな人」の生き方は、神に敵対する者との交わりと線を画していることが描かれます。
それとの対比で、「幸いな人」は、「主(ヤハウェ)の教えを喜びとし 昼も夜もその教えを思い巡らす」と述べられます。「教え」とは原文では「トーラー」ですが、これは新約では「律法」と訳され、狭い意味ではモーセ五書を指しています。多くの人々にとって聖書の最初の五つの書はなかなか理解しがたいものですが、それを喜び、黙想する生活の中に私たちの幸いがあるというのです。そして、それは同時に、先の「悪者……」との対比で、聖書を神のみことばと信じる神の民の交わりの中に生きることをも意味します。
ある先輩の牧師が、先の私の著書、『主(ヤハウェ)があなたがたを恋い慕って——聖書の基礎(モーセ五書)の解説』——に関し、「僕は以前、主の教え(律法)は蜂蜜のように甘く、それを喜ぶことができるという表現に違和感を覚えていたことがあった。だから、このような本が出版されたことを本当に嬉しく思う」と励ましてくださいました。残念ながら、主の教え(律法)を神のさばきの基準としてしか見ることができず、「聖書を読むと、かえって息苦しくなる……」という人がいます。しかし、主の教え(律法)は何よりも、喜びの対象であり、愛する人からの手紙のように、いつでもどこでも思い巡らすことで幸せになることができる教えなのです。
主(ヤハウェ)はモーセの後継者ヨシュアに、「この律法(トーラー)の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」(ヨシュア一・八)と語られました。
そして、ここではその同じ「繁栄」ということばを用い、「その人は……行うすべてが 繁栄をもたらす」(三節)と断言されます。その様子は、「流れのほとりに植わった木のように ときが来ると実を結び その葉は枯れない」と記されていますが、「繁栄」の実現には「ときが来る」のを待つことが必要です。一時的にうまく運んでいないように思えても失望する必要はありません。
後の預言者エレミヤは、「主(ヤハウェ)に信頼し、主(ヤハウェ)を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる」(エレミヤ一七・七、八)と表現しています。
しかし、主は同時に彼を通して、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主(ヤハウェ)が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行いの結ぶ実によって報いる」(同九、一〇節)とも語っています。つまり、人はそれぞれの心の内側を見るなら、自分で自分を変えようとしても変えられない絶望的な状態にあり、神の最終的なさばきに耐えられないというのです。
そのことが、ここでは、「悪者は そうではない……」(四節)と表現されます。「悪者」とは「創造主を恐れず、礼拝しない者」という意味で、この世の悪者の基準とは異なります。また、反対に、「正しい者」とは、この世で尊敬されている人というより、「創造主を恐れる者」、また自分の罪深さを自覚し、主にすがるすべてのキリスト者を指しています。
確かにこの世の中には、本当に人間として尊敬できる神学的な意味での「悪者」が多くいます。しかし、自分の力、自分の正しさにより頼んだ「悪者」の生き方は、「風がとばすもみがら」のように、はかないものだというのです。そして、「悪者は さばきの前に 立ちおおせない」とは、この世でどれほど尊敬されている人も、主(ヤハウェ)の御前では心の隠された思いまでのすべてが明るみに出されるので、自分の正義を主張して堂々と立ち続けることはできないという意味です。
一方、「主の教えを喜びとし……思い巡らす」者は、心の内側から変えられ続けます。その違いは、さばきの日に歴然として表されます。そして、「罪人も 正しい者の集いには」とは、先の「立ちおおせない」を受けてのことばで、「罪人」は、主の教えを喜びとする「正しい者」とともに神の前に立ち続けることができないことを表しています。
ところで、「しかし、悪者の道は滅びる」と、「滅び」でひとつの詩が終わるのは異例です。著者が強調したいのは何よりも、「主(ヤハウェ)は正しい者の道を知っておられる」(詩篇一・六)という点で、それこそが詩篇二篇に展開されているテーマだと思われます。この世の人生のむなしさは何より、「正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きする」(伝道者七・一五)という不条理にあります。そこにサタンがつけこみ不敬虔な生き方を刺激します。しかし、真の繁栄は、天地万物の創造主、すべての豊かさの源である方に結びついた生き方から生まれるのです。
前世紀の日本を代表する伝道者の木村清松牧師は、米国留学の帰り、無一文に近い状態でナイアガラの滝を見ていました。そこに、あるアメリカ人が「このような偉大な滝があなたの国にあるか」と聞いてきたとのことです。それに対し彼はすかさず、「これは私の父のものです」と答えました。そのとっさのひと言は、そのアメリカ人の心を打ち、すぐに教会の伝道集会の講師に招かれ、彼のその後の伝道者としての歩みが導かれていきました。私たちも同じように、天地万物の創造主、世界のすべての富の所有者を「お父様」と呼ぶことができます。そして、私たちの「繁栄」とは、そのような神との交わり自体の中にあるのです。